制服は、ほかのみなと同じ服を組織の意向によって着せられます。
その集団に参加するために、制服着用は必須となります。
制服は学校、会社、団体、スポーツなど、いたるところで、その着用を義務づけられます。
もちろんそれを好んで着る人たちもいるでしょう。
しかし、その義務から離れても、
まだみなと同じ服を着るという行為は、なにを意味しているのでしょうか。
見渡せば、みなと同じ服を好んで着る人もいます。
誰からも強制されても、義務づけられてもいないのに、
あえてほかの人たちと同じ服を選ぶのです。
(それが誰の意思なのかまでは不明ですが)
それを見て、
これでは個性がないよ、もっとみんな個性を発揮した服を着ようよと、言うのは簡単です。
だけれども、ここには、こんな気軽なアドバイスではすまされない、
もっと深い何かがあると思うのです。
服装とは、自己表現であり、他人に与える印象、そしてメッセージです。
よく知らない相手の場合は特に、まず着ている服を見て、
その人がどんな人なのか、瞬時に、そして無意識に私たちは判断します。
制服を着ているときは、一目見て、その人が何の集団に属しているのかわかります。
それはもしかして、それを見た相手にある種の安心感や信頼感を与えるかもしれません。
制服を着てない人を見ると、私たちの判断基準は揺らぎます。
何を根拠にしていいのか、わからなくなります。
制服を脱いだ側からすると、制服を着ていたときのように、
相手に確固たる印象を与えることは不可能になります。
相手が自分を見てどう思うかについては、もはや自分のコントロールをこえています。
みなと同じ服を着るという行為は、このコントロールできなくなった相手に与える印象を、
何とかつなぎとめようとする行為のように思えます。
まず、同じもの、または同じようなものを着ることによって、
相手と同じだというメッセージを与えられます。
また、大多数に支持されているスタイルを自分もすることによって、
自分は決して時代に外れてはいないということも強調できます。
同じだよ、時代おくれってわけじゃないよ、知ってるよというメッセージを、
相手に与えることによって得られるのは、一種の安心感でしょう。
こうすれば、たぶん仲間はずれにはされないだろう。
ある程度のところまで、自分のことを認めてくれるだろう。
もちろん、これは意識的に行われるだけではなく、
無意識の選択です。
逆に、意識的に、ここまで戦略的に服を選ぶのは、きっとどこかの国のスパイでしょう。
みなと同じで、目立たなく、相手に受けいられるスタイル。
これは、本気で諜報活動をする人たちに必要な戦略です。
無意識で選んだものほど、その人の深層心理をあらわします。
言い分はいくらでもあります。
近所でそれしか売ってなかったから、安かったから、なんとなくいいと思ったから、
面倒だから、などなど。
スパイでないとしても、人生の一時期、そういった安心感を必要とする時期は、あると思います。
だから、それが一概に悪いとは思いません。
思いませんが、体型も髪形も顔も身長も違うそれぞれが同じ服を着るということには、
どこかしら無理があります。
もちろん好みだって違うはずです。
理由もなくこれが好きというものは、誰にだってあるでしょう。
それを全部飛び越えて、みなと同じ服を、もし着続けたとしたら、
その無理は、後になってモンスターとなり、その人を襲います。
その日は必ずやってきます。
原因不明の腰痛や肩こり、やる気のなさ、
何が好きだかわからない、人生に目標を持てない、
楽しいことがわからない、食べることが制御できない、
不毛の恋愛におぼれる、打算で結婚をするなど、
あらゆる形で、しかもその原因はまったく不明で、ある日、その人たちを襲います。
そうなってしまうと、そこから脱出するのは大変困難になります。
なぜならいつまでたっても、なにがそうなった原因なのか、わからないからです。
もし、無意識のうちにみなと同じ服を選ぶ自分がいたら、
まずはそのことに気づいてください。
そして、気づいた後は、そのことによって、自分は何が得られるのか、
考えてみてください。
安心感なのか、目立ちたくないという欲求が満たされるためなのか。
そこまでわかったら、なぜ同じ服による安心感が必要なのか、
なぜ目立つのが悪いのか、もう一歩進んで考えてみましょう。
何か過去に思い当たる出来事があるかもしれません。
まずは自分自身を理解することが先決です。
その上で、それでもなお、同じ服が必要なのだったら、
もう必要ないと思えるまで、そうしたらいいと思います。
けれども、少しでも違和感を感じるのであったら、
そこで、たとえば外から見えない部分に、ひとつでもいいので、
みなとは違うものを身につけたらいいと思います。
それはインナーかもしれませんし、シャツの下のペンダントかもしれません。
誰にも見せないのだったら、自分は何を選ぶのか。
誰も何も言わないのだったら、自分は何を着たいのか。
モテるとか、おしゃれとか、節約とか、安いからとか、
どこでも売っているからとか、太ってるからとか、スタイルがよくないとか、
そんなことを取っ払って、ほんとうに着たかったものは何なのか。
誰も批判をしない、あなただけのユートピアに住んでいるとしたら、
どんな服を着たいのか。
みなと同じ服を着てしまう自分がいたのなら、
これらを自分に問いかけてみましょう。
実際にはそんな服を着ないとしても、それを自分で知っていることは重要です。
なぜなら、それはあなたの魂やスピリットからのメッセージだからです。
そして、その中に、あなたが人生で真に満足できること、達成したいことのヒントが隠されています。
魂やスピリットは、あなたが選ぶ服を通して教えてくれます。
無視し続けてきた魂やスピリットのかすかな声を、
そろそろ聞いてあげてもよいころではないでしょうか。
手遅れになる前に。
魂とスピリットが死に絶える、その前に。
ページ
▼
2013年5月27日月曜日
2013年5月20日月曜日
きちんと感っていったい何?
