軽やかさがメイン・テーマとなっている先シーズンからの流れで、
(この流れは当分、続いていくわけですが)
デザイナーたちは、いかにしてそれを表現するか苦心しています。
重量感が出ないようにするために、トランスペアレント、レースなどの素材を用いて、
シルエットは、重心が上にくるように工夫されています。
その軽さの表現の1つとして、各種のクロップト丈が出てきました。
クロップト(cropped)とは、草などが刈り落とされた、または端が切り落とされたというときに使う英語で、洋服の端に位置する部分、つまり、裾、袖口など、通常より短く、切り落とされたように見えるものをこう呼びます。
(多くの雑誌で、「クロップド」という表記が見受けられますが、そんなふうに発音していたら、
英語のテストで減点されてしまいます)
もちろんこれまでも、パンツの裾を短めにする、クロップト丈や、袖を9分丈、7分丈など、わざと短くする場合もありました。
上着に関しても、ミドリフ丈など、肋骨のあたりまでのものがあります。
今シーズン、それに加えて、トップスがクロップトのものが数多く登場しています。
これはトップスが、ウエストよりかなり短く作られていて、あえておなかを露出して着るものです。
ファッションというものは、いつでも目新しさを探しますから、前から全くなかったわけではありませんが、短めのトップスというものは新しい部類に入ります。
クロップトであることが表現したいのは、あくまで軽さです。
短く切ることで、抜け感が表現されます。そして、それが軽さにつながります。
ですから、短く切られたその先からのぞくのは、素肌のほうが望ましいのです。
たとえば、クロップト丈のパンツの下から黒いタイツがのぞいたら、それは抜け感にはなりませんから、意味がないことです。
このクロップト丈のものをうまく利用すれば、軽やかさを簡単に表現できます。
とにかく、短くして、そこから肌が見えるようにすればいいだけです。
そうすることで、女性としての「すき」があるスタイルになります。
すきは、同時にか弱さでもあります。
か弱いので、戦えません。
戦えないというのは、つまり武装してないということ。
初めから力で戦う気はないのです。
クロップト丈のものを着たり、抜け感を作ることで、
相手には、それが伝わります。
武装して、力で戦っても意味もないし、ハッピーではないと、
女性たちは気付きました。
力で勝ち取ったものが、どれほどのものかわかったのです。
勝ち取ったものの後に残ったのは、傲慢やがさつさ、他人を見下すような高慢な態度、
そして、失われた優しさでした。
優しさを取り戻すため、再び女性はか弱さを表現します。
けれども、か弱さは、本当の意味での弱さではありません。
本当に弱かったら、誰に対しても優しくはできません。
本当に弱い人ほど、優しさがない人です。
それは皆さんも、心当たりがあるでしょう。
強くしなやかな人こそが、優しくなれるのです。
クロップト丈を取り入れるときのポイントはそこにあります。
武装解除です。
戦いません。
本当の優しさを示せばいいだけです。
自分のまわりにはりめぐらされた、見えない鎧を脱ぎ去ってください。
鎧があるから攻撃されただけのこと。
鎧を脱ぎ去った人を攻撃する人はいません。
ほんの少しだけ丈を短くして、肌を見せることで、
それを周囲の人に伝えましょう。
わたしたちは完全に武装解除しました。
そして、優しさをもって、あなたたちと接しますと。
決して攻撃することはありませんと。
それは大きな優しさです。
その大きな優しさは、強くしなやかで、無敵な力になり、
本当の意味で、あなたを守り続けるでしょう。
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2013年2月25日月曜日
2013年2月18日月曜日
大人のカジュアル
カジュアルな服の浸透がますます進んでいます。
もはやカジュアルな服は、子供や若者だけのものではありません。
一昔前までは、お年を召した方がスニーカーで外出するなど、考えられなかったこと。
もし、そんなことをしたならば、
「あら、どこかへハイキング?」などと尋ねられたわけです。
けれども、今は違います。
日常的なお買いものから、ちょっとした都会へのお出かけまで、
スニーカーにチノパンツ、パーカーというスタイルは、
老いも若きも当たり前の光景です。
子供からお年寄りまで、カジュアルな服を着るのがごく当たり前となった今、
大人ならではのカジュアルな服の着こなしが、
