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2017年8月7日月曜日

コルセットと細いウエスト

 (Manet, Edouard - Olympia, 1863)

西洋の女性の衣服の歴史を振り返ってみたときに、
外せないのはコルセットの存在です。
特にルネッサンス期以降、スカートのボリュームが大きくなるにつれて、
胸の下からウエストにかけてコルセットと呼ばれる胴着を装着し、
ウエストとヒップの差を強調したシルエットが主流となっていきます。

その後、コルセット着用の流れはナポレオン第一帝政時代、ナポレオンの妻であったジョセフィーヌが着用したことで有名なエンパイアドレスやイギリスのジョージアンスタイルのドレスなど、
一時途切れ、その後、復活しますが、1906年にポール・ポワレがコルセットなしのドレスを発表をもって終了したと言われています。

コルセット着用の理由は、
一人で着用することが難しいことから裕福であることを示すため、
胸とヒップを強調することによる男性へのアピールのため、
そうではなく、女性みずからが好んでウエストを強調するためなどと、
諸説ありますが、はっきりしたことはわかっていないようです。

ポール・ポワレによってストレートなラインのドレスが発表された後、
ウエストの強調、もしくはウエストマークはいったんなくなったかに見えた女性の衣服ですが、
決してそんなことはありませんでした。
現在に至るまで、細いウエストと膨らんだスカートや、
ビスチエと言われる胸から下にかけての胴着など、
胸から下の胸郭からウエストの強調が消えることはありません。

細い胸郭からウエストは何をあらわすのでしょうか。
そのうちの1つは女性らしさです。
胸から腰にかけて、どちらかというと寸胴の男性に比べて、
女性のウエストは、太ってさえいなければ、細いものです。
それは男性にはない特徴として、女性らしさをあらわします。
次に考えられるのは、若さの象徴としてのウエストの細さです。
男性よりはウエストが細い女性と言えども、年をとってくると、
どうしてもウエストの周囲に肉がつき、その細さは失われていきます。
ウエストが細いということは、若い女性の象徴でもあるのです。

細いウエストを持ち、若く、女性らしいということは、
太いウエストの女性よりもよりエロチックです。
確かに西洋の絵画に見られるヴィーナスのウエストは決して細くはありません。
ティッツィア―ノの「ウルビーノのヴィーナス」のウエストも、
ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスのウエストも、
ルーベンスの「鏡を見るヴィーナス」に見られるヴィーナスのウエストも、
ふくよかであり、豊穣ではありますが、エロチックではありません。

一方、マネが描いた「オランピア」に見られるウエストの細い裸体の女性はエロチックです。
オランピアは娼婦です。
ヴィーナスには「エロス」という子供がいますが、
オランピアには子供はいないでしょう。
しかし、「エロス」という子供のいないオランピアのほうが、
皮肉なことにエロチックです。
それはその細いウエストゆえです。
それが示すのは未婚であること、そして何よりも恋愛の可能性です。

女性はそのことを無意識のうちに知っているのでしょうか。
コルセットが必要でなくなった現代においても、決して細いウエストを捨てたりはしませんでした。
細いウエストを見せるつけるために女性たちがやるのは、
ウエストにベルトをする、または胸の下から細いウエストまでを見せることです。

まずはベルトについて。
ベルトは通常、スカートまたはパンツがウエストからずり落ちないためにするものですが、
女性の衣服の場合、それとは別の用途で、
つまり、ずり落ちるものなど何もないのに、一種の装飾としてベルトを用います。
ブラウスにも、ワンピースにも、コートにも、ジャケットにも、
太いベルトでも、細いベルトでも、ウエストマークをするためにベルトをします。
このとき女性たちは、コルセットの名残としてベルトを使います。
これは誰にでも取り入れることができる、手っ取り早い女性らしさと若さの表現です。

そしてもっと進んだ形でウエストの細さを強調するのが、
ミドリフ丈のトップスの着用による、胸下からウエストにかけて露出させるスタイルです。
(ミドリフとは横隔膜という意味)
モデルたちがこの部分を露出するスタイルをしているのをよく見かけます。
彼女たちはもはやコルセットなど必要としないのです。
ワークアウトによって手に入れた、コルセットなしの細いウエストを見せることによって
コルセットと同じ効果、すなわち女性らしさ、若さ、そしてエロチックさを彼女たちは見せつけます。
それとなく、涼しげに。

コルセットが消えた現在においても、
女性は決して細いウエストを手放してはいません。
細いウエストに無頓着になるということは、
女らしさと若々しさ、そして恋愛の可能性を捨てたということを意味します。
そんなことは意図していないとしても、
私たちはそう読みとります。