雑誌などでよく出てくる「きちんと感」という表現。
「きちんと感」の定義は、たぶんどこにも出ていません。
定義がはっきりされないまま、いろいろなところで使われています。
では、この「きちんと感」とは、いったい何なんでしょうか。
「きちんと」という言葉は日本語の副詞です。
ですから、本来ならば、動詞の前につく言葉です。
きんとする、などという使い方が正しい使い方です。
「きちんと」の意味は、辞書によると、「よく整っていて、乱れたところのないさま」となっています。
日本語の意味からだけ考えると、「きちんと感」とは、
「よく整っていて、乱れたところのない感じ」ということになりますが、
どうやらそれでは正しくないようです。
整っていて、乱れたところのない体操着のことを「きちんと感」とは呼びません。
「きちんと感」には、どこかそれ以上のことを要求する響きがあります。
よく整っていて、乱れたところがなく、しかもプラスアルファのものがある着こなしが、
「きちんと感」のようです。
そのプラスアルファとは、プライベートというよりはオフィシャルな感じです。
公式の装いとでもいうのでしょうか。
その感じがなければ、「きちんと感」とは呼びません。
では、その公式の装いとは、どんなものでしょうか。
西洋には、さまざまなドレスコードがあります。
昼のパーティー、夜のパーティー、ホテルやレストラン、晩さん会など、
それぞれにふさわしい装いが決められています。
その取り決めは、西洋文化の文脈の中ででき上がったものです。
ですから、西洋文化以外の文化圏に住む人たちにとっては、
なぜそうなのか、考えてもわかりません。
そして、地球上のそれぞれの文化圏には、それぞれのドレスコードがあり、
それは他から見たら、なぜそうなのか、その理由や理屈は、知るよしもありません。
なぜならそれは文化、宗教、風俗によって長年のあいだに培われてきたものであって、
理屈でも、論理でもなく、習慣にすぎないからです。
明治時代以降、洋装を取り入れた日本では、
和服の世界ではさまざまなルールがあるものの、
洋服に「長年培われた習慣」というものはありません。
日本人にとって、洋服において公式な装いというものは借り物でしかないのです。
借り物であるため、なぜそうなのか、ほんとうのところ理解はしていません。
定義はあいまいで、理解もできていないにもかかわらず、
「きちんと感」は求められます。
それは会社勤めや何かの会、また、いわゆる公の席でのことが多いと思います。
では、なにをもって「きちん感」とするのか、ここから考えていきたいと思います。
まず、なにが最も公なのか、わたしたちは理解できていないわけですから、
(たとえば、女王陛下の前ではモーニングを着なければいけないなど、
そんなこと、わかりません)
なにを着てはいけないかから考えてみましょう。
まず、公でない感じとは、その格好では公の席にふさわしくないと思われるものです。
最初に挙げた体操着はそのいい例です。
整っていて、乱れていなくても、体操着は体操をするときに着るものです。
オリンピックなど体育関連の公の席以外では、ふさわしくありません。
ですから、体操着を思わせる服装や、体操着から派生した服は除外されると考えます。
その意味では、ポロシャツはポロというスポーツのスポーツウエアなわけですから、
「きちんと感」は満たしていません。
次に除外すべきもの。
それは下着から派生した服です。
キャミソール、タンクトップ、Tシャツなど、
これらはどれももとは下着でした。
下着で人前に出るということは、まずありません。
ですから、これらも除外します。
それから、次は労働着です。
労働の場が公ではないとは、決して言い切れないのですが、
いわゆる汗水たらして働いているときに着ている服は、
「きちんと感」に欠けます。
その代表がジーンズです。
ジーンズはもともと作業着です。
同じように、ワークパンツ、カーゴパンツも作業着です。
つなぎも作業着なので除外されるでしょう。
では、次に除外されないものです。
制服は除外されません。
制服は「きちんと感」の代表選手のようなものです。
同等に、軍服を起源に持っている服も除外されません。
軍服は制服だからです。
もちろん、人々は制服を着て働いています。
作業着は除外されて、制服ならなぜいいのか、
その理由は、ありません。
そうだと誰かが決めたので、そうなったまでです。
作業の種類が違うだけで差別はおかしい、
そう思われるかもしれませんが、これは理屈や理論で決められた取り決めではないので、
そうなります。
ちなみに、日本の皇室の正装は洋装だそうです。
これを聞いただけでも、きちんとしているという定義は、
必ずしも服の格式や歴史とは、関係ないものだとわかります。
最後にまとめです。
「きちんと感」とは、制服的な要素を含むもので、
かつ、体操服、下着、作業服など、公にはふさわしくないと思われている要素を除外したもの、
ということになります。
ただ、実際は、ほんとうにそうなのかと言えば、
最近はちょっと違ってきています。
なぜなら、ファッション全体のカジュアル化が進んできて、
必ずしも除外すべきもの、すべてが除外されてはいないからです。
たとえばジーンズ。
昔はスニーカーとジーンズでホテルには入れないというルールがありましたが、