子供や若者と同じでは、ちょっともの足りません。
やはりそこには、大人ならではの余裕が見える、一工夫が欲しいもの。
では、大人が大人らしくカジュアルな服を着るには、
どこを気をつけたらよいでしょうか。
まず、気をつけていただきたいのが素材です。
このブログではもう何度となく書いていますが、
年齢を重ねれば重ねるほど、いい素材を選んでほしいのです。
しかも、デザインがカジュアルならばなおのこと、
若者のための服に使われるような、安い素材のものは着てほしくありません。
理由は単純で、
年齢を重ねた人間の皮膚に、質の悪い素材がのっかると、非常に安っぽく見えるからです。
安っぽく見えると、品がなくなります。
若者は、そこのところをぴかぴかの輝く肌でカバーしています。
しかし、大人は肌で素材の安さをカバーできません。
だから、質の高い素材のものを選んだほうがよいのです。
たいがい、質の高い素材というものは、光沢があります。
コットンにしろ、ウールにしろ、いいものには、いい光り方があります。
そして、それが肌うつりをよくします。
同じTシャツでも、海島綿のほうが、単なるコットンより輝いています。
ですから、大人になったら、とにかく上質の素材を選びましょう。
それがまず1つ。
次に、大人がカジュアルな服を選ぶときにお勧めなのは、
素材で選ばないのだったら、そのアイテムを長く作り続けている、
伝統的なブランドのものを選ぶということです。
長年同じものを作り続けているブランドには、その年月に積み重ね上げられた工夫がいたるところにしてあります。
長年かけて、1ミリの修正を行い、生地の更新を行っているのです。
もはや完成されたと言えるデザインは、本物であると同時に、
大人にこそふさわしいものです。
たとえば、トートバッグならLLビーンであるとか、ポロシャツならラルフ・ローレン、
フィールドジャケットならバブアーなど。
ほかにもいろいろあるでしょうけれども、伝統ある正統派のブランドを選ぶことも、
大人のカジュアルをきれいに見せるポイントです。
多少、値段は高いかもしれませんが、
完成されたデザインは、肉体そのものが美しい若者ではない大人が着ても、
十分美しいものですし、それだけの風格と品があります。
また、正統派ブランドのアイテムは、どこかにロゴやマークがついている場合が多いですが、
これもその伝統にのっとった自信のあらわれですから、嫌みにはなりません。
(逆に、意味なくいろいろなところにロゴやマークがある服はかなり嫌みだと、私は思っています)
そういう正統派ブランドを選んで着れば、着ていても安心感があります。
まさに裏切らないブランドです。
この2点を守れば、大人が若者と同じようなカジュアルなデザインの服を着ても、
どこも恥ずかしいことはないでしょう。
もちろんそのまま銀座を歩いてもいいわけです。
そして、ここまでできるようになったら、
次は、そのカジュアルな服を、たとえばレースのブラウスなど、
カジュアルとは反対方向のデザインのものとあわせるコーディネイトに挑戦してみてください。
バブアーのカーキ色のフィールドコートにチノパンツ、だけれどもレースのブラウスにパールのネックレス、ヒールのパンプスにアニヤのカーカーをあわせてみる。
これができると、かなりのおしゃれ上級者です。
色をきちんと あわせてワードローブを構築してあれば、誰にだってできます。
カジュアルの波が止まることはもうないでしょう。
なぜなら、カジュアルな服のほうが動きやすいからです。
動きやすいということは、それだけ自由であるということ。
一度スニーカーで都会を歩くことを覚えたら、もう二度と、歩きにくい方向へは戻らないのです。
洋服をきれいに着こなすためには「我慢」が必要であると考えられてきました。
それこそがおしゃれなのであると。
しかし、しなくてもいい我慢もあるのです。
我慢しなくてもおしゃれならば、それにこしたことはありません。
何のための我慢だったのか、思い出してみてください。
それは、他人から見ておしゃれに見えるかどうかを考えたからではないでしょうか。
けれども、もしその他人の目がなかったとしたら、それでもまだ我慢をするのでしょうか。
女性の服飾史は、女性が自由へなっていく歴史とリンクしています。
コルセットは脱ぎすてられ、
女性がパンツスタイルで外出することも可能になりました。
驚くことに、フランスではつい先日まで、女性の公の席でのパンツスタイルが禁止されている法律が生きていたのです!
