2013年現在、まだまだデザインという部分では洗練されていませんが、
これから徐々に進化していくでしょう。
言うまでもなく、マキシ丈のドレスは、フェミニティの象徴です。
2012年から始まった、女性性復活の動きは、
だんだんと人々の心の奥底に浸透し、
無意識にそういったものを選択します。
(もちろん、それに抵抗する方たちもいらっしゃいますが)
マキシ丈のドレスが想起させるものは、
当然ながら、女神です。
古代から、女神は長く揺れる裾と、布をたっぷり使ったドレープを多用した、
薄地のドレスをまとってきました。
そのやわらかさは、女性の肉体を決して縛ることなく、
自由に解放させます。
そして、無防備なまでの繊細さが、実は強さのあらわれとして表現されています。
誰も女神を攻撃することはできないのです。
最近、多く登場してきたマキシ丈ドレスは、
まだ女神の領域まではいたっていません。
多くは、Tシャツをそのままただ長くしたような、
単純な形です。
素材も、コットンやレーヨンの天竺が多いです。
ただし、これまでの流行とは違って、
タイトではありません。
体につかず離れずのラインで、体の線をゆるくなぞります。
さて、このマキシ丈ドレス、どのように着こなすのが今の気分なのでしょうか。
ここでも何度か書いていますが、
通常、ファッションは、「100パーセント同じ」というのを嫌がります。
よく雑誌などで使われる「甘辛ミックス」というものは、
フェミニンとマスキュリンをほどよく混ぜたコーディネイトのことです。
もちろん、その手法も有効です。
古くからあるのは、ドレスにマスキュリン、または性別と関係のないアイテムを加える方法。
ドレスにライダーズ・ジャケットやGジャンなどは、そのいい例です。
しかし、本気で今の気分を表現するなら、
フェミニン100パーセントが適しているのではないかと思います。
なぜなら、時代が変わったからです。
いつもだったら、ドレスにパーカを羽織るところを、
あえてフェミニンなレースのカーディガンにしてみる。
または、薄いオーガンジーのブラウスを羽織るなど、
徹底的にマスキュリン要素を排除します。
それは確かに甘いです。
しかし、明らかに「ガーリー」とは違います。
「ガーリー」は、幼く、弱く見せる女性性でした。
しかし、女神は、同じ甘さでも、弱くも幼くもないのです。
それは威厳があり、尊敬される存在で、そのやわらかさゆえに、強いのです。
男性性を身につけることによる強さの表現という時代もありました。
思えば、近代、現代の服の歴史というものは、
女性がどのように男性の服を身につけるかというものであったと思います。
それは何のためでしょう?
1つは男性と同等の権利の獲得のためです。男性と同じようになるためです。
男女同権は女性に幸せをもたらします。しかし、それはいまだ達成されていません。
では、男性と同じようになることはどうでしょうか?
「男性のように」なっても、女性は幸せになれないでしょう。
なぜなら、自分以外のものになったとしても、決して幸せにはなれないからです。
しかも、それが決してなりえない誰かであったら、なおさらです。
男女同権は女性に幸せをもたらします。しかし、それはいまだ達成されていません。
では、男性と同じようになることはどうでしょうか?
「男性のように」なっても、女性は幸せになれないでしょう。
なぜなら、自分以外のものになったとしても、決して幸せにはなれないからです。
しかも、それが決してなりえない誰かであったら、なおさらです。
今このとき、行きすぎたものの揺り戻しが起こります。
それは人々、特に女性の深層心理を突き動かします。
なぜかわからないけれども、ドレスが着たくなる。
それは似あうからとか、売っていたからとかのレベルの話ではありません。
女性が長いドレスをまとっていた歴史は長く、
それに比べてミニスカートやショートパンツなどは、
歴史の中ではまばたきするほどの時間でしかありません。
死んだ女神を黄泉の国から連れ戻すために、
わたしたちは、知らぬうちに長い丈のドレスを選ぶのです。
まだこの流れは始まったばかりです。
全体像は見えません。
しかし、確実に動き始めています。
見えないからないのではなく、
小さいから無力なのではなく、
少しずつ、けれども確実に、
このやわらかな力は浸透します。
冷たく固まった、コンクリートの塊を壊すことができるのは、
このかよわき小さな力です。
マキシ丈のドレスを選ぶ女性がふえたということは、
そのことの証明です。