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2014年1月20日月曜日

フラット・シューズが戻ってきた

フラット・シューズが戻ってきました。
もちろん、今までも完全になくなっていたわけではありません。
バレエ・シューズは常に売っていましたし、
多く提案もされていましたが、なかなか主流にはなりませんでした。
理由は簡単です。
2000年ごろから続いた、タイトなシルエットには、
フラット・シューズではバランスがとれなかったからです。

ハイ・ヒールについての記事で前にも書きましたが、
タイトな服にヒールのない靴は似合いません。
ミス・ユニバースを決めるときの水着審査で、
女性たちがビーチ・サンダルをはいて出てきたのでは、
審査にはなりません。
水着という最もタイトな衣装を身に付けた女性が最も美しく見えるためには、
ハイ・ヒールでないとだめなのです。
これが逆に、フラやタヒチアン・ダンスの衣装だったら、
足元はフラットで構いません。
上半身がいくらタイトだとしても、
ボリュームのあるスカートには、フラットな足元が似合います。

新しいボリュームの流れがある程度定着したので、
ここへきて、フラット・シューズが完全に戻ってきたのです。
すべてはバランスの問題です。
フラット・シューズが戻ってきたのは、
バランスが変わったからにほかなりません。
今、盛んに提案されているのは、以前とは違うバランスなのです。

ですから、ここ四、五年と同じバランスの服に、いきなりフラット・シューズを合わせても、
それは似合いません。
靴だけフラットにすればいいという話ではなく、
全体のボリュームを見て、バランスを決めなくてはなりません。
フラット・シューズにはフラット・シューズにお似合いのバランスがあります。
それは端的に言えば、以前よりボリュームがあるということです。

布地をたくさん使ったフレア・スカートやプリーツ・スカート、
なで肩でボリューミーなコート、
ワイド・パンツ、
流れるドレープのワンピースなど、
フラット・シューズが似合うバランスのアイテムがたくさん出てきました。

このバランスを新しく取り入れたとき、
今までのバランスに慣れた私たちの眼は、
その見慣れないバランスを、すぐには素敵と思えないかもしれません。
誰でも慣れ親しんだものに愛着を感じるものです。
慣れ親しんだ、そのバランスの作り方のほうが、
まだまだ格好いいように思えるかもしれません。
しかし、あえてそれを飛び越えていくのがファッションです。

もちろん今の流行は、
フラット・シューズが流行ったら、それ一辺倒になるわけではありません。
同時にハイ・ヒールも存在します。
ただくれぐれも忘れないでほしいのは、
同じバランスでハイ・ヒールもフラット・シューズも似合うわけではないということ。
パンツ丈やスカート丈、そのボリュームなど、
どんな高さのヒールの靴をはくかによって、微妙にふさわしい丈が変わってきます。
スタイルを完成させるためには、
鏡の前でのバランス・チェックは欠かせません。

いずれにせよ、選択肢がふえるということはよいことです。
選ばされていた、または選ばざるを得なかった時代から、
選べる時代への変化です。
ハイ・ヒールをはくもよし、
フラット・ヒールをはくもよし。
重要なのは、それを決めるのは自分だということです。

自分にふさわしくない流行には毅然としてノーと言うことも必要です。
だけれども、ときには、自分を縛る過去や古臭い習慣も、
潔く捨てなければなりません。

たくさんのフラット・シューズが選べるようになった今、
誰かから言われたからでもなく、
自分で決めた習慣からもいったん離れて、
遠くまで歩ける靴を見つけましょう。

やる前にあれこれ理由や言い訳をしないで、
まずは選んでみること。

それが似合うかどうかは、
その靴をはいてみて、初めて分かります。

シンデレラはガラスの靴をはいて、自分の住む世界を変えました。
その一足は、もしかしたら、あなたの住む世界を今とは全く違うものにするかもしれません。
新しいバランスと新しい靴で、新しい世界を歩きましょう。
それで得られる経験は、自分で選んで行動したものにだけやってくる、世界からのプレゼントです。








2014年1月13日月曜日

デザイナーの言葉

ココ・シャネルは言いました。
"In order to be irreplaceable one must always be different."
(誰とも代えられない、かけがえのない存在になりたかったら、
いつも違ってなければなりません。)

