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2014年12月29日月曜日

流行遅れにならないためには

ファッションには流行というものがあって、
それは否定のしようのない事実です。
蛇行する川のように、あるときはゆっくりまっすぐに、
あるときは急なカーブを激しく流れるように、
多くの支流を抱えながら、
ひとつの方向へ向かっていきます。

私たち自身も、生まれてから死ぬまでの時間、それぞれの流れの中に生きています。
小さいときは成長が早く、
多くの着られなくなった衣類を脱ぎすてて、
大人になれば、
自分のスタイルの構築のために、流行に翻弄されながらも、
さまざまなスタイルに挑戦し、
年齢を重ねたら、何となく自分の趣味嗜好の方向性が固まって、
自分自身の新陳代謝ではなく、
衣類そのものの寿命によって、新しいものを取り入れるようになります。
全く何も買わないでいるということは、
衣服がモノであり、永遠には存在しえないという性質上、不可能です。
私たちは、何らかの形で流行と付き合うことになります。

しかし、ファッションの流れと自分自身の人生の流れが一致することはありません。
ファッションの流れが急なとき、私たちは、ゆっくりした流れの中にあるかもしれません。
それはお互いに違う道筋なので仕方のないことです。
そのずれが、いわゆる流行遅れです。
自分自身の変化、
ファッションの流れ、
衣服や小物のモノとしての寿命、この三者がてんでばらばらに存在するため、
ときにそれは大きなずれとなり、
時代に遅れたようなスタイルになることがあります。
これは身体の成長の早い子ども時代や、
生活スタイルが激しく変化する20代では、まず起こりません。
身体も生活スタイルも大きな変化がなくなり、
モノとしての寿命だけが頼りになるとき、
そして何より、精神が微妙に時代とずれてしまったとき、
その人の服装は流行遅れとなります。

モノの寿命より、ファッションの流行の変化が激しく短いのが現代です。
多くの人が、物理的に着られなくなるから服を捨てるのではなく、
着たくなくなったから、
あるいは流行遅れでみっともないからという理由で服を捨てます。
そして、そのことに疑問を持たないような社会の仕組みがあります。
流行をとるか、エコロジーをとるか、
私たちは今、選択を迫られています。

一番よいのは、流行遅れにならず、
捨てるときは、モノとしての寿命が終わったときのみという状態になることです。
そして、万が一、それができないとしても、
リサイクルというサイクルにうまく入れるように手放すことです。
そのために、成熟した大人ができることはどんなことでしょうか。

まずできるのは、モノとしての寿命のサイクルをアイテムごとに見極めること。
Tシャツやカットソーなど、洗濯回数の多いものはモノとして長持ちしませんが、
冬場のウールのジャケットやコートなどは長持ちします。
当たり前のことですが、長持ちするものは、ベーシックで長く着られるデザインのものを選び、
逆に長持ちしないもので流行を取り入れます。
そうすれば、毎年何かほんの少しでも、いわゆる流行っているものを取り入れることが可能です。
その他、長持ちしないものとしては布製のスニーカーや白シャツ、靴下などもそうです。
また、長持ちするものはマフラーやスカーフ、ジュエリーなど、アクセサリーや小物類も、
案外、傷むということがありません。
ほんの少しでも流行を取り入れることは、
気分転換にもなりますし、時代を感じることにもつながります。
そしてそれはまた、
完成していない自分の補完品としての機能を持つことにもなります。

しかし、流行遅れに見えない、かつ着られるのに捨てるものを大量に出さない、
もっとも重要なポイントは、
流行を越えた自分のスタイルを確立することです。
シャネルも言っているように、ファッション、つまり流行はすたれるものです。
流行というシステムから抜け出し、
自分のスタイルを確立したならば、
もう流行遅れとは無縁です。
流行っているから買ったものではなく、
自分のスタイルの確立のためにそろえたアイテムは、
何年たっても色あせることがありません。

流行というシステムの中で近視眼的にものを見るのではなく、
ひとつ上の階層から俯瞰するように、
自分が何を好きで、どんなものを着てきたか、振り返り、
その上で服を選んでいけば、スタイルは確立されます。
それは年齢の問題ではありません。
どれだけ工夫してきたか、
どれだけ計算してきたか、
どれだけ練習してきたか、
どれだけ考えてきたか、
その総量の差です。
何歳になっても、流行より下のレベルで、それに振り回される人たちはたくさんいます。
振り回されないためには、1つ上の層へ上がらないといけないのに、
それには気づかず、そして気づこうともしません。
それは囚われた状態です。

囚われから脱出するためには、眠りから目覚め、
無意識に反応するままの自分を客観視し、
システムから抜け出して、高いところからの視点を持つことです。
流行という川の流れでおぼれ続けるのではなく、
そこから抜け出し、
高い空から、流れ全体を見ることができれば、
私たちはそこから抜け出すことができます。
そして、そのときに気づくでしょう。
流行遅れになったのは、流行に乗ったためであった、ということに。

20年前の写真を見てください。
もっとも古臭く感じるのは、そのときの流行りの服、髪形、メイクでかためたスタイルの人でしょう。
けれども、今でも古びることなく、魅力的な人は、
流行とは適度な距離をとった、その人独自のスタイルを持った人ではないでしょうか。

流行遅れにはならず、
永遠を見つけたいなら、
流れから抜け出しましょう。
溺れていないで、
空を飛びましょう。


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2014年12月22日月曜日

タックパンツ、ノータックパンツ


ズボンを女性がはくようになったのは20世紀後半からと言われています。
それまでは、あくまで女性用のズボンというものはなく、
男性用のものを借用する形での着用でした。
しかし、女性が男性と同じような活動、
それは多くの労働ですが、
をするようになって、女性のあいだでもズボンの着用が広がり、
それを決定的にしたのは第二次世界大戦でした。
なぜならその期間、女性は男性と同じような労働に従事したからです。

その歴史からも推測されるように、
当初のズボン、今で言うところのパンツは、
女性にとって、オーバーサイズであり、
ダボダボしたものをひもなり、ベルトなりでウエストを縛ることによって、
初めて着用可能となるものでした。
基本的にパンツとは、大き目のサイズのものを自分に引き寄せて着るものであり、
ウエストの細い女性がはくと、
ウエストにはギャザーやタックが自然とあらわれました。

女性と男性の体型の違いはいろいろありますが、
その中でも大きな点は、男性にはない曲線を女性が持つということでしょう。
バストとウエスト、ウエストとヒップの大きな差というものは、
男性にはないものです。
そのため、平面である生地を立体にうつすとき、
その「差」の処理として、ダーツ、タック、ギャザーが用いられます。
ウエストとヒップの大きな差は、
洋服のボトムスを作る上でのもっとも重要なポイントであり、
服の美しさは、その処理の仕方によって生まれると言っても過言ではありません。

1970年代に入り、
服全体のシルエットがタイトなものになると、より体にフィットした、
つまりウエストにタックもギャザーもできないスタイルのパンツが要求されるようになりました。
それはあくまで見た目の問題で、
機能的なものではありませんでした。

しかし、女性の身体のウエストとヒップの大きな差は、依然そのままです。
ウエストとヒップの差が大きければ大きいほど、
余った布の処理は難しくなります。
ストレッチ素材やニットを使わずにウエストからヒップのラインを出すためには、
何らかの工夫をしなければなりません。
やってみればわかることですが、
ある程度の固さのある生地を、
何本ものダーツを入れずにウエストからヒップまでなじませるのは、
簡単なことではありません。
生地には無理が出て、余計なしわが出ることになりますし、
決してはき心地がよいものにもなりません。
そこで発明された1つの形が、
ウエストとヒップの差を少なくすること、
つまり、ウエスト位置をヒップのほうへと近づけるという手法でした。
ローライズと呼ばれるこのウエスト位置は、
当初、格好いいからではなく、
単に技術的な目的のために生まれたものだと思われます。
何かを縛ってとめるとき、
細いところをしばりたくなるのは当たり前の行為。
それをわざわざずらすのですから、それは苦肉の策とも呼べるものでしょう。

ファッションの流行は繰り返します。
ですから、このような、ウエストにタックやギャザーのない、
体にタイトにフィットした形のノータックパンツと、
それとは逆に、ウエストにタックがあり、
緩やかに体にそうタックのあるパンツとが交互に流行します。

このところ長く続いたのは、
ウエストにタックのないノータックパンツでした。
残念ながら、ノータックのパンツには体を補正して見せるという要素がありません。
身体になるべくそわせるということを意図しているのですから、
当然のことながら、ヒップから脚にかけてのラインは、
はいている人、そのままの形です。
また、いわゆる股上のところに水平にラインが出たり、
Y字型が目立って見えるなど、
必要以上に、その人の体型を目立たせるという特徴も持っています。
ノータックパンツをきれいに着こなのすに必要なのは、
理想的な体型でした。
だからこそ、私たちは服を自分にあわせるのではなく、
自分たちが服にあわせるべくダイエットに励むのです。

しかし、このようなタイトフィットのノータックパンツも行きつくところまでいくと、
必ず今度は後戻りすることになります。
そして今また、タックパンツの時代に入ろうとしているところです。

パンツの美しさというものは、
すっとまっすぐに下に落ちていく、その生地の流れでしょう。
折山にタックをとり、センタープレスをかけることで、
縦線はより強調され、脚そのものの形を目立たせることなく、
ウエストから足元へと、見るものの視線を導きます。
女性特有の、ウエストからヒップのカーブも、
タックをとることにより、自然と解消され、
下腹部のふくらみも、
太ももの太さも、はっきりとはわかりません。
また、水平ラインにしわが出ないため、
脚の長さもより長く見えるようになります。
そこにはもう、
下半身そのもののシルエットを外へさらして出て歩くような
気恥かしさはありません。
タックパンツをはくことで、ウエストから下は窮屈な履き心地から解放され、
他人の視線から守られます。

すべての流行は、行きつくところまでいったら、
必ず今度は逆の方向へ戻ってきます。
その先はもう行き止まりで、不毛な開発しかないからです。
もはやそこには着やすさ、楽しさ、リラックス感など、存在しません。
過度なダイエットを要求するような服は、それ自体、危険な存在です。
盲目的な利益追求主義者と、
市場の動きこそが正しいと断言する経営者たちが作る、
それら危険な服を、私たちは断固拒否することができます。

女性が男性のズボンをこっそりはいてみて、
鏡の前に立ったときのあの感動は、
ウエストからヒップにゆったりとタックができ上がり、
下半身が目立つこともなく、
自由に行動することができる、その点にあったと推測できます。
なんと自由なんだろう、そして見た目もそんなに悪くはない。
これなら女性がはいても悪くはないのではないか。
男性のズボンをはいてみた女性たちは、きっとそんなふうに感じたことでしょう。
もしそれがぴったりしたニットのズロースであったなら、
余りの恥ずかしさに、そのままの姿で外を歩こうと思う女性は
いなかったのではないでしょうか。

女性がズボンをはくことは、今では当たり前になりました。
100年前に、それは当たり前のことではありませんでした。
ズボンをはいた女性は非難の対象でした。
けれども今、私たちは、下半身を目立たせることなく、
脚をすっと長く見せるタックの入ったパンツを、
選ぶことも、選ばないこともできます。
それは100年前の女性が持っていなかった権利です。
後戻りするつもりがないのなら、
より進化したタックパンツを選びましょう。
それは選ばされるのではなく、
こちらから選ぶのです。
主導権はしっかり握っているのです。
奪われては、いけません。


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2014年12月8日月曜日

着崩し


着崩しにおいて、「崩し」とは何を崩すのでしょうか。
それは全体のバランスです。
全体のバランスをわざと崩した状態を着崩しと呼び、
それはおしゃれの1つの方法とされています。

外しのテクニックも、全体を100パーセント同じにしないという方法も、
すべて着崩しの中に入ります。
ですから、着崩しのテクニックとしては、
ジャケットの袖をまくるというのも、
外したアイテムを投入するというのも、
たとえば、パンツの丈や袖丈をアンバランスにするというのも、
すべて、それは着崩しなのです。
なぜこれほどまでにバランスを崩す方法を選ぶのでしょうか。
それはおしゃれとは、常に完璧を嫌がるものだからです。

たとえば、コレクションで発表されるスタイルは100パーセント完璧です。
そのブランドの表現したいことを、
一ミリの誤差もなくあらわしています。
しかし、ショーが終わり、
モデルではなく、街を歩く人が、そのショーのスタイルそのままであらわれたら、
それは少しおしゃれから遠のくのです。

たとえば、ハイブランドの広告用のスチール写真も完璧です。
イメージにふさわしいモデルの選抜、メイク、照明、小道具、セット、またはロケーションまで、
そのブランドのそのシーズンに言いたいことを余すことなく伝えています。
しかし、これもコレクションのスタイルと同じように、
同じままのスタイルで街を歩いたとしても、
注目されるのはその人ではなく、服やバッグになるのです。

最近は少々状況が変わってきてはいますが、
基本的に、ショーや広告用スチールのモデルは、
その人となりを表現しません。
あくまで服を目立たせるため選ばれたマネキン。
その人自身が服より先に出てはいけません。
ですから、ショーや広告スチールにおいて、
服よりもそのモデルの印象が強いようでは、
それは失敗です。

しかし、街へ出たならば、
要求されるのは、それと全く違った要素です。
服や靴やバッグが目立ち、
その人そのものが忘れ去られるようでは、
意味がないのです。
それはおしゃれな服、靴、バッグであり、
おしゃれな人ではありません。

おしゃれな人に見せるために、
おしゃれな人たちは工夫します。
それがいわば着崩しです。
完璧に提案されたスタイルを少しずつ切り崩していくことによって、
より自分に近づけます。
わざとジャケットの袖をとってみたり、
パンツを中途半端な丈にしてみせたり、
美しいバッグにファンシーな小物をつけてみせるのはそのためです。

提案されたブランドのスタイルをそのまま身につけるのなら、
それは着る人にとって、アイデンティティの崩壊を意味します。
なぜなら、人はもうその人自身を見ようとはしないからです。
見られるのはその服や靴やバッグの情報。
製造者、製造年月日、そしてその値段がその人の持つ情報となり、
その人の情報は希薄になり、瞬時に消費されていきます。
もはや、それは個人ではありません。

完璧なバランスを崩すことには、
もう一つ意味があります。
完璧には、それ以上という状態がありません。
完璧とは、それで行き止まりということです。
もう進歩はありません。
これ以上、発展も進歩も発達もしないということは、
実に退屈なことです。
そして、行き止まったその先には、崩壊が待っています。

完璧に行きついてしまったら、
人は崩壊を恐れて防御態勢に入ります。
そして、攻撃こそ最大の防御と言わんばかりに、
高く壁を築き、誰かからの関心を持たれることを拒み、
少しでも壁を越えて入ってこようものなら、
ここぞとばかりに攻撃します。
完璧な人は、崩壊を恐れる人であり、
もはや魅力のなくなった人です。
魅力がないということは、つまり、おしゃれではないということです。

完璧でないとは、すなわち魅力なのです。
そして、まだ未来があり、
発展する可能性が残されていて、
多くの人とコミュニケーション可能ということです。
それは、着崩すことによって、表現できます。

誰かとコミュニケーションをとりたいのなら、
そして、もっと発展したいのなら、
どうぞ着崩しを取り入れてください。
壁は自分で崩されるものではなく、自分で崩すもの。
完璧でないものは、永遠に進化し続け、
誰にも壊すことはできないのです。


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2014年12月1日月曜日

自分をあらわすシンボルを持つ

服装は、アクセサリーや靴、バッグも含めて、
そして選ぶ色合いも含めて、
その人の情報です。
特に初めて会う人、
または、たまたますれ違うだけの人にとっての、
重要な判断材料になります。

どんなテイストの服を選ぶかで、
その人の趣味や仕事を推測し、
どんな色を着ているかで、
性格や気分を判断します。
この判断は瞬時に、しかも半ば無意識的に行われます。

いつのころからでしょうか。
持ち物やバッグにブランドのロゴや刻印が押されるようになり、
人々は、自分の情報を補強するために、
こぞって、それらのブランド名のわかるものを持つようになりました。
(定かではありませんが、60年代の終わりごろからの傾向だと思います。
戦後すぐには、なかったはずです)

その傾向が強くなると、
今度はその「ブランド品」が、製造者として以外の情報を持つようになり、
人々は、その読みとり能力を高めていきました。
その結果が現在です。
ある1つのブランドのバッグは、
そのブランドだけではなく、何年のいつのシーズンのものか、
値段はいくらか、どこで売っていたか、
限定品かそうではないかまで、
あたかも文字で書いているかのごとく、
事細かな情報をそれを見る側に提供するようになりました。

しかし、どこまでいっても、ブランド品からわかる情報は、
その人そのものの情報ではありません。
高いものを持っていればお金持ちというわけでもありませんから、
それを所持していることによりわかることは、
そのモノそのもののことだけであって、
その人自身のことではありません。

私たちは、そう簡単に読みとれるような、単純な存在ではありません。
値段も、番号も、属性もついていませんし、
それによって、差別、区別されるいわれもありません。
しかし、だからといって、すべてのコミュニケーションを拒否するかのように、
みんなと同じものを着て、群衆の中に埋没するのもおかしな話です。
では、そんな私たちという存在が、
他人に何か自分についてのヒントを与えるとしたら、
どんなものが望ましいのでしょうか。

シンボル、つまり象徴は、簡単に読みとれるものではありません。
何種類もの解釈が可能であり、
時と場合、また文脈や関係によって、意味が変わってきます。
たとえば、赤は情熱の色であると同時に、
信号の止まれの色です。
それは、その使われ方によって、意味が変わります。

自分をあらわすシンボルを持つことは、
他人とのコミュニケーションとる1つの方法です。
しかも、それは簡単には読みとれない、しかし明らかに何か意味のある、
メッセージを発することになります。

