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2015年11月1日日曜日

素材感を変えていく

ファッションに関連する仕事に携わっていない一般の人々は、
素材について勉強をしたことがない場合がほとんどです。
勉強したわけではないのですから、
知識はほとんどありません。
ウール、コットン、リネンなど、
名前は知っているでしょう。
しかし織りの種類によって変化する表面の感じ、
ドレープの出方、透け方、伸びる特質など、
それらについて詳しく知っている人は、多くはいないでしょう。

雑誌の写真を見たところで、
解説の文章を読んだところで、
その生地について知り得たとは言えません。
生地について知るためには、必ず経験が伴います。
実物をさわってみなければ、
それを知っているとは言えません。
同じライフスタイル、
同じ地域、
似たような仕事の中で、
生地への知識はふえてはいきません。

色についてもきっちり計画し、
シルエットも決して古びていないのに、
何となく凡庸な仕上がりのスタイルになるとき、
何が面白くないのかと言えば、
その素材感の変化のなさです。

ジーンズにボーダー柄のカットソー、
コットンギャバのトレンチコートにコンバースの平凡さ、子供っぽさは、
そのすべてが木綿から作られていることにゆえんします。

街は、安価な木綿とポリエステルの素材であふれています。
安さだけを求めていると、
手に入るのは木綿のカットソーばかりです。
安さの名のもとに、
いつの間にか素材のバラエティは失われ、
似たような素材、生地のアイテムがワードローブに並ぶようになります。
それらはどんなに素敵に組み合わせたところで、
私たちが見るような、コレクションで発表されたスタイルにはならないのです。
なぜなら、素材があまりに違うから。

木綿素材は洗濯が簡易なため、
子供服に多様され、おのずと子供服は木綿ばかりとなります。
それは構わないのです。
子供はいつでも服を汚しますから、子供服は洗濯に耐えるものでなければいけません。

活動的な若者にも、木綿だけのスタイルは似合います。
洗いざらしのTシャツによれよれのジーンズは、
若者の代表的なスタイルです。

しかし、よりおしゃれに見せるのなら、
そしてその凡庸さから抜け出したいのなら、
1つのスタイルを作るとき、素材感を変える必要が出てきます。

素材感を変えるとは、
例えばすべて木綿のアイテムだけでコーディネイトするのではなく、
木綿、ウール、シルク、皮革などというように、
素材を変えること、
もしくは、サテン、オーガンジー、ツイード、エナメルというように、
織りを変えて、生地の表面やテクスチャーが違ったものを組み合わせる、
ということです。

素材感を変えることによって、
同じ色でも陰影が出てきます。
例えば同じ黒でも、サテン、オーガンジー、レースというように
素材を変えることによって、生地に凹凸が生じ、陰影が生まれ、
それはあたかもリズムのようであり、
物語の起承転結のようであり、
一筋縄ではいかない、
複雑で、多くの意味を、そのスタイルにもたらします。
そして、その複雑さ、一度では理解できない難解さがファッションです。

確かに、木綿だけのコーディネイトはわかりやすいです。
疑問も質問も生まれません。
しかし、疑問も質問も生まれないということは、
そこには物語がない、ということ。
1度見たら終わりの、
1度聞いたら終わりの、
1度会ったら終わりの、
そのつまらなさは、
記憶には残らず、忘れ去られます。

1ページ足らずのレジュメでは、物語とは言えず、
一読すれば終わりの、そのコーディネイトを、
おしゃれとは呼ばないのです。
それはライトノベルです。
何度も読まれる名作ではありません。

凡庸を抜け、
相手に疑問を抱かせ、
質問を誘発し、
幾通りもの解釈を可能にするためにも、
1つのスタイルを完成させるときは、
素材感を変えていくことをお勧めします。

厚ぼったいだけではなく、
マットな光だけではなく、
光を入れて、
薄さを足して、
レースやツイードで凹凸をつけ、
表面を立体的にし、光を乱反射させる。

スタイルとして考えたときは、
その光はもちろんジュエリーでも構わないし、
エナメルのショートブーツでも、
帽子のサテンのリボンでも構いません。

素材がよくわからないのなら、
生地屋へ行ってみるのもいいでしょう。
一枚一枚さわってみるその経験が、
やがて素材の知識へと変わります。

できるならば、なるべく多くの素材のものを試着して、
その軽さ、重さ、照明の見え具合、さわり心地を確認することをお勧めします。

(けれども、すべての人がそれをするには難しい状況だ、ということもわかります)

安さと手軽さ、わかりやすさの罠にはまったままでは、
おしゃれには見えません。
それは努力を要するのです。
簡単だなんて、一度たりとも言ってはいません。
いつでも、
それをするかしないかです。
しないのなら、しないなり、ということです。



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2015年10月16日金曜日

肌の質感、生地の質感

若い肌には若い肌に、
大人の肌には大人の肌に似合う生地の質感というものがあります。
若い肌は新しく、
大人になるほどに、その新しさは失われていきます。
そして、その変化とともに、似合う生地の質感が変わってきます。