おしゃれであることの最大のポイントは、誰かと同じではないこと、
つまり、違っていることです。
同じであり、代替可能であり、凡庸で、目立たなく、
あたかも自分の個性を消してしまうようなスタイルをしていたのでは、
決しておしゃれには見えません。

同じものであるかどうかを認識するのは、
人々の記憶であり、情報です。
記憶の中に、
あれとあれは同じという情報に引っかかる部分が多ければ多いほど、
それはもはや違う存在ではないということです。
おしゃれであるためには、
常に誰かと違う存在であるために、何かを探し続ける必要があります。

有能なデザイナーたちはそのことを熟知しているので、
誰かと同じデザインを真似たり、繰り返したりということを避けます。
誰かと同じことを目指したら、それはデザイナーであることの死を意味します。
その人はもうすでにデザイナーとは呼ばれません。

しかし多くの服は、デザイナーと呼ぶことをはばかれるような人たちによって生産されます。
それはマーチャンダイザーかもしれません。
マーケッターかもしれません。
彼らが口にするのは、同じであることへの礼讃です。
なぜなら、それはマーケットや効率的な生産にとって都合がいいからです。
同じものを大量生産したほうが、
違うものを小ロットで生産するより利益が出ます。
利益を出すために、彼らは人々に、同じであることのすばらしさをそれらしく説きます。
しかし、それはあくまでマーチャンダイザーの言葉。
デザイナーの言葉ではありません。

でも、と思うかもしれません。
おしゃれな制服というのはあるわと、あれはみんな同じものを着るわ、と。
しかし、「おしゃれな制服」を考えるとき、
私たちが思い浮かべるのは、
○○の制服を着ている誰々さんの、
○○の部分です。
主体は、着ている人ではなくて、制服になります。
おしゃれな制服は確かに存在するでしょう。
しかし、制服を着て、代替不可能な存在はいません。
工場で必要なのはいつでも大体可能な存在。
ほかと同じであるならば、それはいつでもはじき出されます。
異質なことは、効率的生産や工業製品には向きません。

私たちは、代替不可能な存在ですが、
ここ数年のアパレル業界は、代替可能な存在への多くの提案がされてきました。
マーチャンダイザーやマーケッターの啓蒙は成功したのです。
その結果、ものすごい勢いでファッションの平均化が進みました。
それは年齢だけではなく、男女の間でもそうです。
小さい子供から、年配の方まで、男も女も同じようなデザインを着ることが多くなりました。
そのことがもたらしたのは、ファッションの牢獄化です。
着るものによって、私たちは囚われの身となりました。
あなたは代替可能な存在だから、もう必要ない、
明日からもう来なくていいよという言葉を恐れて、私たちは暮らしています。
そして皮肉なことに、それを恐れるあまり、より一層平均化への道を歩んでいます。

しかし、おしゃれでありたいのなら、
私たちはマーチャンダイザーやマーケッターではなく、
デザイナーの言葉を聞くべきです。
アレクサンダー・マックイーンはこう言いました。
"Fashion should be a form of escapism, and not a form of imprisonment."
(ファッションとは、囚われの形ではなく、そこから逃げる形でなければならない。)

ぼうっとしていると、囚われてしまいます。
簡単なほうを選んでも、囚われてしまいます。
他人と違う道は、簡単ではありません。
勇気もいります。
時間もかかります。
しかし、おしゃれであることを選ぶならば、
その道を通らなければなりません。
囚われた人々とは違う道を、あえて歩むのです。

幸いにも、優れたデザイナーたちは、多くのその道を用意してくれています。
私たちはそれを選ぶことができます。
もちろん、自分で作ったり、工夫したりできるものもあるでしょう。
問題なのは、それをあえて選ぶかどうかだけです。

代替可能な多くのものの中の1人から、
誰にも代えられない、
ほかには見つけられない、
あなたでなくてはいけない、
そんな存在になりたいのなら、同じであることを捨てましょう。
それを決意したその日から、
おしゃれであることは始まります。



