誰でもが、いつでも自分の人生の主人公でいたいものですが、
残念ながら、そうはいかないときもあります。
自分の人生であるにもかかわらず、脇役を配され、それにふさわしい衣装を着なければならない、そんな状況もときにはあるでしょう。
その場合、どうするか。
そのときは脇役にふさわしい衣装を着なければなりません。
主役ではないとはどういうことかというと、
その場において自分が一番目立ってはいけないということ、
一人芝居ではないのだから、ほかの出演者との兼ね合いを考えるということ、
そして何より、そのシーンにおいての監督、衣装デザイナーの意見に従うということです。
まず、主役より目立ってはいけないことについてですが、よく映画や舞台でも、演技がうまいのをいいことに、主役を食う脇役というものがいるものです。
それは、その脇役の役者にとっては少しばかり得意げなことなのでしょうけれども、
それが全体の芝居を壊すのだとしたら、決してほめられた話ではありません。
主役を立ててこその脇役。
主役より目立とう、うまくやろうということは、してはいけないことなのです。
たとえば結婚式の披露宴。
主役はあくまで新郎新婦。
披露宴に出席したいと自分で望んだならば、脇であることはわかっているわけですから、
花嫁より目立つ衣装は困ります。
また、花嫁の存在をおびやかすような、まるで競っているかのような装いもいけません。
その場において自分はどんな位置づけなのか、
そして何がふさわしいのか、必要以上に目立ってはいないか、失礼ではないか、
そんなことを考える必要があるでしょう。
つぎにほかの人との兼ね合いです。
決定権のある主役というものは、ほとんどの場合、ほかの人との兼ね合いなど考えなくてもよいものです。
自分がそれを好きであるならば、そしてそのとき着たいと思うのならば、
その服装をすることは全く問題がありません。
しかし、その場において主役でないとしたら、やはり周囲との兼ね合いを考慮しなければなりません。
よくあるのはホテルやレストランのドレス・コード。
ホテルやレストランといった舞台を作った監督が、そのシーンにふさわしい服装をそこに集う人たちに要求しています。
そこではホテルやレストランそのものがいわば主役です。
ですから、その建物やインテリア、そしてほかのお客様との兼ね合いで、ふさわしい服装をしなければなりません。
しかし、多くの場合、このドレス・コードは明文化されているので、それを確認すればいいだけですから、問題はありません。
難しいのは職場です。
社長やCEOでもない限り、その職場においては、その人はその場の主役というわけではありません。
頼まれてやっているのならまだしも、
頼みこんで入れてもらったのだとしたら、そこでは脇役です。
脇役の一人としての衣装がふさわしいということになります。
職場によって、ローカル・ルールは違います。
それが明文化されている場合もあれば、暗黙の了解であることもあるかもしれません。
作業着の職場においては作業着がふさわしく、
白衣なら白衣、
スーツならスーツです。
倉庫なら倉庫で働くときの、
受付なら受付の、
会議に出席するなら会議のためのルールがあるはずです。
ルールを決めるのは自分ではありません。
頼みこんでいった、その先のトップにその権限があります。
ですから、それに従わなければなりません。
困ったことに、最近の職場の多くでは、服装のルールは明文化されていないようです。
しかし、明文化されていないからといって、ルールが一切ないというわけでもありません。
服装については全くの自由というルールかもしれませんし、
大体の目安のルールはあるのかもしれません。
誰かが教えてくれるかもしれませんし、
誰も教えてくれず、陰でこそこそ言われるかもしれません。
そんなときはどうするか。
それは周囲の人に合わせる、それしかありません。
周囲が作業着なら作業着が、スーツならスーツがその場にとってはふさわしい衣装です。
多くの、いわゆるオフィスにおいて、男性社員はスーツ、またはスーツの上着を脱いだスタイルで仕事をしているでしょう。
服装については自由でない職場の場合は、男性社員のスーツ姿の横に立っても違和感のないスタイルがふさわしくなります。
では、スーツの男性の横に立ってふさわしいスタイルを探るにはどうすればいいのか。
それは彼らのスタイルの近似値を見つけることです。
男性のスーツは、素材は多くがウール、またはウールの混紡、ジャケットの下にはコットン、またはポリエステル混紡のシャツ。
冬場の寒い時期は、その上にニットを着るかもしれません。
そうだとしたならば、そのスタイルの女性版を考えます。
まず、スーツということは、ジャケットとパンツなど、2ピースが同じ素材ということですから、
同じように、ジャケットとスカートのスーツにする、ブラウスとスカートのセットアップにするなど、合わせます。
ニットを着ているようでしたら、ニットが認められているということなので、ニットの着用も可能とみなします。
ただ、Tシャツ、キャミソール、タンクトップなど、下着をオリジナルにもつアイテムは、その職場の男性社員がTシャツ姿で仕事を許されていないのだとしたら、許されていないと考えたほうが無難です。
(当たり前ですが、職場において下着姿は、下着製造メーカーでもない限り、禁止です。つまり、下着を見せてはいけない、ということです)
では、パンツスーツはどうでしょう。
パンツスーツはスカートのスーツに比べると、格が下に見られています。
なぜなら、歴史的に女性がパンツをはくという行為は、男装であったからです。
パンツをはくということはあくまで男装のためなので、正式ではありません。
よって、パンツスーツは格下です。
格下ではありますが、スーツという意味においては許されていないわけではないでしょう。
それはその職場のルールによります。
しかし、これもあくまでローカル・ルールです。
アパレル業界では、服装はおおむね自由か、もしくはその会社のイメージのものの着用が推奨されるでしょうし、IT企業では、ジーンズやポロシャツでの仕事も認められているでしょう。
(CEOがジーンズ姿なら、それは認められているということです)
アメリカの企業なら、アメリカン・スタイルが、サウジアラビアなら中東のスタイルが、それぞれよしとされるでしょう。
(もちろん、アメリカのスタイルが世界標準だということではありません)
また、立場によっても違います。
正社員なのか、アルバイトなのか、平社員なのか部長なのか、
それぞれに要求されるスタイルがあるでしょう。
とにかく、相手に合わせる、ローカル・ルールに従うことが脇役としてやるべきことであり、ここぞとばかり、自分の好きな装いをしてはいけません。
