人は、誰かと同じになりたいという欲望と、
誰かとは同じにはなりたくないという欲望との2種類の欲望を持っています。
人によって、その比率は異なり、
ほとんどすべてを誰かと同じになりたいと望む人もいれば、
絶対に同じようにはなりたくないと望む人もいます。
ファッション雑誌において、「セレブ」がもてはやされるようになったのは、
いつごろからでしょうか。
私の記憶では、90年代にはそんなことはなかったと思うので、
2000年以降だろうと思います。
デザイナーが注目を浴びる時代が終わり、
デザインそのものより、服をコーディネイトする編集能力が重視されるようになり、
その結果として、「セレブ」が出てきたのではないかと推測できます。
それ以降、ファッション業界は、
人の誰かと同じになりたいという欲望をより効率的に利用するために、
その誰かの対象として「セレブ」を持ちだしてきました。
ルックスも、仕事も、生きている環境も、収入も、
あまりに違うにもかかわらず、
多くの人が「セレブ」と同じものを持ちたいと望むようになったのです。
90年代、あるデザイナーのドレスを有名人が着たとしても、
それは深い意味を持ちませんでした。
しかし現在では、ブランド自身が、誰が自分のところのドレスを着たのかを、
積極的に宣伝に使います。
誰かと同じになりたいという欲望は、
限りなくその人自身を透明な存在へと導きます。
昔、「ルームメイト」というミステリーがあり、
ブリジット・フォンダが主演で映画化もされました。
「同居人募集」の広告を見てやってきた女性のルームメイトが、
主人公へのちょっとした憧れから、
髪形、服装などを主人公そっくりに変えていき、
最終的には、主人公を殺すことでその人格をのっとろうとするスリラーです。
映画の中では、主人公のすべてを真似するそのルームメイトは、
頭の狂った人物として描かれています。
どこまでも誰かの真似をしていく姿は、
一歩間違えば狂気です。
その映画を見て、どこまでも主人公を真似していくルームメイトのようになりたいと思う人は、
まずいないでしょう。
私たちがほんとうになりたいのは、
主人公をそっくり真似ていくルームメイトではなく、
憧れの対象であり、
真似されていく、
美しい主人公のほうです。
誰かと同じものを持ちたいという欲望を刺激され、
それに従って、コントロールされ続けている限り、
本当のおしゃれな人にはなれません。
誰かと同じを目指せば目指すほど、
その人は、代替可能でコントロールしやすい、意思がなく透明で、
名前のない存在になります。
そんな存在は、おしゃれではありません。
おしゃれな人はコントロールなどされません。
おしゃれな人と思われるためには、
誰かと同じではない部分を探し、作っていく必要があります。
「真似したい私」ではなくて、
「真似されたい私」でなければなりません。
コピー品が決して美術館に飾られることがないように、
オリジナルであることは、おしゃれにとっても重要なことなのです。
名前も、顔も、趣味も、嗜好も全く同じ人間など、
この世にいません。
その、この世に1つのユニークな存在を、
今、世の中に存在している似たような多くのものの中からかき集めて、
ユニーク、つまり唯一のものにしていく、
その作業がおしゃれを作ります。
「真似されたい私」になるためにはどうしたらよいでしょうか。
まずは自分を知ること、
そしてその他の世界を知ること、
そして何よりも、
刺激され続ける誰かと同じになりたい欲望から自分を切り離すことが、
それを可能にさせるでしょう。
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2014年6月30日月曜日
2014年6月23日月曜日
ネットワークを作る
たとえば、オートクチュールのコレクションで発表されたばかりの多くのスタイルは、
誰が見ても文句なく、シックで、スタイリッシュで、完璧です。
その理由は、もちろんデザインが優れているからなのですが、
優れているのはデザインのみでなく、そのスタイリングも同じように完璧です。
通常、デザイナーは服をデザインしますが、
それをスタイルとして完成させるための、
靴、バッグ、その他小物についてはそれぞれデザイナーがいて、
ショーにおいては、それらばらばらのアイテムをまとめてスタイリングする人がいます。
彼らは、いわばあらかじめ1つのテーマに向かって設計されたパーツを、
正確に配置する係です。
これらのパーツは必ず方向性を持ってデザインされていますから、
どれをどう並べても、それなりのスタイルが完成するようになっています。
そしてそれこそが、私たちに「おしゃれ」であると感じさせる点です。
それらはすべて1つのテーマにそって、
色、素材、シルエット、モチーフ、柄が決定されています。
もしそこからはみ出すものがあったら、
最終的にはじかれます。
合わない色、合わない柄は、もうこの時点ではありません。
つまり、おしゃれに見えるためには、1つの方向性なりテーマにそって、
スタイリングを組み立てることが重要なのです。