2014年1月6日月曜日

幸せな通勤着

多くの勤め人の方々にとって、通勤のための服というものの位置づけに悩むことだと思います。
それぞれの仕事、それぞれの勤務先、それぞれの方法、それぞれのスタイルがありますから、
一概に通勤のための服はどうすべきだというものはありません。
徒歩の人、自転車の人、電車やバスの人、それぞれ違ってくることでしょう。
しかし、ここで大きな差を生むのは、
仕事場に行くまでの手段ではなくて、その自由度です。
どんな手段で行くかよりも、そこへ行くための服装が自由であるかどうかのほうが、
よっぽど最終的にすべきスタイルに影響します。
自由であるかどうかということは、つまり、
自分の意志、意見を反映することができるかどうか、
好きにできるかどうかということです。
自由であることの悩みと、
自由でないことの悩みとでは、その悩みの中身自体が変わってきます。

ではここで、通勤というものを映画のワンシーンであると考えてみましょう。
時代は、とりあえず現代。
舞台はどこでしょうか。
都会、田舎、郊外、その他の地域。
移動の手段は歩きなのか、車なのか、自転車なのか、そのほかの乗り物(まさか船も?)なのか。
季節は春、夏、秋、冬、すべてについて考えます。

次にそのシーンの後に続く職場について考えてみてください。
そこで制服に着替えるのかどうか、着ていったままの姿で仕事をするのか。
制服に着替えるのであったら、あるいは、通勤着は何を着ても自由かもしれません。
何を着ていっても、同僚や上司に何か言われることはないかもしれません。
そこには自由があります。

次に、制服はなく、そのままのスタイルで仕事をする場合。
ここでは2つに分かれます。
それは自由があるかないかです。

まず、自由がある場合。
着ていくスタイルについては自由があるとします。
しかし、そこにはほかに登場人物がいないでしょうか?
そこでたった一人ぼっちで仕事をするなら、誰にも会わないというのなら、
それは本当に自由でしょう。

では、その職場は1人ということはなく、上司や部下、同僚などがいるとします。
そうなると、あなたはその他の登場人物と一緒にそのシーンに出ることになります。
自分が映画の監督であると同時に衣裳係やコスチューム・デザイナーであったとするならば、
当然、その他の登場人物との兼ね合いを考えます。
そのシーンにはそのシーンにふさわしい衣装があります。
それが何であるかを探らなければなりません。
また、登場人物だけではなくて、背景や舞台装置についても考慮する必要があります。
ポストモダンのコンクリート打ちっぱなしの建物の中での仕事と、
古い日本家屋をリフォームした小さなカフェでの仕事では、
背景が違いすぎます。
コスチューム・デザイナーは背景の色や質感、そして照明の当たり具合も配慮します。
太陽光に映える色や素材と、蛍光灯やLEDライトの下で映える色や素材は違います。

次に職場には100パーセントの自由がない場合です。
自由度がどれぐらいなのかは、その職場によってそれぞれ違うでしょう。
ジーンズがOKな職場もあれば、決して許されない職場もあるでしょう。
そこにはそれぞれドレスコードがあって、深い理由はなく決められているものでしょうが、
お給料をもらうのと引き換えに、守らなければならないものです。
いくら自分が自分を主役とした映画の主人公であり、監督であったとしても、
自分ですべてを自由には決められません。
お金を出すスポンサーが口出しをして、その意見に従わなければなりません。
その状況は、自分のボスは自分だけという状態にならない限り続きます。


それぞれが、それぞれの自由度の中で通勤するための服を決定していきます。
だから、通勤着はこうすればいいとは決して言えません。
なぜなら、あまりにもみなそれぞれ条件が違いすぎるからです。
しかし、どちらにしても一つ言えることは、
自由であればあるほど、好きな格好ができるということです。
逆に言えば、自由であるならば、ほとんどのスタイルは許されます。

そして、自由であればあるほど幸福度は高まります。
自分で決められるということは、幸せであることの1つの指標です。
それはたぶん、稼ぐ金額の多寡よりも大きな意味を持ちます。
好きなTシャツを1枚着ることは、高級なブランドの制服をいやいや着るよりも幸せなのです。
1年のうちの多くの時間、着るであろう通勤着ですが、
それを着ることが幸せであるかどうかは、自分がどれだけ自由であるかどうかによります。