多くのデザイナーが、女性たちに自分の好きなスタイルをして、そのことにより自信を持ち、ポジティブでいてほしいと考えています。
しかし、時と場合によっては、それがかなわない場合もあるのも、また事実。
極端な話ですが、いつも好きな服を着ていたいなら、
脇役になるようなところへは、なるべく行かなくてすむような人生を作らなければなりません。
それは人それぞれの選択です。
しかし、脇役を自分で選んだのだとしたら、それを悲観的にとらえたり、マイナス面だけを見たりせず、積極的に利用するというのも1つの考え方です。
アカデミー賞にさえ、助演女優賞はあるのですから、
脇には脇なりのやりがいがあり、自分の出し方があります。
出る幕も、セリフも、称賛も、報酬も少ないかもしれませんが、
いなければ舞台は成り立ちません。
それはつぎに主役に選ばれるための、一つのステップである可能性もあります。
また、そのときはそれがその人の役割なのかもしれません。
そういえば、長い脇役時代があって、40代で舞台の主役に選ばれ、
その後、死ぬ直前までずっと主役を演じてこられた女優さんがいらっしゃいました。
その方は、脇役時代、そんな服装をしていたのでしょう。
きっと、主役を食わないように、目立たなく、控え目にしていらしたのではないでしょうか。
そしてそれができたのも、それが自分で選んだことであり、
そしていつか主役ができるときがくると信じていられたからに違いありません。
脇役時代、誰かの決めたルールで、評価されるための服装を選ぶこと。
人生の一時期のそんな経験も、決して無駄にはならないでしょう。
なぜならその経験は、同じような脇役の人のことを理解できるようになるからです。
脇役の中で何ができるか、できないか。
自分というものをどこまで出すか、出さないか。
主役に近づくための、脇役の衣装の選択を、ぬかりなく、したたかにしたならば、
自分が主役の舞台の初日は近づきます。
その日を見据えての戦略ならば、それを考えるのも楽しいもの。
いつか主役になる日をあきらめていない脇役ならば、
その人はそんなルールの中においてさえ、輝いて見えるでしょう。
そしてその輝くを見逃さない観客も、同時に存在していることでしょう。
ページ
▼
2014年3月31日月曜日
2014年3月24日月曜日
多色使いのコーディネイト
すべてにおいて過剰な時代がやってきました。
分量も、装飾も、そして色についても、です。
自分のスタイルを保ちつつも、時代の流れを考慮して、これに対応しなければなりません。
流れが急カーブで曲がってしまったので、どうしたらいいか、わからないことも多いでしょう。
洋服において、シックの基本は3色ルールです。
コーディネイト全体の色を3色以内におさえます。
これは洋服の基本中の基本なので、まずはおさえておかなければなりません。
それができるようになった上での多色使いです。
何事も基礎がたいせつなので、土台はきちんと建てておきましょう。
さて、では多色、つまり3色以上についてのコーディネイトですが、
それに入る前にまずは柄物のおさらいです。
このブログのごく初期のページに柄物のコーディネイトについて書いてありますが、
覚えていらっしゃいますでしょうか。
柄物を取り入れる場合、その柄に使われている色の中で全体をコーディネイトする方法が、もっともおしゃれに見えます。
花柄でも、チェックでも、そうです。
また、プリントではなくても、多色使いのツイードや、ニットの場合も同じです。
たとえばシャツの柄の中に、青、赤、白、黄色と使われていたならば、
そのほかのボトム、バッグ、帽子、靴、ストールなどを同じように青、赤、白、黄色で構成します。
こうすれば、柄物を着たときでも、色が散らかった感じになりません。
統一感が出てくるので、すっきり整って、調和のとれたコーディネイトになります。
多色使いのコーディネイトの基本はこれです。
しかし、流行の流れは柄物のアイテムを1つ入れる以上のに多くの色を使う方向へ向かっています。
これは、どちらかというと上級テクニックになります。
簡単ではありません。
簡単ではありませんが、うまくまとめる方法はあります。
方法は2つあります。
まず1つ、差し色的な色の使い方。
3色ルールの場合、差し色という考え方がありました。
わかりやすいのはトリコロールですが、青と白で全体のほとんどの分量をまとめて、
バッグや靴などを赤を差し色として投入しました。
多色使いの場合は、この差し色の使い方を変えていきます。
差し色として使っていた色を、今度は全体の中に一部、差し入れる色ではなくて、
コーディネイト全体をつなげて、まとめていく色として考えます。
例を挙げると、4色使いの花柄をまず選んだとします。
次の段階では、その花柄の中の色でそのほかのアイテムを選びます。
そして、最後にそれをまとめる色として、以前、差し色として使っていた色を、
全体に配置していきます。
その場合、少なくとも2か所以上、その色をつなげていくと、全体がまとまります。
差し色の場合はどこかの1か所でも色がきいてきたわけですが、
この場合はその場所をふやします。
今までバッグだけ赤だったとしたら、靴、ストールまで広げます。
色数が多いほど、つなげる箇所をふやしたほうがまとまって見えます。
ですから、いつでもこの方法でコーディネイトを完成させるためには、
差し色としての小物、また小物以外でも、Tシャツやカーディガンなど、比較的、色を選べるアイテムをそろえておく必要があります。
それさえできていれば、どんなに多くの色を使っても簡単に対処できます。
次の方法は、多色使いのコーディネイトの中で、面積の少ない小物ではなく、もっと大きな面積、たとえばジャケットやコート、ボトムなどをどこか2か所、同じ色にする方法です。
どんなにたくさんの色を使っても、大きな面積で同じ色を2か所つなげれば、全体としてまとまりが出てきます。
また実際、多くのコレクションで発表されているスタイルも、この方法を使っているブランドが多いです。
この場合、その2か所の色は、ほぼ同じである必要があります。
たとえば、コートとボトムはまったく同じ色、そして残りのアイテムはそれぞれ違う色というような方法です。ストールが大きい場合は、ストールとボトムなどでもいいでしょう。
面を大きく同じ色で占領させれば、このスタイルは完成します。
コレクションなどで発表される、多色使いは、使われている色の明度と彩度を合わせてあります。
ですから、当然のごとく、まとまって見えて、ごちゃごちゃした感じがありません。
けれども、それを私たちが今すでに持っているアイテムでそれをやるのは至難の業です。
どうしてもすべてを完璧に整えたいのであれば、同シーズン、同ブランドでそろえるのが一番いい方法ですが、なかなかそれは難しいと思います。