ほとんどの人は、
いくつかのブランドの、
もうすでに持っている古いアイテムと新しく付け足したアイテムを、
ばらばらの時期に購入したものを使って、
1つのスタイルを完成させようと試みます。
これは、あらかじめ1つの設計図のためにデザインされたパーツを組み合わせるよりも、
はるかに難しい作業です。
もうすでに立派なお城ができるようにすべてのパーツがそろったレゴを組み立てるよりも、
形も色もメーカーも違う、統一規格のないブロックでお城を作るほうが、
はるかに難しいのと同じことです。
それでもなお、スタイリングが1つのテーマにそっているということは、
おしゃれに見せるためのポイントです。
私たちは、あるものの中で、何とかそのテーマを1つにそろえていかなくてはなりません。
そのために使うテクニックが、
この1つのスタイリングの中でネットワーク作りをするというものです。
それは色でも、形でも、モチーフでも、ディテールでも、素材でも、
何でも構いません。
何の工夫もしなければ、
ただ乱雑に集めてきた、意味のつながりのないパーツにすぎない、
それぞれのアイテムをつなぐために、
そこに1つのテーマを入れ込み、
ネットワークとしてつなげることで、
統一感を出します。
例えば、モチーフならモチーフを1つ決めます。
水玉と決めたなら、
頭の先からつま先までのあいだに、水玉モチーフのものをちりばめます。
首元のスカーフ、靴下など、同じ水玉でつなげます。
つなげると言うからには、
それはワンポイントではありません。
最低2か所は同じもので統一します。
たとえば、オートクチュールでしたら、
コートと帽子と靴の素材を同一のもので作ったりします。
そのほかにアクセサリーとしてパールを選ぶのなら、
パールのネックレス、パールの指輪、
パールの飾りのついたバッグをそこへ持ってきます。
オートクチュールのように完璧にはいきませんが、
私たちはこのテクニックを真似ることはできます。
そしてこれをするために私たちがやるべきなのは、
建設的なワードローブ構築です。
気まぐれ、一目ぼれ、衝動買いを繰り返したのでは、
これを作ることはできません。
自分が星の形が好きだとしたら、
星型のピアス、星型のスタッズがついたバッグ、
星の柄のスカーフを探して歩きます。
ターコイズブルーが好きだとしたら、
ターコイズのネックレス、ターコイズブルーのカシミアのストール、
ターコイズブルーのバッグを探します。
そうして少しずつ、自分のワードローブを完成させます。
これができるだけで、
スタイリングは驚くほど洗練されて見えます。
私たちは他人の目に統一感のある印象を与えるだけで、
おしゃれであると認識されます。
私たちが何となくおしゃれに見える、
その何となくは、こういうことの積み重ねによってでき上がります。
欲望のまま集めてきたものでは、こうはいきません。
もともと、1つのものを収集する癖のある人は、
もうすでにできているかもしれません。
しかしそうでないならば、自分のワードローブを見直し、
これから何を買い足せばいいのか考えましょう。
同じものによる統一感は、それを見る相手に、
安心や信頼できる感じを与えます。
おしゃれであると同時に信頼できる人、
そしてそのことによって印象深い人になります。
2回目に会ったときに、
あなたが初回にしていたのと同じ星のモチーフをつけていたなら、
信頼はより深まるでしょう。
恒星のように、動かないというその行為は、
相手の心に深くくさびを打ち込みます。
輝く星であり続けるためにも、
ぜひとも連続し、統一した、ネットワークを作ってください。
その鳥のブローチが、
そのバラの形のピアスが、
あなたを次の世界へつなげていきます。
なぜなら相手はそれを忘れることができないから。
忘れることができないということは、
つながっているということです。
誰が見ても文句なく、シックで、スタイリッシュで、完璧です。
その理由は、もちろんデザインが優れているからなのですが、
優れているのはデザインのみでなく、そのスタイリングも同じように完璧です。
通常、デザイナーは服をデザインしますが、
それをスタイルとして完成させるための、
靴、バッグ、その他小物についてはそれぞれデザイナーがいて、
ショーにおいては、それらばらばらのアイテムをまとめてスタイリングする人がいます。
彼らは、いわばあらかじめ1つのテーマに向かって設計されたパーツを、
正確に配置する係です。
これらのパーツは必ず方向性を持ってデザインされていますから、
どれをどう並べても、それなりのスタイルが完成するようになっています。
そしてそれこそが、私たちに「おしゃれ」であると感じさせる点です。
それらはすべて1つのテーマにそって、
色、素材、シルエット、モチーフ、柄が決定されています。
もしそこからはみ出すものがあったら、
最終的にはじかれます。
合わない色、合わない柄は、もうこの時点ではありません。
つまり、おしゃれに見えるためには、1つの方向性なりテーマにそって、
