ページ

2013年12月23日月曜日

ファッションと自由

ファッションは、表現の1つの形態です。
服、靴、バッグ、帽子、アクセサリーなどを使って、
それぞれが自分を表現します。
それは、私たちの権利です。
他人の権利を侵害しているのでなければ、
ファッションについて、誰かにとやかく言われる筋合いはありません。

ファッションに関する規制は、自分で作ります。
私はジーンズははかないわとか、
ブルーを選ぶわとか、
ファーは絶対反対よとか、
それは自分で決めるものです。
それを決める権利は、自分しか持っていないからです。

けれども、年代や立場によっては、制服や、それに準ずるものを強いられる場合もあります。
学生や会社の制服、
セレモニーのときの決まった服装など。
しかしそれも、自分で納得して受け入れる範囲では、問題ありません。
逆に、どうしても受け入れられないものであったら、
そこから逃げる権利はあります。

おしゃれの基本的なルールを知り、練習することは、
画家ならばデッサンの練習、
ピアニストなら、バイエルの練習、
バレリーナのバーレッスンのようなものです。
型が決まった表現方法を身につけるためには、基礎練習は必須です。
しかしそれは、ルールにがんじがらめになるためにやるものではありません。
目的は、自由な表現を手に入れるためです。

自由とは、他人の自由を認めることです。
他人が自分とは違う存在だと知ること、
そしてその多様な姿を認めることです。
多様性とは、世界の豊かさです。

自由がなく、多様性を認めない社会では、
ファッションは成立しません。
その考え方がだめ、あの色がだめ、スカートの丈はこれでなければだめなど、
こと細かく決められたら、それはファッションではなく、
暑さ寒さをしのぐための、単なる布きれです。
ファッションが布切れにおとしめられたら、
形も色も失います。
形と色が禁じられた世界では、ファッションは禁止事項なのです。
なぜなら、ファッションは、もうそれだけで自由の象徴だからです。

ルールを知って、自由な表現方法を身につけると同時に、
この自由な世界を守り、育てていかなければなりません。
「自由」という前提がなくなったら、
何もかも終わりです。
終わりになった世界を、どうぞ想像してみてください。
今現在も、どこかにそんな社会は存在しているはずです。

あなたが今日来ているその服は、世界とつながっています。
無関心かもしれませんが、無関係ではありません。
ひとつひとつの選択が、その後の未来を決定します。
好きな色を着ていられる未来を望むなら、
それが実現できるように選択してください。
選択だけが世界を変えます。
あなたは、その力を持っています。

2013年12月17日火曜日

自分にふさわしいコートの選び方

ごくたまになのですが、知らない方から、自分にはどんなコートがいいのかとか、
どういうふうにコーディネイトしたらいいのかなどの質問をいただきます。
そのたびにお答えするのが、「見てもいないものに対してアドバイスはできません」ということです。
その方自身も、持っているワードローブも、好みも、何も知らないのに、
何がいいですよとは、言えません。

服については、到底、言葉だけで表現することはできません。
正確な色や、その立体的な様子をこと細かに表現したところで、
実物にはたどりつきません。
いわんや、人の姿、印象、見えない雰囲気など、言葉だけで表現するのは無理です。
そして、そのわからなさを前提としたアドバイスは、やったとしても、ほとんど役立たないものになるであろうことは、目に見えてわかっています。
というわけで、見てもいないものに対してアドバイスはできないのです。

では、もしその人のことを知っていて、見たこともあり、雰囲気も感じて、
好みも把握し、ワードローブも見ていたとしたら、
どんなふうにアドバイスをするかというのが、今日のテーマです。
お題としては「コート」を選びました。

まずは、その人のテーマ・カラーを確認します。コートなので、差し色ではなくて、メインのカラーとなります。
次に、今後、どういった方向にいきたいのかを確認します。
今はそうではないけれども、近い将来になりたい方向です。
今と変わらない、同じテイストであるのなら、それはそれで聞いておきます。
次に、その方の今持っているワードローブを確認します。
舞台やテレビの衣装ではないので、一から全部、そろえるわけではありません。
もうすでに持っていて、これからまだ着るワードローブにコートを追加していきます。
ですから、今持っているアイテムや色と、全く合わないものは選べません。
それを確認します。
もちろん、その方の容姿や、全体的な雰囲気などは、目で見て、感じることによりチェックします。
コミュニケーションの仕方なども、重要です。
また、大体の予算も聞いておきます。
ここまではその人に対するリサーチです。
その人物の概要を把握します。

ここからは私が持っている知識を使います。
まず、これからの流行の傾向を考えます。
いくら似合うからといって、これから絶対に時代遅れになるようなコートを勧めるわけにはいきません。
流行の方向性を見極めて、その上でこれから何年も着られるようなコートを考えます。
そして、次に、その人がすでに持っているワードローブに付け足すにふさわしい色やシルエットについて考察します。
このときに、その人の体型や雰囲気に合うようなものは何になるかを考えます。
最後に現在考えている予算で、そういったコートがどんなところで手に入るのか、
たとえば、それはどんなブランドで売られているのか、検討します。
もちろん100パーセント理想どおりのコートがあればよいわけですが、
予算と、手に入れられる可能性を考慮すると、
その選択肢は狭まります。
つまり、どこが妥協点になるのか考えるわけです。
ここまで考えて初めて、どんなコートがいいのか、アドバイスできることになります。