衣装はテキストの一形態です。
それは読みとられ、解釈されます。
女らしさ、若さ、そして恋愛の可能性を表現したいのなら、
ウエストの細さを作ることです。
それはベルトを使っても、ワークアウトで肉体を細くしても、
どちらでも構いません。

それを作ったなら、人々はあなたというテキストを読みとくでしょう。
あなたが女らしく、若々しい存在であると。
そして何よりも、あなたは恋愛の対象者となり得ると。
望むのなら、あなたはそれを意図して、作ることができるでしょう。


2017年7月27日木曜日

バッグと靴の色の選び方『わたし史上最高におしゃれになる!』より抜粋


検索の多いバッグと靴の色の選び方について、
『わたし史上最高のおしゃれになる!』P182ページより該当部分を抜粋します。


バッグと靴の色の選び方

バッグと靴の選び方も、基本的には全体の色を3色以内で構成する3色ルール、そしてリレーションを作ることと同じ考え方です。つまり、靴もバッグも自分が選んだ3色の中のどれか1つの色から選べばいいわけです。例えば、自分が選んだメインカラーがネイビー、赤、白で、サブカラーとして茶色を使うなら、リレーションを作りたい場合は靴とバッグの色を揃えて茶色にしたり、白にしたりすればよいですし、リレーションを作らない場合は、ともかく全体の色が3色以内になるのであれば、靴もバッグも自分が決めた色である、ネイビー、赤、白、茶色、どれを選んでもよいということです。


ただし黒と茶に関しては少し注意が必要です。昔からあるコーディネートの基本的な考え方として、バッグ、靴、ベルトの色は合わせる、というルールがあります。最近はこの考え方がだいぶ崩れてきて、バッグと靴が違う色のスタイリングも多く提案されています。ただし、黒と茶色に関しては、少なくとも靴とバッグは合わせるという考え方が根強く、最新のモードなスタイルを選ばない場合は、靴とバッグを黒なら黒、茶色なら茶色と合わせたほうが無難です。古典的で保守的なスタイルほどこの傾向が強いので、あまり冒険したくない場合は黒と茶に関してはバッグと靴の色を合わせるとよいでしょう。また、黒なら黒で靴、バッグ、ベルト、時計のベルト、アクセサリーまでしっかり揃えてくると、よりクラッシックで、正統な雰囲気を出すことができるので、オフィシャルな度合いが高い場面などでは、統一することをお勧めします。


しかし、これとは逆によりモードっぽい雰囲気を出すには、靴とバッグをわざと違う色にするという手法が最近は多く見られます。特に靴に関しては、黒や茶色など、ありきたりな色ではない色、例えば赤、ピンク、青、黄色、紫、緑などを持ってくるほうがよりおしゃれに見えます。3色ルール以内で、リレーションができるのでしたら、靴とバッグの色を変えて、靴をこういった色にしても問題ありませんので、よりおしゃれに見せたい場合は、そういった色の靴をワードローブに追加してみましょう。いきなり高い靴でこういった色を買うのは勇気が要るので、まずはスニーカーやバレエシューズで試してみるのがお勧めです。


靴とバッグ選びに関しては、注意していただきたい点があります。
多くの方がやってしまうのは、自分のワードローブの色彩計画など考慮せずに、いきなり赤いバッグや、ベージュの靴を買ってしまうというやり方です。例えば、赤いバッグに合うコーディネートは何ですかという質問をされる方が大変多いのです。察するに、自分の色彩計画など持たずに、気まぐれで、もしくは誰かにお勧めされたからか、流行っているとかの理由で、いきなり赤いバッグを買ってしまったようです。


自分で色彩計画を立てて、サブカラーとして赤を選んでいるのなら、赤いバッグだろうが、赤い靴だろうが、赤いコートだろうが、合わせるのは可能ですし、簡単です。けれども、自分が集めている色の中に赤がない場合、もしくは、何か色を集めるという考えさえなく、ただ思いつきで漫然と、その時々の気分で好きな色を好きなだけ買っている場合は、それが赤だろうが、黄色だろうが、どんな色合わせも難しくなるでしょう。


これはお料理にたとえて言うと、こんな感じです。自分がリンゴのタルトを食べたいとして、リンゴのタルトを作ることが目的だとしたら、必要な材料はリンゴ、砂糖、小麦粉、バターとなります。そしてリンゴのタルトに必要なものを買いに行きます。それなのに、ただ単においしそうだから、今日は安かったから、誰かに勧めたからという理由でキウイを買ってきたとするならば、今度はそのキウイが最もおいしく食べられるお菓子のための材料を、新たに用意しなければならないのです。