スタイリングを組み立てることが重要なのです。
ほとんどの人は、
いくつかのブランドの、
もうすでに持っている古いアイテムと新しく付け足したアイテムを、
ばらばらの時期に購入したものを使って、
1つのスタイルを完成させようと試みます。
これは、あらかじめ1つの設計図のためにデザインされたパーツを組み合わせるよりも、
はるかに難しい作業です。
もうすでに立派なお城ができるようにすべてのパーツがそろったレゴを組み立てるよりも、
形も色もメーカーも違う、統一規格のないブロックでお城を作るほうが、
はるかに難しいのと同じことです。
それでもなお、スタイリングが1つのテーマにそっているということは、
おしゃれに見せるためのポイントです。
私たちは、あるものの中で、何とかそのテーマを1つにそろえていかなくてはなりません。
そのために使うテクニックが、
この1つのスタイリングの中でネットワーク作りをするというものです。
それは色でも、形でも、モチーフでも、ディテールでも、素材でも、
何でも構いません。
何の工夫もしなければ、
ただ乱雑に集めてきた、意味のつながりのないパーツにすぎない、
それぞれのアイテムをつなぐために、
そこに1つのテーマを入れ込み、
ネットワークとしてつなげることで、
統一感を出します。
例えば、モチーフならモチーフを1つ決めます。
水玉と決めたなら、
頭の先からつま先までのあいだに、水玉モチーフのものをちりばめます。
首元のスカーフ、靴下など、同じ水玉でつなげます。
つなげると言うからには、
それはワンポイントではありません。
最低2か所は同じもので統一します。
たとえば、オートクチュールでしたら、
コートと帽子と靴の素材を同一のもので作ったりします。
そのほかにアクセサリーとしてパールを選ぶのなら、
パールのネックレス、パールの指輪、
パールの飾りのついたバッグをそこへ持ってきます。
オートクチュールのように完璧にはいきませんが、
私たちはこのテクニックを真似ることはできます。
そしてこれをするために私たちがやるべきなのは、
建設的なワードローブ構築です。
気まぐれ、一目ぼれ、衝動買いを繰り返したのでは、
これを作ることはできません。
自分が星の形が好きだとしたら、
星型のピアス、星型のスタッズがついたバッグ、
星の柄のスカーフを探して歩きます。
ターコイズブルーが好きだとしたら、
ターコイズのネックレス、ターコイズブルーのカシミアのストール、
ターコイズブルーのバッグを探します。
そうして少しずつ、自分のワードローブを完成させます。
これができるだけで、
スタイリングは驚くほど洗練されて見えます。
私たちは他人の目に統一感のある印象を与えるだけで、
おしゃれであると認識されます。
私たちが何となくおしゃれに見える、
その何となくは、こういうことの積み重ねによってでき上がります。
欲望のまま集めてきたものでは、こうはいきません。
もともと、1つのものを収集する癖のある人は、
もうすでにできているかもしれません。
しかしそうでないならば、自分のワードローブを見直し、
これから何を買い足せばいいのか考えましょう。
同じものによる統一感は、それを見る相手に、
安心や信頼できる感じを与えます。
おしゃれであると同時に信頼できる人、
そしてそのことによって印象深い人になります。
2回目に会ったときに、
あなたが初回にしていたのと同じ星のモチーフをつけていたなら、
信頼はより深まるでしょう。
恒星のように、動かないというその行為は、
相手の心に深くくさびを打ち込みます。
輝く星であり続けるためにも、
ぜひとも連続し、統一した、ネットワークを作ってください。
その鳥のブローチが、
そのバラの形のピアスが、
あなたを次の世界へつなげていきます。
なぜなら相手はそれを忘れることができないから。
忘れることができないということは、
つながっているということです。
2014年6月16日月曜日
アートとファッション
ファッションはしばしば、アートに近づこうと試みます。
しかし、ファッションは決して芸術にはなれません。
半年やそこいらで、経済的な価値が半減してしまうようなものは、
芸術ではありません。
それにもかかわらず、またはそれであるからこそ、
ファッションはいつでもアートに憧れています。
企画展か、または服飾美術館以外で、
服やその周辺の小物が展示されることはありません。
どんなにすぐれたデザイナーの作品(商品)でも、
ミケランジェロやラファエロが展示されている、その隣の部屋に並ぶことはありません。
芸術は唯一で、永遠のものを目指しますが、
ファッションは今、または短期間有効で、ほとんどのものは唯一ではないのです。
無理とわかっていながらも、
ファッションはアートに憧れます。
そして、その試みは、たとえばモンドリアン・ドレスのように、
モチーフを服そのものにプリントするか、
または、人が日常に着ることを全く想定しない、服のオブジェ化によってなされます。
繰り返し行われるその試みは、その多くが失敗です。
それらは芸術ともみなされず、