今はそうではありません。
それからポロシャツにしてもそうです。
多くの企業で、夏の通勤着として、ポロシャツが許されている職場はあるでしょう。
たぶんその理由は、襟がついているからだと思います。
逆に、襟がついていないTシャツは許されていない職場もあるかもしれません。
結局のところ、なにがきちんとなのか、なにが公なのか、
洋服の文化の歴史の浅い日本では、わからないのです。
誰かが決めたら、そうしなければならないし、
誰かがだめだと言ったら、だめになります。
そして文化圏といっても、地方、地域、会社内、学校内など、
それぞれの中にそれぞれまた別のルールがあります。
ジャージで授業を受けてはいけない学校もあれば、
ジャージで授業を受けなければいけない学校もあります。
タータンチェックのスカートがどうしてきちんとしているかなんて、
誰も答えられません。
「きちんと感」には、何となくこんな感じではないかという、
大まかなイメージはありますが、
絶対にこれであるという確固としたルールはありません。
服装に規則があるところでは、それに従わなければなりませんし、
その規則が「きちんと感」になります。
それでは、ルールがなにもないところ、誰も決めていない、
誰もだめだと言っていないところではどうすればいいか。
それはそのときそのとき、自分で判断すればよいでしょう。
ほんとうのところ、「きちんと感」などない、
その中で、自分はどういう装いをしようか、
この場面ではどう見られたいのか、
相手はなにをこちらに要求しているのか。
そこで判断して服装を決めて、
それに対して相手がどう反応したかは、
自分のコントロールできない範囲の問題です。
相手にあわせるべき場面なら、相手に聞いてそのとおりにする、
そうしなくていいのなら、自分の好きにする。
このようにかくもあいまいな「きちんと感」です。
そんなものに振り回される必要はありません。
きのうは右と言ったのに、
今日は左と誰かが言います。
その中で、自分はどこの位置に立つか、
右なのか、真ん中なのか、左なのか。
それはその都度、自分で判断して決める以外、方法はありません。
ファッションとは、しょせん、その程度のものです。
「きちんと感」の定義は、たぶんどこにも出ていません。
定義がはっきりされないまま、いろいろなところで使われています。
では、この「きちんと感」とは、いったい何なんでしょうか。
「きちんと」という言葉は日本語の副詞です。
ですから、本来ならば、動詞の前につく言葉です。
きんとする、などという使い方が正しい使い方です。
「きちんと」の意味は、辞書によると、「よく整っていて、乱れたところのないさま」となっています。
日本語の意味からだけ考えると、「きちんと感」とは、
「よく整っていて、乱れたところのない感じ」ということになりますが、
どうやらそれでは正しくないようです。
整っていて、乱れたところのない体操着のことを「きちんと感」とは呼びません。
「きちんと感」には、どこかそれ以上のことを要求する響きがあります。
よく整っていて、乱れたところがなく、しかもプラスアルファのものがある着こなしが、
「きちんと感」のようです。
そのプラスアルファとは、プライベートというよりはオフィシャルな感じです。
公式の装いとでもいうのでしょうか。
その感じがなければ、「きちんと感」とは呼びません。
では、その公式の装いとは、どんなものでしょうか。
西洋には、さまざまなドレスコードがあります。
昼のパーティー、夜のパーティー、ホテルやレストラン、晩さん会など、
それぞれにふさわしい装いが決められています。
その取り決めは、西洋文化の文脈の中ででき上がったものです。
ですから、西洋文化以外の文化圏に住む人たちにとっては、
なぜそうなのか、考えてもわかりません。
そして、地球上のそれぞれの文化圏には、それぞれのドレスコードがあり、
それは他から見たら、なぜそうなのか、その理由や理屈は、知るよしもありません。
なぜならそれは文化、宗教、風俗によって長年のあいだに培われてきたものであって、
理屈でも、論理でもなく、習慣にすぎないからです。
明治時代以降、洋装を取り入れた日本では、
和服の世界ではさまざまなルールがあるものの、
洋服に「長年培われた習慣」というものはありません。
日本人にとって、洋服において公式な装いというものは借り物でしかないのです。
借り物であるため、なぜそうなのか、ほんとうのところ理解はしていません。
定義はあいまいで、理解もできていないにもかかわらず、
「きちんと感」は求められます。
それは会社勤めや何かの会、また、いわゆる公の席でのことが多いと思います。
では、なにをもって「きちん感」とするのか、ここから考えていきたいと思います。
まず、なにが最も公なのか、わたしたちは理解できていないわけですから、
(たとえば、女王陛下の前ではモーニングを着なければいけないなど、
そんなこと、わかりません)
なにを着てはいけないかから考えてみましょう。
まず、公でない感じとは、その格好では公の席にふさわしくないと思われるものです。
最初に挙げた体操着はそのいい例です。
整っていて、乱れていなくても、体操着は体操をするときに着るものです。
オリンピックなど体育関連の公の席以外では、ふさわしくありません。