シンボルを持つとはどういうことか。
たとえば、バラならバラ、星なら星のモチーフというように、
1つ自分の好きなものを決めて、
そのシンボルに関係するものをスタイルに取り入れます。
星と決めた場合は、
星柄のスカーフ、
星の形のペンダントヘッド、
星の形のスタッズなど、
何かを選択するときは必ずそのモチーフを選択します。
それをいつも身につけたり、持ったりすることによって、
あなたは他人にいつも星に関するものを身につけている人というイメージを与えます。
実際のところ、その星が何を意味するのかはわかりません。
天体観測好きなのか、
占星術師なのか、
本当のところはわかりません。
しかし、その連続したイメージは、
必ずや、相手に何かを伝えます。
そして、伝えられた相手には、あなた自身とともに、そのシンボルを記憶し、
いつの日か、興味を持つようになります。
その興味こそ、その人とあなたとのつながりです。

シンボルは、どんなものでも構いません。
小鳥でも、猫でも、りんごでも、水玉でも、ボーダーでも、パールでも、
あらゆるものが可能です。
重要なのは、それはいつも繰り返され、統一されているということです。

「ブランド品」が伝えるメッセージは、あまりに単純で、一瞬で消費されます。
しかし、シンボルは複雑で、難解で、決して消費されることはありません。
一瞬で消費されるものは、それ以上の興味を引きませんが、
理解できないものとは、興味の尽きない対象です。

人は、誰かに100パーセント理解されることの決してない存在です。
それは時と場所では、
出会う人とでは、
ある光のもとでは、
いつでも違うのです。

シャネルは星のモチーフを好みました。
星モチーフを使ってジュエリーを製作しています。
彼女が星を使ったのは、
彼女が永遠に輝き続ける「スター」を目指したからなのか、
それともそれ以外に理由があるのか、
本当のところはわかりません。
しかし、シャネルの星を見た者は、
そんな彼女のことを想像するのです。
そして、ダイヤモンドの星を見れば、彼女を思い出します。

あなたにふさわしいシンボルは何でしょうか。
決して読みとることのできない、
そして、いつまでも興味の続く、
そんなシンボルを1つ選んで身につけてください。

人はそのシンボルとあなたとを紐づけて記憶します。その記憶が持続する限り、あなたは魅力的な人であり続けるでしょう。

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2014年11月24日月曜日

ダッフルコート

もとは漁師の防寒着として、
後にイギリス海軍の防寒着として採用されたのがダッフルコートです。
通常は、裏なしで、メルトンと呼ばれる厚地の生地が用いられ、
胸と背中のヨーク切り替え、大きなフードとパッチポケット、
そして、麻ひもとトグルと呼ばれる角や木片などを用いた留め具が特徴です。
トグルとは、もともと釣り用の浮き具。
そのため、木片や動物の角など、
水に浮く素材が使用されています。

軍服なので、もともとは男性用の防寒着。
しかし、これほどまでに広く老若男女に好まれるコートも、
ほかにはないのではないかと思います。

ダッフルコートの特徴は、
その完成されたデザインでしょう。
メルトン以外の、たとえばニットや綿入りのポリエステルで作られることはあったとしても、
その他の部分においては、もはや誰も改造することができないほど、
デザインが完成されています。
丈が長くなったり、
身頃がタイトになったりすることはあっても、
そのほかの部分は変わることなく、
ずっと同じ形で今も続いています。
変わらぬデザイン、
子どもから大人まで、
女でも男でも着用できる懐の深さ、
これこそまさにベーシックです。

さて、そんなダッフルコートですが、
大人の女性が着るとなったら、
そこには何か工夫が欲しいところです。
特に、カジュアル、ユニセックス、しかも子どもまでも着るようなものは、
何も考えずに着ると、子どもっぽかったり、
男性と変わらないスタイルになります。
子どものようでもなく、
男性にはできないやり方で、
ダッフルコートを着ることができれば、
それは単なるカジュアルな防寒用コートではなく、
おしゃれのために選んだ、特別なコートになります。

そのためにはどうしたらいいのか。
ダッフルコートがもともと持っているイメージから遠いものをあわせることです。
つまり、
軍人という男性から遠いもの、
たとえばジーンズとチノパンツ、アランニットなど、
いわゆる「海の男」を彷彿とさせるようなものだけで全体をコーディネイトすることを避けて、
そのかわり、
か弱く、美しく、非戦闘的で、ゴージャスで、リラックスできるものを組み合わせていきます。
女性にとってのそれは、
たとえば、シルクのブラウス、ミニスカート、華奢なヒールのパンプス、
花柄のドレスなど、
パンツと組み合わせたいのであれば、
男性が身につけないような色のダッフルコートを選ぶか、
または、靴や小物をうんと女っぽく、
決して男が選ばないような、
たとえば赤い靴、きらきら輝く素材が使われたバッグやストールなどを組み合わせます。

おしゃれとは、イメージの換骨奪胎です。
特に軍服オリジナルデザインのものは、
どこまでオリジナルのイメージを払しょくできるかが勝負です。
ダッフルコートに、同じマリンスタイルのボーダーを持ってくることも、
もちろんできます。
紺色のダッフルコートに、紺色のボーダー柄のニットは、
確かによく似合います。
けれども、それだけで終わりにしないで、
どこか必ず、もとのイメージから遠く離れたい。
絶対に「戦えないスタイル」にしたいのです。
なぜならそれを考えるのが、大人のおしゃれだからです。
そこが、学生とは違うところです。

遠く離れるために持ってくるものは、
レースのスカートかもしれないし、
シフォンのブラウスかもしれません。
または、真っ白なダッフルコートを選んで、ほとんど白でコーディネイトしてみることかもしれません。

考えること、
工夫をすること、
そのまま着ないこと、
これらが大人のおしゃれです。
与えられたそのままではなく、
教えられたそのままでもなく、
自分で見つけて、
自分で構築する。
失敗を繰り返しながら、
誰もが知っている正解などない、
「自分らしさ」の表現の仕方を探っていく。
それをできるのが、大人という立場です。
それなしに、与えられたひとそろえをただ着続けるならば、
それはただ子どものままだということ。
その「らしさ」は、決してその人の「らしさ」ではありません。

ダッフルコートの持つイメージと戦って、
どれだけ「戦い」から遠ざかるか。
戦争を放棄した私たちは、
それを考えなければならないのです。
それはこれからもずっとです。
それは、永遠に、そうなのです。


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2014年11月17日月曜日

デニム(その位置づけ)


デニムとは、通常はインディゴ、または藍色の染料で染めた糸を縦糸に、
染めていない糸を横糸として、綾織りに織った、
厚みのある木綿の生地の総称です。
多くはジーンズを作る際に用いられますが、
ジャケット、その他、用途は広がっています。

ジーンズに代表されるように、
歴史的に丈夫で、破れにくいデニムは、
主に作業着のために用いられてきました。
一説によると、インディゴは虫よけの役割もしたと言われています。
そのため、今でもデニムには、作業着由来というイメージがつきまといます。

戦後、特に70年代以降、
若者のあいだでジーンズが大流行したことによって、
ジーンズ及び、デニムで作られたアイテムは、
若さの象徴となりました。
デニムは長いあいだ、作業着、または若者の衣装としての位置づけでした。

カジュアル化が進み、さまざまなカジュアルな素材やアイテムが、
街着として登場し、認められるようになりました。
カジュアルであるとは、
それがスポーツウエアやアウトドア用のウエアであったか、
作業着であったか、
下着であったか、
それぞれにもともとはおおやけの場では着るべきではなかったもの、
という由来を持つということです。
それらは、スポーツウエアであったポロシャツ、
下着であったTシャツやキャミソール、
そして、作業着であったデニムで作られたジーンズやGジャンと呼ばれるジャケットです。

カジュアル化の後に来るものは、
これらのブランド化です。
ハイブランドがこれらをデザインし、グレードアップすることによって、
それらはより認められ、どこへ着ていってもおかしくない存在になります。
ここのところ、デニムのブランド化、グレードアップ化が特に進み、
ジーンズだけではなく、
デニムのコートやテイラードカラーのジャケット、ドレスまでが出現しています。

そのことは、着こなしの幅が広がり、選択肢がふえるという意味でも、
洋服の中のヒエラルキーが崩壊するという意味でも、
歓迎すべきことなのですが、
大人になればなるほど、それらを取り入れるときには注意が必要です。

グレードアップしたデニムですが、
それは残念ながら、やはり若者のものであり、元作業着です。
特にデニムについて、ほかの素材ともっとも違うのは、
素材のよしあしが、見ただけではほとんど判断できないという点です。
どういうことかというと、
そのデニムがどこ産なのか、
オーガニックコットンなのか、
有名な生地屋のブランド生地なのか、
見たところでは、ほとんどわからないのです。

ジーンズははいてしまえば、5万円以上するような高価なジーンズでも、
量販店で売っている3000円のジーンズでも、
見た目には、その差がわかりません。
それはほかの天然素材であるウールやシルクなどとは、この点が大きな違いとなります。

大人が陥りがちなのは、
これは高価なジーンズ、またはデニムでできたジャケットやコートなので、
どこへ着ていっても恥ずかしくないだろうと勘違いすることです。
しかし、生地で差がつけられないデニムは、
どこまでいっても、若者のものであり、作業着です。
ということはつまり、どんなに高いジーンズを身に付けたところで、
チープに見える可能性が高いのです。

大人がデニムを作業着としてではなく身につけるときは、
そのチープさをそのまま出さないように、
バランスをとることが必要です。
年をとればとるほど、
そのチープさを上回るようなラグジュアリーな素材のものやジュエリーをあわせたり、
または作業着とは全く別方向の靴やバッグをあわせることにより、
全体の平均値を上げなければなりません。
それなしに、いい年の大人が、何の工夫もないジーンズ、Tシャツ、スニーカーで街を歩くとしたら、
それはかなり危険な行為と言わざるを得ません。

若者はそれをする必要がありません。
若さはそのチープさを凌駕します。
しかし、いい年の大人がそのチープさを放置したならば、
それは単なる貧しさであり、格が下がることを意味します。

幸いなことに、このところ新しく出てきたジーンズやデニムのジャケットには、
それだけ着てもチープに陥らないように、
豪華な刺繍がされていたり、スワロフスキーのクリスタルが縫いつけてあったりします。
それらは、ジーンズそのものがバランスをとっていますから、
あまり全体のコーディネイトを気にせず着ることができます。

確かに大人になれば、肉体や肌の若さは失われます。
しかし、それとは引き換えに、手に入れたものがあるでしょう。
若さも1つの輝きではあるけれども、
大人であるならば、若さとは違った輝きを、
長い年月をかけて、培ってきたはずです。
デニムを身につけるとき、
それが外にあらわれます。
それが鍛え抜かれた肉体や知性や技術なのか、
はたまた、戦いの後に手に入れた優しさなのか、
それはもちろん、人それぞれ違います。
人それぞれ違うように、それぞれがそれぞれに似合う方法で、
それを表現すればよいのです。
答えはいつでも、1つではありません。

☆写真:セルビッチがどうとか言われても、普通の人にはわかりません。


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2014年11月10日月曜日

理想のボディ(トルソー)を探すべし


今日は上級編です。
色についても、細かいテクニックも理解し、
実践できるようになったけれども、
なぜか「格好良く見えない」、その理由についてです。

オーダーメイドの落とし穴」で、
オーダーしたその人の身体に単純にゆるみを足しただけの服を作ったところで、
格好良い服にはならないと書きました。
この場合、オーダーメイドでしたが、
では、既製服の場合はどうでしょうか。

既製服メーカーは、ほぼすべて工業用ボディというものを使っています。
(トルソーはフランス語ですが、日本で婦人服を作る現場では、
ボディと呼ぶのが通常です)
そして、その工業用ボディにシーチングと呼ばれる、
木綿の生地をのせて、トワルという布のもとがたを作成することによって、
紙のパターンを作ります。
(シーチングとは、つまり、シーツの生地ということです。)

この工業用ボディですが、
どのような基準で作られているかというと、
ある一定の日本人女性の体型の平均値によって作られます。
工業用ボディの目的は、
多くの人に着られるように作るということです。

日本人女性の体型が理想の体型かと言えば、
それは違います。
理想とは、常に今の自分よりも上の状態です。
平均的な顔と、美しい顔は違うように、
平均的な体型と、美しく格好良い体型も違います。

しかし、日本の多くのアパレルメーカーは、この工業用ボディを使ってパターンを作ります。
専属のフィッティングモデルを使って、
トワルチェックをするのは、ごく一部の限られたブランドのみです。
どんなに大手であっても、シーチングで作ったトワルを縫って組み立てて、
実際にそれをモデルに着せてチェックするところは、ごくごく少数派です。
ほとんどは、ボディに着せたまま、しかも半身のみで、
サンプルを作成します。
そして、サンプルを着てみるのはほとんどの場合、
そこの会社のスタッフです。
理想の体型のモデルではありません。

つまり、日本の多くのアパレルメーカーは、
理想の体型のための、格好いい服を作っているわけではないのです。
着てみて、平均値に近くなるための服を作っています。

ここまで書いておわかりでしょうか。
この最大公約数を目的として作られた工業用ボディを使ったパターンでできた服を着たところで、
格好良く見えるわけがありません。
なぜなら、彼らは格好良いことなど、目指してはいないからです。

例として、写真を見てください。
これはBUNKAボディです。
20年以上前のものなので、今は少し改良されたとは思います。
一見してわかるのは、前側に傾斜した首と、
猫背気味、しかも肉づきのいい背中、そして鳩胸です。
つまり、日本人平均女性の体型とは、
このように、背中が丸まって、鳩胸で、首が前に出ている、
ということなのです。
このボディが着て美しいジャケットを、
もし私が着たならば、私は不必要に猫背になり、
背中の部分が余り、鎖骨のあたりはぶかぶかになります。
もちろん、それは私にとって理想でも、格好いい姿でもありません。
よって、私はBUNKAボディで作られた服は、着たくありません。

80年代半ば、日本中がバブルで浮かれていたころ、
アルマーニのジャケットが、おしゃれな人のあいだで一世風靡をしました。
なぜか。
アルマーニが提案する、格好いい体型が、
この日本の平均的体型とは全く違うものだったからです。
そのジャケットは袖を通しただけで、
猫背が解消され、背筋がしゃんと伸び、
誰でもが、格好良く見えたのです。
服、特にジャケットのように、中に芯を入れ、形が作られた服には、
このように肉体を違うように補正する効果があります。
80年代半ば、インポートブランドが多く入るようになったとき、
一部のおしゃれな人たちは、そのことに気づいたのです。

パリコレクションに参加するようなブランドは、
独自のボディを使います。
そして同時に、独自の理想とするフィッティングモデルを必ず雇っています。
また、デザイナーが交代したら、そのボディもかえているはずです。
エディ・スリマンのサンローランは、
それ以前のサンローランとは、絶対に違うボディを使っています。
着てみれば、その違いは明らかです。

どんなジャケットを着ても、何となく垢ぬけて見えない、
自分の理想に近づかないのは、
もともと、あなた自身の理想とする体型のボディを使って作った服を選んでいないからです。
そんな服は、誰が着ても、その程度のものなのです。
なぜなら、彼らの理想は、不特定定多数にたくさん売ることなのですから。

幸いなことに、現在、日本だけでなく、各国からのインポート・ブランドが手に入る環境に、私たちはいます。
そのすべての中には、どこかに必ず、理想とするボディを使って服作りをしているブランドがあるはずです。

では、どうやって自分の理想のボディを使って服作りをしているブランドを見つければいいのでしょうか。
それは、自分で端から着てみる以外、方法はありません。
どんなに誰かが骨格を診断したところで、
そんなことは、決してわかりません。
また、洋服を着るときに重要なのは、骨だけではなく、筋肉と脂肪のつき方、
そして姿勢です。
洋服の構造やパターンを理解せず、
骨格だけで判断できると考えるならば、
それは素人考えにすぎません。
(言っておきますが、服のパターンは、専門学校に3年行ったぐらいでは、
絶対に理解できません)

西洋美術の歴史を見てみればわかるように、
ルネッサンス以降、理想の肉体美の追求というテーマが必ず出てきます。
ミケランジェロのダヴィデ像が美しいのは、
イタリア人男性平均体型だから、ではないのです。
理想としての、憧れとしての、たどりつきたい体型だからなのです。
それは、街を歩けばごろごろ転がっているような体型では、決してありません。
そして、日本には、このミケランジェロのダヴィデ像に匹敵する、
理想の体型の追求という文化がないのです。

もちろん、専属のフィッティングモデルがいるようなブランドのものは、
安くはありません。
ですから、全身をそれでそろえろとは言いません。
けれども、できればジャケットとコートは、
自分の理想の体型のボディを使ったブランドのものを買うことをお勧めします。
そんなブランドは、自分の欠点を隠し、理想の体型にその人を近付けます。

チェックポイントは、横と、後ろ姿です。
ベテランの販売員の方以外の言葉を信じてはいけません。
どんなに不格好でも買おうとさせるのが、今の販売の姿勢です。
販売員の方とは、適当に話をあわせ、
いつもの自分より、自分がより理想に近づいているかどうかチェックしてください。
猫背に見えたり、変なところにしわができたり、
姿勢が悪く見えるなら、そのジャケットは、あなたに合ってはいません。
さっさと次を探しましょう。
もちろん、単なる白いシャツも、ニットもすべてにおいて、
いいパターンのものは、凡庸な体型を理想に近づけるようにできているのですが、
当面のところ、ジャケットとコートだけの試着で構いません。
それを着てみれば、大体すべてわかります。
ジャケットがだめなところは、すべてだめです。

自分の体型の欠点を知っているのも自分、
そして理想の体型を知っているのも自分です。
誰もが同じ体型を目指しているわけではありません。
だから、誰からも、どこのブランドが自分にぴったりか、教わることはできません。
文章を読んだだけでもだめ、
雑誌のモデルが着ている写真を見ているだけでもだめです。
それがわかるのは、実際に着てみたときだけです。
行動しないことには、何もわからないし、変わりません。
自分で行動したものだけが、理想の自分に近づけます。
それ以外、願いがかなう方法は、残念ながら、ありません。

☆写真:これはBUNKAボディですが、ほかの日本の工業用ボディも大差ありません。


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2014年11月3日月曜日

レザー・ジャケット(革ジャン)

バイカー・ジャケットに代表されるレザー・ジャケットは、
男らしさ、ハードさ、反抗的なイメージを持つアイテムです。
黒い革ジャンで、まず思い出されるのは、
「理由なき反抗」のジェームズ・ディーンであり、
「波止場」のマーロン・ブランドです。
それはまさに男くささや、そして社会に対する反抗的な男性によく似合うジャケットであり、
彼らはそのキャラクターを強調するために、
よりハードで、タフな革ジャンを選びました。