かといって、人が着るわけでもなく、
どちらともつかない、中途半端な存在として、最終的には忘れ去られます。
なぜこれほどまでにファッションがアートに憧れるかというと、
やはりファッションも唯一で、永遠でありたいからです。
実際のところ、やっているのは短期間の流行による刹那の絶対的な肯定と、
必ず売れ残りが出る大量生産の容認にもかかわらず、
唯一で、永遠に憧れるなんて、
身の程知らずもいいところです。
絶対に芸術にはなれないファッションですが、
そのかなり近いところまでいって、商品から作品の領域まで踏み込めたものは、
多くはありませんが、存在し、それらは世界各国の服飾関係の美術館や展示で見られます。
ヴィオネのプリーツのドレス、
ディオールのバージャケットに代表される、ニュールックのスタイルなどは、
その代表でしょう。
確かにそれらは、今見ても色あせることなく、
見る人の鑑賞に耐え、服装における美の表現の一形態として、
服装史に刻まれるものです。
しかしそれらは全体のほんの一部です。
100万枚の1枚にあるかないかの確率です。
けれども、ファッションが唯一と永遠に憧れ、それを目指すことは、悪いことではないです。
なぜなら、服を着る人それ自体は、いつだって唯一の存在であり、
永遠目指すものだからです。
大量生産主義者は、多くの人があたかも同じスペックの存在であるかのように振る舞います。
しかし人間が存在してから、全く同じ顔形、体型の人など、
一度も存在したことはないのです。
私たちは、大量生産主義者のおしつけで、同じ形、色、素材の服を受け入れていますが、
間違っているのは私たちではなく、おしつけている大量生産主義者です。
服装史を振り返ってみても、こんなに同じ服が大量につくられ、
それらを選ばざるを得ないような時代はありません。
なぜなら唯一であり、永遠を目指す私たちにふさわしいのは、
まさに唯一で、永遠の服だからです。
私たちはそれぞれが、唯一の輝く星と同じです。
それぞれが、おのずと輝く存在です。
月のように、太陽がなければ輝かない存在ではなく、
太陽のように、みずからが輝く存在です。
そのことに気づいたなら、
横並びの、均質化した、大量生産の服は、
だんだんと選べなくなるものです。
そのときに、アートに憧れ、それを目指すファッションは、
大いに役に立つでしょう。
アルチュール・ランボーが
海と太陽のあいだに永遠を見つけたように、
私たちそれぞれが自分の中に永遠を見つけたならば、
もう他人の光を必要とすることはありません。
そうなったときに、初めてスタイルは永遠となるでしょう。
それは、美術館に飾られることこそありませんが、
生きているアートです。
ファッションは芸術ではありません。
それはいつでも、生きているアートのための、忠実なしもべなのです。
しかし、ファッションは決して芸術にはなれません。
半年やそこいらで、経済的な価値が半減してしまうようなものは、
芸術ではありません。
それにもかかわらず、またはそれであるからこそ、
ファッションはいつでもアートに憧れています。
企画展か、または服飾美術館以外で、
服やその周辺の小物が展示されることはありません。
どんなにすぐれたデザイナーの作品(商品)でも、
ミケランジェロやラファエロが展示されている、その隣の部屋に並ぶことはありません。
芸術は唯一で、永遠のものを目指しますが、
ファッションは今、または短期間有効で、ほとんどのものは唯一ではないのです。
無理とわかっていながらも、
ファッションはアートに憧れます。
そして、その試みは、たとえばモンドリアン・ドレスのように、
モチーフを服そのものにプリントするか、
または、人が日常に着ることを全く想定しない、服のオブジェ化によってなされます。
繰り返し行われるその試みは、その多くが失敗です。
それらは芸術ともみなされず、
かといって、人が着るわけでもなく、
どちらともつかない、中途半端な存在として、最終的には忘れ去られます。
なぜこれほどまでにファッションがアートに憧れるかというと、
やはりファッションも唯一で、永遠でありたいからです。
実際のところ、やっているのは短期間の流行による刹那の絶対的な肯定と、
必ず売れ残りが出る大量生産の容認にもかかわらず、
唯一で、永遠に憧れるなんて、
身の程知らずもいいところです。
絶対に芸術にはなれないファッションですが、
そのかなり近いところまでいって、商品から作品の領域まで踏み込めたものは、
多くはありませんが、存在し、それらは世界各国の服飾関係の美術館や展示で見られます。
ヴィオネのプリーツのドレス、
ディオールのバージャケットに代表される、ニュールックのスタイルなどは、
その代表でしょう。
確かにそれらは、今見ても色あせることなく、
見る人の鑑賞に耐え、服装における美の表現の一形態として、
服装史に刻まれるものです。
しかしそれらは全体のほんの一部です。
100万枚の1枚にあるかないかの確率です。
けれども、ファッションが唯一と永遠に憧れ、それを目指すことは、悪いことではないです。