スニーカーで都会を歩くことは、自由であるということの1つの象徴です。
一度手に入れた自由は、もう手放せません。
洋服を通しての自由は、まだまだ進んでいきます。
カジュアルな服の浸透は、本当の自由にたどりつくまでの通過地点です。
私たちが本当に自由だと感じるときまで、その道は続いていくでしょう。
もはやカジュアルな服は、子供や若者だけのものではありません。
一昔前までは、お年を召した方がスニーカーで外出するなど、考えられなかったこと。
もし、そんなことをしたならば、
「あら、どこかへハイキング?」などと尋ねられたわけです。
けれども、今は違います。
日常的なお買いものから、ちょっとした都会へのお出かけまで、
スニーカーにチノパンツ、パーカーというスタイルは、
老いも若きも当たり前の光景です。
子供からお年寄りまで、カジュアルな服を着るのがごく当たり前となった今、
大人ならではのカジュアルな服の着こなしが、
子供や若者と同じでは、ちょっともの足りません。
やはりそこには、大人ならではの余裕が見える、一工夫が欲しいもの。
では、大人が大人らしくカジュアルな服を着るには、
どこを気をつけたらよいでしょうか。
まず、気をつけていただきたいのが素材です。
このブログではもう何度となく書いていますが、
年齢を重ねれば重ねるほど、いい素材を選んでほしいのです。
しかも、デザインがカジュアルならばなおのこと、
若者のための服に使われるような、安い素材のものは着てほしくありません。
理由は単純で、
年齢を重ねた人間の皮膚に、質の悪い素材がのっかると、非常に安っぽく見えるからです。
安っぽく見えると、品がなくなります。
若者は、そこのところをぴかぴかの輝く肌でカバーしています。
しかし、大人は肌で素材の安さをカバーできません。
だから、質の高い素材のものを選んだほうがよいのです。
たいがい、質の高い素材というものは、光沢があります。
コットンにしろ、ウールにしろ、いいものには、いい光り方があります。
そして、それが肌うつりをよくします。
同じTシャツでも、海島綿のほうが、単なるコットンより輝いています。
ですから、大人になったら、とにかく上質の素材を選びましょう。
それがまず1つ。
次に、大人がカジュアルな服を選ぶときにお勧めなのは、
素材で選ばないのだったら、そのアイテムを長く作り続けている、
伝統的なブランドのものを選ぶということです。
長年同じものを作り続けているブランドには、その年月に積み重ね上げられた工夫がいたるところにしてあります。
長年かけて、1ミリの修正を行い、生地の更新を行っているのです。
もはや完成されたと言えるデザインは、本物であると同時に、
大人にこそふさわしいものです。
たとえば、トートバッグならLLビーンであるとか、ポロシャツならラルフ・ローレン、
フィールドジャケットならバブアーなど。
ほかにもいろいろあるでしょうけれども、伝統ある正統派のブランドを選ぶことも、
大人のカジュアルをきれいに見せるポイントです。
多少、値段は高いかもしれませんが、
完成されたデザインは、肉体そのものが美しい若者ではない大人が着ても、
十分美しいものですし、それだけの風格と品があります。
また、正統派ブランドのアイテムは、どこかにロゴやマークがついている場合が多いですが、
これもその伝統にのっとった自信のあらわれですから、嫌みにはなりません。
(逆に、意味なくいろいろなところにロゴやマークがある服はかなり嫌みだと、私は思っています)
そういう正統派ブランドを選んで着れば、着ていても安心感があります。
まさに裏切らないブランドです。
この2点を守れば、大人が若者と同じようなカジュアルなデザインの服を着ても、
どこも恥ずかしいことはないでしょう。
もちろんそのまま銀座を歩いてもいいわけです。
そして、ここまでできるようになったら、
次は、そのカジュアルな服を、たとえばレースのブラウスなど、
カジュアルとは反対方向のデザインのものとあわせるコーディネイトに挑戦してみてください。