そうであるならば、その次にできそうな方法を採用すればいいわけです。
どちらにせよ、多色使いをうまく構成するには、日頃から自分のワードローブの色をきっちりそろえておく必要があります。
そのためにも、思いつきや、行き当たりばったりでのワードローブ構築は避ける必要があります。
今だけの、近視眼的な、全体が見えないやり方では、すぐに破たんしてしまうということです。
色に対してうるさくなればなるほど、本当に選ぶべきものは少数しか売っていないということがわかります。
洋服を含めたモノには形があります。
形があるものは、でき上がってからなくなるまで、一定期間の時間を要します。
洋服は、数分で溶けるアイスクリームではありませんから、もっと大きな視点を持って選ばなくてはなりません。
その視点が正しいものであったかどうかは、自分のワードローブの何割がちゃんと働いているかどうかを見ればわかるでしょう。
ふだんは見えないタンスの奥にしまい込んだとしても、それは決してなくなることはありません。
誰も言ってはくれませんが、並んだワードローブを見た瞬間、自分の心がその正否を教えてくれるでしょう。
そして、その始末をつけるのは自分自身しかありません。
多色使いは難しいです。
しかし、チャレンジしてみる価値はあります。
色に対する感性を磨いて、
ストイックにいらないものを切り捨てて、
時間をかけて構築して、
そんな作業がうまくいったなら、それはきっと自信につながります。
自分に自信がないと言う前に、まずはやってみましょう。
失敗しただけ身につきます。
時間をかけた分だけうまくいきます。
色の違いがはっきりとわかったならば、そのとき世界は新しい色彩で生まれ変わるでしょう。
そして、あなたは今まで色について全く理解していなかったと知るでしょう。
それは、色によって分割された世界が新たな意味を持った証拠です。
分量も、装飾も、そして色についても、です。
自分のスタイルを保ちつつも、時代の流れを考慮して、これに対応しなければなりません。
流れが急カーブで曲がってしまったので、どうしたらいいか、わからないことも多いでしょう。
洋服において、シックの基本は3色ルールです。
コーディネイト全体の色を3色以内におさえます。
これは洋服の基本中の基本なので、まずはおさえておかなければなりません。
それができるようになった上での多色使いです。
何事も基礎がたいせつなので、土台はきちんと建てておきましょう。
さて、では多色、つまり3色以上についてのコーディネイトですが、
それに入る前にまずは柄物のおさらいです。
このブログのごく初期のページに柄物のコーディネイトについて書いてありますが、
覚えていらっしゃいますでしょうか。
柄物を取り入れる場合、その柄に使われている色の中で全体をコーディネイトする方法が、もっともおしゃれに見えます。
花柄でも、チェックでも、そうです。
また、プリントではなくても、多色使いのツイードや、ニットの場合も同じです。
たとえばシャツの柄の中に、青、赤、白、黄色と使われていたならば、
そのほかのボトム、バッグ、帽子、靴、ストールなどを同じように青、赤、白、黄色で構成します。
こうすれば、柄物を着たときでも、色が散らかった感じになりません。
統一感が出てくるので、すっきり整って、調和のとれたコーディネイトになります。
多色使いのコーディネイトの基本はこれです。
しかし、流行の流れは柄物のアイテムを1つ入れる以上のに多くの色を使う方向へ向かっています。
これは、どちらかというと上級テクニックになります。
簡単ではありません。
簡単ではありませんが、うまくまとめる方法はあります。
方法は2つあります。
まず1つ、差し色的な色の使い方。
3色ルールの場合、差し色という考え方がありました。
わかりやすいのはトリコロールですが、青と白で全体のほとんどの分量をまとめて、
バッグや靴などを赤を差し色として投入しました。
多色使いの場合は、この差し色の使い方を変えていきます。
差し色として使っていた色を、今度は全体の中に一部、差し入れる色ではなくて、
コーディネイト全体をつなげて、まとめていく色として考えます。
例を挙げると、4色使いの花柄をまず選んだとします。
次の段階では、その花柄の中の色でそのほかのアイテムを選びます。
そして、最後にそれをまとめる色として、以前、差し色として使っていた色を、
全体に配置していきます。
その場合、少なくとも2か所以上、その色をつなげていくと、全体がまとまります。
差し色の場合はどこかの1か所でも色がきいてきたわけですが、
この場合はその場所をふやします。
今までバッグだけ赤だったとしたら、靴、ストールまで広げます。
色数が多いほど、つなげる箇所をふやしたほうがまとまって見えます。
ですから、いつでもこの方法でコーディネイトを完成させるためには、
差し色としての小物、また小物以外でも、Tシャツやカーディガンなど、比較的、色を選べるアイテムをそろえておく必要があります。
それさえできていれば、どんなに多くの色を使っても簡単に対処できます。
次の方法は、多色使いのコーディネイトの中で、面積の少ない小物ではなく、もっと大きな面積、たとえばジャケットやコート、ボトムなどをどこか2か所、同じ色にする方法です。
どんなにたくさんの色を使っても、大きな面積で同じ色を2か所つなげれば、全体としてまとまりが出てきます。
また実際、多くのコレクションで発表されているスタイルも、この方法を使っているブランドが多いです。
この場合、その2か所の色は、ほぼ同じである必要があります。
たとえば、コートとボトムはまったく同じ色、そして残りのアイテムはそれぞれ違う色というような方法です。ストールが大きい場合は、ストールとボトムなどでもいいでしょう。
面を大きく同じ色で占領させれば、このスタイルは完成します。
コレクションなどで発表される、多色使いは、使われている色の明度と彩度を合わせてあります。
ですから、当然のごとく、まとまって見えて、ごちゃごちゃした感じがありません。
けれども、それを私たちが今すでに持っているアイテムでそれをやるのは至難の業です。
どうしてもすべてを完璧に整えたいのであれば、同シーズン、同ブランドでそろえるのが一番いい方法ですが、なかなかそれは難しいと思います。
そうであるならば、その次にできそうな方法を採用すればいいわけです。
どちらにせよ、多色使いをうまく構成するには、日頃から自分のワードローブの色をきっちりそろえておく必要があります。
そのためにも、思いつきや、行き当たりばったりでのワードローブ構築は避ける必要があります。
今だけの、近視眼的な、全体が見えないやり方では、すぐに破たんしてしまうということです。