通勤着を幸せなものにするためには、
自分をできるだけ自由な立場になるように努力しなくてはなりません。
そんなことできないと言ったら、それで終わりです。

残念ながら、その自由な通勤着への到達方法を教えてくれるところは、ほとんどありません。
(その逆の方法への道筋を教えてくれるところはたくさんあります!)
より多くの時間を幸せに過ごしたいのなら、
そのための努力を惜しむことはありません。

就職活動中の学生たちの同じスタイルを見るたびにため息が漏れます。
多くの学校は、自由がなくなるための道筋しか教えてはくれないのでしょう。

しかし、それは嫌だと思ったのなら、誰も教えてはくれないけれども、
道なき道を探しあてて、深い森をかき分けていくように、小さなランプをともしながら、
歩き続けましょう。

おしゃれで、そして幸せな通勤着を自分に着せることができるのは自分だけです。
ほかの人には何もできません。
そのためにまず必要なのは決意すること。
一歩踏み出したならば、次の一歩は、きっとすぐにでも見えてくることでしょう。
そして一歩一歩進めば進むほど、自由は手に入ります。

おしゃれで自由な通勤着を着ている主人公は魅力的です。
魅力的な主人公になるかならないか、決めるのはあなたです。

2013年12月23日月曜日

ファッションと自由

ファッションは、表現の1つの形態です。
服、靴、バッグ、帽子、アクセサリーなどを使って、
それぞれが自分を表現します。
それは、私たちの権利です。
他人の権利を侵害しているのでなければ、
ファッションについて、誰かにとやかく言われる筋合いはありません。

ファッションに関する規制は、自分で作ります。
私はジーンズははかないわとか、
ブルーを選ぶわとか、
ファーは絶対反対よとか、
それは自分で決めるものです。
それを決める権利は、自分しか持っていないからです。

けれども、年代や立場によっては、制服や、それに準ずるものを強いられる場合もあります。
学生や会社の制服、
セレモニーのときの決まった服装など。
しかしそれも、自分で納得して受け入れる範囲では、問題ありません。
逆に、どうしても受け入れられないものであったら、
そこから逃げる権利はあります。

おしゃれの基本的なルールを知り、練習することは、
画家ならばデッサンの練習、
ピアニストなら、バイエルの練習、
バレリーナのバーレッスンのようなものです。
型が決まった表現方法を身につけるためには、基礎練習は必須です。
しかしそれは、ルールにがんじがらめになるためにやるものではありません。
目的は、自由な表現を手に入れるためです。

自由とは、他人の自由を認めることです。
他人が自分とは違う存在だと知ること、
そしてその多様な姿を認めることです。
多様性とは、世界の豊かさです。

自由がなく、多様性を認めない社会では、
ファッションは成立しません。
その考え方がだめ、あの色がだめ、スカートの丈はこれでなければだめなど、
こと細かく決められたら、それはファッションではなく、
暑さ寒さをしのぐための、単なる布きれです。
ファッションが布切れにおとしめられたら、
形も色も失います。
形と色が禁じられた世界では、ファッションは禁止事項なのです。
なぜなら、ファッションは、もうそれだけで自由の象徴だからです。

ルールを知って、自由な表現方法を身につけると同時に、
この自由な世界を守り、育てていかなければなりません。
「自由」という前提がなくなったら、
何もかも終わりです。
終わりになった世界を、どうぞ想像してみてください。
今現在も、どこかにそんな社会は存在しているはずです。

あなたが今日来ているその服は、世界とつながっています。
無関心かもしれませんが、無関係ではありません。
ひとつひとつの選択が、その後の未来を決定します。
好きな色を着ていられる未来を望むなら、
それが実現できるように選択してください。
選択だけが世界を変えます。
あなたは、その力を持っています。

2013年12月17日火曜日

自分にふさわしいコートの選び方

ごくたまになのですが、知らない方から、自分にはどんなコートがいいのかとか、
どういうふうにコーディネイトしたらいいのかなどの質問をいただきます。
そのたびにお答えするのが、「見てもいないものに対してアドバイスはできません」ということです。
その方自身も、持っているワードローブも、好みも、何も知らないのに、
何がいいですよとは、言えません。