これはコート以外でも同じことです。同じ方法を使います。
つまり、1枚のアイテムを買い足すときには、上記のような事前の考察が必要だということです。
ここまで考えないと、自分にとってのふさわしいコートを買うことはできません。

もちろん、私は一目ぼれの可能性を否定はしません。
しかし、冬のコートというものは、一目ぼれで買うようなお値段ではありません。
ここまでのイメージと考察ができた上での一目ぼれなら構いませんが、
行き当たりばったりの一目ぼれでは、長く着られるコートには出会えません。
一目ぼれで買えるのは、せいぜい1年限りの短いお付き合いのTシャツやタンクトップぐらいです。
タンスのこやしや、ほとんど着ないような服をふやさないためには、とっかえひっかえの一目ぼれで出会った相手は、不向きなのです。

そうやって考えると、自分が本当に必要な服、そしてふさわしい服は、
ほとんど売っていないということに気づくでしょう。
売ってないのですから、根気良く探すしかありません。
コート1枚を買うのも、理想の結婚相手を探すのも、
根本的には同じ作業です。
長く付き合うためには、それが必要なのです。

そこで簡単に妥協するなら、それがその人の人生に対する態度となります。
洋服を1枚買うという行為の積み重ねが、
その後の人生の方向を大きく変えていきます。
買うという行為は、常に選択だからです。
たくさん買ってもまだ満足できないのも、
着ていない服がワードローブの大半を占めるのも、
その選択の結果です。
心からの満足を求めるのなら、そうなるための選択をする必要があります。

選択を放棄したら、それは妥協の人生です。
与えられたものだけで満足できるのなら、それでも構いませんが、
そうではなくて、自由で、自分らしく生きたいのなら、
しっかり選択していきましょう。

コート1枚のアドバイスを簡単にできないのはそのためです。
よく知りもしない私が、その人の選択する権利を奪うわけにはいきませんから。

2013年12月9日月曜日

ひょう柄だけが特別なわけ

ここへきて、ひょう柄が流行し始めました。
それまでも多くのアニマル・プリントが提案されましたが、
結局、残ったのはひょう柄のようです。
靴、バッグ、帽子、コート、ドレスなど、ありとあらゆるものにひょう柄が使われています。
では、なぜとら柄でも、ゼブラ柄でも、ダルメシアン柄でもなく、
ひょう柄なのでしょうか。

ファッション史の中で、ひょう柄は特別な存在です。
なぜなら、それは1947年2月、クリスチャン・ディオールが初めてのコレクションを発表した際、
「ジャングル」と名付けられたスタイルの中で使用された柄だからです。
そのとき以来、ひょう柄はモードの最高峰であると、認定されました。

当たり前のことですが、西洋の洋服にはそれなりの歴史があります。
スタイルの変遷をたどって、現在へたどりついています。
それはどの国でも服装の歴史があるのと同じことです。
しかし、洋服を取り入れてから150年ばかり、
そして一般に広まるようになって100年足らずの日本では、その歴史は知られていません。
知らないということは、つまり、
洋服の歴史の文脈の中で意味づけされたものを知らないということです。

歴史を知らないということには、もちろんいい点もあります。
知らないがゆえに、それに縛られることがありません。
そのいい例が、歴史の文脈無視の突然変異として注目された、
80年代から90年代の日本のファッションです。
西洋の服装史にはない、直線的なカッティング、つまり、人体のとらえ方の違いは、大きな衝撃を与えました。
これは、歴史の文脈とは違うところからの発生であり、提案であったからこそ、なし得たことです。

一方、歴史の中には、その中で大切にされ、育てられてきた伝統があります。
長い年月をかけて作り上げられたそれは、人々の大きな記憶の中に、沈み込みながらも、ずっと存在し続けています。
それは、決して忘れることのできないものです。
そして忘れたころに、思い出したように浮上し、繰り返され、洗練していきます。
ひょう柄というのは、西洋のファッション史の中で、忘れ去られることのない、モードのシンボルなのです。

ひょう柄の流行は、クリスチャン・ディオールの復活に関連しています。
2012年、ラフ・シモンズがクリエイティブ・ディレクターに就任し、ディオールは、1947年にクリスチャン・ディオールが発表したニュー・ルックの
新しい解釈のもと、完全復活しました。

クリスチャン・ディオールがニュー・ルックを発表したのは、第二次世界大戦が終わって、1年半後のこと。
戦時中、女性たちは、好きな服装をすることができませんでした。
戦争になり、まず初めに禁止されるのは、華美な服装であり、
個人の表現としてのおしゃれです。
戦争のためおしゃれができず、うっ屈した毎日を過ごしていた女性たちにとって、
ディオールのニュー・ルックは、まさに革命でした。