女性がこの男くさいアイテムである革ジャンを着こなすときは、
このマスキュリンの度合いが100パーセントの革ジャンに対して、
どのようにフェミニンな要素を取り入れてバランスをとるかがポイントになります。

ハードなレザーを身につけた女性として、
真っ先に思い出されるのは、キャット・ウーマンであり、
日本では峰富士子です。
(ええ、峰富士子は二次元の存在です。また、レザーではなく、ビニールだという意見もあり)
彼女たちは、その豊満な肉体をハードなレザーで身を包むことにより、
女性性をより強調させます。
そして、その女性的なボディのラインと、男性性の象徴であるレザーのコントラストが、
セクシーな感じを生み出します。
そこに落差があればあるほど、見る人は、なまめかしさや、
色気を感じるのです。

残念ながら、人間は大人になればなるほど、その性差がなくなっていくと言われています。
性差があいまいになり、
それをそのまま放置したならば、
おじさんおばさんや、おばさんおじさんになり、
男性と女性、どちらともつかない、
かといってデヴィッド・ボウイやティルダ・スウィントンのような、
アンドロジーナスな魅力があるわけでもない、
中途半端な存在になっていきます。

レザー・ジャケットは布帛のジャケットに比べて高価であり、
大人にふさわしいアイテムであるわけなのですが、
大人がレザー・ジャケットを着る際には、
「まるで男」にならないように、注意が必要です。
それは余りにも簡単に、
男性側の崖へ落っこちてしまうアイテムでもあるからです。

「まるで男」にならないためにも、レザー・ジャケットを着るときは、
ジャケットそのものにフェミニンな要素が入ったものを選ぶか、
(たとえば袖はニットのもの、明るい色のもの、写真のようにスワロフスキーのボタンが使われたものなど)
もしくは、コーディネイトするときに、スカートやドレス、
シフォンやフリルなどのついたブラウス、
ピンヒールの靴、パールのネックレスなど、
男性が身につけないような、女性的な要素のアイテムをあわせることが肝要です。
そして、男性性と女性性のコントラストがはっきりすればするほど、
セクシーになり、おしゃれに見せることができます。

もちろん、峰富士子のようなグラマーなボディや、
緩やかに波打つ豊かな髪の持ち主など、
その人自体が女性性の象徴のような存在だとしたら、
あえて女性的なアイテムを持ってくる必要はありません。
要するに、後ろから見て、男性と同じにならないようなスタイルを作り上げることができれば、
それでいいのです。
見る人の心を動かすことができるのは、その落差なのですから。

ここで言う男性や女性は、
必ずしも生まれたときにそうだと判断された性別ではありません。
自分がぴったりフィットすると感じられる性別のことです。
生物的には女性と判断されたとしても、
実際はそうではない人もいるでしょう。
また、男性でも、女性でもないという性が、
自分にとって一番ぴったりくると感じる人もいるでしょう。
衣服を着ることによって、
私たちは、より自分にぴったりくる性を表現することができます。

レザー・ジャケットを着るとき、
自分が女性だと感じている人は、女性ならではの着こなしを、
自分が男性だと感じている人は、そのままストレートに男性的な着こなしを、
そのどちらでもないアンドロジーナスな存在なら、そのどちらにも属さない、オリジナルな着こなしを、選ぶ権利が私たちにはあります。
そして同時に、女性が男性のようになる必要も、
男性が女性のようになる必要もありません。

自由と平和がある限り、
フェミニンでも、マスキュリンでも、
私たちは選べます。
男性的なレザー・ジャケットに身を包みながら、
ありったけの女性性を表現する、
そんな着こなしが許される時代に、私たちは生きています。

☆写真:スワロフスキーのきらきらしたボタンがレザーのハードさを和らげている、上質な革のジャケット。こんなジャケットが、大人の女性にはふさわしいです。


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2014年10月27日月曜日

「ファッションで世界を変えられるか」という問い

2015年春夏のプレタポルテのコレクションで、
シャネルはストリートのセットを作成し、
フィナーレでプラカードを持ったモデルたちがデモ行進をするという演出を行いました。
それを受けて、
「ファッションで世界を変えられるか」という問いがあちこちから聞かれてきました。
さて、ファッションで世界は変えられるのでしょうか。

パリ・コレクションがファッション業界のトップであるとすれば、
底辺は木綿畑であり、羊牧であり、石油の掘削現場です。
その底辺からトップへいくまでの間に、
収穫する人、運ぶ人、生地を作る人、
デザインやパターンを作る人、
縫製する人、
検品する人、アイロンがけをする人、
荷造りする人、搬入する人、
売り場に並べる人、
そして服を売る人まで、
実にさまざまな種類の業種、そして人がかかわります。
ファッション産業は、時間軸で見ると、人間が衣服を作り始めたときからであり、
空間軸で見れば、それは世界規模の広がりです。
パリ・コレクションという一部の小さな狭い側面だけを見れば、
ファッションなどというものは、世界や歴史に対してとるに足らないものかもしれませんが、
裾野から頂上までを俯瞰して見るならば、
それは世界の隅々まで、そして過去から未来まで、
広範にわたり影響を与える存在です。

哲学用語で、「ホロン」という考え方があります。
部分は全体をあらわし、また全体もまたその部分と同じ構造であるという考え方です。
その考え方でいくと、
ファッション業界は世界の産業の部分であるとともに、
その構造は、まさに世界の産業そのものであると言えます。
そして、服を1枚買うごとに、
私たちは、この構造に参加することになります。
私たちが服を1枚買うという行為がファッション産業に与える影響は、
世界の産業に与える影響と同じものなのです。

ファッション産業は、「フェア」であることとは、ほど遠い産業です。
人権をないがしろにされる部分も多いです。
表に見えるきらびやかさ、美しさとは反対に、
内部はあきれるほどに残酷で、腐っています。
1枚のTシャツを外から見ただけでは、
その来歴はわかりませんが、
木綿畑までたどってみれば、多くのものには、何らかの「フェア」でないことが存在します。
それは過剰な農薬かもしれませんし、児童労働かもしれません。

私たちは、服を1枚買うごとに、この構造に影響を与えます。
違う言い方をすれば、どんな服を買うかという選択する権利を持っています。

世界を変えることができるのは、この選択する権利を持っている私たちです。
私たちは選ぶことによって、世界を変えることができます。
つまり、「フェア」なものを選ぶならば、フェアな世界へ変える手助けをすることができます。

しかし、多くの人がここで、
「だけど」と言うでしょう。
「フェア」なものは高価で買えないと。
それは、確かにそのとおりでしょう。
なぜなら、私たちの多くもまた、ホロンの全体であるところの産業に組み込まれているからです。
私たちが買えないのは、
私たちが「フェア」な扱いを受けていないからです。
私たちの行為は、自分の尾を噛むウロボロスの蛇のように、
私たちにかえってきます。
「フェア」な扱いを受けていないから、「フェア」なものは買えない。
この悪循環から抜け出すためには、
「フェア」な行いによって、「フェア」な扱いを受ける方向へ乗り換えなければなりません。

過剰な農薬にむしばまれているのは、過去のあなたかもしれません。
劣悪な環境の縫製工場で事故に遭うのは、未来のあなたかもしれません。
それは、世界のどこか知らない地域の話でも、
自分たちに全く無関係な話でもありません。
それは、日本で言えば福島の縫製工場の状況でした。
そして現在のあなたが、「フェア」でない扱いを受けているのなら、
「フェア」な行為をしないことには、あなた自身も、
そして、世界も変えることができないでしょう。

「だけど」と言う前に、少し考えてみましょう。
いつもなら2枚買うTシャツを1枚にすれば、よりフェアなものが買えないか。
新しさだけを追求しなければ、より安価に、しかも高品質なものが買えないか。
リサイクルショップでなら、手に入る範囲で、熟練した職人が、フェアな対価で作った、
上等なツイードのジャケットが買えはしないか。
方法は、ほかにも幾らでもあるでしょう。

「ファッションで世界を変えられるか」という、その問いは、
問いの中に含まれる、「世界に対するファッション」という、
その前提が間違っています。
ファッション産業そのものが世界の産業の構造であり、
それは世界に含まれています。

ファッションが世界を変えるのではありません。
「フェア」なものを選ぶという行為がファッション産業を、
ひいては世界を変えます。
そして、最終的にはあなたを変えるでしょう。
その力を、私たちは持っています。


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2014年10月20日月曜日

コスチューム・ジュエリー

コスチューム・ジュエリーとは、本物の貴金属や宝石を使ったファイン・ジュエリーに対して、
本物ではない、
たとえばガラス、真鍮、スチール、プラスチック
などで構成されているアクセサリーについての総称です。
もとは、20世紀の初頭、本物のジュエリーの代理品として、
また、舞台や映画で身につける衣装のアクセサリーとして使われたところから始まりました。
コスチューム・ジュエリーで誰もが知っている存在なのはシャネル。
1920年代、シャネルはファイン・ジュエリーのデザインもしましたが、
同時に、偽物の真珠を使ったコスチューム・ジュエリーを発表し、
コスチューム・ジュエリーのモードでの地位を確立しました。
1920年代と言えば、1929年の世界大恐慌。
不況とコスチューム・ジュエリーは大いに関係があります。
つまり、本物に手が届かなくなったとき、
人々はfaux bijoux(偽物の宝石)を愛するようになるのです。

さて、洋服のシルエットが変わってくると、
それにふさわしいアクセサリーのボリュームも変わってきます。
しかもそれは単純に比例します。
タイトなシルエットの服には小さめの、
大きなシルエットの服には大き目のアクセサリーが、
全体のバランスをとるためにも使用されます。

2012年以降、洋服のシルエットは大き目な方向へ動きました。
それに伴って、アクセサリーも大きくなりました。
それまでのタイトな服の時代は、小さめでも偽物ではなく本物、
つまり貴金属や宝石のジュエリーをつけることができました。
ダイヤモンドや24金であったとしても、
小さいものであったら、多くの人が買えました。
しかし、ジュエリーにもボリュームを求められるようになると、
それをすべて本物でまかなうことは不可能です。
また、本物しか使えないとなると、デザイン的な制約も大きい。
ボリューム、そして自由なデザインの表現を追求できるのは、
偽物で作られているコスチューム・ジュエリーならではです。
そして、服のシルエットが大きくなったのと同時に、
にわかにコスチューム・ジュエリーは再び注目されるようになりました。

日本においては、洋服とはまた別のトレンドの中で、
長いことジュエリーについてキャンペーンが行われてきました。
初期は、真珠のジュエリー、
そして、それが行きわたったところで、
一粒ダイヤモンドのジュエリーです。

パールのネックレスを1本は持っているべきです、
どんなときでも使えます、
そして何よりおしゃれに見えますという、
お説教にも近いうたい文句に、
多くの女性は納得し、1本はパールのネックレスを保持するようになりました。
もちろんそれは日本が真珠の生産国であることも関係しています。
そうでなかったら、これほどまでに真珠のネックレスは広まらなかったでしょう。
しかし、それも多くの女性に行きわたったころ、
次のキャンペーンが出現します。
それが、「一粒ダイヤモンドのネックレスこそおしゃれ」キャンペーンです。
ダイヤモンドは宝石の女王、誰にとっても憧れの宝石、
それを自分のものにしようというキャンペーンは、
日本の円が強くなり、
以前よりダイヤモンドが手に入れやすくなった時期あたりから始まったと思います。
かくして、現在、一粒ダイヤモンドはかなり多くの女性が保持するにいたりました。

しかし、ここで思いだしていただきたいのは、
見慣れないものほどおしゃれに見えるという法則です。
多くの人に行きわたれば行きわたるほど、
見慣れれば見慣れるほど、それはもはやおしゃれには見えません。

パールのネックレスも一粒ダイヤモンドも、残念ながら、
今やそのような見慣れた存在になりました。
つまり、それをしているからといって、特別おしゃれには見えなくなったのです。

コスチューム・ジュエリーの特徴は、デザインのバラエティの豊富さです。
似たようなものがあるとしても、多くの人が全く同じものをするという状況にはなり得ません。
また、最近出現してきたコスチューム・ジュエリーは、
以前のものより進化していますから、デザインだけではなく、
使われる素材も、羽や布、リボン、クリスタルなど、より多岐にわたっています。
また、多くの有名、無名の作家がさまざまなものを発表し、
一点ものも多いです。
これをうまく利用すれば、自分にぴったりの好みの、
しかもほかの誰もが持っていないようなものを見つける、
そして手に入れることが可能です。
それはまさに「見慣れない」ものであり、よって、それはおしゃれに見えます。

デザインの点では多くのメリットがあるコスチューム・ジュエリーですが、
もちろん欠点もあります。
それは、あくまで偽物なため、最終的にはごみ、しかも燃えないごみになる可能性が高いということ、
そして、ものによっては非常にチープな質感であることです。

コスチューム・ジュエリーは、チープなファスト・ファッションから、
高価なハイブランドまで、どこでも売られています。
当たり前ですが、安いものはそれなりの質感です。
ただのガラスよりもスワロフスキーのほうが、
そして半貴石やクリスタルのほうが高価なのは当然です。
ある程度の大人であるならば、あまりにチープなものを選ぶべきではありません。
なぜなら、チープなものは、それを身につける人を安っぽく見せるからです。

また、どう考えても1年であきてしまうようなものをいくつも買いこむのも考えものです。
明らかにすぐ燃えないごみになるとわかっているものを買うのは、
21世紀の考え方ではありません。
最終的にはごみになってしまうとしても、
たくさんは持たないか、
分解してリフォームすることが可能なものか、
コットンパールや水牛の角のように燃えるごみになるもの、
もしくはシャネルのコスチューム・ジュエリーのように、
いらなくなったとしても、誰かが欲しがるものを選ぶのがよいでしょう。

コスチューム・ジュリーはいつも流行しているわけではありません。
また、本物のジュエリーは高くて買えないとしても、
コスチューム・ジュエリーなら買えるというものも出てくるでしょう。
何より、唯一無二の自分のために、
ユニークなコスチューム・ジュエリーを探すのは、
楽しい行為になることは、間違いありません。
購買可能な価格での一点ものも、コスチューム・ジュエリーならではです。

どんなものにも旬はあります。
コスチューム・ジュエリーはまさに旬のジュエリーです。
1つ足しただけで、それは今風になり、
自分らしさの表現もできます。

身につける人が本物ならば、
faux bijoux(偽物の宝石)さえ本物に見えてきます。
その逆に、偽物の人物が身につけるならば、
それは偽物のまま。
よって、コスチューム・ジュエリーはリトマス試験紙のような存在でもあります。
いかにも、コスチューム・ジュエリー(衣装宝飾)は、
世界という舞台で物語を演じる主人公に、
ふさわしいジュエリーではあると言えるでしょう。
本物か偽物かは、
そのパフォーマンス(演技)を見ればわかります。


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2014年10月13日月曜日

フォークロア

ファッションでは、フォークロアと呼ばれる民族調のスタイルが、
周期的に取り上げられます。
もちろんそれが流行る場合もあれば、流行らない場合もありますが、
ここ最近で大流行したのは70年代でした。
ヒッピー・ムーブメントと相まって、
より若く、そして自由な雰囲気を表現するために、フォークロアが流行りました。
70年代のフォークロアの特徴は、ボヘミアンと呼ばれたジプシーのスタイルが中心で、
主にチェコスロバキアなど、東欧の民族調スタイルを取り入れたが主流でした。
(わかりやすいイメージとしては、スティービー・ニックスのスタイル)

2014年現在、再びフォークロアが注目を浴びるようになりました。
しかし、それは70年代の主に東欧イメージのものとは少し違い、
もう少し範囲も意味も広く、地域性にこだわるよりも、
その手法、つまり「手仕事」としての側面に注目するものとなりました。
なぜなら、再びフォークロアが注目されるようになったのは、
これまで続いた、平坦で、変わり映えのしない、
退屈な大量生産の衣服に対する反動が原因だからです。

今回流行のフォークロアは、その手仕事が重要となります。
ですから、必ずどこかしら手で仕事をしたような痕跡、
それは刺繍であったり、アップリケであったり、
が加えられます。
繊細なレース編みや、複雑な模様編みのニットなども、
広義の意味ではフォークロアに入れてもよいでしょう。

また、今回の流行の特徴は、フォークロアとして取り上げる民族調の範囲が、
広く設定されていることです。
「手仕事」のあとが見られるものなら、それは地域を問いません。
東欧であっても、東洋であっても、
そしてたぶんこれから出てくるであろう南米やアフリカであっても、
機械ではなく、手を使って作られたあとがあるならば、
それはフォークロアなのです。

シルクシフォンのドレスに施された繊細な刺繍、
ウールのマントの上の動物や植物モチーフのアップリケ、
編んだひもでできたブレスレット、
羽や半貴石がついた、ロングネックレスなど、
このフォークロアの要素は、ありとあらゆるところに見られるようになりました。

日本に住む私たちにとって、
フォークロアは、大流行とはいかないまでも、
いつもどこかで何しら存在しているような、
身近な存在です。
中央線の中野から国分寺あたりまでの、
ヴィンテージ・ショップや、エスニック・スタイルのショップをのぞけば、
何かしら手に入りますし、それを今までも取り入れていた人たちは多いでしょう。

素朴な感じ、かわいらしい感じが、
特にナチュラル志向のファッションが好きな人たちに受け入れられてきた経緯があると思います。

ただ、今の流行は、それがあくまでモードの世界であらわれてきたもの。
素朴さや、ナチュラルそのままではなく、
もう少し洗練させて、より上等に、手の込んだもののほうがふさわしいです。
そんなフォークロア調の何か、
たとえばアクセサリーや、アップリケのついたバッグなど、
1つ全体のコーディネイトに付け加えるだけで、
そのほかのアイテムがいわゆるナチュラル・テイストではないとしても、
21世紀の新しいフォークロアを表現することができます。

民族調の地域は、どこでも構いません。
重要なのは手仕事です。
ですから、今回は自分たちが住む地域、
つまり日本を含むアジアのものを取り入れても、
それは構わないわけです。
アジア地域にも、さまざまな民族調の衣装があり、
それにはどこかしら、必ず手仕事のあとがあります。

