若い肌には若い肌に、
大人の肌には大人の肌に似合う生地の質感というものがあります。
若い肌は新しく、
大人になるほどに、その新しさは失われていきます。
そして、その変化とともに、似合う生地の質感が変わってきます。
いつも出すたとえですが、
洗いざらしの白いシャツや、よれよれのTシャツは若い肌に似合います。
洗いざらしの白いシャツとよれよれのTシャツの特徴は、
生地の表面が洗濯によってラフになり、
光沢や滑らかさが失われている、ということです。
若い肌はそれ自体、輝き、すべすべしていますから、
皮膚の上にのる生地自体に輝きや光沢がなかったとしても、
問題ないのです。
かえって、肌自体の輝きが強調され、若さが際立ちます。
しかし、同じことを大人がやってはだめなのです。
皮膚の表面が、あたかもケント紙のように光沢があるときに似合っていたものも、
もはやケント紙などではなく、ざらざらな風合いのある皮膚になったときには、
雨風にさらされたような風合いの生地は似合いません。
それは似合わないだけではなく、
今度は皮膚の衰えを強調し、その人を疲れて、生気のないように見せます。
では、大人の肌には何が似合うのか。
いわゆる高価な生地というものがあります。
高級なカシミア、シルク、本革のスエード、凝った織りのツイード、
光沢があり滑らかなウールなどです。
それらは手にとってみるとうっとりと柔らかく、しなやかで、
英語で言うところのセンシュアル、つまり官能的な質感を持ちます。
その、官能は、まさに大人のためのものです。
20代の若い肌には、不似合いな、贅沢な素材は、
年齢を重ね、風雨にたえてきた、その肌にこそ似合います。
生地の質感というものは不思議なもので、
誰も言葉に出さなくても、
それだけではなく、よく見ることさえしなくても、
その場の雰囲気を変え、見えないエネルギーとなって、
他者へと伝播します。
オペラ座の、ヴェルヴェットの椅子に座るときの絹のドレスの感触、
冬の寒い朝、すれ違いざまに感じる、高価なカシミアのマフラーの風合い、
真夏の日差しの下、ぱりっとした真っ白なベルギーリネンのシャツが、
太陽の光を反射するときの、あのまぶしい光。
清潔なシーツの上の豪奢なレースのランジェリーやシルクのナイティ、
街灯の光にきらめくエナメルのブーツ。
高価なジュエリーが大人に似合うように、
丁寧に手をかけ作られた素材は、その人のまわりの空気を変えていきます。
それは触れなくてもわかるのです。
見えない何かがそれを伝えるのです。
年齢を重ねて、
何となく今までの服が似合わなくなったと感じるとき、
まずはその服の素材を点検してみることをお勧めします。
それは相変わらず20代の子が着るような素材ではないでしょうか。
大人の今の肌にふさわしい質感を持っているものでしょうか。
いくらサイズが合うからといって、ティーンエイジャーが着るようなものを、
そのまま着てはいないでしょうか。
チープな素材は、その人自身をチープに見せます。
似合わない質感は、 その人をいっそう老けて見せます。
例えば白シャツや白いTシャツのような、若いときにも着ていたアイテムでも、
素材のクオリティを上げれば、年齢を重ねた肌にも似合うものがあります。
私たちは、若いことをよしとする価値観の社会に生きています。
何かと言えば、若さで競争し、
若くないことが負けであるかのような、そんな印象を植え付けられます。
しかし、誰でも年をとります。
若さの競争に参加した者は、全員が負ける運命です。
「あの人は若くないから」と、年上の人を批難するその人に、
いつの日か、そのままその言葉が返ってきます。
その競争からおりるためにも、
生きてきた、その道筋を誇りに思うためにも、
若い人に似合うような素材をあえて選ぶことは、やめましょう。
その繊細で、手のかかった、豪奢なレースのドレスは、
痛みと傷で裏打ちされているのです。
そして、その痛みこそが、今の自分の輝きです。
それを隠す必要はありません。
その輝きは、すべての人を魅了します。
私はそれを知っています。
ええ、実証済みです!
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