洋服についても同じです。まず何を作るかを考えてから食材を用意するのと同じように、まず全体のイメージがあって、その上でアイテムを集めていかなければ、望むような結果は得られません。何だかよさそうだから、流行っているから、勧められたからという理由で、自分の望むイメージと全く関係のないものを入れようとしても、それではうまくいきません。うまくいかせるためには、すべて一から揃え直す必要が出てきます。


自分は赤でリレーションを作る、それでコーディネートを完成させるのだという目的があるのなら、それに合った赤いバッグなり、赤い靴なりを付け足せばよいのです。いつでも最終のイメージの完成ために何かを付け足すようにしてください。


また同様に、何にでも似合う、合わせやすいバッグの色は何ですかという質問もよくいただきます。これも、自分が決めた色の中だったら、何を持ってきても構いませんが、行き当たりばったりで服も靴もバッグも買っているのだったら、そんな色はありません。ただ無難にまとめたいのなら、黒でリレーションを作ると決めて、黒で靴もバッグもベルトも揃えておくとよいでしょう。黒でしたら、靴にしても、バッグにしても、ほとんどの型や大きさのものがいつでも売られていますので、探すのも、集めるのも簡単です。

詳しくは『わたし史上最高のおしゃれになる!』をご参照くださいませ。アマゾンさんはこちら
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2017年7月20日木曜日

秩序

西洋の美の伝統を振り返ってみれば、
特に自然に対するその態度の中には必ず秩序(ORDER)
つまりコントロールされることによってなされた様式美や法則性が見てとれます。

自然と美という点でわかりやすいのは芸術としての庭園です。
特にルネッサンス期以降、このコントロールされた様式美は顕著で、
アンドレ・ル・ノートルの設計したパリのテュイルリー庭園や、ヴェルサイユの庭園といった、
フランス式庭園にそれを見ることができます。
自然界に存在する樹木は幾何学的に刈り取りトピアリーにされ、
そのトピアリーを正確に左右対称に配置されたそこには、
自然の姿を見ることはできません。

一方、ラーンスロット・ケイパビリティ・ブラウン設計の
チャッツワ―スやブレナムパレスなどに代表されるイギリスの風景式庭園は、
見た目こそ自然そのものではありますが、
これもまた、コントロールされた自然であり、
決して自然そのままというわけではありません。
中でもウィルダネス(Wilderness)と呼ばれる風景式庭園の一部分は、
まるで自然の中の荒野のようではあるにもかかわらず、
それとて人間の手で人工的に、自然さを装った、
秩序のある自然です。
それはあたかも、3時間かけて作り上げるナチュラル・メイクのようであり、
西洋の美は、それが自然のように見えるものだとしても、
必ずコントロールされているものである、ということがわかります。

衣服においても、そのことは顕著です。
西洋の衣服の歴史において、特に女性の肉体は自然に属し、
コントロールされるべき存在であり、
コントロールされて、そこに秩序があってこそ、
美を感じさせるものでした。
コルセットはその役割を果たし、
そのほかの部分がいくら自然に乱れて、自由に動き、膨張していったとしても、
肋骨を含む胸郭をコルセットを使うことによってコントロールされている、
その姿勢に西洋の人々は美を感じていたのです。

この美意識は、現在の衣服の中にもまだ残っています。
全体の配色を3色以内にする3色ルールも、
色またはシンボルや形状を2か所以上配置し関係性を作る方法も、
上下を同じ色、同じ素材で作り上げるスーツも、
その秩序の1種類です。
思いつきや自然のままではない、意図されたことを取り入れることによって、
美を作りだすのです。
それは人によって考案され、試され、作られた美です。
それは自然ありのままではない。
よって、意図しないことには生まれないものです。

流行によりシルエットが変遷し、
今まで考えられなかったような小ささ、あるいは大きさ、
装飾過多、もしくは無装飾の状態になったとしても、そこに美しさが顕現するのは、
必ずどこかしらこのコントロールされた様式や法則性があるからです。
それが全くなくなると、それは単なる不格好な、意味をなさないものとなり、
それを私たちはファッションではないと感じます。

私たちが装うとき、何かしらおかしい、または何かしら物足りないと感じるならば、
どこかにこのコントロールされた、すなわち秩序を取り入れるとよいでしょう。
使う色を3色以内にとどめ、どこかに関係性を作って、
それでもまだ何か足りないと思えるのなら、
もう1つコントロールされたものを入れればよいのです。

コントロールされるのは何も服そのものだけではありません。
モダンな装いが取り入れたのは、コントロールされた肉体です。
シェイプアップとは、まさにそのことで、
単に痩せていることを指すのではありません。
あくまでも全体のバランスに美があるかどうかが重要で、
実際の体重の多寡よりも、その均整が大事なのです。