色に対してうるさくなればなるほど、本当に選ぶべきものは少数しか売っていないということがわかります。
洋服を含めたモノには形があります。
形があるものは、でき上がってからなくなるまで、一定期間の時間を要します。
洋服は、数分で溶けるアイスクリームではありませんから、もっと大きな視点を持って選ばなくてはなりません。
その視点が正しいものであったかどうかは、自分のワードローブの何割がちゃんと働いているかどうかを見ればわかるでしょう。
ふだんは見えないタンスの奥にしまい込んだとしても、それは決してなくなることはありません。
誰も言ってはくれませんが、並んだワードローブを見た瞬間、自分の心がその正否を教えてくれるでしょう。
そして、その始末をつけるのは自分自身しかありません。
多色使いは難しいです。
しかし、チャレンジしてみる価値はあります。
色に対する感性を磨いて、
ストイックにいらないものを切り捨てて、
時間をかけて構築して、
そんな作業がうまくいったなら、それはきっと自信につながります。
自分に自信がないと言う前に、まずはやってみましょう。
失敗しただけ身につきます。
時間をかけた分だけうまくいきます。
色の違いがはっきりとわかったならば、そのとき世界は新しい色彩で生まれ変わるでしょう。
そして、あなたは今まで色について全く理解していなかったと知るでしょう。
それは、色によって分割された世界が新たな意味を持った証拠です。
2014年3月17日月曜日
服とバスト
オーダーメイドでない限り、
普通の人々は既製服を着ることになります。
出来合いなので、必ずしもぴったりというわけにはいきません。
どこかしらに不具合が出てきます。
袖丈、着丈、肩幅など、不具合が出る個所はさまざまですが、
バストが合わないことによる不具合は、致命的です。
既製服のサイズの設定は、あくまで平均値です。
日本の場合は、日本の女性の平均値をもとに7号、9号、11号というように、
サイズ分けしてあります。
服に限って言えば、
胸が大きい人に、現代の既製服は似合いません。
それは構造的な問題です。
服は生地から構成されています。
生地は二次元の平面ですが、それを人間の身体という三次元の世界へ変換させます。
人間の身体には凹凸がありますから、生地をそのままではなく、
何とかその凹凸にあわせなければなりません。
そのあわせ方の方法は、時代やその地域の文化によって違っていました。
古くギリシャ時代の衣装はドレープを多用することによって生地を身体に合わせました。
日本の着物は、生地をなるべく切らず、身体にのせるという方法で身体に合わせました。
現代でも、世界を見渡せば、「西洋服」を採用していない文化圏もたくさんあります。
古代ギリシャのドレープや、日本の着物とは違って、
洋服は、生地に切り替え線やダーツを入れる方法によって身体にそわせてきました。
もちろん、そのほうが身体にぴったりとした衣服ができ上がります。
身体にはぴったりそうようにはなりますが、その半面、
パターンは複雑になり、カットされた後、大量の切れはしが発生します。
既製服は、多くの人に、効率的に、工場で大量生産するために発達してきたものです。
工場製品であるので、無駄はなるべく省いていきます。
そのときにまず考えるのが、この大量に発生する切れはしをなくすことです。
そのためには、身体にそうとはいえども、なるべくカーブの少ない、
無駄のないパターンが望ましくなります。
カーブの少ない、無駄の少ない服が似合うのはどんな体型か。
それは、凹凸の少ない体型ということです。
オーダーメイドから既製服に大きく変化したのは、60年代から70年代にかけてだと思われます。
50年代のファッション誌を見てみると、
バストと細いウエストが強調された、複雑なパターンのジャケットが多く提案されています。
しかし、それらは既製服ではありません。
50年代の後半にピエール・カルダンがパターンの複雑でない、まっすぐなラインのプレタポルテを発表し、60年代に入り、身体に凹凸の少ない、モデルのツィッギーが出現しました。
複雑でないパターンの服、そしてそれの似合うモデルの出現は、
これから始まる既製服の大量生産時代には、必須の出来事でした。
そして、その流れは現在も続いています。
コレクションを見ればわかりますが、どのモデルもスレンダーで、女性的な曲線は強調されていません。
その理由は、彼女たちが既製服のためのモデルだからにほかなりません。
以上のような理由から、現在の既製服は胸の大きい人には似合わないようにできています。
日本では、サイズの規格は決まっているので、どこで何を試着しても同じです。
胸が大きいと、サイズの号数が大きくすることでしか対応できません。
実際、バストのサイズがあまりに合わないと、服は大きく崩れます。
それは見るも無残な姿です。
丈は直せますが、バストの幅は直せません。
脇で出せたとしても、全体のラインは崩れます。
対処の方法としては3通りあります。
まず1つは、日本規格以外のもので自分に合うもの方法。
外国のブランドは、日本の規格とは違いますから、サイズのバランスも変わってきます。
探していけば、自分の体型に合うバランスのブランドがあるかもしれません。
ただ、外国製品で注意しなければならないのは、製品によってサイズ感が大きく違うということです。
このブラウスで40はよくても、ドレスの40はだめであるとか、
また、去年はよかったけれども、今年はだめなどあります。
必ず試着して、サイズ感を確認してから買うようにしてください。
次は、バスト寸法があいまいなデザインのものを選ぶ方法です。
服のでき上がり寸法のチェックは、ボディ(フランス語だとトルソー)に着せて行います。
そのとき、ダーツやダーツ分をとるための切り替え線のゆるみが多すぎると、はねられることになります。
しかし、胸のあたりがタック、ドレープ、ギャザー、プリーツの場合は、ゆるみはそのまま認められます。
日本のサイズ規格のもので選ぶとしたら、ダーツ、パネル切り替えのものは避け、違う方法で胸のダーツ処理をしているものを選べばいいわけです。
そして、それがタック、ドレープ、ギャザー、プリーツということになります。
もちろん、最近は、シルエット全体がゆるくなってきていますので、そういったビッグシルエットのものを選ぶという方法もあります。
そして最後ですが、これは既製服はあきらめて、オーダーで服を作る方法。
こうすれば、身体にフィットした、胸によって全体が崩れることのない服はできますが、値段が高い、パターンとセンスのいいオーダーのお店がないなどが難点でしょう。
胸が大きいほうがいいとか悪いとか、
また、胸が小さいほうがいいとか悪いとかいう価値観は、どれも絶対的なものではなく、相対的なものです。
地域、文化圏、そして個人の嗜好によって大きく異なってきます。