なぜなら、服を着る人それ自体は、いつだって唯一の存在であり、
永遠目指すものだからです。
大量生産主義者は、多くの人があたかも同じスペックの存在であるかのように振る舞います。
しかし人間が存在してから、全く同じ顔形、体型の人など、
一度も存在したことはないのです。
私たちは、大量生産主義者のおしつけで、同じ形、色、素材の服を受け入れていますが、
間違っているのは私たちではなく、おしつけている大量生産主義者です。
服装史を振り返ってみても、こんなに同じ服が大量につくられ、
それらを選ばざるを得ないような時代はありません。
なぜなら唯一であり、永遠を目指す私たちにふさわしいのは、
まさに唯一で、永遠の服だからです。
私たちはそれぞれが、唯一の輝く星と同じです。
それぞれが、おのずと輝く存在です。
月のように、太陽がなければ輝かない存在ではなく、
太陽のように、みずからが輝く存在です。
そのことに気づいたなら、
横並びの、均質化した、大量生産の服は、
だんだんと選べなくなるものです。
そのときに、アートに憧れ、それを目指すファッションは、
大いに役に立つでしょう。
アルチュール・ランボーが
海と太陽のあいだに永遠を見つけたように、
私たちそれぞれが自分の中に永遠を見つけたならば、
もう他人の光を必要とすることはありません。
そうなったときに、初めてスタイルは永遠となるでしょう。
それは、美術館に飾られることこそありませんが、
生きているアートです。
ファッションは芸術ではありません。
それはいつでも、生きているアートのための、忠実なしもべなのです。
2014年6月9日月曜日
クローゼットの見直しを
自分の持っている洋服をすべて正確に把握している人は、
そう多くはないと思います。
ほとんどの人が見れば思い出すけれども、
目に入るまではあることさえ忘れてしまっている服が何着か、
あるいは何着もあるはずです。
多くの人が持っている服の2割から3割程度しか、
実際には着ていません。
1年のうち1度も日の目を見ない服も何枚かあるに違いありません。
そうなると、その服がどんなに素敵なものであったとしても、
それは死蔵品であり、役には立ちません。
そうなってしまうことの大きな原因の1つに、
服の収納の仕方の問題があると思います。
ウォークイン・クロゼットのように、
全体がすぐに見渡せる収納を持っている人は、
今の日本の住宅事情では少数派でしょう。
ほとんどの場合、家に備え付けのクローゼットか、
または後から購入したタンスや衣装ケースに収納することになると思います。
すべてを見渡せない収納の問題点は、
まさに「すべてが見えない」ということです。
探さなくてはわからないようなものは、当然のことながら、
あまり着なくなります。
そしてよく着る服がよく目に着く場所に収納され、
着ない服は見えないところへ押し入れられるという悪循環に陥ります。
人はその存在が見えないと、
あたかもそれがないかのごとく認識してしまう傾向があるようです。
けれども、見えないからといって、そのものがなくなってしまったわけでは決してありません。
この悪循環を避けるためにも、
クローゼットの見直しをお勧めします。
まずは自分が持っている服をすべて把握することから始めるのです。
一度にすべてが難しかったら、春夏ものと秋冬ものに分けてやればよいでしょう。
とにかくすべて出してみて、
持っている服をアイテム別に何点所有しているのか確認します。
具体的に書き出してみましょう。
その次に、それらを色別に分類します。
ブルーならブルーとそのグラデーションに分けます。
まずは色分けなので、アイテムは混ざっても構いません。
重要なのは同じ色の仲間であるかどうかです。
(色に詳しいひとは、彩度と明度に分けてみてもいいでしょう)
白なら白、黒なら黒、そしてどのグループにも入らない色とに分けます。
このときに、多くの色を持っている人は、
死蔵品も多いはずです。
色が多ければ多いほど、コーディネイトは難しくなり、
結局、着ないものがふえていきます。
余裕があれば、それらをすべて写真に撮り、
トランプカードのように印刷して、どれとどれがコーディネイトできるか考えてみるのもいいでしょう。
コーディネイトがどれだけ難しいか、わかるはずです。
色別に分けたら、その色の中でのアイテムの偏りを把握しましょう。
たとえば、ブルーならブルーのコート、ジャケット類、インナーとボトムスの割合を見てみます。
いつもコーディネイトがうまくできなかったり、悩んでいるのだとしたら、
その中のどこかに偏りがあります。
インナーばかりでボトムがないであるとか、
ジャケット、コートばかりでインナーが少ないであるとかです。
基本はすべて1週間分の7枚。
ボトムやジャケット、コート類はこれより少なくても問題ありません。
自分がメインでいつも着る色について、アイテムの偏りをチェックしたら、
その他、どこのグループにも入らない色のものを、
これらのメインのグループに入れて、コーディネイトできるかチェックしましょう。