手仕事は、均質化した、終わりのないほど退屈な機械化の、
対極のものとして注目されています。
手仕事の特徴は、均一ではない、ということです。
極度に発達した機械化は、人間の衣服を徹底的に均一なものに統一しようとします。
しかし、それを着せられる人間は、均一な存在では、全くありません。
一人一人違って、1つの価値基準では判断不能の、
ばらばらで、不揃いな存在です。
それなのに、すべてに同じものを着せるということなど、
無理なことなのです。
肌の色も、地域の文化や特色も、気候も、言語も、生活習慣も、
すべて無視して、ある1つの価値基準に統一しようとする流れに対する反動として、
今回のフォークロアが出てきたのであるならば、
その結果として、手仕事が全くばらばらであっても、全く問題はありません。
それどころか、手仕事が目指すものは、ほかには存在しない、
ユニークなものであるのです。
それはあたかも、私たち一人一人がユニークであるがごとく、です。

そんなユニークな手仕事と、どこでどんなふうに出会えるか、
それは人それぞれ違うでしょう。
それはスーパーマーケットの、均質なものが大量に並べられている棚からは、
選べないということだけは確かです。

誰とも同じではない自分が、
ユニークな手仕事の衣服やアクセサリーを身につける。
それが、21世紀のもっともファッショナブルなフォークロアです。



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2014年10月6日月曜日

おしゃれに見えるスタイリングは変わっていく

数学のように、どんなも問いに対しても答えが1つなら、
頭を悩ませることは、それほど多くはないでしょう。
しかし、芸術、音楽、文学のたぐいは、
答えが1つというわけにはいきません。
ファッションもまた、数学ではありませんから、
グレーに似合う色は?
何にでも合う靴はどんな靴か?
トレンチコートは1年じゅう着られるか?
などの問いに対して、答えは1つではないのです。
そして、その最たるものがスタイリングです。

たとえば、自分が子どものころのおしゃれな女の人の格好を思いだしてみてください。
あるいは、80年代のおしゃれに見えた雑誌のスタイルを思いだしてみてください。
残念ながら、そのスタイルをそのまま現在に持ってきたところで、
決しておしゃれには見えません。
80年代のスタイルを今そのまましたのなら、
それは単なる80年代のコスプレです。
ですから、スタイリングの教科書があったとしても、それはそのときだけ使えるものであり、
何年もたってから使おうと思っても、使えるものではありません。
シャツの裾ををパンツに入れるのか、入れないのかひとつとってみても、
どちらがよりおしゃれに見えるかは、
時代によって違うのです。

ファッションには流行というものがあり、
時代とともに、衣服のシルエットやデザインが変わるということは、
誰でもわかると思います。
しかし、変わっていくのはシルエットやデザインだけではありません。
スタイリングもまた、変化します。
しかもそれはいつでも進化しています。

「今後10年の流れ」で示したように、
基本的な西洋の女性用衣服の流れは、
男性服の取り入れと、より自由になるためのスポーツウエア、作業着、下着の格上げです。
それはスタイリングにおいても同様です。
時代ごとに流行るシルエットとデザインがあり、
その上により進化したスタイリングがのります。
タイトスカートにハイヒールを合わせるのがおしゃれに見えたのが、
時代が進むと、タイトスカートにスニーカーがおしゃれに見える、となります。
そうなったとき、以前のタイトスカートにハイヒールは一番おしゃれではなく、
タイトスカートにスニーカーと同位置になるか、
少し後退します。

その提案はほとんどの場合、スタイリストではなく、
デザイナーによって行われます。
テイラードジャケットのインナーにランジェリー、
スカートの下にパンツ、
ドレスにスニーカーなど、
そのオリジナルはストリート・ファッションであることもありますが、
認定を与えるのはデザイナーです。
ごく一般の人がやったら奇異に見られるだけの、
男性の着用するジャケットを女性が着ることをココ・シャネルが提案したならば、
それはそこからモードになります。
そしてその慣習は今でも続いています。
デザイナーによるお墨付きがされた、新しい着こなしは、
その後、安心とともに、多くの人に認められ、広がるのです。

「色」を除いては、
絶対にこうでなくてはいけないという、スタイリングの法則はありません。

チュニックの下にタイトなパンツをあわせるのがおしゃれに見えるときもあれば、
ワイドパンツをあわせたほうがおしゃれに見えるときもあります。
どちらがおしゃれに見えるかは、その「時代」により決まります。

そして、その時代感覚を取り入れないことには、おしゃれには見えません。
逆に、かたくなに時代感覚を無視するのならば、
その人はもうおしゃれな人ではないのです。
好奇心、柔軟性、行動力は、おしゃれな人にとって必須の要素です。
それは年齢の問題ではありません。
どんなに年をとっても、
そのときの新しい感覚を取り入れて、
スニーカーをはいてみたり、ダウンジャケットを着てみたりするならば、
その人はおしゃれになります。

おしゃれに見せたいならば、
「色」には厳格に、
スタイリングには柔軟になりましょう。
それは新しいものを買うか、買わないかの問題ではありません。
それは感覚の問題です。
どんなに古いものを着ていても、
新しい感覚を取り入れることは可能です。
ジャケットの下にはジーンズだったものをスウェットパンツに変える、
フレアスカートにスニーカーをあわせる、
そんなほんのちょっとしたことでも、その時代の空気を表現することはできます。

その時代の空気を知るためには、
常に好奇心を持って、
ファッションの情報に触れること。
電車に乗るときも、
街を歩くときも、
インターネットでサイトを見るときも、
いつでも、どんなところでも、
見ようとすれば、知ろうとすれば、
時代の空気を感じることができます。
あとはそれを取り入れる行動力があればいいだけのこと。

読んでいるだけ、
知っているだけ、
考えただけ、
お祈りしただけでは、現実は変わりません。
実際に行動に移さないことには、おしゃれは始まりません。
おしゃれと人生は、その意味において、似ています。
ドレスにスニーカーをあわせて歩き出したかどうか、
それが一番重要なのです。


★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。



2014年9月29日月曜日

今後10年の流れ

2012年、海王星がうお座に入宮するころ、
これからは、ラファエル前派に見られるような、
フェミニティを強調した、はかなく強い女神スタイルがやってくると、
予想しました。
果たして、フリル、オーガンジー、シフォンの女神スタイルのたくさんのモデルたちが、
ランウエイを歩くことになりました。

海王星が宮をうつるごとにファッションの流れが変わるという説は、
リズ・グリーン女史によるものですが、
次に海王星が宮を移動するのが2025年。
ですから、あと10年ちょっと今の流れが続きます。

ラファエル前派と書いたのには理由があって、
そのころも今と同様に、海王星がうお座に位置していたからです。
ラファエル前派の画家の代表的なアーチストは、
ウィリアム・モリスとダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなのですが、
彼ら2人が在籍したもう一つの運動があります。
それが、アーツ・アンド・クラフツ運動です。
19世紀、イギリスで起こった産業革命の結果、
大量生産の時代に入り、生活に安かろう、悪かろうの製品があふれたことに対して、
ウィリアム・モリスが生活にもっと手仕事と芸術を取り戻そうと提案し、
広がった運動です。
2015年のプラダの秋冬コレクションを見て、
私は、まさにこれは現代のアーツ・アンド・クラフツ運動だ、
と思いました。
いわば、大量生産の味気ない、効率だけを優先した衣装に対する反動です。

奇しくもというか、当然ながらというか、
私と同じことを考えた人がいました。
2015年のドリス・ヴァン・ノッテンの秋冬コレクションについて、
スージー・メンケスはBritish Vogueのレポートで、
「アーツ・アンド・クラフツ運動の21世紀バージョン」と評しています。

現代に比べれば、19世紀の大量生産など、
大したことはないと思いますが、
それでも当時の芸術家たちにしてみれば、
それはまさに脅威だったのでしょう。
美しさも、人間の手のぬくもりもない、
機能的なだけのうつろな工業製品が身の回りにふえていくその様に、
我慢ならなかったのだと思います。

21世紀の現在、街にあふれるほとんどのものは大量生産の工業製品です。
特に、一般の人が着る衣服においては、
ほとんどの人が大量生産で作られたものを選び、
そこに残された手仕事はほんの少しばかりとなりました。
ですから、これからはそのなくなった手仕事を取り戻す動きが生まれると予想されます。
それが、いわば21世紀バージョンのアーツ・アンド・クラフツ運動となるわけです。
アーツ・アンド・クラフツ運動なわけですから、
植物や動物がモチーフとして取り上げられるのは当然です。
ウィリアム・モリスがデザインしたテキスタイルを思いだしていただければよいでしょう。
あれの21世紀バージョンが数多く展開されていきます。

シルエットとしてはフェミニン、女神、
そして、細部はアーツ・アンド・クラフツ運動に見られたような、
手仕事、またはレースやブロケード、ジャカードのような豪奢な織物、
これが今後10年続く大きな流れの中心となるでしょう。

しかし、歴史は決して後戻りしません。
当然のことながら、19世紀と現在とでは、状況は全く違います。
そのもっとも違う点は、
女性の自由と権利の範囲です。
19世紀、女性には、
ズボンをはく自由さえありませんでした。
もちろん職業選択の自由も、
財産を持つ自由も、
婚姻の自由も、何もありませんでした。
それはその後、100年以上もかけて女性たちがすべて勝ち取ってきたものです。

ココ・シャネルに代表されるように、
近代から現代の女性の衣服の歴史は、
コルセットや長いスカートから自由になること、
そして男性が着るものを女性が取り入れる、ということにより発展してきました。
自由で、活動的であるために、
スポーツウエアや作業着、肌着など、どんなアイテムでも取り入れていく、
それが現在まで続く西洋のファッションの大きな流れです。

大きなフェミニティの中に、
勝ち取った自由ををより拡大させる、
そして、奪われた、手仕事による美しさを取り戻すこと、
これが大枠ではありますが、
最後にもう一つ大きなテーマがあります。

現在進行中のグローバリズムが目指すところは、
世界の均質化です。
同じ言語、同じ文化、同じ食べ物を世界中にばらまき、
多様性を抹殺し、すべてフラットで均質化することが、
グローバリズムの最終目標です。
そこでは、人は同じ形、同じ色の同じ服を着ることが望まれるでしょう。
既に私たちは、あと一歩のところでグローバリズムが目指す世界に入るところまできています。
片足を突っ込んでいると言っても、過言ではありません。
しかし、グローバリズムの夢見る世界が完成した暁には、ファッションなど必要ありません。
同じデザインの同じ服の大量生産だけが必要な世界は、
優れたデザイナーが最も忌み嫌うものであるはずです。
ウィリアム・モリスが産業革命で起きた同質の大量生産社会にアンチを唱えたように、
現在の優れたデザイナーたちも、世界の均質化、フラット化にアンチを唱え始めます。
その1つの例が民族衣装のデザインの取り込みです。
それはアジアでも、アフリカでも、中南米でも、
どこのデザインでもあり得ます。
世界各地のあらゆる西洋とは異質な文化に見られるデザインの取り込みは、
今後も続くでしょう。
それは世界の多用性の表現です。
多用性はファッションが手放してはいけないものです。
なぜなら、ファッションは個々の違いに奉仕すべき存在だからです。
ですから、デザイナーは今後も多用性を擁護し続けます。

これが今後10年は続くと思われる大きな流れです。
もちろんすべてのデザイナーが同じ方向を向くわけではありません。
中には、自分のスタイルだけにこだわり、
それだけを作り続けるデザイナーもいるでしょう。
しかし時代を読むことのできるデザイナーは、
必ずその時代の空気、気分をデザインに落とし込みます。
そして、長い期間、活躍できるデザイナーとは、そんなデザイナーなのです。

10年続く大きな流れがわかったならば、
私たちはそれにそってワードローブを構築していけばよいのです。
今の自分と、
10年後の未来の自分が見えたなら、
そのあいだにかけ橋を作るワードローブを少しずつ作っていくこと。
それが私たちのすべきことです。

今、ここだけの欲望をあおる勢力に負けずに、
理想の未来のヴィジョンをしっかり持ち、
それに向かって一枚ずつ買い足していくこと。
それは同時に未来の自分を作る行為です。

未来の自分が見えたなら、
次にどんなデザインの、どんなものを買えばいいか、
何を選べばいいか、
はっきりとわかるでしょう。
ドレスを1枚買うごとに、
靴を一足、新調するごとに、
理想の自分に近づきます。
ワードローブは過去ではなく、
未来を向いて構築しましょう。
過去へはもう戻りません。
何を着ても自由な世界を、後戻りはさせません。
10年後、理想の未来が到来するかしないかは、
私たちの選択にかかっています。


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2014年9月22日月曜日

リバイバル

2013年を過ぎたあたりから、
各年代のリバイバルが盛んになりました。
主に60年代、
70年代、
80年代、
90年代がリバイバルしています。

ファッションに限らず、芸術全般は、過去のスタイルを取り入れて発展していきます。
絵画におけるラファエル前派は、ラファエル以前の絵画のリバイバル、
ゴシック ・リバイバルは、ゴシック建築の復興運動です。
ともに19世紀に起きた運動ですが、
社会が行き詰ると、アーチストたちは、
過去のアーカイヴに目を向けるようになります。
つまりそれは、あたかも過去のほうが優れていたかのように見えるからです。

今がよければ、過去を振り返る必要はありません。
過去に何かを求めざるを得ない状況があるからこそ、
私たちは古さではなく、新しい発見をアーカイブに求めます。
そう考えると、21世紀に入ってまだ10年足らずではありますが、
ファッションは行き詰っています。
そして、この行き詰まりから脱出するまでは、
さまざまな年代のリバイバルが繰り返されることになるでしょう。

実際のところ、
リバイバルと言えども、
その年代そのままのスタイルの再現ではありません。
それは繰り返しではありますが、
同じ軌道をめぐっているのではなく、
未来に向かってらせん状に発展していきます。
ですから、70年代リバイバルだからといって、
70年代に着たそのものを、そのままのスタイルで再現すれば、
それが今風になるかといえば、そうではありません。

ではどうすればよいのか。
私たちが何を見て、これは70年代だ、80年代だと言うのかといえば、
それはシルエットとスタイリングです。
その他、色と素材もありますが、
主なものはシルエットとスタイリングになります。
繰り返されているのは、
70年代のシルエットであり、70年代風のスタイリングです。
ですから、リバイバルがあらわれて、
それを取り入れたいのだとしたら、
70年代の服をそのまま着るのではなく、
シルエット、またはスタイリングを取り入れればよいのです。

70年代だとしたら、
シャツの上にニットのベスト、ボックスプリーツのスカートにハイソックス、ローファーの学生風スタイル。
または、ヒッピー風のフリンジがついた革のジャケットにマキシ丈のドレスやスカート、
それらに底に厚みのあるブーツやサボの組み合わせ。
80年代だったら、
とにかく何もかもがビッグ・シルエット。
自分にぴったりのサイズのものよりワンサイズ上のものを選び、
シルエットを大きくした分、アクセサリーは大きく、靴はごつく、フラットに。
黒くごついメンズライクの靴に黒いソックスをあわせるのも80年代のスタイルです。
それらは新しいコレクションを見てもわかりますが、
古い映画のファッションを参考にすることもできます。
60年代だったら、「シェルブールの雨傘」や「おしゃれ泥棒」、
70年代だったら、「追憶」や「アニー・ホール」、
80年代だったら、「マドンナのスーザンを探して」や「プリティ・イン・ピンク」がお勧めです。

これらの雰囲気を出すためには、何もすべて新しくする必要はありません。
今まで持っていたものを新しく組み合わせ直してみるだけでも、
十分に雰囲気を出すことは可能です。
たとえば、タイトスカートにヒールのパンプスをあわせていたものを、
スニーカーとソックスに変えてみる、
スウェットシャツにロングスカートをあわせてみるなど、
それまではしなかった、しかしほかの年代ではしていた組み合わせをしてみるだけでも、
十分に雰囲気は出せます。

また、何か買い足すにしても、
たとえば、80年代風にしたいのだったら、
黒いソックスを買い足す、
スウェットシャツは大き目のものを選び、ビッグシルエットを作るなど、
今まで買っていたアイテムの色を変えたり、
サイズを大きくしたりすることで対応することができます。

注意すべきなのは、
70年代リバイバルだからといって、
70年代のものを古着で全部そろえたりしないようにすることです。
実際やってみればわかりますが、
そんなことをしてみても、今の気分にはなりません。
必ずどこかしら進化しなければ、それは今ではありません。

進化したのは何でしょうか。
進化したのは、素材であり、技術であり、洗練の度合いであり、そして何よりも自由度です。
60年代よりも70年代に、
70年代よりも80年代に、
80年代よりも90年代に大きく変わったもの、
それは女性の自由の範囲です。
70年代、ジーンズで大学に通うだけで非難されました。
しかし、今では高級ホテルにさえ、ジーンズでチェックインできます。
スニーカーは、大人のはくものではありませんでしたが、
今では、大人がこぞってスニーカーを選びます。
ファッションの中の不平等や差別の解消と、
女性の自由の拡大は相関関係にあるのです。
ですから、決して過去に戻ってはいけません。

デザイン・ソースとして、アーカイブを参照しつつ、
その自由は決して手放さない。
70年代の若者が、そのスタイルでは行けなかったところへ、
今の私たちは行くことができます。

ジーンズにダイヤモンドをあわせることも、
ドレスにスニーカーにあわせることも、
今の私たちには可能です。
それは大きな進化であり、進歩です。

過去の豊富なアーカイブを自由な心で再現する。
もはやここには禁止事項はありません。
なぜならそれは戦いによって勝ち取ってきたものだからです。
決してそのことは忘れないように。
今こうして自由でいられるのも、
タブーを覆し、非難する声にも負けなかった、
先駆者がいてくれたおかげなのです。



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2014年9月15日月曜日

流れを読むための定点観測のすすめ

私たちは日々、その日に食べるものを買います。
ほとんどの食べ物は買ってから、間もなく消費されます。
1年以上も、それを保持しているということはまれです。

日々ではありませんが、私たちは服を買います。
しかし、そのほとんどは、消費し終わるまでにある程度の月日を要します。
それは短いもので1シーズン、
長いものでは10年以上に及ぶものもあります。