だから、どちらがいいかでもめるのは意味がありません。
大体、自分の胸の大きさなど、自分で決めて作ったものではないでしょう。
そして、手術でもしない限り、自分で変化させられるものでもありません。
それは、私たちのコントロールの外にあるものです。
コントロールできないものについて、いい、悪いと決めつけるなど愚かなこと。
受け入れること、認めること、それ以外できません。
残念ながら、既製服の世界では、大きい胸は受け入れられませんでした。
だからといって、落ち込む必要はありません。
小さいほうがいいという言う人も、大きいほうがいいと言う人も、
その価値観に縛られた、囚われた不自由な人たちです。
その人たちはいわば、目がふさがれていて、個々の美しさというものが見えない、哀れな存在です。
そんな人たちの言うことは聞く必要がありません。
美しさというものは、そんな人たちには負けません。
美しさとは、言葉をこえた音であり、目には見えない消えない光であり、神様がくれた力です。
そしてそれは、最後にいつも勝つものです。
普通の人々は既製服を着ることになります。
出来合いなので、必ずしもぴったりというわけにはいきません。
どこかしらに不具合が出てきます。
袖丈、着丈、肩幅など、不具合が出る個所はさまざまですが、
バストが合わないことによる不具合は、致命的です。
既製服のサイズの設定は、あくまで平均値です。
日本の場合は、日本の女性の平均値をもとに7号、9号、11号というように、
サイズ分けしてあります。
服に限って言えば、
胸が大きい人に、現代の既製服は似合いません。
それは構造的な問題です。
服は生地から構成されています。
生地は二次元の平面ですが、それを人間の身体という三次元の世界へ変換させます。
人間の身体には凹凸がありますから、生地をそのままではなく、
何とかその凹凸にあわせなければなりません。
そのあわせ方の方法は、時代やその地域の文化によって違っていました。
古くギリシャ時代の衣装はドレープを多用することによって生地を身体に合わせました。
日本の着物は、生地をなるべく切らず、身体にのせるという方法で身体に合わせました。
現代でも、世界を見渡せば、「西洋服」を採用していない文化圏もたくさんあります。
古代ギリシャのドレープや、日本の着物とは違って、
洋服は、生地に切り替え線やダーツを入れる方法によって身体にそわせてきました。
もちろん、そのほうが身体にぴったりとした衣服ができ上がります。
身体にはぴったりそうようにはなりますが、その半面、
パターンは複雑になり、カットされた後、大量の切れはしが発生します。
既製服は、多くの人に、効率的に、工場で大量生産するために発達してきたものです。
工場製品であるので、無駄はなるべく省いていきます。
そのときにまず考えるのが、この大量に発生する切れはしをなくすことです。
そのためには、身体にそうとはいえども、なるべくカーブの少ない、
無駄のないパターンが望ましくなります。
カーブの少ない、無駄の少ない服が似合うのはどんな体型か。
それは、凹凸の少ない体型ということです。
オーダーメイドから既製服に大きく変化したのは、60年代から70年代にかけてだと思われます。
50年代のファッション誌を見てみると、
バストと細いウエストが強調された、複雑なパターンのジャケットが多く提案されています。
しかし、それらは既製服ではありません。
50年代の後半にピエール・カルダンがパターンの複雑でない、まっすぐなラインのプレタポルテを発表し、60年代に入り、身体に凹凸の少ない、モデルのツィッギーが出現しました。
複雑でないパターンの服、そしてそれの似合うモデルの出現は、
これから始まる既製服の大量生産時代には、必須の出来事でした。
そして、その流れは現在も続いています。
コレクションを見ればわかりますが、どのモデルもスレンダーで、女性的な曲線は強調されていません。
その理由は、彼女たちが既製服のためのモデルだからにほかなりません。
以上のような理由から、現在の既製服は胸の大きい人には似合わないようにできています。
日本では、サイズの規格は決まっているので、どこで何を試着しても同じです。
胸が大きいと、サイズの号数が大きくすることでしか対応できません。
実際、バストのサイズがあまりに合わないと、服は大きく崩れます。
それは見るも無残な姿です。
丈は直せますが、バストの幅は直せません。
脇で出せたとしても、全体のラインは崩れます。
対処の方法としては3通りあります。
まず1つは、日本規格以外のもので自分に合うもの方法。
外国のブランドは、日本の規格とは違いますから、サイズのバランスも変わってきます。
探していけば、自分の体型に合うバランスのブランドがあるかもしれません。
ただ、外国製品で注意しなければならないのは、製品によってサイズ感が大きく違うということです。
このブラウスで40はよくても、ドレスの40はだめであるとか、
また、去年はよかったけれども、今年はだめなどあります。
必ず試着して、サイズ感を確認してから買うようにしてください。
次は、バスト寸法があいまいなデザインのものを選ぶ方法です。
服のでき上がり寸法のチェックは、ボディ(フランス語だとトルソー)に着せて行います。
そのとき、ダーツやダーツ分をとるための切り替え線のゆるみが多すぎると、はねられることになります。
しかし、胸のあたりがタック、ドレープ、ギャザー、プリーツの場合は、ゆるみはそのまま認められます。
日本のサイズ規格のもので選ぶとしたら、ダーツ、パネル切り替えのものは避け、違う方法で胸のダーツ処理をしているものを選べばいいわけです。
そして、それがタック、ドレープ、ギャザー、プリーツということになります。
もちろん、最近は、シルエット全体がゆるくなってきていますので、そういったビッグシルエットのものを選ぶという方法もあります。
そして最後ですが、これは既製服はあきらめて、オーダーで服を作る方法。
こうすれば、身体にフィットした、胸によって全体が崩れることのない服はできますが、値段が高い、パターンとセンスのいいオーダーのお店がないなどが難点でしょう。
胸が大きいほうがいいとか悪いとか、
また、胸が小さいほうがいいとか悪いとかいう価値観は、どれも絶対的なものではなく、相対的なものです。
地域、文化圏、そして個人の嗜好によって大きく異なってきます。
だから、どちらがいいかでもめるのは意味がありません。
大体、自分の胸の大きさなど、自分で決めて作ったものではないでしょう。
そして、手術でもしない限り、自分で変化させられるものでもありません。
それは、私たちのコントロールの外にあるものです。
コントロールできないものについて、いい、悪いと決めつけるなど愚かなこと。