ですから、体操着を思わせる服装や、体操着から派生した服は除外されると考えます。
その意味では、ポロシャツはポロというスポーツのスポーツウエアなわけですから、
「きちんと感」は満たしていません。
次に除外すべきもの。
それは下着から派生した服です。
キャミソール、タンクトップ、Tシャツなど、
これらはどれももとは下着でした。
下着で人前に出るということは、まずありません。
ですから、これらも除外します。
それから、次は労働着です。
労働の場が公ではないとは、決して言い切れないのですが、
いわゆる汗水たらして働いているときに着ている服は、
「きちんと感」に欠けます。
その代表がジーンズです。
ジーンズはもともと作業着です。
同じように、ワークパンツ、カーゴパンツも作業着です。
つなぎも作業着なので除外されるでしょう。
では、次に除外されないものです。
制服は除外されません。
制服は「きちんと感」の代表選手のようなものです。
同等に、軍服を起源に持っている服も除外されません。
軍服は制服だからです。
もちろん、人々は制服を着て働いています。
作業着は除外されて、制服ならなぜいいのか、
その理由は、ありません。
そうだと誰かが決めたので、そうなったまでです。
作業の種類が違うだけで差別はおかしい、
そう思われるかもしれませんが、これは理屈や理論で決められた取り決めではないので、
そうなります。
ちなみに、日本の皇室の正装は洋装だそうです。
これを聞いただけでも、きちんとしているという定義は、
必ずしも服の格式や歴史とは、関係ないものだとわかります。
最後にまとめです。
「きちんと感」とは、制服的な要素を含むもので、
かつ、体操服、下着、作業服など、公にはふさわしくないと思われている要素を除外したもの、
ということになります。
ただ、実際は、ほんとうにそうなのかと言えば、
最近はちょっと違ってきています。
なぜなら、ファッション全体のカジュアル化が進んできて、
必ずしも除外すべきもの、すべてが除外されてはいないからです。
たとえばジーンズ。
昔はスニーカーとジーンズでホテルには入れないというルールがありましたが、
今はそうではありません。
それからポロシャツにしてもそうです。
多くの企業で、夏の通勤着として、ポロシャツが許されている職場はあるでしょう。
たぶんその理由は、襟がついているからだと思います。
逆に、襟がついていないTシャツは許されていない職場もあるかもしれません。
結局のところ、なにがきちんとなのか、なにが公なのか、
洋服の文化の歴史の浅い日本では、わからないのです。
誰かが決めたら、そうしなければならないし、
誰かがだめだと言ったら、だめになります。
そして文化圏といっても、地方、地域、会社内、学校内など、
それぞれの中にそれぞれまた別のルールがあります。
ジャージで授業を受けてはいけない学校もあれば、
ジャージで授業を受けなければいけない学校もあります。
タータンチェックのスカートがどうしてきちんとしているかなんて、
誰も答えられません。
「きちんと感」には、何となくこんな感じではないかという、
大まかなイメージはありますが、
絶対にこれであるという確固としたルールはありません。
服装に規則があるところでは、それに従わなければなりませんし、
その規則が「きちんと感」になります。
それでは、ルールがなにもないところ、誰も決めていない、
誰もだめだと言っていないところではどうすればいいか。
それはそのときそのとき、自分で判断すればよいでしょう。
ほんとうのところ、「きちんと感」などない、
その中で、自分はどういう装いをしようか、
この場面ではどう見られたいのか、
相手はなにをこちらに要求しているのか。
そこで判断して服装を決めて、
それに対して相手がどう反応したかは、
自分のコントロールできない範囲の問題です。
相手にあわせるべき場面なら、相手に聞いてそのとおりにする、
そうしなくていいのなら、自分の好きにする。
このようにかくもあいまいな「きちんと感」です。
そんなものに振り回される必要はありません。
きのうは右と言ったのに、
今日は左と誰かが言います。
その中で、自分はどこの位置に立つか、
右なのか、真ん中なのか、左なのか。
それはその都度、自分で判断して決める以外、方法はありません。
ファッションとは、しょせん、その程度のものです。
2013年5月13日月曜日
柄物ボトムは印象に残る
今年になって、柄物のボトム、特に柄物のパンツが大ブレイクしています。
これはかなりの勢いで広がりそうです。
柄物のスカートを持っている方は多いと思いますが、
自分のワードローブに柄物のパンツがある人は少ないでしょう。
だからこそ、今年、新たに柄物パンツを足してみたくなるのもうなずけます。
ところで、衣服は寒さ暑さを防ぐために身につけるものでもありますが、
同時に、情報の伝達手段としても存在しています。
そのひとがどんなものをどのように着ているかによって、
自分以外の人々に多くの情報を伝達しているのです。
そして、受け取る側も、その人の服装から、ある程度のことを判断します。
わかりやすい例は制服です。
同じ衣服を身につけることによって、学生の場合はどこの学校かがわかり、
働いている人の場合は、どんな仕事なのかがわかります。