食べ物も、衣服も、買うという同じ行為によって手に入れるわけですが、
これらを同じ視点で買うことは、適当ではありません。
かたや、1週間かそこらのためのも、
かたや、これから先、何年も続くであろうためのものです。

食べ物を買うときに、私たちは賞味期限をチェックします。
それは「いつまで食べることが適当か」ということの指標です。
けれども、残念なことに、衣服には賞味期限の記載がありません。
それが果たしていつまでもつのか、
買う時点では、ほとんどの人にはわかりません。
わからないことですが、失敗のない買い物をするためには、
これをある程度、把握することは必要です。
買ったはいいけれども、
賞味期限がすぐ訪れるものなど、
手に入れないほうがいいからです。
ファッションの流れを読み、
今まさに買おうとしているものが、
この先、どの程度、着られるものなのかと推測するためにも、
定点観測をおすすめします。

少なくとも、今、このブログを読む環境にある人は、
インターネットに接続可能であると思います。
(誰かがコピーしたものを違う媒体で読むのでなければ)
そうであるならば、同じように世界中のあらゆるファッションに関連する情報に、
アクセスすることも可能です。
ファッションのプロでもない限り、
すべての情報をチェックする必要はありません。
ですから、定点観測です。
たとえば、自分が好きなブランドのコレクションの情報を、
それは買わないかもしれないけれども、
チェックし続けるのです。
春夏、秋冬、クルーズ、プレシーズンと、
少なくとも年4回、新しいコレクションの情報が、
インターネット上で公開されます。
それはブランドのHPにもありますし、
雑誌のコレクションをまとめたページにもあります。

それによってわかることがあります。
それがファッションの流れです。
流行という言葉で示されるように、
ファッションはある方向に向かって流れていきます。
そして優れたデザイナーは、
必ずその流れを把握しています。
彼らは、いつでもほんの少し先の未来予測を、
コレクションを通じて教えてくれます。
何年も続けて、定点観測し続ければ、
誰にでもこの流れの方向がわかるようになります。

ファッションの流れがわかると、
おのずと、売られている服の賞味期限についてわかってくるようになります。
シルエットの流行の変化が見えるようになり、
終わるものと始まるもの、続くものの区別がつきます。
そのとき私たちは、
1枚のジャケットに、
その色や素材や値段など、見えるもの以上のものを見るようになるのです。
つまり、その服が持っているデザインの立ち位置です。
その位置が遅れたものなのか、
今のものなのか、
一歩進んだものなのか、
それが見えてきます。
それがわかれば、その服がいつまでもつものなのか、大体の予想がつき、
それを考慮して買い物することができます。
1シーズンで消費し切るものは賞味期限の短いものを買ってもよいし、
10年着たいというものは、賞味期限ができるだけ長いものを選ぶことが可能になります。
賞味期限が短いものとは、今だけの気分のものであり、
賞味期限が長いものとは、これから続く流れを見越したシルエットのものです。
たとえば、2000年だったら、タイトなシルエットのコートがその後、10年続く流れでしたが、
2014年になって、完全に流れが変わってしまった後は、
コートの流れはビッグシルエットへ向かっています。
つまり、ビッグシルエットのほうが、賞味期限の長いコートになります。

また、この定点観測で流れがわかれば、
次のシーズンにくるであろう、新しいスタイリングの形がわかります。
「新しさ」とは、何も新しい「モノ」だけのことではありません。
バランス、組み合わせ、着こなし方法など、
今まで既に存在していたものの新しい組み合わせ方や、
新しいバランスのとり方などのスタイリングもまた「新しさ」です。
流れがわかるようになると、
次に新しく見えるスタイリングの形は何なのかがわかるようになります。
それがわかれば、
今持っているアイテムの組み合わせを変えるだけで、
あるいは何か1つを付け足すだけで、
新しく見えるスタイリングがわかるようになります。
その新しいスタイリングの気分を、
いちはやく取り入れることも、おしゃれに見せるための重要な要素です。
それは多くの人が取り入れる前に取り入れたほうがよりよいのです。
見飽きるほどに街にあふれるころに取り入れたのでは遅すぎです。
たとえばタイトスカートには今、ハイヒールをあわせるべきなのか、
スニーカーをあわせるべきなのかは流れを見ればわかります。
流れが向かう組み合わせを選べば、
そのスカートが、たとえ5年前のものであっても、
新しく、おしゃれに見えます。

これら定点観測には、ニ、三のブランドを見るだけで十分です。
たくさん見る必要はありません。
それでも定期的にチェックするだけで、
確実にわかるようになります。

20年前のように、
コレクション情報が一部の人のものである時代は終わりました。
私たちがインターネット上でアクセスできる情報は、
環境さえ整えば、特別なものではなくなり、
誰でも平等に見られるものになりました。
そこにはプロと素人の差はありません。
私たちが今、接することができる情報は、
限りなくオリジナルに近いものなのです。
私たちが学べるのは、オリジナルからだけです。
二次情報ではなく、オリジナルに接することで、
多くを学ぶことができます。

流れを読む、
その上で買い物をする、
スタイリングを考える。
私たち一人一人、
それができるようになれば、
誰かにおだてられて余計なものを買うことも、
流行っているらしいからと、街にあふれるものを買うこともなくなります。
自分が自分専属スタイリストになるためにも、
流れを読みましょう。
特別な才能はいりません。
ほんの少しの労力と、
そうなりたいという気持ちだけで、
それは誰にでも可能です。


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2014年9月8日月曜日

接近するファッションとスポーツウエア

スポーツウエアのテイストをそのままファッションに持ちこんで衝撃を与えたのは、1990年代後半のプラダでしょう。
大きく、重厚だったファッションの流れを、
シンプルで軽く、そしてスポーツウエアのテイストを加えたのが、
その当時のものだったと思います。
それ以降、スポーツウエアにデザインのオリジナルを持つもの、
たとえばウィンドブレイカー、パーカー、ポロシャツなど、
ごくふつうにコレクションで取り上げられるようになりました。
しかしその当時のファッション界におけるスポーツウエアは、
形だけを取り入れただけで、
同じ形だけれども、機能性はゼロの、
スポーツウエアをただ真似たものの域は出ていませんでした。
しかし、ここへきて、その形だけを真似たものの領域から出ようとする動きが出てきています。

同時に、スポーツウエアのメーカーはファッションに歩み寄ってきています。
ステラ・マッカートニーやフセイン・チャラヤンに代表されるように、
それまでコレクションを発表していた、いわばふつうの服のデザイナーが、
スポーツウエアのメーカーとコラボレーションする形でスポーツウエアを発表しています。
それらはまさに、デザインと機能性、両方を兼ね備えたものであり、
ファッションの側も、スポーツウエアの側も、
両方を同時に満足させるものになっています。

ファッションがスポーツウエアに歩み寄るようになったのには、
いくつかの理由が考えられます。
ファッションの急激なカジュアル化、
それによる、より動きやすく、リラックス感のあるデザインへの志向、
ハイテク素材の開発によりデザインと同時に機能性が実現できるようになったことなど、
さまざまな要因が同時多発的に発生し、
それが一気に同じ方向へ流れ込んできた結果が今でしょう。
その流れは、もはやオートクチュールと言えども無視できなくなり、
今ではシャネルやディオールまでも、
ドレスの足元にスニーカーを提案しています。
しかもそれは、飾り立てられ、ほとんど歩けないようなしろものではなく、
ストリートを駆け抜けることができる、
正真正銘のスニーカーなのです。

スポーツウエア、そしてアウトドアウエアなどの機能的なウエアは、
今後もファッションの中で大きな位置を占めるでしょう。
それは、ファッションが「特別な誰か」の独占物であることから、
より多くの、ふつうに街を歩く人々へと広がった証拠でもあります。

「特別な誰か」のためだけに服を作ってきたデザイナーは次々と消えていなくなりました。
たとえばスタイルのいい体型の人だけのために作ったデザイナー、
お金のある人だけのために作ったデザイナー、
自分のクリエイティビティのためだけに作ったデザイナー、
ファッション業界の内輪だけのことを考えて服を作ったデザイナーなど、
今ではどこにいるかさえわかりません。
ふつうの人々がアクセスできない服は、結局、消えていくのです。

スニーカーやスウェットシャツ、
ウィンドブレーカーやダウンジャケットは、
誰でもアクセス可能です。
手が届かないものではありません。
「ジヴァンシーのバンビのスウェットシャツが欲しいのよ」とか言わなければ、
ふつうに手に入ります。
シャネルのスニーカーは買えなくても、
ニューバランスなら、近くのマーケットでも手に入ります。
同じように、
ステラ・マッカートニーのコレクションラインは買えなくても、
アディダス・バイ・ステラ・マッカートニーなら、買うことができます。

服は、誰かが着なければ、完成しないのです。
美術館に飾られたとしても、それはやはり完成ではないのです。
服は人が着て、歩いて初めて完成品です。
そのためにも、デザイナーはストリートのふつうの人々に近づく必要があります。
スポーツウエアに近づいたデザイナーたちの意図は、まさにそこにあるのです。
彼らは「特別な誰か」ではなく、
「ふつうの私たち」に近づこうとしているのです。
なぜなら、それこそが彼らが生き残ることができる、
唯一の道だからです。

私たちは、近付いてきた彼らを歓迎しましょう。
つまり、この流行は大いに利用しましょう。
長いこと作業着として一段下に見られていたジーンズは、
今では完全に市民権を得て、ほとんどの場所へ着ていけるようになりました。
スポーツウエアも、やがて同じようになるでしょう。
どんな高級ホテルも、シャネルのスニーカーは拒否できないでしょう。

考えてみれば、
アクセスできない服など、ないも同然なのです。
どんなにお高くとまってみたところで、
手の届かない服など、私たちを変えることはできません。
着ることができる服こそが、力を持っています。
そして、「ふつうの私たち」が欲するのは、まさにそれです。

機能性とデザインは両立し、私たちはそれを手に入れることができるようになりました。
接近したのはファッションとスポーツウエアだけではありませんでした。
「ふつうの私たち」と「優れたデザイナー」もまた、
近付きました。
この円満な関係は、これからも続くでしょう。
もう後に戻ることはできません。



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2014年9月1日月曜日

スリット

スリットとは切れ目のことで、
洋服の場合は、特にタイトスカートの後ろ中心に、
歩きやすくするためのスリットが有名です。
しかし、このスリットですが、開きに用いられるスリットのように、
動きやすさ、着やすさなどの機能のために用いられるほか、
デザインとしてわざと入れる場合もあります。
そして、最近、デザインとしてのスリットがふえています。

たとえば、
タイトスカートのスリットを脇から前よりに持ってきて太ももあたりまで深く入れる、
ドレスの後ろ中心をファスナーでしめずに、スリットにして開けたままにする、
肩線を少し開けて肩を見せるようにするなど。

そして最近、特に多いのは、
ボディの前身頃の中心線が大きく開いたタイプです。
シャツやニットの前中心の深い切り込み、
それから、これはもはやスリットと呼びませんが、
ドレスやジャケットの前中心をV字になるように、
開けたままにするスタイルです。

ポイントはどれも、深く開いたその隙間からは素肌が見えているということ。
ドレスやジャケットの胸元は深くV字に開けたままで、
下には何も身につけず、素肌を見せます。

このように、あらゆるところに深く切れ目を入れて素肌を見せるスタイルが、
ここのところ多く出てきました。
これは、シルエットではなく、細部のデザインの流行で、
これからもっと拡大していくでしょう。

ファッションに求められるのは、
見慣れぬこと、
意外性、
そして驚きです。
この、至るところに切り込みを入れて、
いろいろなところから少しだけ素肌を見せるスタイルは、
そのファッションの求めるところを見事に実現しています。
その隙間から見える素肌は、
ふだんは見せていないような部分であり、
また、意外性に満ち、見るものの視線を、
知らぬ間に引きつける効果を持っています。

ファッションにおいて、
あからさまに肌を見せるということ、
ひいては、あけすけで、意図を持った性的表現は、
かえって逆効果です。
それは下品と呼ばれます。
下着が見えそうなスカート丈や、
ごくふつうのブラジャーが胸元から見えていることは、
おしゃれの反対側にあるものです。
なぜなら、そこには驚きも、意外性もなく、
性的に引き付けたいという、見え透いた意図がはっきりわかるからです。
それはモードなどではなく、
悪趣味で、夢見の悪そうな、偽装です。
他人から何かを奪ってやろうとする人は、おしゃれな人ではありません。

洋服の縫い目の、本来ならつながっているべきところがつながることなく、
切れているというそのことだけでも意外性があるのですが、
そこから見えるのが、本来は見えないはずである素肌であるということが重要です。
超ミニの丈のスカートから見える太ももではなく、
本当は見えないはずの、長い丈のスカートから、
太ももが少しだけ見えるから、そこに価値が生まれるのです。
それは最初からわかりきったミニ丈から見える太ももよりも、
はるかに想像力を刺激します。

ファッションは、想像力を働かせる余地を与えないような、
明らかな意図が、大嫌いです。
プレゼントが薄紙に包まれ、
箱に入り、
美しい包装紙に包まれ、
リボンがかけられるほど、
もらう側の想像力を刺激するように、
その中身、
つまりファッションにとっての意図が、すぐわかってしまってはだめなのです。

その意味においても、
この、至るところにあらわれる、意外性に満ちたスリットは、
冬の装いにおいて、より一層、その力を発揮するでしょう。
寒いので、すべての開きが閉まっているのは当たり前。
しかしそこで、ほんの少しでもどこか意外なところにスリットがあって、
そこから素肌が見えたなら、
そこにおしゃれが生まれます。

寒くても、それをあえて選ぶのがおしゃれな人。
それは機能ではないのです。
それは見る人に驚きを与えるための小さな仕掛け。
そのためには少しの寒さを我慢しなくてはなりません。
寒さや不便さを我慢しても、あえてそれを着る。
それもプレゼントの一種です。
おしゃれな人は、決して奪う人ではありません。
おしゃれな人とは、つまるところ、誰かに何かを惜しげもなく与えられる人だということです。 



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2014年8月25日月曜日

ワードローブに何を付け足すか

「クローゼットの見直しを」のコラムでは、
題名どおり、現在あるワードローブの点検、見直しを提案しました。
その中で、ワードローブのうちの大半は、
ほとんど着ていないという話を書きました。
ほとんど着ないようなものを買ってしまったということは、
つまり、失敗です。
ほとんど着ない服の数は、いわば負けの回数です。
しかし、失敗も悪くはありません。
失敗したのなら、そこから何かを学び、次は失敗しなければいいだけです。
では、失敗しないためにはどうしたらいいでしょうか。

クローゼットを見直しし、
現在持っているワードローブの全体像を把握したのなら、
何が必要なのか、わかるはずですなのですが、
実は、本当に必要なものが何なのかは、
多くの人が理解していません。
理解していないから、本当は必要でないものを買い足します。
その繰り返しにより、死蔵ワードローブができ上がります。

本当に必要なものとは、
クローゼットにかけられているだけではなく、
実際に着るもの、そしてその回数がそこそこ多いものです。
着る機会が多ければ、それは適度に劣化して、
やがて納得のいく形で捨てることができます。
服の一生を考えたとき、
デザインされて、生産されて、店頭に並んで、
買われて、誰かのクローゼットに入り、
何回も着られて、
擦り切れて、汚れて、破れて、
そして役目を果たして終わっていく、
このサイクルが確立すれば、問題はありません。
しかし、多くの服は、クローゼットに入り、
数回着てそのままそこに、という状態でサイクルを止めています。
そうではなくて、その先のサイクルまで進むもの、
何回も着て、納得いく形で捨てられるものが、本当に必要な買い足すべきアイテムです。

ここでは、クローゼットの整理が終わって、
全体を把握している状態であるという前提でお話しします。

まず、全体を把握したら、ワードローブ全体の構成のバランスを確認します。
枚数についての基本の考え方は、多い順に、
トップス(インナー)、
ボトムス、
ジャケット類、
コート類、
となります。
このバランスが崩れると、おのずと死蔵品がふえていきます。
たとえば、ジャケットを30枚持っていたとしても、
それらは万遍なくは着ていないはずです。
ジャケットは毎日取り換えるのに、インナーがいつも同じということもあり得ません。
そうして、あまり着なかったジャケットは、捨てるに捨てられず、
年がたつにつれて、どことなく時代遅れのシルエットとなり、
どうにもならない存在になります。
まずは、全体のアイテムの構成比率を整えましょう。

次に色です。
クローゼットを整理する際に、色別に分けるよう書きました。
色別に分ける理由は、コーディネイトを簡単にするためです。
3色ルールを実施するためにも、
色をそろえておくことは必須です。
色がそろったら、次はその中で何が足りないかを見てみます。
いつでも簡単にコーディネートを完成させるためには、
自分のいつも着る基本の色で、1色だけのコーディネートができるように、
アイテムをそろえておく必要があります。
たとえば、紺だったら、
紺のコートやジャケット、
紺のインナー(Tシャツ、シャツ、セーター)、
紺のボトム(パンツ、スカート)をそろえておき、
1色でコーディネートできるようにしておきます。
こうしておけば、インナーをほかの色に取り変えるだけで2色コーディネートに、
小物にさし色を足すだけで3色コーディネートになります。
自分の基本色が2色、3色とあるなら、その色の分だけアイテムをそろえます。
黒なら黒だけ、白なら白だけ、グレーならグレーだけでひとそろえを作ればいいということです。

また、自分が決めたさし色に使う色についても、
アイテムをそろえます。
赤をさし色にすると決めているのなら、
赤いバッグ、赤い靴、赤い靴下やタイツ、赤いストールなど、そろえます。

構成比を整えて、
1色コーディネートができるようにアイテムをそろえ、
さし色で小物を統一させる、
ここまでチェックの第一段階です。
ここで欠けているものが、次に買い足すべきものになります。

では、最後に最も重要なポイントです。
次に買い足すべきものは、
いつでも、どんな状況でも、
自分が最も好きなものであるべきです。
クローゼットを見直したときの状況を思いだしてみてください。
ほとんど着ていないものとは、
結局、たいして好きでもない、どうでもいいものではないでしょうか。
それに比べて、いつも着ているものとは、
とにかく自分が好きなもの、
着ていて心地いいもの、
自分らしいと感じられるものではなかったですか。