受け入れること、認めること、それ以外できません。
残念ながら、既製服の世界では、大きい胸は受け入れられませんでした。
だからといって、落ち込む必要はありません。
小さいほうがいいという言う人も、大きいほうがいいと言う人も、
その価値観に縛られた、囚われた不自由な人たちです。
その人たちはいわば、目がふさがれていて、個々の美しさというものが見えない、哀れな存在です。
そんな人たちの言うことは聞く必要がありません。
美しさというものは、そんな人たちには負けません。
美しさとは、言葉をこえた音であり、目には見えない消えない光であり、神様がくれた力です。
そしてそれは、最後にいつも勝つものです。
2014年3月10日月曜日
記号化されたアクセサリーにさよならを
実際のところ、アパレルの、特に作る現場では、「アクセサリー」という総称的な用語はほとんど使われません。
それらは、マフラーであり、ネックレスであり、ジュエリーであり、帽子であり、手袋です。
たぶん、「アクセサリー」という総称は、それを売る側、またはスタイリングする側の立場からの呼び方であり、くくり方ではないかと思います。
たとえば、デパートのアクセサリー売り場のような。
ですから、洋服を作る側にいた私も、あまりアクセサリーという言葉は使いません。
何かを指し示すなら、その具体的な名前、もしくは「小物」などと呼んでいます。
さて、それについてはいいとして。
ファッションにおいて、おしゃれに見えるためのポイントとして、
新しいもの、珍しいもの、オリジナルなものなどが挙げられます。
これらはどれも、多くの人が見たことがないもの、知らないものという意味です。
多くの人が見たことがないもの、知られないものは、
新鮮な印象や驚きを見るものに与えます。
その新鮮さや驚きが、それを身につける人自身に反映され、
おしゃれに見えるのです。
となれば、この総称としての「アクセサリー」も同じように、
見る側におしゃれな印象を与えなければいけません。
特に、服自体がシンプルであればあるほど、
アクセサリーという差異を表現する言語は、重要になってきます。
しかし、ここでジレンマがあります。
というのも、最近の装飾品の多くが、すでに情報として流通していて、
記号化されてしまっているものが多いのです。
どういうことかというと、
誰が見てもわかる、どこどこの指輪、あそこのロゴのついたキーホルダーなど、
アクセサリー自体が、そのものの表現ではなく、
それ以外の部分の情報をくっつけて存在しているからです。
ロゴやブランドタグの流行がいつから始まったか、定かではありませんが、
60年代のファッションを見ると、まだまだ今のようなはっきりとしたロゴは見られないので、
きっとそのあとからでしょう。
それまで、ブランドタグやロゴがなかったわけではありませんが、
もっとつつましやかで、着る主体より目立つなどということは、ありませんでした。
ロゴやブランドタグが目立つこと、
そしてそれが情報として流通することにより、
アクセサリーは記号化され、それを身につけていれば、
その情報を同時に運ぶことになり、見る側がその情報について知っている場合には、
すぐさまそこで消費されることになります。
そのときに行われる、人と人のあいだの情報交換は、
その人自身のパーソナリティを示すためのものではなく、
社会に流通しているブランド情報の値踏みとなります。
それは、身につけている人自身を強化することはなく、
素早く消費され、そこだけを強く印象に残します。
この一連の作業が行われるならば、
もうそこには新しさも珍しさも、
そして何よりその人のオリジナリティはありません。
しかも、その情報の消費はあまりに素早いので、すぐに次の情報を持たなければならないはめになります。
モノとしての寿命より、消費としての寿命を速めること、
そして、その情報がもはや古いものだと追いたてることによって、
ファッション業界は、大量生産、そして大量消費を促すことに成功しました。
ここから抜け出し、本当の意味でおしゃれ、つまりその人がオリジナルに見えるためには、記号化されたアクセサリーに別れを告げなければなりません。
しかし、多くのアクセサリーにブランドタグやロゴがあり、
実際に、100パーセント、そこを遠ざけるのは難しいのが現状です。
ここで、おしゃれと呼ばれる人たちは、2つの方向にわかれました。
1つは、情報としてどんどん消費し、次のシーズンはもう持たないという方向のもの、
そして、もう1つは、情報として消費されないように、少数しか生産されていないもの、誰もが知らないものを探して持つものです。
前者は主にファッション・スナップで撮られるようなファッション業界の関係者、
後者は、ファッション業界とは関係のない、ごく一般のおしゃれな人たちです。
ファッション業界の関係者でもない限り、情報としてどんどん消費し、
それに追いついていく必要など、ありません。
ですから、私たちが選ぶべきは、後者のほうになります。
「アクセサリー」は、その人のオリジナリティを表現するために用いるものです。
形、色、シンボルなど、総動員して、その人を表現するものでなければなりません。
それが、電車に乗ったら同じものをみんなしていた、では困るのです。
それぞれが違う個性の持ち主ですから、
方程式はありません。
それぞれが、それぞれに考えて、組み立てていくものです。
そこにたどりつくのは簡単ではないかもしれません。
また、それは自分を見つける作業に似ています。
なぜならそれは、一つずつ、あなたが周囲によってなされた「記号化されたあなた」から、
抜け出す行為だからです。
周囲によってはられたラベルを一枚ずつはがし、
新たに自分は何者かを見つけていく、その道程と同じです。
あなたを不自由にしていた不必要なラベルをはがし、そして本当の自分へと近づいていきます。
それは、自分だけのオリジナルなアクセサリーを集めていく作業と同じです。
アクセサリーの語源は「共犯者」です。
どうせ選ぶなら、あなたを消費尽くして消耗させない、
協力的な共犯者を選びましょう。
誰も知らないその共犯者は、
どこかできっとあなたに出会うのを待っているはずです。
こちらが探しに出かければ、必ず出会えます。
それはきっと、素敵な共犯者に違いありません。
それらは、マフラーであり、ネックレスであり、ジュエリーであり、帽子であり、手袋です。
たぶん、「アクセサリー」という総称は、それを売る側、またはスタイリングする側の立場からの呼び方であり、くくり方ではないかと思います。
たとえば、デパートのアクセサリー売り場のような。
ですから、洋服を作る側にいた私も、あまりアクセサリーという言葉は使いません。
何かを指し示すなら、その具体的な名前、もしくは「小物」などと呼んでいます。