制服は、単に動きよいとか、寒さ暑さを防ぐとか、機能や安全のために身につけるわけではなく、
そのひとの帰属をあらわし、それを他人に情報としてつたえる役目を持っています。
特に意識しなくても、小さいころからの習慣で、
私たちは、他人を着ているもので判断します。
蓄積された情報から、その人がどんな人なのか導きだします。
これはほとんど無意識に行われます。
人間の脳は、たぶんほとんどのことを記憶する力を持っています。
パソコンと同じように、誰かを一目見て、情報をダウンロードします。
けれども、それをすべて引きだす能力はありません。
脳の中に情報としての蓄積はあっても、
引きだされるのはもうすでに処理された情報です。
私たちが、他人の情報を衣服から読み取ろうとするとき、
実は全身をチェックしているわけではありません。
重要なポイントのみ引きだし、それに基づいて判断します。
大体、思い出されるのは顔に近い部分の衣服、
持っていたバッグ、靴などです。
ついで、つけているとしたらアクセサリーとなるでしょう。
特に、顔に近い部分の衣服は重要です。
色、襟の形、あき具合など、覚えている場合が多いです。
それは、人と人がコミュニケーションをとるとき、
おもに見ているのは顔と、その周辺だからです。
私たちは、おなかより下を見ながら、コミュニケーションをとりません。
そのせいもあって、ボトムというのは、他人の印象に残ることが少ないのです。
しかしそれとは別に、人は、何か変わったもの、印象が強いものを覚えているという傾向があります。
ボトムであっても、ものすごく短いスカートや、破けているもの、
目立つ柄などの場合、人はそこに注目し、覚えていることが多いです。
柄物のボトムを選ぶということは、相手に与える印象を1つふやすということにつながります。
柄物ボトムを選ぶリスクは、そこにあります。
そして、そのリスクのため、選び方は難しくなります。
まず第一に、下半身が目立ちます。
ですから、下半身をあまり見てほしくない、または印象に残したくない場合は、
避けたほうが無難です。
今年の柄物パンツの流行は、小さい子供から高い年代層まで、
かなり広範囲です。
これからたくさんの人が柄物パンツをはくだろうと予想されます。
そうすると、おしゃれには見えなくなります。
ここで何回か書いていますが、
おしゃれに見える1つの条件として、あまり人が着ていないものを着るというものがあります。
ある程度以上の人が着ると、それは飽和状態になり、
見慣れてしまうことによって、あまりおしゃれには感じなくなります。
もうそうなると、流行は最終段階にきてしまうのです。
流行がおしゃれに見えるのはごく初期だけ、
そのあとにつづくフォロワーがふえればふれるほど、おしゃれの密度は薄くなります。
次に難しい点として、、
柄物というのは、そのよしあしが分かりにくいものということがあります。
とてもおしゃれな柄とそうでない柄は、特に素人目にはわかりづらいです。
リバティやエミリオ・プッチ、エトロといった、特徴のある柄以外は、
その他大勢という感じで、どの柄だったらおしゃれなのか、
あるいはそうでないのか、なかなか判断できません。
また、印象に残りやすいということは、着まわしに向かないということです。
なぜなら、柄物パンツを繰り返しはくことによって、
同じものばかり着ているという印象を他人に与えてしまうからです。
ここまで考えると、
おしゃれに柄物パンツを着こなすのは、かなり高難度ということになります。
印象に残りやすいので何回も着られない、
下半身が目立つ、
柄のよしあしは他人には理解してもらえない、
街に出ると多くの人が、しかも子供までもが着ている。
ざっと挙げただけでも、これだけ取り入れにくい要素があります。
では、柄物パンツはやめましょうと言ってしまったら、芸がないですので、
それでもなお、柄物パンツを取り入れたい場合、どうしたらよいか考えてみましょう。
まず、全体のコーディネイトの中で浮かない柄を選ぶこと。
2色、もしくは3色以内で構成されたプリントを選び、
全体のコーディネイトも3色ルールをきっちり守る。
こうすることで、柄が悪目立ちしませんし、シックに見えます。
あまり大きな柄は選ばない。
柄が大きいというだけで、印象に強く残ります。
大きなひまわりの絵などは、それだけで強い印象ですので、避けたほうがいいでしょう。
意味のある絵の柄は避ける。
何か具体的なものが描かれているプリントより、抽象的な柄のほうが印象には残りにくいです。
たとえば、亀の柄だとしたら、すぐに覚えられてしまいますが、
なんとなくグリーンの丸模様だったら、はっきりとは覚えられません。
柄の面積を小さくする。
ワイドパンツよりは、タイトなもののほうが印象は薄いです。
最後に、どうしても柄物パンツでおしゃれに見せたい場合は、
他人と同じようなコーディネイトはしない。
私が予想するに、ことしの夏は、ふわっとしたチュニックやビッグシャツに、
タイトな柄物パンツという姿の人があふれると思います。
しかし、大多数と同じコーディネイトをしたら、もう特別おしゃれには見えません。
だから、あえてそこは避ける。
避けてどうするか。
それはいろいろあると思いますが、きちんとしたジャケットと柄物パンツをあわせるとか、
革のジャケットに白いTシャツ、そこに柄物パンツをあわせるとか、