ひょう柄は、その血を引いています。
モードであるとともに、女性であることの喜び、表現することの自由の象徴なのです。
ですから、ひょう柄のものを身につけるということは、その柄の色や形とは別の、
特別な意味を持ちます。
それはモードの革命を忘れていないということであり、
その体現者であるということです。
そのため、ひょう柄だけは、ほかの動物の柄とは違い、特別なのです。

戦争になったら、おしゃれなどできません。
奪われるのは喜びと自由。
与えられるのはユニフォームと膨大な禁止事項。
それは、現在の状況からは想像できないほどの苦痛です。

その状況を再び経験したいかどうか、
権利を放棄しなければ、私たちは選べます。
まだ選ぶ力を持っています。

ニュー・ルックで取り戻した喜びと自由を失いたくないのなら、
権利は行使しなければなりません。
放棄するのなら、それが得られなくてもあきらめなくてはなりません。
けれども、力を持っている限り、あきらめる必要はないのです。

そのどちらを選ぶかは、自由です。
もちろん、ひょう柄を選ぶか選ばないかも自由です。
それはその人の生き方ですから。


2013年12月2日月曜日

トムボーイ・スタイル

トムボーイ(tomboy)とは、英語で「おてんば」のことです。
最近の外国のファッション誌にはよく、このトムボーイ・スタイルが出てきます。

「おてんば」で思い出すのはキャンディ・キャンディぐらいですが、

ファッションにおけるトムボーイは、たぶん、大人になったオリーブ少女たちが好むであろう、
そんなスタイルです。
(もしかして、キャンディもオリーブ少女も、これを読んでいる人の半分は知らないかしら?)

トムボーイ・スタイルを得意としているのはアレクサ・チャンです。
British Vogueでは、彼女のことを「fashion's favourite tomboy」と評しています。
アレクサのスタイルが、いわば、トムボーイ・スタイルのお手本となります。

トムボーイ・スタイルの特徴は、ベーシックなアイテムに、
少女っぽさと少年っぽさを足して、大人の味付けで仕上げることです。
いつまでも乙女心を忘れない大人の女性が、そんなスタイルをすることによって、
より魅力的に見えます。

具体的な組み立て方は、まずベーシックの白シャツなり、トレンチコートなりにスクールガール風のアイテム、たとえばサッチェル・バッグ、ハイソックス、ミニスカート、フラットカラーをあわせ、どこかに少年っぽいもの入れ込みます。
それはたとえば、ショートパンツだったり、バイカージャケットやバイカーブーツだったり、またはベースボール・キャップだったりと、少しハードなアイテムです。
このときに、ベーシックなアイテムは大人の味付けにしておきます。
つまり、そこは子供が着るようなものではなく、しっかりした素材やデザインの、
大人が着るのにふさわしいものにするのです。
端的に言ってしまえば、ベーシックの部分には、チープなものや偽物は使いません。
そこを安くあげようとすると、そのスタイルは途端にそこらの学生と同じになってしまいます。
おさえるとところはしっかりおさえつつ、
少女っぽいものと、少年のようなもの、両方を入れていく、
そのバランスの面白さがトムボーイ・スタイルです。

この場合、ヘアスタイルやメイクも、あまり作り込み過ぎません。
あくまでラフに、やり過ぎないものが好ましい。
作り込んでしまったら、もうトムボーイではありません。
洗いざらしの髪の毛をツインテールにして、
そばかすだらけの顔で天真爛漫に笑い転げる、あのキャンディのように、
付け入るすきのないような、そんなヘアとメイクではだめなのです。

このスタイルは、これまで何度か説明してきた、外しや隙、そして親しみやすさを同時に表現することができます。
ここには、誰もがわかるブランド物ですべて固めたような、高飛車な雰囲気はありません。
かといって、ベーシックなものだけでコーディネイトした、退屈さもありません。
普通っぽくもある、それなのにおしゃれに見える、
いかにも高そうなものばかり着ているわけではない、
そして何より魅力的、そんなスタイルです。

そんな魅力的なスタイルですが、実際するとなったら、
かなり難易度は高いです。
いろいろな要素をミックスしていくので、
選ぶ基準があいまいなままのワードローブでは、なかなかこのようにはなりません。
そんなときは、まず色を絞ること、
そして自分の方向性をはっきりさせておくことが大事です。
自分の色、自分の好きな感じを徹底して通しておけば、
これらを全部ミックスして着ることは可能です。

自分というものがふらふらしていたら、
でき上がるスタイルもふらふらしたものになります。
何の統一性もなく、適当に買ったのだなということが、
傍目にもわかります。
そこをきっちり統一していけば、
芯のぶれない、その人の筋の通ったスタイルができ上がります。
まず最初にやるべきなのは、自分の筋を通すことです。

おしゃれに興味がないのなら、それはそれで全く構いません。
いつも書いていますが、おしゃれは人生の中でもっとも重要なことではありません。
服は着られればいいという、その潔さは、かえって素敵です。

流行が変わっても、
どんなスタイルを選んでも、
またはおしゃれを全く無視するにしても、
それがぶれないのなら、それでいいのです。
トムボーイ・スタイルは、そんなぶれない人にとっては、
朝飯前の、簡単なスタイルです。

(そういえば、キャンディも決してぶれなかったね)