しかし、痩せていなくても、コントロールされることは可能です。
痩せていないのならば、装いの中に秩序をしっかりと組み込み、
コントロールされた部分を意図的に作れば、それはそれで意味のあることです。
そのためにはいくつかの方法があります。
それだけで形がはっきりとあるような、立体的で優れたパターンのジャケットやコートを着ることも、
ヒールの靴を履くことも、
固い襟やカフスも、すべて自然の形態そのままではないのですから秩序です。
例えばジャケットやコート、またはドレスの上からする
ズボンがずり落ちないようにする目的ではなく使われるベルトは、
誰でも簡単に手っ取り早くコントロールされた部分を作る方法です。
痩せていないのなら、これらを取り入れて、
自然な肉体がそのまま露見してしまわないようにすればよいでしょう。

もちろん太っていないということは、
肉体がコントロールされているということですから、非常に価値があります。
しかし、それが不可能ならば、
美を作りだすために必要なのは痩せて見せることではなく、
どこかしらコントロールされた部分を取り入れることです。
そうすれば、そこに西洋の美を作りだすことができます。

自己否定から美は生まれません。
美はコントロールすることにより生まれます。
自然のままではいけないのです。
おしゃれとは、そのことを知って自分でコントロールすることです。
コントロールされる存在ではなく、
みずから意図的にコントロールする存在になること、
それが最も重要です。
なぜならそれは、コントロールされた精神の持ち主であることの証だからです。

2017年7月13日木曜日

うたかたのドレス

あなたが毎日チェックする、
その人の社会的なつながりに関するサービスにアップされた、
あなたが素敵だと一瞬思ったドレスは、
まるでうたかたのドレスです。

あなたが毎日チェックするその人は、
いったいそのドレスを過去に何度着ていたのでしょうか?
たぶん着ていたことがなかったか、
あっても1度、もしくは2度程度。

それが素敵に見えたのは、
あなたが初めて見たものだから、
あなたにはよく見えないから、
あなたにはさわれないから。

あなたが今どうしてもそれを欲しくなってしまうのは、
あなたには手が届きそうにないから、
あなたには着られないだろうから、
あなたはきっと、見ているだけだろうから。
明日も、相も変わらずに。

そんな泡沫のドレスに、あなたは毎夜、悩まされ続けます。
もしかして手に入れることができるかもしれないと、
そのための算段をいろいろ考え始めます。
そのため、思いあまって、
「そのドレス、どこのブランドのものですか?」などと、
ほとんど返事がもらえる可能性のない質問を、
自分の名前を隠して、その人にはわからないような小さな隠喩で作られた名前で、
聞いてしまったりするでしょう。

そんなことを聞いて、万が一、返事があったとしても、
あなたはそれを手に入れるわけではないのです。
ただそのドレスを自分が着てみる可能性を、
数秒ほど考えてみただけ。
その数秒を、いらぬ空想に奪われただけ。

そんな繰り返しの毎日は、あなたを幸せにしたでしょうか?
あなたはそのうたかたのドレスを見るたびに、
あの、得も言われぬ、宇宙に偏在する愛のネットワークに触れる、
そんな感覚を得られたでしょうか。
得られると言うのなら、それを続ければよいでしょう。
うたかたのドレスを夢見続ければいいでしょう。
けれども、もしそうでないと言うのなら、
そんなうたかたのドレスに恋するのはやめることです。

あなたを幸せにするドレスは、そんなところには存在しないのです。
それはもっと身近な、
触れられるところにあるのです。
少なくとも確実に返事があるような、そんなところに。


幸せになりたいのなら、
泡のようにはかなく消えない、あなたの手に届くドレスを選んでください。
そしてそのドレスを着て、空想ではない、実在の道を歩いてみること。
そのドレスの素肌に触れる感触こそがあなたを幸せにするものだと、
きっとあなたは気付くでしょう。

2017年6月26日月曜日

『わたし史上最高のおしゃれになる!』おわりに公開

 (こちらの写真は重版分なので、初版のものとは帯のデザインが違います)

『わたし史上最高のおしゃれになる!』の「おわりに」部分を公開します。
私の考えのコアとなる部分が表現されている部分です。
共感された方はぜひ本書を御読みくださいませ!
横書きでいきます。