バブアーのカーキ色のフィールドコートにチノパンツ、だけれどもレースのブラウスにパールのネックレス、ヒールのパンプスにアニヤのカーカーをあわせてみる。
これができると、かなりのおしゃれ上級者です。
色をきちんと あわせてワードローブを構築してあれば、誰にだってできます。
カジュアルの波が止まることはもうないでしょう。
なぜなら、カジュアルな服のほうが動きやすいからです。
動きやすいということは、それだけ自由であるということ。
一度スニーカーで都会を歩くことを覚えたら、もう二度と、歩きにくい方向へは戻らないのです。
洋服をきれいに着こなすためには「我慢」が必要であると考えられてきました。
それこそがおしゃれなのであると。
しかし、しなくてもいい我慢もあるのです。
我慢しなくてもおしゃれならば、それにこしたことはありません。
何のための我慢だったのか、思い出してみてください。
それは、他人から見ておしゃれに見えるかどうかを考えたからではないでしょうか。
けれども、もしその他人の目がなかったとしたら、それでもまだ我慢をするのでしょうか。
女性の服飾史は、女性が自由へなっていく歴史とリンクしています。
コルセットは脱ぎすてられ、
女性がパンツスタイルで外出することも可能になりました。
驚くことに、フランスではつい先日まで、女性の公の席でのパンツスタイルが禁止されている法律が生きていたのです!
スニーカーで都会を歩くことは、自由であるということの1つの象徴です。
一度手に入れた自由は、もう手放せません。
洋服を通しての自由は、まだまだ進んでいきます。
カジュアルな服の浸透は、本当の自由にたどりつくまでの通過地点です。
私たちが本当に自由だと感じるときまで、その道は続いていくでしょう。
2013年2月11日月曜日
服をたくさん持っていても
今まで私のファッション・レッスンをたくさんの方が受けてくださいました。
そして、皆さんのワードローブを拝見してきました。
その中で、ほとんどの人の悩みは同じであるとわかりました。
その悩みとは、服はたくさんある、けれども着るものがない、ということです。
ほとんどの人が、たくさん集めた服を前にして、
どうしていいかわからない状態でいます。
捨てるほどはいたんでいない。
もちろん、それほど古くない。
着た回数も少ない。
そんな服がたくさんあります。
しかし、たくさんあるにもかかわらず、着るものがないと感じる。
これは本当の意味で、着るものがないというわけではありません。
正確に言えば、コーディネイトできないということです。
ワードローブは野球のチームに似ています。
アイテムにそれぞれ決まった役割があって、それにふさわしいメンバーを集める必要があります。
ふさわしいメンバーがそろって初めて試合ができるのです。
けれども、皆さんのワードローブを見ていると、
同じような種類のピッチャーをたくさんそろえていたり、
そうかと思うと、キャッチャーがいなかったりと、
チームとして機能できない状態です。
そして、実際には試合に出ない、二軍、三軍の選手ばかりがたまっていきます。
野球のチームと同じように、二軍、三軍の選手も面倒を見なければなりません。
少なくとも、ワードローブの片隅に場所を用意してあげる必要があります。
人間と違ってお給料を出す必要はありませんが、
それでもメンテナンスにはお金がかかります。
二軍、三軍の選手はしょせん、試合には出れません。
持っているだけです。
そして、その持っているだけの二軍、三軍がどんどんふえていきます。
私たちは洋服と契約しているわけではないので、
いらないという決定は自分でくださなければなりません。
洋服と交渉する必要などないのです。
それなのに、なかなか捨てられません。
ここから抜け出すには、まずワードローブをチームとして考えること。
好きだからといって、ピッチャーばかり集めないこと、
どうでもいいからといって、キャッチャーを無視しないこと、
そしてすべての選手が力を発揮できるよう、