さて、それについてはいいとして。
ファッションにおいて、おしゃれに見えるためのポイントとして、
新しいもの、珍しいもの、オリジナルなものなどが挙げられます。
これらはどれも、多くの人が見たことがないもの、知らないものという意味です。
多くの人が見たことがないもの、知られないものは、
新鮮な印象や驚きを見るものに与えます。
その新鮮さや驚きが、それを身につける人自身に反映され、
おしゃれに見えるのです。
となれば、この総称としての「アクセサリー」も同じように、
見る側におしゃれな印象を与えなければいけません。
特に、服自体がシンプルであればあるほど、
アクセサリーという差異を表現する言語は、重要になってきます。
しかし、ここでジレンマがあります。
というのも、最近の装飾品の多くが、すでに情報として流通していて、
記号化されてしまっているものが多いのです。
どういうことかというと、
誰が見てもわかる、どこどこの指輪、あそこのロゴのついたキーホルダーなど、
アクセサリー自体が、そのものの表現ではなく、
それ以外の部分の情報をくっつけて存在しているからです。
ロゴやブランドタグの流行がいつから始まったか、定かではありませんが、
60年代のファッションを見ると、まだまだ今のようなはっきりとしたロゴは見られないので、
きっとそのあとからでしょう。
それまで、ブランドタグやロゴがなかったわけではありませんが、
もっとつつましやかで、着る主体より目立つなどということは、ありませんでした。
ロゴやブランドタグが目立つこと、
そしてそれが情報として流通することにより、
アクセサリーは記号化され、それを身につけていれば、
その情報を同時に運ぶことになり、見る側がその情報について知っている場合には、
すぐさまそこで消費されることになります。
そのときに行われる、人と人のあいだの情報交換は、
その人自身のパーソナリティを示すためのものではなく、
社会に流通しているブランド情報の値踏みとなります。
それは、身につけている人自身を強化することはなく、
素早く消費され、そこだけを強く印象に残します。
この一連の作業が行われるならば、
もうそこには新しさも珍しさも、
そして何よりその人のオリジナリティはありません。
しかも、その情報の消費はあまりに素早いので、すぐに次の情報を持たなければならないはめになります。
モノとしての寿命より、消費としての寿命を速めること、
そして、その情報がもはや古いものだと追いたてることによって、
ファッション業界は、大量生産、そして大量消費を促すことに成功しました。
ここから抜け出し、本当の意味でおしゃれ、つまりその人がオリジナルに見えるためには、記号化されたアクセサリーに別れを告げなければなりません。
しかし、多くのアクセサリーにブランドタグやロゴがあり、
実際に、100パーセント、そこを遠ざけるのは難しいのが現状です。
ここで、おしゃれと呼ばれる人たちは、2つの方向にわかれました。
1つは、情報としてどんどん消費し、次のシーズンはもう持たないという方向のもの、
そして、もう1つは、情報として消費されないように、少数しか生産されていないもの、誰もが知らないものを探して持つものです。
前者は主にファッション・スナップで撮られるようなファッション業界の関係者、
後者は、ファッション業界とは関係のない、ごく一般のおしゃれな人たちです。
ファッション業界の関係者でもない限り、情報としてどんどん消費し、
それに追いついていく必要など、ありません。
ですから、私たちが選ぶべきは、後者のほうになります。
「アクセサリー」は、その人のオリジナリティを表現するために用いるものです。
形、色、シンボルなど、総動員して、その人を表現するものでなければなりません。
それが、電車に乗ったら同じものをみんなしていた、では困るのです。
それぞれが違う個性の持ち主ですから、
方程式はありません。
それぞれが、それぞれに考えて、組み立てていくものです。
そこにたどりつくのは簡単ではないかもしれません。
また、それは自分を見つける作業に似ています。
なぜならそれは、一つずつ、あなたが周囲によってなされた「記号化されたあなた」から、
抜け出す行為だからです。
周囲によってはられたラベルを一枚ずつはがし、
新たに自分は何者かを見つけていく、その道程と同じです。
あなたを不自由にしていた不必要なラベルをはがし、そして本当の自分へと近づいていきます。
それは、自分だけのオリジナルなアクセサリーを集めていく作業と同じです。
アクセサリーの語源は「共犯者」です。
どうせ選ぶなら、あなたを消費尽くして消耗させない、
協力的な共犯者を選びましょう。
誰も知らないその共犯者は、
どこかできっとあなたに出会うのを待っているはずです。
こちらが探しに出かければ、必ず出会えます。
それはきっと、素敵な共犯者に違いありません。
2014年3月3日月曜日
流行の取り入れ方
誰が何と言おうとも、ファッションには流行があります。
ターシャ・チューダーのように、すべてを自分で手作りにでもしない限り、
それに逆らって生きることは不可能です。
時代の気分というのは変わっていくものですから、
当たり前と言えば、当たり前です。
ただ同時に、服そのもののモノとしての寿命と、
流行の変化の速さは一致しません。
流行の変化のサイクルは、モノとしての寿命よりはるかに早く、
常に流行を追いかけようとすれば、
モノとしての寿命を待つ前に、手放さなければならないことになります。
そのギャップに葛藤が生まれます。
服はモノなので、古びれ、壊れます。
生地は破れ、ウールは虫に食われます。
洗濯により生地は傷み、汗により黄ばみます。
モノとしての服にとっては、明らかにもうこれ以上、着られないという時期がやってきます。
しかし、欲望をあおり消費させる経済にさらされていると、
その時期が来るまで待てません。
また、あおる経済は、多くを持つことをよしとします。
あれやこれやをたくさん持っているということが、相変わらず自慢のタネとなります。
これは単に1つの価値観にすぎないのですが、
あたかもそれが当たり前のように多くの人が信じ込まされています。
新しいものを、数多く持つことが推奨される社会の中にいて、
冷静にモノと自分の関係を判断するためには、
一歩、離れて、より客観的な視点が必要となります。
中心にいては見えません。
追いかけても追いかけてもすぐ離される流行の速さに追いつこうとして、
たくさんのものを抱え込み、
壊れないため捨てるに捨てられず、
逆にそのモノに支配され、身動きできなくなっているのが現状ではないかと思います。
一人暮らしの狭いマンションで、
一体どれだけのスペースを服のために割いているのでしょう?