おわりに

2017年の春夏コレクションで、マリア・グラツィア・キウリがデザインするところのディオールのランウェイに、「WE SHOULD ALL BE FEMINISTS」というスローガンの書かれたTシャツが登場しました。私たちはすべてフェミニストであるべきである。これはファッションの発展の歴史にとって重要なスローガンです。なぜならそれは、いつでもファッションの歴史の裏のテーマであり、どんなに優れたクチュリエと言えども、このテーマに踏み込まない限り、重要であるとは見なされないからです。
 それまでの女性が持っていなかった、衣服を通しての表現の自由と権利の拡大、その発展のためにファッションは毎年、進化します。固定化した役割分担からの解放、ジェンダーに張り付いた意味の解体と再構築、誰かのためではなく自分のためのセクシュアリティの表現、これらをより発展させるために、デザイナーは苦悩し、新しいデザインを考えます。
 何より大事なのは、選択する権利があるということです。私たちには着るものを選ぶ権利があります。それだけではありません。おしゃれであることを選ぶ権利があるのと同様に、おしゃれでないことを選ぶ権利もあります。もちろんそれは自分も他人にも同じように、です。私たちは他人を、おしゃれでないからという理由で非難することはできません。ファッションが標榜するのは表現の自由ですから、それはいつでも尊重されます。ですから、他人のその服装を「ダサい」「遅れている」などと非難することは、ファッションの精神とは相入れないのです。
 この本を通して、私はおしゃれに見えるポイントをお伝えしましたが、けれどもそれは、誰かを非難したり、ジャッジすることに使うためではありません。おしゃれでありたいのならば、他人がおしゃれはしないという自由さえも認めなければなりません。
 もう1つ、真のフェミニストが認めるのは多様性です。ファッションをつくる側の人間は、人々の多様性を認め、それを信じるからこそ、毎年たくさんのデザインを考え、服や靴、バッグをつくります。もしすべての人が同じ服、同じ靴、同じバッグを持てばいいのなら、何年も勉強して、泣きながら服を作るような、そんな努力はしないのです。ファッションをつくる側は、人々がそれぞれ違うライフスタイルを持ち、それぞれが違う過去の傷と未来の夢を持っていることを知っています。だからこそ、すべての人が同じ服、靴、バッグであればいいなどとは決して思わないのです。それは女性でも男性でも同じこと。もちろん性的志向が大多数の人と違っても、ファッションをつくる側は何ら問題にしません。彼らは、すべての人が同じ服と靴とバッグで街を歩くモノクロームのディストピアではなく、すべての人がそれぞれの多様な個性を発揮し、街を彩るカラフルなユートピアを信じているのです。

 そんな自由と権利が侵害され、多様性が否定されるならば、それはファッションの本来あるべき姿ではありません。誰にでも平等にそれはあります。お金持ちだけに自由と権利があり、お金がない人にはない、というものでは決してありません。自分はお金があるからおしゃれをするのにふさわしいけれども、あなたは貧しいのだから、労働の対価がディスカウントされ、おしゃれする権利も認めないというその態度は、ファッションでも、おしゃれでもないのです。この点を間違ってしまうと、人はファッション至上主義に陥り、他人に対して非道な行為をしても何ら罪を感じなくなります。でもそれはやはり違うのです。フェミニストではないのです。フェミニストではないということは、つまりおしゃれでもファッションでもないのです。
 しかし、そうは言っても、現実のファッションの世界、特にアパレル業界では、この点が徹底されていないのが現状です。いつでも世界のどこかで誰かの、特に弱い立場の人の権利は踏みにじられています。ファッション至上主義者はいとも簡単に、そんなことはどうでもいいと言わんがごとく、自由と権利を奪っていきます。見て見ぬふりなのか、本当に見えていないのか、そのどちらかなのかはわかりませんが。
 そしてそれを買う側も、油断しているとどんどん奪われていきます。ワードローブは大して好きでもない、どうでもいいものだらけで満たされ、甘い言葉の誘い文句、またの名は脅迫で、そのワードローブは膨れるばかり。その挙句、誰からもおしゃれと言われないなんて、こんな悲惨なことはありません。そうならないためにも、自分をしっかり持つこと、知識で防衛することは必要です。
 自由に着ていいのです。誰かに何か言われたって、どう思われたって構わない。もちろん失敗してもいい。うまくいかなくてもいい。誰も認めてくれなくても、誰に知られなくても、そんなことはどうでもいい。
 失敗しなければ成功しないし、誰かが何か言ったって、その誰かはあなたの人生の責任をとってはくれません。
 自分に自信がないから、自分のことを好きでないから、誰も褒めてくれないから、そんな理由で、せっかく手にした自由と権利を手放し、盲目的に誰か大きな声の人たちのフォロワーになって、これ以上、主導権を奪われ続けていたら、その結果、得られるのは今より一層みじめな気持と満たされない心、あなたの好きが反映されない、オリジナリティが欠如した心踊らないワードローブ、そして何よりあなたを苦しめる自己嫌悪の感情でしょう。そんなことをしていたら、ますます自分を嫌いになるばかりです。自由と権利を自分から差し出して、自分を表現することを拒み続ければ、まちがいなくその人は憂鬱になり、うつむき加減に街を歩く人になるでしょう。
自分に自信がないのなら、自分のことが好きでないのなら、誰も褒めてくれないのならなおのこと、やるべきなのは自分をよく知り、どうしたいのか考え、失敗しながらも、あきらめず行動し続けることです。
 誰も認めてくれないかもしれません。それどころかその失敗は誰かに笑われるかもしれません。現実は何も変わっていないと感じるかもしれないけれども、ここでおしゃれになると勇敢に決意したこと、恐れずやってみたこと、思いきって試してみたこと、恥ずかしい失敗をしたこと、それでもまた起き上って行動し続けたそのことが、誰にも奪えない宝物として、生涯を通じてあなたを支えるのです。
 播いた種からはいつか必ず芽が出ます。かけた言葉の返答は、遠い未来に必ず戻ってくるでしょう。あなたの願いをかなえるのは行動したあなただけ。そして、あなたをおしゃれにするのはあなた以外ほかにはいません。
 大丈夫です。私がここでお伝えしたのは誰にでもできる方法です。この本を手に取って、一歩踏み出したのですから、それはきっとできるようになります。
私はあなたを誰かと比べるつもりはありません。そのユニークさを知っています。疑いもなく実現することもわかっています。あなたの大事なものを捨てなさいなんて言いません。あなたの好きなものと嫌いなもの、そして、その意思を尊重します。あなたは誰とも違うのだから、みんなと同じものを着ろなんて言いません。あなたの肌にその色は似合わないから、そのあなたが好きな色をあなたは着てはいけないなんて決して思いません。
私はただ単に、好きなものをおしゃれに着られるようになって、より自由になった、そんなあなたを見たいだけです。そしてそんな自由なあなたの姿を見るのが好きなのです。だって、それがファッションだって、偉大なデザイナーやファッションフォトグラファーたちは私に教えてくれましたから。ずっと前からそうだって、私は知っています。