ワンピースの下に同色の柄物パンツをあわせるとか、
とにかくそこは工夫と努力をします。
印象とは、相手に対するあなたという人の情報のプレゼントです。
もしかして、相手はずっとそれを持ち続けるかもしれません。
初対面の相手だとしたらなおさら、それを変えるのは難しいのです。
でも、その情報は簡単に操作できるものです。
服装で情報を操作するのは、難しいことではありません。
他人の目を気にすると言うと、もうすでに主導権はその他人に渡っています。
だけれども、そうではなくて、他人の目に与える情報を操作する主導権は、
いつでもこちらにあります。
そのためには、受け身ではなく、こちらから仕掛けていくという姿勢が必要です。
柄物パンツに踊らされないで、
柄物パンツをはいて踊ってください。
こちらから仕掛けていけば、それは可能です。
これはかなりの勢いで広がりそうです。
柄物のスカートを持っている方は多いと思いますが、
自分のワードローブに柄物のパンツがある人は少ないでしょう。
だからこそ、今年、新たに柄物パンツを足してみたくなるのもうなずけます。
ところで、衣服は寒さ暑さを防ぐために身につけるものでもありますが、
同時に、情報の伝達手段としても存在しています。
そのひとがどんなものをどのように着ているかによって、
自分以外の人々に多くの情報を伝達しているのです。
そして、受け取る側も、その人の服装から、ある程度のことを判断します。
わかりやすい例は制服です。
同じ衣服を身につけることによって、学生の場合はどこの学校かがわかり、
働いている人の場合は、どんな仕事なのかがわかります。
制服は、単に動きよいとか、寒さ暑さを防ぐとか、機能や安全のために身につけるわけではなく、
そのひとの帰属をあらわし、それを他人に情報としてつたえる役目を持っています。
特に意識しなくても、小さいころからの習慣で、
私たちは、他人を着ているもので判断します。
蓄積された情報から、その人がどんな人なのか導きだします。
これはほとんど無意識に行われます。
人間の脳は、たぶんほとんどのことを記憶する力を持っています。
パソコンと同じように、誰かを一目見て、情報をダウンロードします。
けれども、それをすべて引きだす能力はありません。
脳の中に情報としての蓄積はあっても、
引きだされるのはもうすでに処理された情報です。
私たちが、他人の情報を衣服から読み取ろうとするとき、
実は全身をチェックしているわけではありません。
重要なポイントのみ引きだし、それに基づいて判断します。
大体、思い出されるのは顔に近い部分の衣服、
持っていたバッグ、靴などです。
ついで、つけているとしたらアクセサリーとなるでしょう。
特に、顔に近い部分の衣服は重要です。
色、襟の形、あき具合など、覚えている場合が多いです。
それは、人と人がコミュニケーションをとるとき、
おもに見ているのは顔と、その周辺だからです。
私たちは、おなかより下を見ながら、コミュニケーションをとりません。
そのせいもあって、ボトムというのは、他人の印象に残ることが少ないのです。
しかしそれとは別に、人は、何か変わったもの、印象が強いものを覚えているという傾向があります。
ボトムであっても、ものすごく短いスカートや、破けているもの、
目立つ柄などの場合、人はそこに注目し、覚えていることが多いです。
柄物のボトムを選ぶということは、相手に与える印象を1つふやすということにつながります。
柄物ボトムを選ぶリスクは、そこにあります。
そして、そのリスクのため、選び方は難しくなります。
まず第一に、下半身が目立ちます。
ですから、下半身をあまり見てほしくない、または印象に残したくない場合は、
避けたほうが無難です。
今年の柄物パンツの流行は、小さい子供から高い年代層まで、
かなり広範囲です。
これからたくさんの人が柄物パンツをはくだろうと予想されます。
そうすると、おしゃれには見えなくなります。
ここで何回か書いていますが、
おしゃれに見える1つの条件として、あまり人が着ていないものを着るというものがあります。
ある程度以上の人が着ると、それは飽和状態になり、
見慣れてしまうことによって、あまりおしゃれには感じなくなります。
もうそうなると、流行は最終段階にきてしまうのです。
流行がおしゃれに見えるのはごく初期だけ、
そのあとにつづくフォロワーがふえればふれるほど、おしゃれの密度は薄くなります。
次に難しい点として、、
柄物というのは、そのよしあしが分かりにくいものということがあります。
とてもおしゃれな柄とそうでない柄は、特に素人目にはわかりづらいです。
リバティやエミリオ・プッチ、エトロといった、特徴のある柄以外は、
その他大勢という感じで、どの柄だったらおしゃれなのか、
あるいはそうでないのか、なかなか判断できません。
また、印象に残りやすいということは、着まわしに向かないということです。
なぜなら、柄物パンツを繰り返しはくことによって、
同じものばかり着ているという印象を他人に与えてしまうからです。
ここまで考えると、
おしゃれに柄物パンツを着こなすのは、かなり高難度ということになります。
印象に残りやすいので何回も着られない、
下半身が目立つ、
柄のよしあしは他人には理解してもらえない、
街に出ると多くの人が、しかも子供までもが着ている。