服については、到底、言葉だけで表現することはできません。
正確な色や、その立体的な様子をこと細かに表現したところで、
実物にはたどりつきません。
いわんや、人の姿、印象、見えない雰囲気など、言葉だけで表現するのは無理です。
そして、そのわからなさを前提としたアドバイスは、やったとしても、ほとんど役立たないものになるであろうことは、目に見えてわかっています。
というわけで、見てもいないものに対してアドバイスはできないのです。

では、もしその人のことを知っていて、見たこともあり、雰囲気も感じて、
好みも把握し、ワードローブも見ていたとしたら、
どんなふうにアドバイスをするかというのが、今日のテーマです。
お題としては「コート」を選びました。

まずは、その人のテーマ・カラーを確認します。コートなので、差し色ではなくて、メインのカラーとなります。
次に、今後、どういった方向にいきたいのかを確認します。
今はそうではないけれども、近い将来になりたい方向です。
今と変わらない、同じテイストであるのなら、それはそれで聞いておきます。
次に、その方の今持っているワードローブを確認します。
舞台やテレビの衣装ではないので、一から全部、そろえるわけではありません。
もうすでに持っていて、これからまだ着るワードローブにコートを追加していきます。
ですから、今持っているアイテムや色と、全く合わないものは選べません。
それを確認します。
もちろん、その方の容姿や、全体的な雰囲気などは、目で見て、感じることによりチェックします。
コミュニケーションの仕方なども、重要です。
また、大体の予算も聞いておきます。
ここまではその人に対するリサーチです。
その人物の概要を把握します。

ここからは私が持っている知識を使います。
まず、これからの流行の傾向を考えます。
いくら似合うからといって、これから絶対に時代遅れになるようなコートを勧めるわけにはいきません。
流行の方向性を見極めて、その上でこれから何年も着られるようなコートを考えます。
そして、次に、その人がすでに持っているワードローブに付け足すにふさわしい色やシルエットについて考察します。
このときに、その人の体型や雰囲気に合うようなものは何になるかを考えます。
最後に現在考えている予算で、そういったコートがどんなところで手に入るのか、
たとえば、それはどんなブランドで売られているのか、検討します。
もちろん100パーセント理想どおりのコートがあればよいわけですが、
予算と、手に入れられる可能性を考慮すると、
その選択肢は狭まります。
つまり、どこが妥協点になるのか考えるわけです。
ここまで考えて初めて、どんなコートがいいのか、アドバイスできることになります。

これはコート以外でも同じことです。同じ方法を使います。
つまり、1枚のアイテムを買い足すときには、上記のような事前の考察が必要だということです。
ここまで考えないと、自分にとってのふさわしいコートを買うことはできません。

もちろん、私は一目ぼれの可能性を否定はしません。
しかし、冬のコートというものは、一目ぼれで買うようなお値段ではありません。
ここまでのイメージと考察ができた上での一目ぼれなら構いませんが、
行き当たりばったりの一目ぼれでは、長く着られるコートには出会えません。
一目ぼれで買えるのは、せいぜい1年限りの短いお付き合いのTシャツやタンクトップぐらいです。
タンスのこやしや、ほとんど着ないような服をふやさないためには、とっかえひっかえの一目ぼれで出会った相手は、不向きなのです。

そうやって考えると、自分が本当に必要な服、そしてふさわしい服は、
ほとんど売っていないということに気づくでしょう。
売ってないのですから、根気良く探すしかありません。
コート1枚を買うのも、理想の結婚相手を探すのも、
根本的には同じ作業です。
長く付き合うためには、それが必要なのです。

そこで簡単に妥協するなら、それがその人の人生に対する態度となります。
洋服を1枚買うという行為の積み重ねが、
その後の人生の方向を大きく変えていきます。
買うという行為は、常に選択だからです。
たくさん買ってもまだ満足できないのも、
着ていない服がワードローブの大半を占めるのも、
その選択の結果です。
心からの満足を求めるのなら、そうなるための選択をする必要があります。

選択を放棄したら、それは妥協の人生です。
与えられたものだけで満足できるのなら、それでも構いませんが、
そうではなくて、自由で、自分らしく生きたいのなら、
しっかり選択していきましょう。