もちろん、予算もありますし、必要なものというのもあります。
それでもなお、もう二度と失敗したくないのなら、
自分が最も好きと思えるもの以外は、買うべきではありません。
失敗の理由は、その中途半端な好意です。

もう中途半端な好きなものを買い続けるのはやめましょう。
ほとんど着なかった服たちが、それは失敗なのだと教えてくれたはず。
本当に好きなものがなかったら、出会うまで我慢して、
今持っているものを使って、何とかしのぎましょう。
本当に好きなものとは、いつもなぜか着てしまう、
着用回数の多い、その服です。
それ以外は、すべてどうでもいいもの。

どうでもいいものを寄せ集めて作った、
つぎはぎだらけのワードローブは、もう要りません。
端から端まですべて大好きなものだけで、
クローゼットを埋めましょう。

不思議なことに、
中途半端に好きになったものは、
自分でいろいろ理屈を考えて、頭で好きになったものだけれども、
本当に好きになったものは、理屈などなく、
心が選んだものです。
心が選んだものは、自分が選んだというよりは、
選ばされたもの。
心はそれしか選べない。
それは自分の頭脳を超えて、
もっと違うところからの呼びかけにハートがこたえて選んだものです。
そんなものだけが並んだクローゼットなら、
もう二度と死蔵品は出ないはず。
選んだものではなく、
選ばされたもの。
それを貫き通せば、クローゼットをあけるたびにうれしくなります。
なぜならそれはすべてが生きているワードローブだから。
生きているワードローブと一緒に生きていけば、
それだけでハッピーになるでしょう。


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2014年8月18日月曜日

コスト意識を持って服を買う

不景気です。
しかも、状況はよい方向へは向かっていません。
そんな中、何でも好きに買える人は少数派です。
ほとんどの人はそんな状況にないはず。
服の値段なんて気にしないで、
思いつき、ひとめぼれで服を買う時代は終わりました。
それぞれが、それぞれの基準でコスト意識を持たなければなりません。

まず、これは基本ですが、被服費の年間予算を立てましょう。
話を聞いていると、家計簿をつけていない人も数多くいます。
せめて、被服費に関してだけでも予算を立てて、
1年間、幾ら使っていいか、そして何に幾ら使ったのか、帳簿をつけましょう。

予算を立てるということは、その前に年間の購買計画が必要になります。
今年は何を買うのか、コートなのか、ジャケットなのか、
それともバッグなのか、消耗品は年間でどれぐらいかけるのか、
大枠を決めて、それに沿ってお金を使います。
コートやバッグは、思いつきで買うようなものではありませんから、
1年間を通して、探しつつ、吟味していけば、納得のいく、
失敗の少ない買い物になるでしょう。

消耗品のようなTシャツからコートまで、
被服費には価格にかなりの幅があります。
価格の低いものは、大量に購入しなければ、
それほど価格を気にする必要はありませんが、
高額なコートやバッグなどは、慎重にならざるを得ません。
そんなとき、目安になる考え方を紹介します。

まず1つ目。
減価償却の考え方で、そのアイテムを買ったら、1度着るたびにコストとしてはいくらになるか計算してみます。
たとえば、10万円のコートを5年間着る予定として、年間このコートを20回着るなら、
1回につき1000円です。
この1000円という額をどう判断するかは、それぞれの価値観によります。
その1000円を、11月から3月、平均1カ月に4回、コートを着ることに使うのか、
ケーキとお茶に使うのか、本を買うのか、それぞれ考え方が違うでしょう。

次にそれをクリアしたら、
もし、その高額なアイテムがいらなくなったら、
リサイクルショップで買い取ってもらえるか考えます。
リサイクルショップの査定はシビアです。
どんなに高額でも、人気のない、無名ブランドのジャケットなど、
二束三文でしか引き取ってくれません。
また、高額な真珠のネックレスも、1度誰かの手に渡ったら、
質屋では買い取ってさえくれません。
 ファッション・アイテムには、ほかのものとは違う価値観があって、
1年前の本物の真珠より、10年前のイミテーションのシャネルのパールのネックレスのほうが、価値が高いのです。
要らなくなったとき、リサイクル・ショップで納得のいく値段で買い取ってもらえるか、これは1つの指標です。

そして最後に、それを買うのと同じ額を稼ぐのにどれだけ労働したか考えます。
そして、それはその労働に見合うものか。
これこそ、人によって全く違います。
その判断は、それぞれが、それぞれの胸のうちに聞くしかありません。

これは私が考えた3つのクリアすべき項目ですが、
ほかにもまだ考えられる指標があるかもしれません。
とにかく、自分なりの判断基準を設定して、
それをクリアしたなら、高額なものを買う許可を自分に出しましょう。

予算を立てて、
自分なりの判断基準を持って、
あとは買い方です。
相変わらず、服や、その他のファッション・アイテムの
市場における需要と供給のバランスは、
完全なる供給過多です。
売りだされたその時点での価格の半分は、
「新しさ」の値段です。
しかも、その「新しさ」はせいぜい3カ月から半年のもの。
その「新しさ」が欲しい、必要なら、それを買えばよいですが、
そうでない場合、「新しさ」は必要ありません。
優れたデザインのものは、3カ月や半年で腐ったり、
劣化するものではありません。
売り切れてなくなるものは、ほんのわずかです。
多くのものは、半年たってもまだ、余っています。
それが今の現実です。
コレクションで発表されたものと同じドレスも、
1年半もたてば、3分の1の価格まで落ちます。

ワードローブを賢く構築して、
予算を立て、コスト意識を持って買い物すれば、
被服費の無駄はなくなります。
着ないものは、その結果、買えないか、
買わないか、そのどちらかになります。

私たちが削るべきでない出費は、ほかにたくさんあります。
命にかかわるものは、削るべきではありません。
服のために、命が削られるのなら、
それはおかしい。

これまで服を買う基準は、
かわいい、欲しいなど、
感情と欲望からなされたものでした。
しかし、これからは、
そのときだけの感情、欲望の言うままではなく、
もっと遠くから、全体を把握する、
思考の力が必要です。

もちろん時代は変わります。
この不景気も、いつかは終わるでしょう。
しかしそれまで、とにかく私たちは、
自分の欲望から自分を守らなければなりません。

コスト意識を持って服を買うことは、
そのための1つの方法です。
それは、自分を守るためにもっとも適した、
そして、もっとも賢い方法です。
欲望は黙るでしょう。
その結果、あなたは欲望との戦いに勝ち、
そして助かるでしょう。


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2014年8月4日月曜日

リゾートのシーンでの衣装

ある程度の長いお休みがとれたなら、
どこかリゾートへ旅行する方も多いだろうと思います。
リゾートであるからには、普段の日常の見慣れた風景とは違う場所に立つことになります。
つまり、シーンがいつもとは違うのです。
シナリオ風に書けば、こんなふうになります。

○夏の海辺のリゾート地・海に面したバルコニーのあるホテルのロビー・午後
   白い壁のロビー。
   南国らしい色鮮やかな花が飾ってある。
   夏らしいドレスで着飾った女性やジャケットを着た男性が談笑している。
   華やかな雰囲気。
   あけ放たれたドアから、ボストンバッグを持った主人公が入ってくる。

さて、このシーンをイメージできるでしょうか。
これは、たとえば海辺のリゾートですが、高原の場合も、湖のほとりの場合もあります。
そして訪れるのは少し高級なホテルの場合もあれば、山小屋や民宿の場合もあります。
とにかく背景が違います。
背景が変わってくると、似合う衣装も変わります。
リゾートでの衣装を考えるときに必要なのは、その背景に似合う衣装を選ぶということです。

まず、海か山かで違います。
ホテルならヒールのサンダルが似合いますが、
気軽な民宿ならビーチサンダルが似合います。
山小屋だったら、登山用のウエアですし、
高原のホテルだったら、日差しを避けるためのつば広の麦わら帽子が似合います。

考慮するのは、風景だけではありません。
ほかの登場人物とのバランスも大切です。
高級なホテルに、Tシャツ、ショートパンツ、ビーチサンダルでチェックインしたら、
それはやはり似合いません。
夏の緑の美しい高原のホテルに、黒ずくめで入っていくのも似合いません。
まわりの人たちが、きれいな格好で来るようなところでしたら、
やはりそれに合わせる必要がありますし、
もっとくだけた民宿のような、夏の普段着の延長でも大丈夫なところでしたら、
それに合わせたほうがやはりよいです。

合わせるのはまず色合い。
そしてスタイルです。

色もスタイルも、自分の顔やスタイルに合うかどうかだけで決めるのではありません。
もっと引いて見るのです。
1枚の写真のように、
ドラマの1シーンのように、
鏡の中だけではなく、もっと大きな絵の中で、
想像力を働かせて、これから行くシーンの中で、
主人公が何色の、どんなスタイルだったら引き立つのか、
それを考えます。

夕食はどこでとるのか。
ホテル内のレストランだったら、和食なのか、洋食なのか、
どんなインテリアで、どんな照明なのか、
ほかにはどんな人が食事をしているのか、
キャンプ場に行ったなら、どんなスタイルで、どんな食事をするのかと、
すべて想像してみます。
そして、その中で似合う色とスタイルは何なのか、
自分なりに考えてみます。

ここで気にするべきなのは他人の目ではありません。
1枚の写真を撮るときのフォトグラファーの視点、
またはドラマの1シーンを撮るときの映画監督の視点を持った、
自分の目です。

服を買うときは、それは近視眼的に選んだほうがいい。
けれども、いつもとは違う背景に身を置くときは、
もっと引いた視点を持つといいのです。
そうなると、重要なのは、それがどこのブランド品か、
そのパールは本物か偽者か、ということではありません。
あくまでも、その大きな絵の中にふさわしいかどうかということのほうが重要です。
誰も近くに寄ってきて、あなたの服やジュエリーをしげしげと品定めする人はいません。
リゾートで出会うのは、毎日顔を見る相手ではありませんから、
あなたの普段着など知りません。
判断の基準は、その場に合っているかいないかだけです。

ホテルのロビーのゆったりしたソファに座っている自分の姿の写真を撮ってみてください。
そのホテルの雰囲気にその色は、そのスタイルは合っていたでしょうか。
キャンプ場のバンガローの前で写真を撮ってみてください。
選んだその帽子と靴下は、その風景にお似合いだったでしょうか。

舞台はリゾート地。
それは日常から離れた場所。
普段あらわれない自分と出会うのも、そんな場所でしょう。
普段とは違う色とスタイルで、普段はしないような振る舞いで、
自分の知らなかった自分に出会う。
自分が主役のドラマにふさわしい、
リゾートのシーンの衣装とは、主人公の違う一面を見せるためのもの。
いつもと同じだったら、ドラマにはなりません。
旅行に行った前と後では日常が変わるような、
新しい自分に出会えるような、
後から、あの素晴らしい出来事が起こった日にはこんなドレスを着ていたと思いだせるような、
そんな印象的な人生の1シーンにふさわしい衣装を選びましょう。

主人公である私たちは、それを決める権利を持っています。
その権利を行使するのみです。
美しいドレスを着た、その思い出のシーンのイメージは、
生涯を通して、私たちを励まします。
それだけが奪えないもの。
それだけが永遠に輝きを失わない、
死んでからもなお持っていける、私たちの本当の財産です。


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2014年7月29日火曜日

猛暑対策とおしゃれ

※「猛暑に着る涼しい服」の動画を2020年8月に作りました。あわせてごらんください。

衣服を身につけることの第一義的な意味は暑さ寒さを防ぐことにあります。
装飾や個人であることの認識はあくまでその後の問題で、
まずは暑さ寒さを防がないことには意味がありません。

さて、毎年、猛暑日がふえていく日本の夏ですが、
おしゃれがどうだこうだ言う前に、この暑さから身を守らなければなりません。
暑さから身を守るためには、以下のようなことが重要になります。

まず、涼しい素材の服を選ぶこと。
汗を吸い取り、しかもすぐ蒸発させることができる代表的な素材は麻です。
続いて麻と綿の混紡、また、暑さを防ぐために開発された機能性のある化学繊維も涼しいです。
一方、真夏にお勧めできないのはごく一般的なポリエステルやアクリル。
ポリエステルはシフォン素材などもあり、透けているため見た目は涼しげですが、
決して涼しくはありませんので、気をつけるべき素材です。
レーヨンはポリエステルほど暑くはありませんが、
水に弱い素材ですので、大量に汗をかく夏向きではありません。
レーヨンの原料は紙と同じパルプですので、水に濡れると、
紙のように固くなり、また縮みも見られます。ですから真夏のレーヨンは避けたほうが無難です。
最近、少しずつ見られるようになったリヨセルですが、
リヨセルは吸湿性、速乾性があるため、真夏でも着られます。
いいとも悪いとも言えないのがシルクとウール。
シルクは涼しいのですが、汗じみに弱いという欠点があります。
大量に汗をかかない室内着としては、真夏のシルクは悪くありません。
ウールも汗を吸収し、熱を遮断する性質があるので、夏は案外涼しいです。
ただ、これもヨーロッパの夏にはいいと思いますが、
今のような日本の高温多湿の地域には向かないでしょう。

次に、体にぴったりフィットするものではなく、
風をはらむようなシルエットの服を着ること。
体と衣服の間に空気が通り抜けるようなシルエットでなければ、
暑さは防げません。
真夏はスキニー・ジーンズよりも、ふわっとしたシルエットのスカートのほうが涼しいです。

最後に露出との関係です。
室内や日陰にいるとき、肌の露出度は高いほうが涼しく感じられますが、
日差しが強い場合は、逆に肌を露出していると暑さが増します。
気温が高く、日差しが強い日は、
露出部分を少なくし、上記のような素材で風をはらむシルエットのものを着たほうが、暑さをしのぐことができます。
これは砂漠など、日差しの強い地方の衣装を思い浮かべればわかることですが、
いくら暑くても、日差しが強い場合は体を露出しないほうがよいのです。
また、頭に直射日光を当てるよりも、帽子をかぶったほうが暑さ対策になります。

以上のことを踏まえると、
ポリエステルのぴったりしたシルエットのタンクトップに、
コットンとポリエステル混紡のホットパンツ姿、サングラスよりも、
麻100パーセントのゆったりしたシルエットの丈の長いワンピースに帽子をかぶるほうが、真夏の暑さは防げるということになります。

これらをクリアした時点で、初めてその上でおしゃれに見えるにはどうしたらいいか、先に進むことができます。

真夏といっても、シーンはいろいろです。
海なのか、山なのか、都会なのか、高原のリゾートホテルなのか、
その背景によって、似合うおしゃれは変わってきますが、
しかし、どこにいたとしても配慮すべきなのは、涼しげに見せるということでしょう。
真っ黒よりも、ブルーからグレーのグラデーションのほうが涼しげですし、
ペールトーンと言われるシャーベットのような色合いも夏向きです。
もちろん白は夏に外せない色です。

そのほかにできるのは、透明感のあるアクセサリー。
クリアクリスタルやダイヤモンドなど、氷を想像させる透明な石、
クールなシルバーなど、冷たさを連想させる素材は、それだけで涼しく見えます。

また、外から室内に入ったとき、
羽織っていたものを脱いだときに見える、
日焼けしていない白い肌も、
あたかもそこだけが雪のように白く、冷たさを感じます。

「涼しげ」というのは、実際に涼しいかどうかではなく、
とにかく目に涼しさ、冷たさを与えられるかどうかの問題です。
真夏は、氷やシャーベットやゼリーを思い出させるような、
そんな素材と色合いを、目も欲しがっています。
ですから、私たちはそれを与えればいいのです。
そう考えると、涼しげに見える方法は、ほかにもあります。
逆に避けたほうがいい、暑苦しく見える色や素材もわかってくると思います。

しかしそれでもやはり、猛暑の夏のおしゃれは二の次の問題です。
とにかく自分が倒れないのが一番大事。
そのためには、ちょっとぐらい変な格好をしたところで、いいではありませんか。
暑さで倒れそうな真夏と、寒さで凍え死にそうな真冬は、
おしゃれのことはちょっと脇に置いておいて、
暑さ寒さ対策にいそしみましょう。
それは免罪符です。
誰からも非難されることはありません。
生きていないことには、おしゃれもできません。
おしゃれより、自分の命を守ることのほうがよほど大事です。


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2014年7月21日月曜日

パートナーの衣装

今日、取り上げたいのはパートナーの衣装についてです。
芝居や映画では、衣装デザイナーがいて、カップルで登場する場合、
2人が一緒に並んで完璧に見えるような衣装を考え、用意します。
私たちは、いささかの疑いもなくその2人を見ます。
それは、いい趣味の場合も、悪い趣味の場合も、
ともにお似合いなカップルになっているからです。

今回、特に書きたいのは、服装についての主導権を握っている相手についです。
ですから、多くの場合、恋人はそれに当たらないでしょう。
結婚する以前のパートナーは、それぞれ自分で衣装を何らかの方法で、
それは自分で選んだものではないとしても、調達してきているはずです。
しかし、日本では、多くの場合、結婚して数年たつと、
妻が夫の服装についての主導権を持ち、
すべてそろえるまではいかなくても、かなりの部分、選択したり、
買ったりするのではないかと思います。

ですから今回は、服装について自立して自分で選択し、購買できるパートナーの方々の話は除きます。
それができる方々は、それぞれが自分の流儀でやればよいと思います。
問題なのは、それができないパートナー、ほとんどの場合は夫の服装についてです。

映画やドラマを見ていて、ご夫婦が一緒に登場してきたシーンで、
夫の服装に唖然とした記憶は、ほぼないと思います。
しかし、実生活ではどうでしょうか。
いつもきれいにしている奥様から、
旦那様の素敵なお話をいろいろ聞かされていて、
期待に胸を膨らませて、そのご夫婦が2人そろって登場してきた場面に出くわしたとき、
一瞬、言葉を失うような、
確実に何かが違うと悟るような、
視線の置きどころに困り、
足元の地面が崩れ落ち、
もはや、この奥様は信用できないとまで思い至るような、
そんな旦那様の服装を目撃したことはないでしょうか。