 今回紹介したメソッドは、私が中学生のころからファッション雑誌を読み始めたこと、中学・高校の演劇部時代に衣装をデザインして作成したこと、大学時代に学んだり、シェイクスピア研究会で衣装をつくり、シェイクスピア劇を上演したこと、文化服装学院時代に学んで作って覚えたこと、春休みや夏休みや冬休みに数多くのブランドでアルバイトしたこと、東京コレクションに参加するブランドのスタッフとして働いた時期に培った技術と経験と、大手アパレルメーカー時代に知り得た情報と、そして私に心が震えるほどの感動を与えてくれたすばらしいたくさんの服と、それらすべてをもとに私が独自に、そして自分のためにつくり出した方法です。それを2010年以降、一般の方にファッションレッスンという形でお伝えし、その一部を同じ2010年から「誰も教えてくれなかったおしゃれのルール」というブログ形式で公開してきました。本書のおしゃれTIPSの一部は、そのブログの文章を解体し、再構成し直したものです。

 本書を通して、主導権を奪われ、脇役に追いやられそうになった、多くの自分の人生をおしゃれな主人公として生きたいと願う方々のお力になれたら幸いです。
 」


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2017年6月13日火曜日

おしゃれを完成させるのは絵になるロケーション

西洋の衣服を考えるとき、それが絵になるかどうかはいつでも重要なポイントになります。
暗黒の中世が終わりを告げ、後にルネッサンスと呼ばれる時代に入るころ、
正面を向いた自画像で有名なドイツ人の画家デューラーは、
自分の着ている衣服のひだや、それによってできる陰影、
そして生地の質感を丹念に描きました。
衣服と絵画の関係はこのころから強く結ばれ、
それが現代へと続き、ファッションはファッションフォトグラファー、
そしてそれを掲載するメディアであるファッション誌なしでは存在し得なくなりました。

翻って、日本で長く着られているキモノは、
その平面的な生地そのものに絵を描きます。
美術館へ行けば、キモノが衣紋掛けに掛けられ、
そこに描かれた、絵画のようなデザインがわかるように展示されているさまを見ることができます。

作業や労働をするときのようなものではなく、
特に美しい衣服や、それを装飾するジュエリー、アクセサリー、シューズは、
実は全体として絵を作るために作られています。
衣服が重かったり、歩けないシューズだったりしたとしても、
それは全体の美しい絵のために奉仕するためであるので、
さほど問題にはされないのです。

ある程度、ワードローブがそろい、それなりにおしゃれに見える作法を身に付けたとき、
それでも何か物足りないと感じる方も多いのではないのでしょうか。
その原因の1つは、いくら衣服や装飾品、そしてシューズを揃えたとしても、
西洋の衣服というものは、それにふさわしい絵、つまりシーンなしでは成立し得ない、
つまり衣服だけではおしゃれに見えないという、その性質によるものです。
どんなに服、シューズ、バッグをそろえても、
あなたの立つシーンが、例えば田んぼの真ん中や、
蛍光灯がこうこうと光る工場付随の事務室では、
何か物足りなく見えてしまうのです。