ここで、どこにも入りようのない色のものが出てくるでしょう。
ワンピースのように、コーディネイトの必要のないものなら問題ありませんが、
中途半端な色のジャケットなどは、ほとんど着る出番がないでしょう。
ここまでは色による仕分けです。
色がある程度そろったら、もう着られないシルエットやサイズについて、
チェックしてみましょう。
これは人それぞれ選ぶ基準は違うと思いますので、
感覚や気分で選ぶことになると思います。
ここまでやってくれば、もう絶対に着ることのない何点かが選びだされるはずです。
それらはコーディネイトができない、
シルエットが古すぎる、
サイズが大きすぎ、または小さすぎ、のどれかになるでしょう。
また同時に、
足りないものも見えてくるでしょう。
たとえば、グレーのジャケットやコートはあるけれども、
夏用のボトムはない、であるとかです。
死蔵品がふえてしまうことの多くの原因は、
現状を見ない、そしてその結果、把握していないからです。
毎日、目には入らなくても、
そこに存在するものは、誰かがどうにかしない限り、永遠に存在し続けます。
それは見えないかもしれませんが、
あるというだけで場所をとり、
メンテナンス費用がかかり、
何より、着ていないものを持っているという、罪悪感にも似た思いが、
その人のエネルギーを奪い続けます。
会社が在庫を持っていれば税金がかかるように、
使わない在庫を保持し続けていれば、
エネルギーはそれだけ消費されるのです。
存在しているにもかかわらず、見て見ぬふりをして、
表面だけを取り繕ってみても、
存在は消えないどころか、
影響を与え続けます。
見えないモノが持っている力を、
低く見積もってはいけません。
着ていない服を把握する、
そして死蔵品をなくし、
持っていて、着られるものは実際に着て、
着られなくなったら処分する。
そうやって、クローゼットの風通しをよくし、
無駄なく循環するようにしましょう。
それは大きなエネルギーの節約です。
節約したエネルギーはファッションとは違うことに使ってください。
人生には、ファッションより重要なことが常にたくさん存在しています。
それらのために時間やお金を使って、自分を育て、成長させてください。
なぜそれを勧めるかって?
だって、服だけ素敵な人よりも、
服より中身が素敵な人のほうが、
よっぽどおしゃれだと私は思うから。
そして多くのデザイナーが、同じように考えているからです。
そう多くはないと思います。
ほとんどの人が見れば思い出すけれども、
目に入るまではあることさえ忘れてしまっている服が何着か、
あるいは何着もあるはずです。
多くの人が持っている服の2割から3割程度しか、
実際には着ていません。
1年のうち1度も日の目を見ない服も何枚かあるに違いありません。
そうなると、その服がどんなに素敵なものであったとしても、
それは死蔵品であり、役には立ちません。
そうなってしまうことの大きな原因の1つに、
服の収納の仕方の問題があると思います。
ウォークイン・クロゼットのように、
全体がすぐに見渡せる収納を持っている人は、
今の日本の住宅事情では少数派でしょう。
ほとんどの場合、家に備え付けのクローゼットか、
または後から購入したタンスや衣装ケースに収納することになると思います。
すべてを見渡せない収納の問題点は、
まさに「すべてが見えない」ということです。
探さなくてはわからないようなものは、当然のことながら、
あまり着なくなります。
そしてよく着る服がよく目に着く場所に収納され、
着ない服は見えないところへ押し入れられるという悪循環に陥ります。
人はその存在が見えないと、
あたかもそれがないかのごとく認識してしまう傾向があるようです。
けれども、見えないからといって、そのものがなくなってしまったわけでは決してありません。
この悪循環を避けるためにも、
クローゼットの見直しをお勧めします。
まずは自分が持っている服をすべて把握することから始めるのです。
一度にすべてが難しかったら、春夏ものと秋冬ものに分けてやればよいでしょう。
とにかくすべて出してみて、
持っている服をアイテム別に何点所有しているのか確認します。
具体的に書き出してみましょう。
その次に、それらを色別に分類します。
ブルーならブルーとそのグラデーションに分けます。
まずは色分けなので、アイテムは混ざっても構いません。
重要なのは同じ色の仲間であるかどうかです。
(色に詳しいひとは、彩度と明度に分けてみてもいいでしょう)
白なら白、黒なら黒、そしてどのグループにも入らない色とに分けます。
このときに、多くの色を持っている人は、
死蔵品も多いはずです。
色が多ければ多いほど、コーディネイトは難しくなり、
結局、着ないものがふえていきます。
余裕があれば、それらをすべて写真に撮り、
トランプカードのように印刷して、どれとどれがコーディネイトできるか考えてみるのもいいでしょう。
コーディネイトがどれだけ難しいか、わかるはずです。
色別に分けたら、その色の中でのアイテムの偏りを把握しましょう。