もちろん全員ではありません。
素敵な奥様にふさわしい、素敵なスタイルの旦那様も多くいらっしゃいます。
しかし、期待された像と実像とのギャップがあまりに激しく、
取り繕う言葉も出ない、そんな場面は多くはないでしょうか。

残念ながら、日本の多くの男性は、どのような場面でどのような服装をしたらいいか、
またワードローブはどのように構築したらいいかの知識を持っていません。
完璧に把握しているのは仕事場での服装についてのみです。
服が好きで、知識があり、よく考えているのは、まだまだ少数派です。
(だから少数派の皆さんは大丈夫です。問題ありません)

なぜここでポロシャツなの?
なぜ白いTシャツにゴールド喜平チェーンのネックレス?
パンツの丈が七分なのはどうして?
なぜこの場にそのスニーカー?
なぜシアーな靴下?
なぜジャージ?
数え上げたらきりがありませんが、
多くのへんてこりんなコーディネートをよく見ます。

ご夫婦が二人別々に行動しているときは、それでもほとんど気になりません。
また、二人が同じレベルである場合も、特別おかしいとも思いません。
しかし、明らかに服装が不釣り合いな2人が一緒にいるとき、
そのおかしさが目立ちます。

日本の男性には、仕事場、そしてホテルやゴルフ場以外など特殊なエリア以外には、
特にカジュアルな服装について、明確なルールがありません。
現在は、明確なルールがない上に、服装のカジュアル化が重なって、
より一層、混沌とした状態です。

このへんてこりんなスタイルの原因ですが、
多くの場合、行きすぎたカジュアルであり、家の中の延長が外に持ち出されたからです。
カジュアルな服装、たとえばTシャツやジャージは確かに楽なのですが、
決して美しくは見えません。

日本の男性がおしゃれでないとは、決して思いません。
歴史的に考えても、つまり着物の時代から考えても、日本の男性のおしゃれレベルは相当なものです。
着物の柄、帯との組み合わせ、裏の柄に至るまで、
世界屈指のしゃれものです。
また、着物の時代が終わった戦後すぐでも、
たとえば、黒澤明の映画や小津安二郎の映画を見れば、
おしゃれなスーツ姿の男性がぞろぞろ出てきます。
しかしはっきりとした違いは、彼らは決してカジュアルな姿ではないということです。

もし妻の側が夫の服を選んでいるとするならば、
気をつけるのはただ1つ、行きすぎたカジュアルにならないようにすること、です。
行きすぎたカジュアルとは何なのか、
それは部屋着の延長であり、楽であることの追求です。
もっと端的に言えば、楽であるとはジャージである、ということです。

たとえば、カットソーと呼ばれる綿ジャージのTシャツは、もとは肌着です。
スウェットパンツもスポーツウエアです。
1つのスタイルからジャージを減らせば減らすほど、カジュアルから遠くなります。
ジーンズにあわせていたTシャツを普通の木綿のシャツに変えただけで、
印象はがらっと変わります。
ジャージを駆逐していけば、それだけで小奇麗になります。

小津安二郎の映画に出てくる笠智衆がいつでも美しさを崩さないのは、
決してTシャツを含むジャージ素材のものを着てあらわれないからです。
着ているのはスーツか、シャツとズボンか、または着物です。
ニットで許されるのは冬のセーターとマフラーぐらい。
そのほかは、肌着に近い素材のもので表には出ません。
色の組み合わせとか、バッグや靴、アクセサリーなどは、
あくまでその次の段階の問題です。

もちろん余裕ができたなら、
二人で並んだとき、つり合いのとれるスタイルになるように考えるといいでしょう。
あまりにも不釣り合いであり、自分の信用さえ疑われるようでは、
それは問題です。
とりあえず、足を引っ張らない程度まで、引き上げてください。

日本は、カップルで出かけたり、行動することが少ない社会です。
二人でパーティーに出たり、コンサートに行くなどということも少ないでしょう。
夫婦が2人でいるところを見られるのが大型スーパーばかりというのは寂しすぎますし、
それでは服装の文化は育ちません。
放っておけば、惰性へ流れます。
楽なほうへ、楽なほうへ向かいます。
夫婦間で服装のギャップも大きくなります。
楽にいってしまったものを戻すのは難儀です。
そうならないためにも、今のうち、手を打っておきましょう。

どんなに妻は妻、夫は夫、違う個人ですと言い張っても、
多くの人には二人は一緒に見えています。
「お似合いのカップルね」という言葉が、
賛辞なのか、皮肉なのか、
二人並んで鏡を見たなら、すぐさまわかるでしょう。
お似合いの二人しか、長くは一緒にいられないものです。
願わくば、そのお似合いが素敵なカップルでありますように。


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2014年7月14日月曜日

スタイルとキャラクター

おしゃれの基本がわかって、
ある程度のことはできるようになったら、
次の段階はスタイルの確立です。
では、そのスタイルは何に基づいて確立すればよいのでしょうか。

ここで思いだしてほしいのは、
ファッション・アイコンと呼ばれている人たちのことです。
最近だったら、ケイト・モスにアレクサ・チャン、
少し前だったら、ジェーン・バーキン。
また、もっと古くはココ・シャネルなど。
もちろんほかにもたくさんいますが、
このようなファッション・アイコン、つまりおしゃれのシンボル的な存在の人たちには共通項があります。
それは、スタイルとそのキャラクターが一致しているということです。

たとえば、ケイト・モスもアレクサ・チャンも、ともにモデルですが、
私たちが思いだす彼女たちのスタイルは、
モデルとしてポーズをとった雑誌のグラビアに見られるスタイルではなく、
プライベートの着こなしのスナップの中での彼女たちの姿です。
スタイリングの完成度という点では、
雑誌の完璧なスタイルのほうがプライベートのスタイルより上でしょう。
しかし、私たちが常に知りたいと思うのは、
決して雑誌のスタイリングではなく、
彼女たちが自分のために、自分で作ったスタイルです。
なぜならそこには、ケイト・モスならケイト・モスの、
アレクサ・チャンならアレクサ・チャンのキャラクターがあらわれているからです。
私たちが興味を持つのは、彼女たちの確立されたスタイルだけではなく、
その完成されたキャラクターです。
そして、そのキャラクターのぶれのなさが、より一層、彼女たちをおしゃれに見せます。
このことを理解していないと、スタイルは全く意味のないものになります。

雑誌で提案されている完璧なスタイルをそのまますべてそろえて着たら、
それはそれなりにおしゃれです。
ブランドが発表した新しいスタイルを、一式そろえて着たら、
それもそれなりにおしゃれでしょう。
しかし、それだけでは何かが足りないと誰もが感じるはずです。
おしゃれだけれども足りないもの、
まさにそれがキャラクターです。

多くのデザイナーたちはそのことを知っていますから、
いつも自分のスタイルを崩しません。
完璧なコーディネイトよりも、
一番の新しさよりも、
ましてや値段の高さよりも、
その人のキャラクターの輪郭がはっきりあり、
それが誰に対しても印象的なものならば、
そちらのほうがおしゃれに見えるのです。

これは、アニメなどで使われる「キャラが立つ」ということと、
同じことです。
キャラが立つ、つまりその人のオリジナリティがはっきりして、
その他大勢にならない個性があること、
そしてそれが魅力的であること。
それがなければ、どんなに完璧なコーディネイトもおしゃれには見えません。

その人のキャラクターを際立たせるためには、
完璧な服と靴とバッグを用意しただけでは足りません。
髪形、メイク、言葉使い、生活、考え方など、
あらゆるものを含めてキャラクターは立ってきます。
それはころころ変わるようなものでもだめだし、
誰かと同じでもいけません。
逆に、キャラクターがはっきりしているのなら、
完璧なコーディネイトも、高価な靴もバッグもいりません。

どんな生活をしていて、どんなものを食べているか、
どんな音楽を聞いて、何を読んでいるか、
表情やしぐさ、
優しいか、優しくないか、
自分のことしか考えていないのか、そうではないのか、
どんな言葉で語るのか、
それらを含めて、私たちはキャラクターを評価します。

スタイルはキャラクターのあとにくるものです。
キャラクターあってのスタイルです。
私たちが憧れるのは、そのスタイルよりも、その人のキャラクターなのです。
どんなに高価なブランド物で上から下まで完璧なコーディネイトに身を包んでいたとしても、
決して憧れの対象にならない人がいるのはそのためです。

現在のジェーン・バーキンは、エルメスの「バーキン」を除けば、
決して高価なブランドに身を固めるでもなく、
完璧な髪形とメイクを施しているわけでもありません。
それでも彼女が憧れの対象になるのは、
311の震災の際にいち早くチャリティー・コンサートをする行動力と心を持った、その彼女のキャラクターのためです。

キャラクターとは関係のないところのスタイルは虚しいです。
ましてや、完璧なスタイルなど、何の意味もなしません。
反面教師はたくさんいます。
そうならないように気をつけましょう。
キャラクターも含めてのおしゃれなのだと、肝に銘じてください。
それ以外のものは、表層的な差異です。
魅力も影響力もありません。

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2014年7月7日月曜日

洋服のお直しについて

現在、ほとんどの人が既製服、
つまり、フランス語でprêt-à-porter、英語でready to wearの服を着ていることと思います。
そうなると、必ずしもその服が自分のサイズにぴったりであるとは限りません。
どちらかというと、合っていない場合のほうが多いでしょう。
現在、日本では、JISが定めたサイズ表示が一般的で、
たとえば、9ARなどと表示されています。
この場合、9号サイズのA体型(標準)、Rは身長が普通であるという意味です。
主なサイズは以下のとおりです。
9AR  身長158センチ、バスト83センチ、ヒップ91センチ、
11AR 身長158センチ、バスト86センチ、ヒップ93センチ、
13AR 身長158センチ、バスト89センチ、ヒップ95センチです。
身長は変わらず、バストが3センチ、ヒップが2センチ刻みで大きくなっていきます。
このサイズは婦人服全体に適応されるもので、
年代についての特別な考慮はありません。
ですから、年齢が上がるに従ってあらわれる体型変化に対応したブランドなどは、
このサイズを基準にして、バスト、ヒップ以外の寸法を変更していると思われます。
しかし、その変更の仕方はメーカー、ブランドでさまざまなので、
統一されたものはありません。

一方、外国のブランドはまたそれぞれの基準で服を作っています。
国によっても違いますが、外国の場合、シーズンによってもかなり差があります。
同じ36号サイズでも、ブランドによって、または同じブランドでもシーズンによって、
違うということはよくあります。
ただし、外国のものは日本標準体型とはかなり違ったバランスで作られていると思いますから、
日本メーカーとその他海外ブランドでは、サイズはまったく別物と考えていいでしょう。

これらさまざまなサイズ標準があるわけですが、
それらに体型がぴったりいつも合えばいいのですが、
そういうわけにはいきません。
となると、お直しが必要になってきます。

お直しで一番多いのは、パンツとスカートの裾丈でしょう。
パンツの場合はたいがい長目にできていますので、それをカットすることは可能です。
しかし、カットではなく、新たに裾を出すとなると、
折り返されている縫い代分しか出すことはできませんので、
出せたとしてもせいぜい1~1.5センチが限界でしょう。
パンツとスカートのお直しは、やろうと思えば自分でできます。
特にウールのパンツの場合は、ミシン縫いしなくても、裾をカットし、
アイロンで裾を折り直してまつり縫いすれば、それで問題ありません。
ただし、ジーンズの場合は、特殊なミシンと、それに合った糸が必要になりますので、
自分で裾上げをするのは難しいです。
スカートもパンツも、丈を決める場合は、必ずそれに合わせる高さのヒールの靴をはいて決定します。
特にパンツの場合は、フラット・シューズとヒールのある靴とでは、
ぴったりくるパンツ丈が変わってきますので、注意が必要です。
スカートの場合も、ひざ上のミニ丈を除いては、靴のヒールの高さによって、
似合うスカート丈は変わってきますので、必ず靴をはいた状態で裾丈を決めましょう。
 
そのほか考えられるのは、袖の丈詰めとウエストの大きさのお直し。
袖については、コートやジャケットで、袖口に複雑なあきがない場合は、こちらも可能です。
ただし、こちらは素人が直すには、少し難しいでしょう。
単純な一重の筒型のような袖なら可能かもしれませんが、
裏つきや、袖口にあきがある場合など、素人には難しすぎると思います。
また、スカートやパンツのウエストのお直しも、
一度、ベルト部分をほどかなければなりませんので、素人では難しいでしょう。

さて、お直しとはいっても、できないお直しもあります。
それは服の構造に関するものです。
構造を変更するお直しは不可能です。
根本的な構造をいじることはできません。

服の構造部分とは、トップスでは肩線、
パンツでは股上です。
スカートには、動かせないような構造部分はありません。
パンツの股上をいじると、パンツの構造は歪みます。ですから変えることはできません。
しかし、パンツの股上は、ファスナーがあったり、縫い代幅が狭いせいで、
ほとんど、それをいじろうとする人はいないだろうと思いますので、
問題にはなりません。
問題なのは、トップスです。

ほとんどのトップスの場合、肩線をいじることはできません。
(例外はあります。たとえばノースリーブで襟もない一重のブラウスや、
やはり襟のないラグランスリーブのブラウスのラグランのカーブをいじるなど)
肩線を変えるとすると、それに伴って、
襟ぐりと襟、袖ぐりと袖などが一緒に変更されることになります。
肩線、襟ぐり、袖ぐりが変わるということは、服そのものがもう違うものになるということです。

たとえば、以前流行った分厚い肩パッド入りのジャケットの肩パッドを取り除いて、
その分、浮いてしまった肩線を変更するということは、
服そのものを破壊することになります。
もちろん、やってできないことはありません。
できないことはありませんが、それをやった時点で、
もうそれは元の服とは違うものになり、服としての美しさは消えているからでしょう。
なぜなら、肩線をいじったということは、
そのデザインの意図を変えたということにほかならないからです。

コート、ジャケット、シャツ、ブラウス、ワンピースなどは、
肩がすべてのパーツを支えています。
厳密に言うと、肩ではなく、肩線の首側の支点によりすべてのバランスがとられています。
そこは、いわば服の肝とも言えるところです。
そこをいじってすべてのバランスを変えるなら、
もうその時点でそのデザインは終わりです。
それはお直しの域を出て、作り直しとなります。

逆に言えば、その肩線を維持するならば、
そのほかの部分は多少いじったところで、大きな問題にはなりません。
バストが足りない場合、ダーツを1つほどいてしまったとしても、
全体の構造には影響しません。

もしその服のデザインの意図を残したい、尊重した上で直したいのなら、
決して肩線をいじってはいけません。
では、肩線を変えたい場合、どうしたらよいのか。
それなら、最初からほどいて、すべてをやり直すべきです。
すべてをほどき、新しいパターンを上から置いて、裁断し直し、
新しく縫い合わせるならば、肩線は変えられます。
しかしそれをした時点で、もうそれは以前の服ではなく、
全く違う、新しい意図を持ったデザインとなります。
前のデザインは死に、
その上に、新たに意図を持った、
前とは違うデザインがあらわれます。

肩、つまりその構造さえいじらなければ、あとは割と自由に変更可能。
けれども、肩を変えるなら、そのデザインは終わり。
私のお勧めはデザインを尊重するか、
さもなくば、新たなデザインを新たなパターン、新たな素材で作ることです。
前の構造の上に無理やり新しい意図をのっけても、
うまくいきません。
それ以外の部分はどうぞご自由にお直ししてください。
ロングスカートをミニにしても、
長袖ブラウスを半袖にしても、
大きすぎるウエストを少し詰めても、
意図は変わりません。
デザインにも変えていいところといけないところがある。
覚えておくべきルールはこれだけです。 



★ こちらのブログおよびメールにて、個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。




 

2014年6月30日月曜日

誰かと同じになりたいという欲望

人は、誰かと同じになりたいという欲望と、
誰かとは同じにはなりたくないという欲望との2種類の欲望を持っています。
人によって、その比率は異なり、
ほとんどすべてを誰かと同じになりたいと望む人もいれば、
絶対に同じようにはなりたくないと望む人もいます。

ファッション雑誌において、「セレブ」がもてはやされるようになったのは、
いつごろからでしょうか。
私の記憶では、90年代にはそんなことはなかったと思うので、
2000年以降だろうと思います。
デザイナーが注目を浴びる時代が終わり、
デザインそのものより、服をコーディネイトする編集能力が重視されるようになり、
その結果として、「セレブ」が出てきたのではないかと推測できます。

それ以降、ファッション業界は、
人の誰かと同じになりたいという欲望をより効率的に利用するために、
その誰かの対象として「セレブ」を持ちだしてきました。
ルックスも、仕事も、生きている環境も、収入も、
あまりに違うにもかかわらず、
多くの人が「セレブ」と同じものを持ちたいと望むようになったのです。

90年代、あるデザイナーのドレスを有名人が着たとしても、
それは深い意味を持ちませんでした。
しかし現在では、ブランド自身が、誰が自分のところのドレスを着たのかを、
積極的に宣伝に使います。

誰かと同じになりたいという欲望は、
限りなくその人自身を透明な存在へと導きます。
昔、「ルームメイト」というミステリーがあり、
ブリジット・フォンダが主演で映画化もされました。
「同居人募集」の広告を見てやってきた女性のルームメイトが、
主人公へのちょっとした憧れから、
髪形、服装などを主人公そっくりに変えていき、
最終的には、主人公を殺すことでその人格をのっとろうとするスリラーです。

映画の中では、主人公のすべてを真似するそのルームメイトは、
頭の狂った人物として描かれています。
どこまでも誰かの真似をしていく姿は、
一歩間違えば狂気です。
その映画を見て、どこまでも主人公を真似していくルームメイトのようになりたいと思う人は、
まずいないでしょう。
私たちがほんとうになりたいのは、
主人公をそっくり真似ていくルームメイトではなく、
憧れの対象であり、
真似されていく、
美しい主人公のほうです。

誰かと同じものを持ちたいという欲望を刺激され、
それに従って、コントロールされ続けている限り、
本当のおしゃれな人にはなれません。
誰かと同じを目指せば目指すほど、
その人は、代替可能でコントロールしやすい、意思がなく透明で、
名前のない存在になります。
そんな存在は、おしゃれではありません。
おしゃれな人はコントロールなどされません。