多くの地方在住者が抱える悩みはこの点にあるでしょう。
情報やモノは今や、どんな僻地へも平等へ届けられます。
しかし、絵になるようなシーン、つまりロケーションが近くにない場合、
そこに葛藤が生まれます。
それは着ていくところがない、おしゃれする場所がないという葛藤です。

しかし、皆さんが思っているほどに、
東京という都会でさえ、さほど絵になるようなロケーションは多くありません。
それは海外のハイブランドが作るトーキョーフィルムがいつでも、
夜のネオンや、連続する赤い鳥居をくぐるシーンばかりということを見てもわかります。
現代の日本の街づくりは、決して全体として絵になるようにデザインされていないのです。
ヨーロッパの都会から遠く離れた小さな村にあるものが、日本にはほとんどありません。

そうなると、おのずとおしゃれをしていく機会も限られます。
試してみたくても、着ていくロケーションがありません。
ではどうしたらよいでしょうか。

なにも行動せず家にいるだけでは、
ロケーションは向こうからはやってきません。
いくら都会に住んでいても、土日は家にいて、全く外出しないのでは、何も解決はしません。
その解決方法は、自分で進んで絵になるロケーションのあるところへ出かけるか、
もしくは自分でその場を設定するか、
そのどちらかしかありません。

自分で進んで出かける場合、絵になるロケーションはいろいろ考えられるでしょう。
洗練された海岸や高原のエリア、
もしくは美術館、劇場、ホテルやレストランなど、建築やインテリアが美しいところなど、
おしゃれして出かける甲斐がある場所がそんなロケーションとなり得ます。

一方、自分でその場を設定する場合は、
家でパーティーをする、誰かをもてなす、
もしくは何かの会を企画する、発表会をするなど、
自分の住んでいる地域や、している活動によっていろいろな可能性が考えられます。

いずれにしても、実現するためには行動しなければなりません。
そしていつか誰かがそんな場所へ連れていってくれるだろう、
そんな機会を設けてくれるだろうという受け身的な程度では、
その機会はいつになったらやってくるかわかりません。

実のところ、おしゃれと受け身的な態度は相性が悪いのです。
とことん悪いのです。
あなたがいつも思う、あの離婚したほうがいいカップルと、
同じぐらい悪いのです。

受け身的な誰かのフォロワーである限り、
あなたが身につけることができるおしゃれの能力には限界があります。
それでもある程度のところまではいけますが、
それ以上はどこへも届きません。
遠くまで行きたいのならば、自分から行動すること。
もちろんそこそこでいいのなら、
受け身的かつ依存的でも構いません。












2017年5月18日木曜日

年を取って服が似合わなくなったとき、どうしたらいいのか

多くの方がある年齢になった、ある日に、
今まで着ていた服が全く似合わないと気づくとおっしゃいます。
なぜかわからないけれども、
違和感を感じて、その服を着る気分ではなくなると。
それはなぜなのでしょうか。

私たちは、常に年を取っていきます。
今から若くなるということはありません。
毎日毎時間毎分毎秒、薄紙を一枚ずつ重ねていくように、
年を取り続けます。
これには誰も逆らうことができません。

実際には、変化は毎日起こっています。
ですからある日、突然、浦島太郎が玉手箱のふたをあけて御爺さんになってしまったかのごとく、
いきなり老ける、ということはありません。
肉体は日々確実に、若くはないほうへ向かっていく。
ただ、その事実をその人は見ようとしなかっただけです。
その見ようとしなかった事実にある日突然、何かの理由により、または出来事により、
向き合わざるを得なくなったときに、
今まで着ていた服が似合わなくなったと感じるのだと思います。

では、ある日突然今までの服が似合わなくなると感じた方々が
それまで着ていた服とは、一体どんな服なのでしょうか。
そこにはある特徴があるはずです。

先日、電車の中で、とある女性の後ろ姿を見ました。
背中まである茶色くカラ―リングしたストレートヘア、
ひざ丈の、たぶんポリエステルシフォンのパステルカラーのピンクのスカート、
少し色あせたGジャン。
そしてその色あせたGジャンとは不釣り合いな、
少し濃いめのナチュラルストッキングにヒールのあるサンダル、
手にはヴィトンのモノグラムのバッグ。
身長は165センチぐらいで、太ってはいませんが、やせているというわけでもなく、
割としっかりとした体格。
次の駅が近づいて、その方が振り返ったとき、
私はなぜか驚いてしまいました。
なぜ私は驚いたのでしょうか?
私は、意識はせずに、その方はせいぜい30代だと判断したのです。
しかし、振り返ったその方はどう見ても50代半ばから後半といった感じでした。