たとえば、ブルーならブルーのコート、ジャケット類、インナーとボトムスの割合を見てみます。
いつもコーディネイトがうまくできなかったり、悩んでいるのだとしたら、
その中のどこかに偏りがあります。
インナーばかりでボトムがないであるとか、
ジャケット、コートばかりでインナーが少ないであるとかです。
基本はすべて1週間分の7枚。
ボトムやジャケット、コート類はこれより少なくても問題ありません。
自分がメインでいつも着る色について、アイテムの偏りをチェックしたら、
その他、どこのグループにも入らない色のものを、
これらのメインのグループに入れて、コーディネイトできるかチェックしましょう。
ここで、どこにも入りようのない色のものが出てくるでしょう。
ワンピースのように、コーディネイトの必要のないものなら問題ありませんが、
中途半端な色のジャケットなどは、ほとんど着る出番がないでしょう。
ここまでは色による仕分けです。
色がある程度そろったら、もう着られないシルエットやサイズについて、
チェックしてみましょう。
これは人それぞれ選ぶ基準は違うと思いますので、
感覚や気分で選ぶことになると思います。
ここまでやってくれば、もう絶対に着ることのない何点かが選びだされるはずです。
それらはコーディネイトができない、
シルエットが古すぎる、
サイズが大きすぎ、または小さすぎ、のどれかになるでしょう。
また同時に、
足りないものも見えてくるでしょう。
たとえば、グレーのジャケットやコートはあるけれども、
夏用のボトムはない、であるとかです。
死蔵品がふえてしまうことの多くの原因は、
現状を見ない、そしてその結果、把握していないからです。
毎日、目には入らなくても、
そこに存在するものは、誰かがどうにかしない限り、永遠に存在し続けます。
それは見えないかもしれませんが、
あるというだけで場所をとり、
メンテナンス費用がかかり、
何より、着ていないものを持っているという、罪悪感にも似た思いが、
その人のエネルギーを奪い続けます。
会社が在庫を持っていれば税金がかかるように、
使わない在庫を保持し続けていれば、
エネルギーはそれだけ消費されるのです。
存在しているにもかかわらず、見て見ぬふりをして、
表面だけを取り繕ってみても、
存在は消えないどころか、
影響を与え続けます。
見えないモノが持っている力を、
低く見積もってはいけません。
着ていない服を把握する、
そして死蔵品をなくし、
持っていて、着られるものは実際に着て、
着られなくなったら処分する。
そうやって、クローゼットの風通しをよくし、
無駄なく循環するようにしましょう。
それは大きなエネルギーの節約です。
節約したエネルギーはファッションとは違うことに使ってください。
人生には、ファッションより重要なことが常にたくさん存在しています。
それらのために時間やお金を使って、自分を育て、成長させてください。
なぜそれを勧めるかって?
だって、服だけ素敵な人よりも、
服より中身が素敵な人のほうが、
よっぽどおしゃれだと私は思うから。
そして多くのデザイナーが、同じように考えているからです。
2014年6月2日月曜日
エフォートレス・スタイル
2014年現在、ファッションの流れはエフォートレス、つまり努力を要しないスタイルへ向かっていることは、明らかです。
肩パッドを取り払ったなだらかな肩線、
ドレスにスニーカーや、ヒールのないコンフォート・サンダル、
ウエストのゴムやひも、
パジャマパンツやスウェットパンツの外着化、
どれもゆるく、リラックスしたものばかりです。
これらには、一時期流行った、「寄せてあげる」タイプの、
布とボーンで作られた、サイボーグのようなブラジャーは必要としません。
カップつきのキャミソールや三角ブラなど、
インナーも体を必要以上にしめつけない、
着心地が楽なものが向いています。
ハイヒールを完全に捨てたわけではありませんが、
それは1日中はくものではなくなり、
必要に応じて、フラットヒールとはき分けます。
テイラード・ジャケットを着るときもありますが、
固い芯地もパッドも入っていません。
これらは「体」の感覚の問題です。
高いヒールも、締め付ける下着も、
体に努力を要求したものでした。
高いヒールは足の長さと、形の見え方の、
肩パッドは肩の傾斜の、
寄せてあげるブラジャーは、胸の形状の、
現状の否定であり、変形の強制でした。
その強制を実行するために、体は無言で努力し続けました。
しかし今それは、やっとのことで、する必要のない努力となりました。
一方、エフォートレスには、努力したように見えない、何気ないという意味もあります。
これまで高く評価されてきたのは、
努力の痕跡が見える、
これ見よがしのスタイルでした。
ファッションにとっての努力とは、
必要以上の自己顕示欲であり、
他人との競争でした。
目標が競争にとってかわったため、
おしゃれに見えることよりも、そちらのほうが重要だと、
多くの人が錯覚するようになりました。
その競争とは、
誰よりも新しく、高価なものを持つことでした。