ざっと挙げただけでも、これだけ取り入れにくい要素があります。
では、柄物パンツはやめましょうと言ってしまったら、芸がないですので、
それでもなお、柄物パンツを取り入れたい場合、どうしたらよいか考えてみましょう。
まず、全体のコーディネイトの中で浮かない柄を選ぶこと。
2色、もしくは3色以内で構成されたプリントを選び、
全体のコーディネイトも3色ルールをきっちり守る。
こうすることで、柄が悪目立ちしませんし、シックに見えます。
あまり大きな柄は選ばない。
柄が大きいというだけで、印象に強く残ります。
大きなひまわりの絵などは、それだけで強い印象ですので、避けたほうがいいでしょう。
意味のある絵の柄は避ける。
何か具体的なものが描かれているプリントより、抽象的な柄のほうが印象には残りにくいです。
たとえば、亀の柄だとしたら、すぐに覚えられてしまいますが、
なんとなくグリーンの丸模様だったら、はっきりとは覚えられません。
柄の面積を小さくする。
ワイドパンツよりは、タイトなもののほうが印象は薄いです。
最後に、どうしても柄物パンツでおしゃれに見せたい場合は、
他人と同じようなコーディネイトはしない。
私が予想するに、ことしの夏は、ふわっとしたチュニックやビッグシャツに、
タイトな柄物パンツという姿の人があふれると思います。
しかし、大多数と同じコーディネイトをしたら、もう特別おしゃれには見えません。
だから、あえてそこは避ける。
避けてどうするか。
それはいろいろあると思いますが、きちんとしたジャケットと柄物パンツをあわせるとか、
革のジャケットに白いTシャツ、そこに柄物パンツをあわせるとか、
ワンピースの下に同色の柄物パンツをあわせるとか、
とにかくそこは工夫と努力をします。
印象とは、相手に対するあなたという人の情報のプレゼントです。
もしかして、相手はずっとそれを持ち続けるかもしれません。
初対面の相手だとしたらなおさら、それを変えるのは難しいのです。
でも、その情報は簡単に操作できるものです。
服装で情報を操作するのは、難しいことではありません。
他人の目を気にすると言うと、もうすでに主導権はその他人に渡っています。
だけれども、そうではなくて、他人の目に与える情報を操作する主導権は、
いつでもこちらにあります。
そのためには、受け身ではなく、こちらから仕掛けていくという姿勢が必要です。
柄物パンツに踊らされないで、
柄物パンツをはいて踊ってください。
こちらから仕掛けていけば、それは可能です。
2013年5月6日月曜日
スタイルを模索する
世界じゅうのおしゃれと呼ばれている人たちには、
それぞれ独自のスタイルがあります。
流行を取り入れつつも、自分のスタイルは貫き通す、
それがほんとうのおしゃれな人たちです。
流行のもので身を固め、いつも違うスタイルであらわれるのは、
単なる自己顕示欲のかたまりの強い、ファッション・ヴィクテムです。
ある程度、おしゃれの基礎がわかって、上達してきたら、
次の段階として、スタイルを模索することをお勧めします。
しかし、自分のスタイルを確立するためには、
一朝一夕にはいきません。
いろいろなスタイルにチャレンジし、
数多くのばかばかしい失敗をし、
何となく違う感じを修正し、
思ったとおりのものがなければ我慢して、
あきらめずにさがしつづける。
それを何年も繰り返して、やっと自分のスタイルを見つけることができます。
スタイルを確立するために必要なのは、
まず第一に自分自身をよく知ること。
それは自分の体型や肌の色といった、物理的な問題もそうですし、
好みや嗜好、目指す方向といった、
目に見えない部分もそうです。
自分自身を理解しないことには、自分のスタイルは確立しません。
無意識に選ぶ色、形、スタイルは、なぜそうなるのか、
そして逆に選ばないのはなぜなのか、
どんな格好をしているときがリラックスできて、自分らしくいられるのか、
または、なにを着るといらいらするのか、
居心地が悪くなるかなど、
一つ一つ自分に聞いて、チェックしていく必要があります。
その答えは、自分にしかわからないので、
誰かに聞くわけにはいきません。
どんなに人に勧められても、だめなものはだめです。
いつも着たいと思えないようなものばかり集めても、
自分のスタイルにはなりません。
これは、ときには自分にとってつらい場面もあるかもしれません。
否が応でも自分に向き合うことで、
自分の欠点にも気づくでしょうし、
見たくなかった面を見ざるを得なくもなるでしょう。
しかし、欠点を長所に、
見たくなかった面を新しい気づきとして受け入れることによって、
より新しい、自由な自分に出会えます。
そして、その自由な自分が、より自分らしく、自由でいられるためにスタイルを確立するのです。
ひとたび、これこそがわたしのスタイルだというものがわかったなら、
そのあとの洋服選びは簡単になります。
どんなに流行していても、自分のスタイルでないものは着ない、
心を動かされないと決めたなら、迷うことはありません。
ただし、同時に注意しておいてほしいことがあります。
何事も変化しないものはありません。
変化こそが、変わらぬ世の中の真理です。
自分の体型や容姿も変わるでしょう。
気持ちも変わるでしょう。
背景としての社会も変わるでしょう。