コート1枚のアドバイスを簡単にできないのはそのためです。
よく知りもしない私が、その人の選択する権利を奪うわけにはいきませんから。

2013年12月9日月曜日

ひょう柄だけが特別なわけ

ここへきて、ひょう柄が流行し始めました。
それまでも多くのアニマル・プリントが提案されましたが、
結局、残ったのはひょう柄のようです。
靴、バッグ、帽子、コート、ドレスなど、ありとあらゆるものにひょう柄が使われています。
では、なぜとら柄でも、ゼブラ柄でも、ダルメシアン柄でもなく、
ひょう柄なのでしょうか。

ファッション史の中で、ひょう柄は特別な存在です。
なぜなら、それは1947年2月、クリスチャン・ディオールが初めてのコレクションを発表した際、
「ジャングル」と名付けられたスタイルの中で使用された柄だからです。
そのとき以来、ひょう柄はモードの最高峰であると、認定されました。

当たり前のことですが、西洋の洋服にはそれなりの歴史があります。
スタイルの変遷をたどって、現在へたどりついています。
それはどの国でも服装の歴史があるのと同じことです。
しかし、洋服を取り入れてから150年ばかり、
そして一般に広まるようになって100年足らずの日本では、その歴史は知られていません。
知らないということは、つまり、
洋服の歴史の文脈の中で意味づけされたものを知らないということです。

歴史を知らないということには、もちろんいい点もあります。
知らないがゆえに、それに縛られることがありません。
そのいい例が、歴史の文脈無視の突然変異として注目された、
80年代から90年代の日本のファッションです。
西洋の服装史にはない、直線的なカッティング、つまり、人体のとらえ方の違いは、大きな衝撃を与えました。
これは、歴史の文脈とは違うところからの発生であり、提案であったからこそ、なし得たことです。

一方、歴史の中には、その中で大切にされ、育てられてきた伝統があります。
長い年月をかけて作り上げられたそれは、人々の大きな記憶の中に、沈み込みながらも、ずっと存在し続けています。
それは、決して忘れることのできないものです。
そして忘れたころに、思い出したように浮上し、繰り返され、洗練していきます。
ひょう柄というのは、西洋のファッション史の中で、忘れ去られることのない、モードのシンボルなのです。

ひょう柄の流行は、クリスチャン・ディオールの復活に関連しています。
2012年、ラフ・シモンズがクリエイティブ・ディレクターに就任し、ディオールは、1947年にクリスチャン・ディオールが発表したニュー・ルックの
新しい解釈のもと、完全復活しました。

クリスチャン・ディオールがニュー・ルックを発表したのは、第二次世界大戦が終わって、1年半後のこと。
戦時中、女性たちは、好きな服装をすることができませんでした。
戦争になり、まず初めに禁止されるのは、華美な服装であり、
個人の表現としてのおしゃれです。
戦争のためおしゃれができず、うっ屈した毎日を過ごしていた女性たちにとって、
ディオールのニュー・ルックは、まさに革命でした。

ひょう柄は、その血を引いています。
モードであるとともに、女性であることの喜び、表現することの自由の象徴なのです。
ですから、ひょう柄のものを身につけるということは、その柄の色や形とは別の、
特別な意味を持ちます。
それはモードの革命を忘れていないということであり、
その体現者であるということです。
そのため、ひょう柄だけは、ほかの動物の柄とは違い、特別なのです。

戦争になったら、おしゃれなどできません。
奪われるのは喜びと自由。
与えられるのはユニフォームと膨大な禁止事項。
それは、現在の状況からは想像できないほどの苦痛です。

その状況を再び経験したいかどうか、
権利を放棄しなければ、私たちは選べます。
まだ選ぶ力を持っています。

ニュー・ルックで取り戻した喜びと自由を失いたくないのなら、
権利は行使しなければなりません。
放棄するのなら、それが得られなくてもあきらめなくてはなりません。
けれども、力を持っている限り、あきらめる必要はないのです。

そのどちらを選ぶかは、自由です。
もちろん、ひょう柄を選ぶか選ばないかも自由です。
それはその人の生き方ですから。


2013年12月2日月曜日

トムボーイ・スタイル

トムボーイ(tomboy)とは、英語で「おてんば」のことです。
最近の外国のファッション誌にはよく、このトムボーイ・スタイルが出てきます。

「おてんば」で思い出すのはキャンディ・キャンディぐらいですが、

ファッションにおけるトムボーイは、たぶん、大人になったオリーブ少女たちが好むであろう、
そんなスタイルです。
(もしかして、キャンディもオリーブ少女も、これを読んでいる人の半分は知らないかしら?)