相性のいい仲間、つまり、コーディネイトできる仲間をそろえることです。
そのために、アイテムの数、色などを最初から決めて、
そして服を集めます。
野球の選手のスカウトマンも、一目ぼれで選手を選びません。
服も同じです。
一目ぼればかりで選んだ選手は、当たり外れが大きいからです。
(もちろん、すべての一目ぼれを否定はしませんが)
ここまでやるだけでも、ワードローブはかなりすっきりしますし、
無計画に買い物をすることもなくなります。
内野手を探していたのに、外野手を連れて帰ったなどということもなくなります。
けれども、本当はこれだけでは解決しません。
なぜなら、それだけでは持っている二軍、三軍の選手を手放せないからです。
他人の目から見ると、それは明らかにいらないものなのです。
ものとしては、そう見えます。
しかし、持ち主の目からは、そうは見えないようです。
捨てられないものは、単にものではなく、そこに思いや感情がはりついているからです。
そして、本当に捨てられないのは、その思いと感情なのです。
明らかにいらない服がある。
けれども、捨てられない。
もしそうだとしたら、自分自身に問うてみてください。
捨てたくない理由は何なのか。
持っていることのメリットは何なのか。
捨てようとすると込み上げてくる、その痛い思いはどこからやってくるのか。
それを持っていると安心なのか。
それを捨てないという自分は、本当のところ、どうしたいのか。
そして、もしその答えが見つかったとしたら、
その思いを手放しましょう。
胸のあたりにぞわぞわと上がってくる、その気持ちを認めて、
それから、ありがとうとお礼を言い、
さよならしましょう。
もしかして、その服を持っていることで、自分は安心できたのかも、
もしかして、その服を着ていてほめられた思い出が忘れられなかったのかも、
もしかして、両親が買ってくれたものだから、罪悪感で捨てられなかったのかも、
もしかして、初めてもらったお給料で買った服なので、思い入れがあるのかも。
本当に捨てられないのは、服という布ではないのです。
本当に捨てられないのは、その服を見ると胸の中に浮き上がってくる、
ざわざわとした気持ちです。
その気持ちを手放さない限り、捨てられません。
手放せない気持ちはやがて執着となり、
人生を停滞させる原因となります。
それがよい思い出だとしても、同じです。
手放しましょう。
それは自分しかできません。
ほかの人がいくら言っても、その思いを手放せるのは自分だけです。
手放すことに成功したら、
人生が動き始めます。
もうこの先は通行止めだと思っていた道を通り抜けられます。
しまっていると思い込んでいた扉が開きます。
捨てられない服とは、あなたの人生に立ちはだかっていた、
あなたが自分で作った、壁だったのです。
壁は壊せます。
自分で自分にかけた魔法です。
そうであれば、とくことだって、自分でできるのです。
やってみてください。
それは驚くほど簡単なことです。
そして、皆さんのワードローブを拝見してきました。
その中で、ほとんどの人の悩みは同じであるとわかりました。
その悩みとは、服はたくさんある、けれども着るものがない、ということです。
ほとんどの人が、たくさん集めた服を前にして、
どうしていいかわからない状態でいます。
捨てるほどはいたんでいない。
もちろん、それほど古くない。
着た回数も少ない。
そんな服がたくさんあります。
しかし、たくさんあるにもかかわらず、着るものがないと感じる。
これは本当の意味で、着るものがないというわけではありません。
正確に言えば、コーディネイトできないということです。
ワードローブは野球のチームに似ています。
アイテムにそれぞれ決まった役割があって、それにふさわしいメンバーを集める必要があります。
ふさわしいメンバーがそろって初めて試合ができるのです。
けれども、皆さんのワードローブを見ていると、
同じような種類のピッチャーをたくさんそろえていたり、
そうかと思うと、キャッチャーがいなかったりと、