そして、その服は、本当にいつも着ているのでしょうか。
今まで私が皆さんのワードローブを拝見して、お話を聞いてきたところ、
およそ8割から7割のものは、1年に二、三回着るか着ないかのものでした。
つまり、実稼働しているのは2割です。
これは別に誰かから指摘されなくても、自分で見てみればわかることです。
ほとんど着ないような服に埋もれて、自由に動けなくなる前に、
考え方を少し変えてみてはいかがでしょう。
理想的なのは、服がモノとしての寿命が終わった段階で、
そのときに新しさ、つまり、流行を取り入れるといったやり方です。
服の寿命とは耐用年数ではなくて、
着用回数によるものなので、ある一定以上、着用したならば、
モノとしての限界に達します。
そこで手放すことは、罪なことではありません。
服をたくさん持てば持つほど、1着当たりの着用回数は減っていきます。
よって、それらはなかなかモノとしての限界に達しません。
100色の色鉛筆をセットで買っても、なかなか全体が減っていきませんが、
20色のセットだったら、5倍の速さで減っていきます。
そして、案外すべての表現は20色でもできるのです。
着用回数や洗濯回数が多いものは早く劣化しますから、
そこに新しい流行を取り入れることは可能です。
逆に、着用回数や洗濯回数が少ないものは、
なかなか劣化しないわけですから、それを流行りのものにすると、
リスクが生じます。
ワードローブ全体を着用回数、洗濯回数が多いものとそうでないものに分けて考えて、
全体のワードローブを計画すれば、
流行を取り入れつつ、無駄に捨てない、無駄にふやさないワードローブの構築はできます。
具体的に言うと、洗濯回数の多い夏物はすぐにモノとしての限界に達するので、
流行を取り入れやすいと言えます。
逆に、洗濯回数の少ない冬物は、なかなか傷みませんから、
流行を取り入れにくいものです。
これは基本的なルールなので、もちろん例外はあります。
新しいものをたくさん持つことはいいことだというのは、1つの考え方に過ぎません。
相手は感情をあおってきます。
気分を高揚させようとします。
お買い物のとき、多少なりともテンションは上がります。
しかし、その上がったテンションはすぐに下がります。
その虚しさは、誰もが多少なりとも経験していると思います。
それを避けるためには、
そのシステムから一歩出て、
客観性を獲得し、自分なりの価値観を持つことです。
断言できますが、服をたくさん持っていれば、おしゃれに見えるということはありません。
おしゃれというのは、知的な行為であり、
気まぐれで、そのとき限りのインスタントなハッピーとは違うのです。
あちこちに張り巡らされている罠から抜け出さなければなりません。
詐欺師はそこらじゅうにいます。
テレビや雑誌が教えてくれるインスタントなハッピーなんかで満足しないで、
永遠のハッピーを見つけましょう。
それは他人が与えてくれるものではありません。
それを見つけられるのは自分だけ。
そして、それがあるのも、自分の中だけなのです。
ターシャ・チューダーのように、すべてを自分で手作りにでもしない限り、
それに逆らって生きることは不可能です。
時代の気分というのは変わっていくものですから、
当たり前と言えば、当たり前です。
ただ同時に、服そのもののモノとしての寿命と、
流行の変化の速さは一致しません。
流行の変化のサイクルは、モノとしての寿命よりはるかに早く、
常に流行を追いかけようとすれば、
モノとしての寿命を待つ前に、手放さなければならないことになります。
そのギャップに葛藤が生まれます。
服はモノなので、古びれ、壊れます。
生地は破れ、ウールは虫に食われます。
洗濯により生地は傷み、汗により黄ばみます。
モノとしての服にとっては、明らかにもうこれ以上、着られないという時期がやってきます。
しかし、欲望をあおり消費させる経済にさらされていると、
その時期が来るまで待てません。
また、あおる経済は、多くを持つことをよしとします。
あれやこれやをたくさん持っているということが、相変わらず自慢のタネとなります。
これは単に1つの価値観にすぎないのですが、
あたかもそれが当たり前のように多くの人が信じ込まされています。
新しいものを、数多く持つことが推奨される社会の中にいて、
冷静にモノと自分の関係を判断するためには、
一歩、離れて、より客観的な視点が必要となります。
中心にいては見えません。
追いかけても追いかけてもすぐ離される流行の速さに追いつこうとして、
たくさんのものを抱え込み、
壊れないため捨てるに捨てられず、
逆にそのモノに支配され、身動きできなくなっているのが現状ではないかと思います。
一人暮らしの狭いマンションで、
一体どれだけのスペースを服のために割いているのでしょう?
そして、その服は、本当にいつも着ているのでしょうか。
今まで私が皆さんのワードローブを拝見して、お話を聞いてきたところ、
およそ8割から7割のものは、1年に二、三回着るか着ないかのものでした。
つまり、実稼働しているのは2割です。
これは別に誰かから指摘されなくても、自分で見てみればわかることです。
ほとんど着ないような服に埋もれて、自由に動けなくなる前に、
考え方を少し変えてみてはいかがでしょう。
理想的なのは、服がモノとしての寿命が終わった段階で、
そのときに新しさ、つまり、流行を取り入れるといったやり方です。
服の寿命とは耐用年数ではなくて、
着用回数によるものなので、ある一定以上、着用したならば、
モノとしての限界に達します。
そこで手放すことは、罪なことではありません。
服をたくさん持てば持つほど、1着当たりの着用回数は減っていきます。
よって、それらはなかなかモノとしての限界に達しません。
100色の色鉛筆をセットで買っても、なかなか全体が減っていきませんが、
20色のセットだったら、5倍の速さで減っていきます。
そして、案外すべての表現は20色でもできるのです。
着用回数や洗濯回数が多いものは早く劣化しますから、
そこに新しい流行を取り入れることは可能です。
逆に、着用回数や洗濯回数が少ないものは、
なかなか劣化しないわけですから、それを流行りのものにすると、
リスクが生じます。
ワードローブ全体を着用回数、洗濯回数が多いものとそうでないものに分けて考えて、
全体のワードローブを計画すれば、
流行を取り入れつつ、無駄に捨てない、無駄にふやさないワードローブの構築はできます。
具体的に言うと、洗濯回数の多い夏物はすぐにモノとしての限界に達するので、
流行を取り入れやすいと言えます。
逆に、洗濯回数の少ない冬物は、なかなか傷みませんから、
流行を取り入れにくいものです。
これは基本的なルールなので、もちろん例外はあります。
新しいものをたくさん持つことはいいことだというのは、1つの考え方に過ぎません。
相手は感情をあおってきます。
気分を高揚させようとします。
お買い物のとき、多少なりともテンションは上がります。
しかし、その上がったテンションはすぐに下がります。
その虚しさは、誰もが多少なりとも経験していると思います。
それを避けるためには、
そのシステムから一歩出て、
客観性を獲得し、自分なりの価値観を持つことです。
断言できますが、服をたくさん持っていれば、おしゃれに見えるということはありません。
おしゃれというのは、知的な行為であり、
気まぐれで、そのとき限りのインスタントなハッピーとは違うのです。
あちこちに張り巡らされている罠から抜け出さなければなりません。
詐欺師はそこらじゅうにいます。
テレビや雑誌が教えてくれるインスタントなハッピーなんかで満足しないで、
永遠のハッピーを見つけましょう。
それは他人が与えてくれるものではありません。
それを見つけられるのは自分だけ。
そして、それがあるのも、自分の中だけなのです。