そして、情報としてのファッションが跳梁跋扈しました。
しかし、本当におしゃれな人々は、
その「これ見よがし」なスタイルが、
全くおしゃれではないということを知っています。
あまり語られることはありませんが、
やり過ぎや、
自己顕示欲丸出しの、
誰が見てもわかるような新しいもの、高価なものを見せびらかすだけのスタイルは、
おしゃれには見えないのです。
それは消費される歩く情報です。
新しいものは半年で消費され、もうすぐ次のものが出てきます。
時間が流れる限り、これは終わりのない競争です。
エフォートレス・スタイルとは、
体が無理な努力をしないリラックスしたスタイルであると同時に、
新しさや、値段の高さで値踏みされることのないスタイルです。
その道を見つけるためには、
実は努力が必要です。
新しいもの、高価なものの追求は、
お金があればだれでもできますが、
それをこえたところで、値踏みされないスタイルの追求と構築は、
知性や色に対する感性、審美眼がなければ、持つことができないからです。
逆に言えば、それさえ持ってしまえば、
努力したように見えない、かつ情報として消費されないスタイルが手に入ります。
エフォートレス・スタイルがもっと評価されるようになれば、
資本主義経済の中のファッション産業の方向性も、
変わらざるを得ないでしょう。
服も靴もバッグも、半年で消費され捨てられるようなものではありません。
そして、あなたも私も、
情報として消費されるような存在では、決してありません。
どれもみな、一瞬の中に永遠を刻めるような、
尊い存在です。
そのことが理解できるのもまた、本当におしゃれな人たちです。
肩パッドを取り払ったなだらかな肩線、
ドレスにスニーカーや、ヒールのないコンフォート・サンダル、
ウエストのゴムやひも、
パジャマパンツやスウェットパンツの外着化、
どれもゆるく、リラックスしたものばかりです。
これらには、一時期流行った、「寄せてあげる」タイプの、
布とボーンで作られた、サイボーグのようなブラジャーは必要としません。
カップつきのキャミソールや三角ブラなど、
インナーも体を必要以上にしめつけない、
着心地が楽なものが向いています。
ハイヒールを完全に捨てたわけではありませんが、
それは1日中はくものではなくなり、
必要に応じて、フラットヒールとはき分けます。
テイラード・ジャケットを着るときもありますが、
固い芯地もパッドも入っていません。
これらは「体」の感覚の問題です。
高いヒールも、締め付ける下着も、
体に努力を要求したものでした。
高いヒールは足の長さと、形の見え方の、
肩パッドは肩の傾斜の、
寄せてあげるブラジャーは、胸の形状の、
現状の否定であり、変形の強制でした。
その強制を実行するために、体は無言で努力し続けました。
しかし今それは、やっとのことで、する必要のない努力となりました。
一方、エフォートレスには、努力したように見えない、何気ないという意味もあります。
これまで高く評価されてきたのは、
努力の痕跡が見える、
これ見よがしのスタイルでした。
ファッションにとっての努力とは、
必要以上の自己顕示欲であり、
他人との競争でした。
目標が競争にとってかわったため、
おしゃれに見えることよりも、そちらのほうが重要だと、
多くの人が錯覚するようになりました。
その競争とは、
誰よりも新しく、高価なものを持つことでした。
そして、情報としてのファッションが跳梁跋扈しました。
しかし、本当におしゃれな人々は、
その「これ見よがし」なスタイルが、
全くおしゃれではないということを知っています。
あまり語られることはありませんが、
やり過ぎや、
自己顕示欲丸出しの、
誰が見てもわかるような新しいもの、高価なものを見せびらかすだけのスタイルは、
おしゃれには見えないのです。
それは消費される歩く情報です。
新しいものは半年で消費され、もうすぐ次のものが出てきます。
時間が流れる限り、これは終わりのない競争です。
エフォートレス・スタイルとは、
体が無理な努力をしないリラックスしたスタイルであると同時に、
新しさや、値段の高さで値踏みされることのないスタイルです。
その道を見つけるためには、
実は努力が必要です。
新しいもの、高価なものの追求は、
お金があればだれでもできますが、
それをこえたところで、値踏みされないスタイルの追求と構築は、
知性や色に対する感性、審美眼がなければ、持つことができないからです。
逆に言えば、それさえ持ってしまえば、
努力したように見えない、かつ情報として消費されないスタイルが手に入ります。
エフォートレス・スタイルがもっと評価されるようになれば、
資本主義経済の中のファッション産業の方向性も、
変わらざるを得ないでしょう。
服も靴もバッグも、半年で消費され捨てられるようなものではありません。
そして、あなたも私も、
情報として消費されるような存在では、決してありません。
どれもみな、一瞬の中に永遠を刻めるような、
尊い存在です。
そのことが理解できるのもまた、本当におしゃれな人たちです。