私がその方が30代だと思いこんだその理由は、
その方の着ていた服が、20代から30代向けのデザインと質感の服だったからです。
Gジャンとストッキングの色の濃さと厚さが不釣り合いだとは思ったのですが、
そのほかの部分は明らかに若い人向けの服でした。
その若い人向けの服のデザインと質感は、
その方の肌の感じには合わないのでした。

年をとると若いときと明らかに違うのは、
肌の輝きや質感と、肉付きです。
どちらも努力なしには、若いままをキープすることはできません。
そしてこれら若くはない肌と、その肉付きには、
その若い人向けの服は合わないのです。

しかしと、皆さんは思うでしょう。
大人の服一点一点に、子供服のように、これは何歳向けとは書いていないわよと。
そんな表記はどこにもないわよと。
そのとおりです。
服はいつでもサイズで選ぶもので、年齢で選ぶものではありません。
では、若い人向けと、そうでない人向け、何が違うと言うのでしょうか。

若い人向けの人は多くの場合、若い人が企画やデザインをしています。
チーム全体が若いのです。
チーフデザイナーが28歳だったりします。
もちろんもうちょっと上の世代が作っている会社もあるとは思いますが、
それでもいいところせいぜい40歳ぐらいのところが多いでしょう。

若いということは、若くないことがわからないのです。
若くなくなったときの肌の質感も、身体のどこに肉がついていくのかも、
実感を持って、知ることができないのです。
そんな、年を取ってるということがわからないという人たちが作った服が、
いわば若い人のための服となります。

例えば45歳を過ぎたころ、美容院であなたがカットしてもらいたいと思うスタイリストは
いくつぐらいの方でしょうか?
自分と同じぐらい、または少し年上といった感じではないでしょうか?
白髪や髪のうねりといった髪の悩みを理解してくれる、
そんな年齢の人にお願いしたいと思わないでしょうか。

またはデパートのコスメ売り場で、
あなたの肌の相談は、やはり同じようにあなたと同じぐらいの年齢、
もしくは少し上の方にお願いしたいとは思わないでしょうか?

なぜか。
若い人にはわからないからです、
年を取るということが。
年を取ったら、髪がどう変化し、どうしたら補正できるかということが。
年を取ったときの肌の輝きがどう失われ、
それにふさわしいメイクの方法が。
テクニックとしてはわかっていても、実感としてはわからないのです。

同じように服だってそうなのです。
若い人には、若くない人の身体の悩みなど、わからないのです。

私だってそうでした。
私が最初に入った東京コレクションに参加していたブランドの企画室のメンバーは、
デザイナーが36歳で、あとは生産管理もパターンナーもみんな20代でした。
大手アパレル会社の企画室のメンバーも、マーチャンダイザーでこそ40代の男性でしたが、
あとは全員20代でした。
そんな人たちに、45歳過ぎた女性に似合う質感やスタイル、素材など、
想像もできないし、わからないのです。

年を取って、ある日、すべてが似合わないと感じる多くの方は、
そんな若い方が作っている服を着てはいないでしょうか?
日本のアパレル業界に、キャリアのある女性など非常に少ないことは明らかです。
労働時間が長く、結婚さえままならないような職場には、
若いスタッフしかいないことがほとんどです。

自分の年齢と同じぐらいか、またそれより上のスタッフのいるブランドは、
ありますが、日本では少数派です。
しかし、そういったスタッフが作ったものでないと、
その年代にふさわしい質感とスタイル、カットの服は作れないのです。

年を取って似合わなくなったそのときに、
何を買えばいいか、
その1つの解決策は、
自分と同じぐらいの年齢か、それ以上の人が作った服を着ることです。
つまり、年を取るとはどういうことか、わかっている人が作った服を着るのです。

思えば私たちは長いあいだ、
ずっと、年上の人が考えてくれた服を着てきたのでした。
20代も、30代も。
年上であるがゆえに、私たちのことを理解してくれた人たちが作った服を。
年を重ねるということは、理解の範囲が広がるということなのです。

まだ大丈夫です。
私たちより年上の、よく理解してくれる人はいます。
日本には多くはないかもしれませんが、
海外に目を向ければ、ちゃんと存在しています。
そんな、理解してくれ人たちが作った服を、
わかっている人たちが作った服を、
私たちは地道に探して、
年を取ることの意味を、
その価値を、
分かち合っていくことが、
年を取った私たちに残された、
最良の道ではないかと思います。


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