おしゃれな人と思われるためには、
誰かと同じではない部分を探し、作っていく必要があります。
「真似したい私」ではなくて、
「真似されたい私」でなければなりません。
コピー品が決して美術館に飾られることがないように、
オリジナルであることは、おしゃれにとっても重要なことなのです。

名前も、顔も、趣味も、嗜好も全く同じ人間など、
この世にいません。
その、この世に1つのユニークな存在を、
今、世の中に存在している似たような多くのものの中からかき集めて、
ユニーク、つまり唯一のものにしていく、
その作業がおしゃれを作ります。

「真似されたい私」になるためにはどうしたらよいでしょうか。
まずは自分を知ること、
そしてその他の世界を知ること、
そして何よりも、
刺激され続ける誰かと同じになりたい欲望から自分を切り離すことが、
それを可能にさせるでしょう。











2014年6月23日月曜日

ネットワークを作る

たとえば、オートクチュールのコレクションで発表されたばかりの多くのスタイルは、
誰が見ても文句なく、シックで、スタイリッシュで、完璧です。
その理由は、もちろんデザインが優れているからなのですが、
優れているのはデザインのみでなく、そのスタイリングも同じように完璧です。

通常、デザイナーは服をデザインしますが、
それをスタイルとして完成させるための、
靴、バッグ、その他小物についてはそれぞれデザイナーがいて、
ショーにおいては、それらばらばらのアイテムをまとめてスタイリングする人がいます。
彼らは、いわばあらかじめ1つのテーマに向かって設計されたパーツを、
正確に配置する係です。
これらのパーツは必ず方向性を持ってデザインされていますから、
どれをどう並べても、それなりのスタイルが完成するようになっています。
そしてそれこそが、私たちに「おしゃれ」であると感じさせる点です。

それらはすべて1つのテーマにそって、
色、素材、シルエット、モチーフ、柄が決定されています。
もしそこからはみ出すものがあったら、
最終的にはじかれます。
合わない色、合わない柄は、もうこの時点ではありません。
つまり、おしゃれに見えるためには、1つの方向性なりテーマにそって、
スタイリングを組み立てることが重要なのです。

ほとんどの人は、
いくつかのブランドの、
もうすでに持っている古いアイテムと新しく付け足したアイテムを、
ばらばらの時期に購入したものを使って、
1つのスタイルを完成させようと試みます。
これは、あらかじめ1つの設計図のためにデザインされたパーツを組み合わせるよりも、
はるかに難しい作業です。
もうすでに立派なお城ができるようにすべてのパーツがそろったレゴを組み立てるよりも、
形も色もメーカーも違う、統一規格のないブロックでお城を作るほうが、
はるかに難しいのと同じことです。

それでもなお、スタイリングが1つのテーマにそっているということは、
おしゃれに見せるためのポイントです。
私たちは、あるものの中で、何とかそのテーマを1つにそろえていかなくてはなりません。

そのために使うテクニックが、
この1つのスタイリングの中でネットワーク作りをするというものです。
それは色でも、形でも、モチーフでも、ディテールでも、素材でも、
何でも構いません。
何の工夫もしなければ、
ただ乱雑に集めてきた、意味のつながりのないパーツにすぎない、
それぞれのアイテムをつなぐために、
そこに1つのテーマを入れ込み、
ネットワークとしてつなげることで、
統一感を出します。

例えば、モチーフならモチーフを1つ決めます。
水玉と決めたなら、
頭の先からつま先までのあいだに、水玉モチーフのものをちりばめます。
首元のスカーフ、靴下など、同じ水玉でつなげます。
つなげると言うからには、
それはワンポイントではありません。
最低2か所は同じもので統一します。

たとえば、オートクチュールでしたら、
コートと帽子と靴の素材を同一のもので作ったりします。
そのほかにアクセサリーとしてパールを選ぶのなら、
パールのネックレス、パールの指輪、
パールの飾りのついたバッグをそこへ持ってきます。
オートクチュールのように完璧にはいきませんが、
私たちはこのテクニックを真似ることはできます。

そしてこれをするために私たちがやるべきなのは、
建設的なワードローブ構築です。
気まぐれ、一目ぼれ、衝動買いを繰り返したのでは、
これを作ることはできません。
自分が星の形が好きだとしたら、
星型のピアス、星型のスタッズがついたバッグ、
星の柄のスカーフを探して歩きます。
ターコイズブルーが好きだとしたら、
ターコイズのネックレス、ターコイズブルーのカシミアのストール、
ターコイズブルーのバッグを探します。
そうして少しずつ、自分のワードローブを完成させます。

これができるだけで、
スタイリングは驚くほど洗練されて見えます。
私たちは他人の目に統一感のある印象を与えるだけで、
おしゃれであると認識されます。

私たちが何となくおしゃれに見える、
その何となくは、こういうことの積み重ねによってでき上がります。
欲望のまま集めてきたものでは、こうはいきません。
もともと、1つのものを収集する癖のある人は、
もうすでにできているかもしれません。
しかしそうでないならば、自分のワードローブを見直し、
これから何を買い足せばいいのか考えましょう。

同じものによる統一感は、それを見る相手に、
安心や信頼できる感じを与えます。
おしゃれであると同時に信頼できる人、
そしてそのことによって印象深い人になります。
2回目に会ったときに、
あなたが初回にしていたのと同じ星のモチーフをつけていたなら、
信頼はより深まるでしょう。
恒星のように、動かないというその行為は、
相手の心に深くくさびを打ち込みます。

輝く星であり続けるためにも、
ぜひとも連続し、統一した、ネットワークを作ってください。
その鳥のブローチが、
そのバラの形のピアスが、
あなたを次の世界へつなげていきます。
なぜなら相手はそれを忘れることができないから。
忘れることができないということは、
つながっているということです。

 











2014年6月16日月曜日

アートとファッション

ファッションはしばしば、アートに近づこうと試みます。
しかし、ファッションは決して芸術にはなれません。
半年やそこいらで、経済的な価値が半減してしまうようなものは、
芸術ではありません。
それにもかかわらず、またはそれであるからこそ、
ファッションはいつでもアートに憧れています。

企画展か、または服飾美術館以外で、
服やその周辺の小物が展示されることはありません。
どんなにすぐれたデザイナーの作品(商品)でも、
ミケランジェロやラファエロが展示されている、その隣の部屋に並ぶことはありません。
芸術は唯一で、永遠のものを目指しますが、
ファッションは今、または短期間有効で、ほとんどのものは唯一ではないのです。

無理とわかっていながらも、
ファッションはアートに憧れます。
そして、その試みは、たとえばモンドリアン・ドレスのように、
モチーフを服そのものにプリントするか、
または、人が日常に着ることを全く想定しない、服のオブジェ化によってなされます。
繰り返し行われるその試みは、その多くが失敗です。
それらは芸術ともみなされず、
かといって、人が着るわけでもなく、
どちらともつかない、中途半端な存在として、最終的には忘れ去られます。

なぜこれほどまでにファッションがアートに憧れるかというと、
やはりファッションも唯一で、永遠でありたいからです。
実際のところ、やっているのは短期間の流行による刹那の絶対的な肯定と、
必ず売れ残りが出る大量生産の容認にもかかわらず、
唯一で、永遠に憧れるなんて、
身の程知らずもいいところです。

絶対に芸術にはなれないファッションですが、
そのかなり近いところまでいって、商品から作品の領域まで踏み込めたものは、
多くはありませんが、存在し、それらは世界各国の服飾関係の美術館や展示で見られます。

ヴィオネのプリーツのドレス、
ディオールのバージャケットに代表される、ニュールックのスタイルなどは、
その代表でしょう。
確かにそれらは、今見ても色あせることなく、
見る人の鑑賞に耐え、服装における美の表現の一形態として、
服装史に刻まれるものです。
しかしそれらは全体のほんの一部です。
100万枚の1枚にあるかないかの確率です。

けれども、ファッションが唯一と永遠に憧れ、それを目指すことは、悪いことではないです。
なぜなら、服を着る人それ自体は、いつだって唯一の存在であり、
永遠目指すものだからです。

大量生産主義者は、多くの人があたかも同じスペックの存在であるかのように振る舞います。
しかし人間が存在してから、全く同じ顔形、体型の人など、
一度も存在したことはないのです。
私たちは、大量生産主義者のおしつけで、同じ形、色、素材の服を受け入れていますが、
間違っているのは私たちではなく、おしつけている大量生産主義者です。

服装史を振り返ってみても、こんなに同じ服が大量につくられ、
それらを選ばざるを得ないような時代はありません。
なぜなら唯一であり、永遠を目指す私たちにふさわしいのは、
まさに唯一で、永遠の服だからです。

私たちはそれぞれが、唯一の輝く星と同じです。
それぞれが、おのずと輝く存在です。
月のように、太陽がなければ輝かない存在ではなく、
太陽のように、みずからが輝く存在です。
そのことに気づいたなら、
横並びの、均質化した、大量生産の服は、
だんだんと選べなくなるものです。
そのときに、アートに憧れ、それを目指すファッションは、
大いに役に立つでしょう。

アルチュール・ランボーが
海と太陽のあいだに永遠を見つけたように、
私たちそれぞれが自分の中に永遠を見つけたならば、
もう他人の光を必要とすることはありません。
そうなったときに、初めてスタイルは永遠となるでしょう。
それは、美術館に飾られることこそありませんが、
生きているアートです。
ファッションは芸術ではありません。
それはいつでも、生きているアートのための、忠実なしもべなのです。






2014年6月9日月曜日

クローゼットの見直しを

自分の持っている洋服をすべて正確に把握している人は、
そう多くはないと思います。
ほとんどの人が見れば思い出すけれども、
目に入るまではあることさえ忘れてしまっている服が何着か、
あるいは何着もあるはずです。

多くの人が持っている服の2割から3割程度しか、
実際には着ていません。
1年のうち1度も日の目を見ない服も何枚かあるに違いありません。
そうなると、その服がどんなに素敵なものであったとしても、
それは死蔵品であり、役には立ちません。

そうなってしまうことの大きな原因の1つに、
服の収納の仕方の問題があると思います。
ウォークイン・クロゼットのように、
全体がすぐに見渡せる収納を持っている人は、
今の日本の住宅事情では少数派でしょう。
ほとんどの場合、家に備え付けのクローゼットか、
または後から購入したタンスや衣装ケースに収納することになると思います。

すべてを見渡せない収納の問題点は、
まさに「すべてが見えない」ということです。
探さなくてはわからないようなものは、当然のことながら、
あまり着なくなります。
そしてよく着る服がよく目に着く場所に収納され、
着ない服は見えないところへ押し入れられるという悪循環に陥ります。
人はその存在が見えないと、
あたかもそれがないかのごとく認識してしまう傾向があるようです。
けれども、見えないからといって、そのものがなくなってしまったわけでは決してありません。

この悪循環を避けるためにも、
クローゼットの見直しをお勧めします。
まずは自分が持っている服をすべて把握することから始めるのです。
一度にすべてが難しかったら、春夏ものと秋冬ものに分けてやればよいでしょう。
とにかくすべて出してみて、
持っている服をアイテム別に何点所有しているのか確認します。
具体的に書き出してみましょう。

その次に、それらを色別に分類します。
ブルーならブルーとそのグラデーションに分けます。
まずは色分けなので、アイテムは混ざっても構いません。
重要なのは同じ色の仲間であるかどうかです。
(色に詳しいひとは、彩度と明度に分けてみてもいいでしょう)
白なら白、黒なら黒、そしてどのグループにも入らない色とに分けます。

このときに、多くの色を持っている人は、
死蔵品も多いはずです。
色が多ければ多いほど、コーディネイトは難しくなり、
結局、着ないものがふえていきます。
余裕があれば、それらをすべて写真に撮り、
トランプカードのように印刷して、どれとどれがコーディネイトできるか考えてみるのもいいでしょう。
コーディネイトがどれだけ難しいか、わかるはずです。

色別に分けたら、その色の中でのアイテムの偏りを把握しましょう。
たとえば、ブルーならブルーのコート、ジャケット類、インナーとボトムスの割合を見てみます。
いつもコーディネイトがうまくできなかったり、悩んでいるのだとしたら、
その中のどこかに偏りがあります。
インナーばかりでボトムがないであるとか、
ジャケット、コートばかりでインナーが少ないであるとかです。
基本はすべて1週間分の7枚。
ボトムやジャケット、コート類はこれより少なくても問題ありません。

自分がメインでいつも着る色について、アイテムの偏りをチェックしたら、
その他、どこのグループにも入らない色のものを、
これらのメインのグループに入れて、コーディネイトできるかチェックしましょう。
ここで、どこにも入りようのない色のものが出てくるでしょう。
ワンピースのように、コーディネイトの必要のないものなら問題ありませんが、
中途半端な色のジャケットなどは、ほとんど着る出番がないでしょう。

ここまでは色による仕分けです。
色がある程度そろったら、もう着られないシルエットやサイズについて、
チェックしてみましょう。
これは人それぞれ選ぶ基準は違うと思いますので、
感覚や気分で選ぶことになると思います。

ここまでやってくれば、もう絶対に着ることのない何点かが選びだされるはずです。
それらはコーディネイトができない、
シルエットが古すぎる、
サイズが大きすぎ、または小さすぎ、のどれかになるでしょう。
また同時に、
足りないものも見えてくるでしょう。
たとえば、グレーのジャケットやコートはあるけれども、
夏用のボトムはない、であるとかです。

死蔵品がふえてしまうことの多くの原因は、
現状を見ない、そしてその結果、把握していないからです。
毎日、目には入らなくても、
そこに存在するものは、誰かがどうにかしない限り、永遠に存在し続けます。
それは見えないかもしれませんが、
あるというだけで場所をとり、
メンテナンス費用がかかり、
何より、着ていないものを持っているという、罪悪感にも似た思いが、
その人のエネルギーを奪い続けます。
会社が在庫を持っていれば税金がかかるように、
使わない在庫を保持し続けていれば、
エネルギーはそれだけ消費されるのです。

存在しているにもかかわらず、見て見ぬふりをして、
表面だけを取り繕ってみても、
存在は消えないどころか、
影響を与え続けます。
見えないモノが持っている力を、
低く見積もってはいけません。

着ていない服を把握する、
そして死蔵品をなくし、
持っていて、着られるものは実際に着て、
着られなくなったら処分する。
そうやって、クローゼットの風通しをよくし、
無駄なく循環するようにしましょう。
それは大きなエネルギーの節約です。

節約したエネルギーはファッションとは違うことに使ってください。
人生には、ファッションより重要なことが常にたくさん存在しています。
それらのために時間やお金を使って、自分を育て、成長させてください。
なぜそれを勧めるかって?
だって、服だけ素敵な人よりも、
服より中身が素敵な人のほうが、
よっぽどおしゃれだと私は思うから。
そして多くのデザイナーが、同じように考えているからです。

 

2014年6月2日月曜日

エフォートレス・スタイル

2014年現在、ファッションの流れはエフォートレス、つまり努力を要しないスタイルへ向かっていることは、明らかです。
肩パッドを取り払ったなだらかな肩線、
ドレスにスニーカーや、ヒールのないコンフォート・サンダル、
ウエストのゴムやひも、
パジャマパンツやスウェットパンツの外着化、
どれもゆるく、リラックスしたものばかりです。
これらには、一時期流行った、「寄せてあげる」タイプの、
布とボーンで作られた、サイボーグのようなブラジャーは必要としません。
カップつきのキャミソールや三角ブラなど、
インナーも体を必要以上にしめつけない、
着心地が楽なものが向いています。

ハイヒールを完全に捨てたわけではありませんが、
それは1日中はくものではなくなり、
必要に応じて、フラットヒールとはき分けます。
テイラード・ジャケットを着るときもありますが、
固い芯地もパッドも入っていません。

これらは「体」の感覚の問題です。
高いヒールも、締め付ける下着も、
体に努力を要求したものでした。
高いヒールは足の長さと、形の見え方の、
肩パッドは肩の傾斜の、
寄せてあげるブラジャーは、胸の形状の、
現状の否定であり、変形の強制でした。
その強制を実行するために、体は無言で努力し続けました。
しかし今それは、やっとのことで、する必要のない努力となりました。

一方、エフォートレスには、努力したように見えない、何気ないという意味もあります。
これまで高く評価されてきたのは、
努力の痕跡が見える、
これ見よがしのスタイルでした。
ファッションにとっての努力とは、
必要以上の自己顕示欲であり、
他人との競争でした。
目標が競争にとってかわったため、
おしゃれに見えることよりも、そちらのほうが重要だと、
多くの人が錯覚するようになりました。
その競争とは、
誰よりも新しく、高価なものを持つことでした。
そして、情報としてのファッションが跳梁跋扈しました。

しかし、本当におしゃれな人々は、
その「これ見よがし」なスタイルが、
全くおしゃれではないということを知っています。
あまり語られることはありませんが、
やり過ぎや、
自己顕示欲丸出しの、
誰が見てもわかるような新しいもの、高価なものを見せびらかすだけのスタイルは、
おしゃれには見えないのです。
それは消費される歩く情報です。

新しいものは半年で消費され、もうすぐ次のものが出てきます。
時間が流れる限り、これは終わりのない競争です。

エフォートレス・スタイルとは、
体が無理な努力をしないリラックスしたスタイルであると同時に、
新しさや、値段の高さで値踏みされることのないスタイルです。
その道を見つけるためには、
実は努力が必要です。
新しいもの、高価なものの追求は、
お金があればだれでもできますが、
それをこえたところで、値踏みされないスタイルの追求と構築は、
知性や色に対する感性、審美眼がなければ、持つことができないからです。
逆に言えば、それさえ持ってしまえば、
努力したように見えない、かつ情報として消費されないスタイルが手に入ります。

エフォートレス・スタイルがもっと評価されるようになれば、
資本主義経済の中のファッション産業の方向性も、
変わらざるを得ないでしょう。
服も靴もバッグも、半年で消費され捨てられるようなものではありません。
そして、あなたも私も、
情報として消費されるような存在では、決してありません。
どれもみな、一瞬の中に永遠を刻めるような、
尊い存在です。
そのことが理解できるのもまた、本当におしゃれな人たちです。