そして、もちろん流行も変わります。
スタイルの完成は、実は永遠にないのです。
それは、いつでも未完成であることによってしか、
変化には対応できないからです。
90パーセントはスタイルを確立しつつ、
常に10パーセントの余地を残しておく。
そうすることで、自分やファッションの変化に対応していく。
このバランスがちょうどいいところにとれたときに、
そのひとはスタイルがあり、かつ時代と合っているおしゃれな人になることができます。
柔軟性がないことは、やはりおしゃれではありません。
そこには好奇心のかけらが見えません。
変化し続けるものに対する好奇心と、
変わらぬものに対する自信、この2つが必要です。
いつでも変わる準備をしつつ、
永遠に完成しないスタイルを模索する、
かたいようで、しなやかに、
流れにのりつつ、流されず、
最終的な進化の地点まで、
あきらめずにさがし続ける、
そんな姿勢が、そのひとをおしゃれに見せるでしょう。
それはだれもが憧れる境地ではありますが、
たどりつけない場所ではありません。
その地点がはっきりと目に見えるなら、
必ずたどりつけます。
まずは、自分という地図の中をくまなく探検してください。
なによりも、それが最初の一歩です。
さがすのをやめないと決めればいいだけです。
決めさえすえば、実現します。
それぞれ独自のスタイルがあります。
流行を取り入れつつも、自分のスタイルは貫き通す、
それがほんとうのおしゃれな人たちです。
流行のもので身を固め、いつも違うスタイルであらわれるのは、
単なる自己顕示欲のかたまりの強い、ファッション・ヴィクテムです。
ある程度、おしゃれの基礎がわかって、上達してきたら、
次の段階として、スタイルを模索することをお勧めします。
しかし、自分のスタイルを確立するためには、
一朝一夕にはいきません。
いろいろなスタイルにチャレンジし、
数多くのばかばかしい失敗をし、
何となく違う感じを修正し、
思ったとおりのものがなければ我慢して、
あきらめずにさがしつづける。
それを何年も繰り返して、やっと自分のスタイルを見つけることができます。
スタイルを確立するために必要なのは、
まず第一に自分自身をよく知ること。
それは自分の体型や肌の色といった、物理的な問題もそうですし、
好みや嗜好、目指す方向といった、
目に見えない部分もそうです。
自分自身を理解しないことには、自分のスタイルは確立しません。
無意識に選ぶ色、形、スタイルは、なぜそうなるのか、
そして逆に選ばないのはなぜなのか、
どんな格好をしているときがリラックスできて、自分らしくいられるのか、
または、なにを着るといらいらするのか、
居心地が悪くなるかなど、
一つ一つ自分に聞いて、チェックしていく必要があります。
その答えは、自分にしかわからないので、
誰かに聞くわけにはいきません。
どんなに人に勧められても、だめなものはだめです。
いつも着たいと思えないようなものばかり集めても、
自分のスタイルにはなりません。
これは、ときには自分にとってつらい場面もあるかもしれません。
否が応でも自分に向き合うことで、
自分の欠点にも気づくでしょうし、
見たくなかった面を見ざるを得なくもなるでしょう。
しかし、欠点を長所に、
見たくなかった面を新しい気づきとして受け入れることによって、
より新しい、自由な自分に出会えます。
そして、その自由な自分が、より自分らしく、自由でいられるためにスタイルを確立するのです。
ひとたび、これこそがわたしのスタイルだというものがわかったなら、
そのあとの洋服選びは簡単になります。
どんなに流行していても、自分のスタイルでないものは着ない、
心を動かされないと決めたなら、迷うことはありません。
ただし、同時に注意しておいてほしいことがあります。
何事も変化しないものはありません。
変化こそが、変わらぬ世の中の真理です。
自分の体型や容姿も変わるでしょう。
気持ちも変わるでしょう。
背景としての社会も変わるでしょう。
そして、もちろん流行も変わります。
スタイルの完成は、実は永遠にないのです。
それは、いつでも未完成であることによってしか、
変化には対応できないからです。
90パーセントはスタイルを確立しつつ、
常に10パーセントの余地を残しておく。
そうすることで、自分やファッションの変化に対応していく。
このバランスがちょうどいいところにとれたときに、
そのひとはスタイルがあり、かつ時代と合っているおしゃれな人になることができます。
柔軟性がないことは、やはりおしゃれではありません。
そこには好奇心のかけらが見えません。
変化し続けるものに対する好奇心と、
変わらぬものに対する自信、この2つが必要です。
いつでも変わる準備をしつつ、
永遠に完成しないスタイルを模索する、
かたいようで、しなやかに、
流れにのりつつ、流されず、
最終的な進化の地点まで、
あきらめずにさがし続ける、
そんな姿勢が、そのひとをおしゃれに見せるでしょう。
それはだれもが憧れる境地ではありますが、
たどりつけない場所ではありません。
その地点がはっきりと目に見えるなら、
必ずたどりつけます。
まずは、自分という地図の中をくまなく探検してください。
なによりも、それが最初の一歩です。
さがすのをやめないと決めればいいだけです。
決めさえすえば、実現します。