雑誌などでよく出てくる「きちんと感」という表現。
「きちんと感」の定義は、たぶんどこにも出ていません。
定義がはっきりされないまま、いろいろなところで使われています。
では、この「きちんと感」とは、いったい何なんでしょうか。
「きちんと」という言葉は日本語の副詞です。
ですから、本来ならば、動詞の前につく言葉です。
きんとする、などという使い方が正しい使い方です。
「きちんと」の意味は、辞書によると、「よく整っていて、乱れたところのないさま」となっています。
日本語の意味からだけ考えると、「きちんと感」とは、
「よく整っていて、乱れたところのない感じ」ということになりますが、
どうやらそれでは正しくないようです。
整っていて、乱れたところのない体操着のことを「きちんと感」とは呼びません。
「きちんと感」には、どこかそれ以上のことを要求する響きがあります。
よく整っていて、乱れたところがなく、しかもプラスアルファのものがある着こなしが、
「きちんと感」のようです。
そのプラスアルファとは、プライベートというよりはオフィシャルな感じです。
公式の装いとでもいうのでしょうか。
その感じがなければ、「きちんと感」とは呼びません。
では、その公式の装いとは、どんなものでしょうか。
西洋には、さまざまなドレスコードがあります。
昼のパーティー、夜のパーティー、ホテルやレストラン、晩さん会など、
それぞれにふさわしい装いが決められています。
その取り決めは、西洋文化の文脈の中ででき上がったものです。
ですから、西洋文化以外の文化圏に住む人たちにとっては、
なぜそうなのか、考えてもわかりません。
そして、地球上のそれぞれの文化圏には、それぞれのドレスコードがあり、
それは他から見たら、なぜそうなのか、その理由や理屈は、知るよしもありません。
なぜならそれは文化、宗教、風俗によって長年のあいだに培われてきたものであって、
理屈でも、論理でもなく、習慣にすぎないからです。
明治時代以降、洋装を取り入れた日本では、
和服の世界ではさまざまなルールがあるものの、
洋服に「長年培われた習慣」というものはありません。
日本人にとって、洋服において公式な装いというものは借り物でしかないのです。
借り物であるため、なぜそうなのか、ほんとうのところ理解はしていません。
定義はあいまいで、理解もできていないにもかかわらず、
「きちんと感」は求められます。
それは会社勤めや何かの会、また、いわゆる公の席でのことが多いと思います。
では、なにをもって「きちん感」とするのか、ここから考えていきたいと思います。
まず、なにが最も公なのか、わたしたちは理解できていないわけですから、
(たとえば、女王陛下の前ではモーニングを着なければいけないなど、
そんなこと、わかりません)
なにを着てはいけないかから考えてみましょう。
まず、公でない感じとは、その格好では公の席にふさわしくないと思われるものです。
最初に挙げた体操着はそのいい例です。
整っていて、乱れていなくても、体操着は体操をするときに着るものです。
オリンピックなど体育関連の公の席以外では、ふさわしくありません。
ですから、体操着を思わせる服装や、体操着から派生した服は除外されると考えます。
その意味では、ポロシャツはポロというスポーツのスポーツウエアなわけですから、
「きちんと感」は満たしていません。
次に除外すべきもの。
それは下着から派生した服です。
キャミソール、タンクトップ、Tシャツなど、
これらはどれももとは下着でした。
下着で人前に出るということは、まずありません。
ですから、これらも除外します。
それから、次は労働着です。
労働の場が公ではないとは、決して言い切れないのですが、
いわゆる汗水たらして働いているときに着ている服は、
「きちんと感」に欠けます。
その代表がジーンズです。
ジーンズはもともと作業着です。
同じように、ワークパンツ、カーゴパンツも作業着です。
つなぎも作業着なので除外されるでしょう。
では、次に除外されないものです。
制服は除外されません。
制服は「きちんと感」の代表選手のようなものです。
同等に、軍服を起源に持っている服も除外されません。
軍服は制服だからです。
もちろん、人々は制服を着て働いています。
作業着は除外されて、制服ならなぜいいのか、
その理由は、ありません。
そうだと誰かが決めたので、そうなったまでです。
作業の種類が違うだけで差別はおかしい、
そう思われるかもしれませんが、これは理屈や理論で決められた取り決めではないので、
そうなります。
ちなみに、日本の皇室の正装は洋装だそうです。
これを聞いただけでも、きちんとしているという定義は、
必ずしも服の格式や歴史とは、関係ないものだとわかります。
最後にまとめです。
「きちんと感」とは、制服的な要素を含むもので、
かつ、体操服、下着、作業服など、公にはふさわしくないと思われている要素を除外したもの、
ということになります。
ただ、実際は、ほんとうにそうなのかと言えば、
最近はちょっと違ってきています。
なぜなら、ファッション全体のカジュアル化が進んできて、
必ずしも除外すべきもの、すべてが除外されてはいないからです。
たとえばジーンズ。
昔はスニーカーとジーンズでホテルには入れないというルールがありましたが、
今はそうではありません。
それからポロシャツにしてもそうです。
多くの企業で、夏の通勤着として、ポロシャツが許されている職場はあるでしょう。
たぶんその理由は、襟がついているからだと思います。
逆に、襟がついていないTシャツは許されていない職場もあるかもしれません。
結局のところ、なにがきちんとなのか、なにが公なのか、
洋服の文化の歴史の浅い日本では、わからないのです。
誰かが決めたら、そうしなければならないし、
誰かがだめだと言ったら、だめになります。
そして文化圏といっても、地方、地域、会社内、学校内など、
それぞれの中にそれぞれまた別のルールがあります。
ジャージで授業を受けてはいけない学校もあれば、
ジャージで授業を受けなければいけない学校もあります。
タータンチェックのスカートがどうしてきちんとしているかなんて、
誰も答えられません。
「きちんと感」には、何となくこんな感じではないかという、
大まかなイメージはありますが、
絶対にこれであるという確固としたルールはありません。
服装に規則があるところでは、それに従わなければなりませんし、
その規則が「きちんと感」になります。
それでは、ルールがなにもないところ、誰も決めていない、
誰もだめだと言っていないところではどうすればいいか。
それはそのときそのとき、自分で判断すればよいでしょう。
ほんとうのところ、「きちんと感」などない、
その中で、自分はどういう装いをしようか、
この場面ではどう見られたいのか、
相手はなにをこちらに要求しているのか。
そこで判断して服装を決めて、
それに対して相手がどう反応したかは、
自分のコントロールできない範囲の問題です。
相手にあわせるべき場面なら、相手に聞いてそのとおりにする、
そうしなくていいのなら、自分の好きにする。
このようにかくもあいまいな「きちんと感」です。
そんなものに振り回される必要はありません。
きのうは右と言ったのに、
今日は左と誰かが言います。
その中で、自分はどこの位置に立つか、
右なのか、真ん中なのか、左なのか。
それはその都度、自分で判断して決める以外、方法はありません。
ファッションとは、しょせん、その程度のものです。