チームとして機能できない状態です。
そして、実際には試合に出ない、二軍、三軍の選手ばかりがたまっていきます。
野球のチームと同じように、二軍、三軍の選手も面倒を見なければなりません。
少なくとも、ワードローブの片隅に場所を用意してあげる必要があります。
人間と違ってお給料を出す必要はありませんが、
それでもメンテナンスにはお金がかかります。
二軍、三軍の選手はしょせん、試合には出れません。
持っているだけです。
そして、その持っているだけの二軍、三軍がどんどんふえていきます。
私たちは洋服と契約しているわけではないので、
いらないという決定は自分でくださなければなりません。
洋服と交渉する必要などないのです。
それなのに、なかなか捨てられません。
ここから抜け出すには、まずワードローブをチームとして考えること。
好きだからといって、ピッチャーばかり集めないこと、
どうでもいいからといって、キャッチャーを無視しないこと、
そしてすべての選手が力を発揮できるよう、
相性のいい仲間、つまり、コーディネイトできる仲間をそろえることです。
そのために、アイテムの数、色などを最初から決めて、
そして服を集めます。
野球の選手のスカウトマンも、一目ぼれで選手を選びません。
服も同じです。
一目ぼればかりで選んだ選手は、当たり外れが大きいからです。
(もちろん、すべての一目ぼれを否定はしませんが)
ここまでやるだけでも、ワードローブはかなりすっきりしますし、
無計画に買い物をすることもなくなります。
内野手を探していたのに、外野手を連れて帰ったなどということもなくなります。
けれども、本当はこれだけでは解決しません。
なぜなら、それだけでは持っている二軍、三軍の選手を手放せないからです。
他人の目から見ると、それは明らかにいらないものなのです。
ものとしては、そう見えます。
しかし、持ち主の目からは、そうは見えないようです。
捨てられないものは、単にものではなく、そこに思いや感情がはりついているからです。
そして、本当に捨てられないのは、その思いと感情なのです。
明らかにいらない服がある。
けれども、捨てられない。
もしそうだとしたら、自分自身に問うてみてください。
捨てたくない理由は何なのか。
持っていることのメリットは何なのか。
捨てようとすると込み上げてくる、その痛い思いはどこからやってくるのか。
それを持っていると安心なのか。
それを捨てないという自分は、本当のところ、どうしたいのか。
そして、もしその答えが見つかったとしたら、
その思いを手放しましょう。
胸のあたりにぞわぞわと上がってくる、その気持ちを認めて、
それから、ありがとうとお礼を言い、
さよならしましょう。
もしかして、その服を持っていることで、自分は安心できたのかも、
もしかして、その服を着ていてほめられた思い出が忘れられなかったのかも、
もしかして、両親が買ってくれたものだから、罪悪感で捨てられなかったのかも、
もしかして、初めてもらったお給料で買った服なので、思い入れがあるのかも。
本当に捨てられないのは、服という布ではないのです。
本当に捨てられないのは、その服を見ると胸の中に浮き上がってくる、
ざわざわとした気持ちです。
その気持ちを手放さない限り、捨てられません。
手放せない気持ちはやがて執着となり、
人生を停滞させる原因となります。
それがよい思い出だとしても、同じです。
手放しましょう。
それは自分しかできません。
ほかの人がいくら言っても、その思いを手放せるのは自分だけです。
手放すことに成功したら、
人生が動き始めます。
もうこの先は通行止めだと思っていた道を通り抜けられます。
しまっていると思い込んでいた扉が開きます。
捨てられない服とは、あなたの人生に立ちはだかっていた、
あなたが自分で作った、壁だったのです。
壁は壊せます。
自分で自分にかけた魔法です。
そうであれば、とくことだって、自分でできるのです。
やってみてください。
それは驚くほど簡単なことです。