トムボーイ・スタイルを得意としているのはアレクサ・チャンです。
British Vogueでは、彼女のことを「fashion's favourite tomboy」と評しています。
アレクサのスタイルが、いわば、トムボーイ・スタイルのお手本となります。

トムボーイ・スタイルの特徴は、ベーシックなアイテムに、
少女っぽさと少年っぽさを足して、大人の味付けで仕上げることです。
いつまでも乙女心を忘れない大人の女性が、そんなスタイルをすることによって、
より魅力的に見えます。

具体的な組み立て方は、まずベーシックの白シャツなり、トレンチコートなりにスクールガール風のアイテム、たとえばサッチェル・バッグ、ハイソックス、ミニスカート、フラットカラーをあわせ、どこかに少年っぽいもの入れ込みます。
それはたとえば、ショートパンツだったり、バイカージャケットやバイカーブーツだったり、またはベースボール・キャップだったりと、少しハードなアイテムです。
このときに、ベーシックなアイテムは大人の味付けにしておきます。
つまり、そこは子供が着るようなものではなく、しっかりした素材やデザインの、
大人が着るのにふさわしいものにするのです。
端的に言ってしまえば、ベーシックの部分には、チープなものや偽物は使いません。
そこを安くあげようとすると、そのスタイルは途端にそこらの学生と同じになってしまいます。
おさえるとところはしっかりおさえつつ、
少女っぽいものと、少年のようなもの、両方を入れていく、
そのバランスの面白さがトムボーイ・スタイルです。

この場合、ヘアスタイルやメイクも、あまり作り込み過ぎません。
あくまでラフに、やり過ぎないものが好ましい。
作り込んでしまったら、もうトムボーイではありません。
洗いざらしの髪の毛をツインテールにして、
そばかすだらけの顔で天真爛漫に笑い転げる、あのキャンディのように、
付け入るすきのないような、そんなヘアとメイクではだめなのです。

このスタイルは、これまで何度か説明してきた、外しや隙、そして親しみやすさを同時に表現することができます。
ここには、誰もがわかるブランド物ですべて固めたような、高飛車な雰囲気はありません。
かといって、ベーシックなものだけでコーディネイトした、退屈さもありません。
普通っぽくもある、それなのにおしゃれに見える、
いかにも高そうなものばかり着ているわけではない、
そして何より魅力的、そんなスタイルです。

そんな魅力的なスタイルですが、実際するとなったら、
かなり難易度は高いです。
いろいろな要素をミックスしていくので、
選ぶ基準があいまいなままのワードローブでは、なかなかこのようにはなりません。
そんなときは、まず色を絞ること、
そして自分の方向性をはっきりさせておくことが大事です。
自分の色、自分の好きな感じを徹底して通しておけば、
これらを全部ミックスして着ることは可能です。

自分というものがふらふらしていたら、
でき上がるスタイルもふらふらしたものになります。
何の統一性もなく、適当に買ったのだなということが、
傍目にもわかります。
そこをきっちり統一していけば、
芯のぶれない、その人の筋の通ったスタイルができ上がります。
まず最初にやるべきなのは、自分の筋を通すことです。

おしゃれに興味がないのなら、それはそれで全く構いません。
いつも書いていますが、おしゃれは人生の中でもっとも重要なことではありません。
服は着られればいいという、その潔さは、かえって素敵です。

流行が変わっても、
どんなスタイルを選んでも、
またはおしゃれを全く無視するにしても、
それがぶれないのなら、それでいいのです。
トムボーイ・スタイルは、そんなぶれない人にとっては、
朝飯前の、簡単なスタイルです。

(そういえば、キャンディも決してぶれなかったね)