見慣れぬものというのは、おしゃれに見える1つの条件です。
見ることにおいて、消費尽くされていないものは、
それだけでおしゃれです。
ですから、ファッションでは、見たことのない、常に新しいものを追い求めます。
それはまだ誰の手垢もついていない、まっさらなものだからです。
逆に、見過ぎた、または見あきたものは、おしゃれの鮮度を失います。
自分が着ているものだけではなく、
自分の目に入るすべてものにおいて、見過ぎたものであるならば、
おしゃれには思えなくなるわけです。
この考え方からすると、
たくさんの人が持っているものというものは、おしゃれではありません。
街で多くの人が身につけている、または持っているのならば、
それは急激に消費され、魅力を失います。
ところが、いつのころからでしょうか。
有名人の誰々さんが持っているから、これがおしゃれというような風潮が、
雑誌を中心に起こりました。
いわば、そのアイテムは有名人のお墨付きであるわけです。
おしゃれな有名人が持っている、イコール、そのものはおしゃれである、
ということだと思います。
そのアイテムは、有名人が持っているという情報が付加されて、
新たな意味を持ちます。
確かに、おしゃれな人が持っている、そのアイテムはおしゃれなものかもしれません。
ただ、それを見て、多くの人が身につけ始めたら、鮮度はなくなります。
流布した時点で、終わりです。
見慣れぬものという、おしゃれにとっての大事な条件がクリアできなくなります。
ハイブランドは、そうなることを恐れて、大量生産しません。
また、価格を一定以上、維持することによって、持つことができる人たちを限定します。
そのことにより、見慣れぬものというおしゃれの条件を保持することが可能になるのです。
ハイブランドの服やバッグがおしゃれに見えるのはそのためです。
見ることにおいて、消費尽くされるのを避けています。
そして、それはずっと避けなければならないことだと、彼らは認識しています。
では、すべてのアイテムをハイブランドでそろえられないような、
ごく一般の人が、消費尽くされることなくおしゃれに見せるには、
どうしたらよいでしょうか。
多くの人と同じようにならないために、どんな方法があるでしょうか。
問題は、見る回数が多いということです。
であるならば、見る回数の少ないもの、つまり、多くの人が持っていないようなものを、
全体のコーディネイトに取り入れればよい、ということになります。
そのためには、ハイブランドである必要はありません。
方法は、いろいろ考えられます。
いちばん最初に考えられるのは、自分だけのオーダーメイドです。
好みの形、生地で作ったものが、他人とかぶるということは、ほぼないでしょう。
見慣れないという意味においては、オーダーメイドは最も適しています。
次に考えられるのは、小さい規模で展開しているブランドのものを選ぶこと。
ハイブランドほどではなくても、確かなもの作りをしているブランドで、
しかも大量に日本には入ってきていないもの、または生産されていないものが、
いろいろあります。
そういったブランドは、多くの人に知られてはいないかもしれませんが、
大量生産品にはない、独特の存在感を持っています。
それらを自分のワードローブに入れるというのも、よい方法です。
最後は、既成のものに手を加える方法です。
たとえば、もうすでにあるニットにスパングルをつけてみる、
リボン刺繍をしてみる、縁取りをつけるなど、
手芸的な手法で、よりオリジナル性を出す方法があります。
また、洋裁のテクニックがあるならば、大胆な作り変えもいいでしょう。
袖丈やスカート丈、パンツ丈を変えるなどは、基本的な方法です。
これらは、服だけの問題ではありません。
バッグ、ベルト、帽子、その他の小物、すべてにおいてそうです。
見慣れたものだけのコーディネイトから一歩抜け出すためには、
この、見慣れぬものを投入していく方法が必要です。
1点だけでもいいのです。
見慣れぬもの、他人とは大きく違うものを選ぶことは、
自分らしさの表現になります。
ほかの誰とも同じではない自分にふさわしいワードローブを作るため、
決められた枠からはみ出して、
いつもとは違う選択眼で、選びましょう。
誰かといっしょは安心です。
そこから出るのには勇気がいります。
だけれども、それは最終的に必要なことです。
そのとき、雑誌はもう当てになりません。
当てになるのは、自分の直感と審美眼だけです。
お金を出せば、その審美眼をひょいと借りることは可能ですが、
毎日のことですから、ぜひとも自分でできるようになりましょう。
そして自分で選んだものの責任は、自分でとりましょう。
判断力、美的センス、嘘を見破る能力、計算力、すべてが必要です。
それを磨いてきた人だけが、おしゃれな人になれます。
そして、それは世界を見極める力と、同じ力です。
つまり、人間である以上、持つべき力なのです。