いつも出すたとえですが、
洗いざらしの白いシャツや、よれよれのTシャツは若い肌に似合います。
洗いざらしの白いシャツとよれよれのTシャツの特徴は、
生地の表面が洗濯によってラフになり、
光沢や滑らかさが失われている、ということです。

若い肌はそれ自体、輝き、すべすべしていますから、
皮膚の上にのる生地自体に輝きや光沢がなかったとしても、
問題ないのです。
かえって、肌自体の輝きが強調され、若さが際立ちます。

しかし、同じことを大人がやってはだめなのです。
皮膚の表面が、あたかもケント紙のように光沢があるときに似合っていたものも、
もはやケント紙などではなく、ざらざらな風合いのある皮膚になったときには、
雨風にさらされたような風合いの生地は似合いません。
それは似合わないだけではなく、
今度は皮膚の衰えを強調し、その人を疲れて、生気のないように見せます。

では、大人の肌には何が似合うのか。
いわゆる高価な生地というものがあります。
高級なカシミア、シルク、本革のスエード、凝った織りのツイード、
光沢があり滑らかなウールなどです。
それらは手にとってみるとうっとりと柔らかく、しなやかで、
英語で言うところのセンシュアル、つまり官能的な質感を持ちます。
その、官能は、まさに大人のためのものです。
20代の若い肌には、不似合いな、贅沢な素材は、
年齢を重ね、風雨にたえてきた、その肌にこそ似合います。

生地の質感というものは不思議なもので、
誰も言葉に出さなくても、
それだけではなく、よく見ることさえしなくても、
その場の雰囲気を変え、見えないエネルギーとなって、
他者へと伝播します。

オペラ座の、ヴェルヴェットの椅子に座るときの絹のドレスの感触、
冬の寒い朝、すれ違いざまに感じる、高価なカシミアのマフラーの風合い、
真夏の日差しの下、ぱりっとした真っ白なベルギーリネンのシャツが、
太陽の光を反射するときの、あのまぶしい光。

清潔なシーツの上の豪奢なレースのランジェリーやシルクのナイティ、
街灯の光にきらめくエナメルのブーツ。
高価なジュエリーが大人に似合うように、
丁寧に手をかけ作られた素材は、その人のまわりの空気を変えていきます。
それは触れなくてもわかるのです。
見えない何かがそれを伝えるのです。

年齢を重ねて、
何となく今までの服が似合わなくなったと感じるとき、
まずはその服の素材を点検してみることをお勧めします。
それは相変わらず20代の子が着るような素材ではないでしょうか。
大人の今の肌にふさわしい質感を持っているものでしょうか。
いくらサイズが合うからといって、ティーンエイジャーが着るようなものを、
そのまま着てはいないでしょうか。
チープな素材は、その人自身をチープに見せます。
似合わない質感は、 その人をいっそう老けて見せます。

例えば白シャツや白いTシャツのような、若いときにも着ていたアイテムでも、
素材のクオリティを上げれば、年齢を重ねた肌にも似合うものがあります。

私たちは、若いことをよしとする価値観の社会に生きています。
何かと言えば、若さで競争し、
若くないことが負けであるかのような、そんな印象を植え付けられます。
しかし、誰でも年をとります。
若さの競争に参加した者は、全員が負ける運命です。
「あの人は若くないから」と、年上の人を批難するその人に、
いつの日か、そのままその言葉が返ってきます。

その競争からおりるためにも、
生きてきた、その道筋を誇りに思うためにも、
若い人に似合うような素材をあえて選ぶことは、やめましょう。

その繊細で、手のかかった、豪奢なレースのドレスは、
痛みと傷で裏打ちされているのです。
そして、その痛みこそが、今の自分の輝きです。
それを隠す必要はありません。

その輝きは、すべての人を魅了します。
私はそれを知っています。
ええ、実証済みです!


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2015年10月2日金曜日

同じもので競争するべからず

経済のグローバリゼーションが全世界に広がった結果、
企業は同じものを作るのなら、
より安い人件費を求めて世界じゅうを探し続けました。
その結果、勝ち残ったのは、もっとも安くモノを作れる企業であり、
これといって、付加価値やオリジナリティを付け加えられなかった、
その「同じもの」を作った企業は淘汰されていきました。
これは1つの競争の原理です。

同じように、ファッションでも、同じものを身につけたら、
そこに競争が生まれます。

例えば、10人が集まって、
その集まった10人すべてが一粒ダイヤモンドのペンダントをしていたのなら、
そこに競争が生まれます。
その競争で勝つのは、
より大きく、より高価なものを持つ者です。

例えば、10人が集まって、
すべての人が白いTシャツにジーンズであったなら、
比べられるのは、それを着る肉体です。
より若い者、よりスタイルのいい者の価値が高まります。
その両方を兼ね備えているのなら、
その者が勝者です。
誰もはっきり言いませんが、
同じものを身につけて並んだ瞬間に、
暗黙の競争が始まります。

競争させたければ、同じものを身につけさせればいいのです。
人は黙っていても、勝手に競争し始めます。
その原理を利用したのが制服です。
同じものを身につけることにより、
人は、何かほかのもので差をつけ、勝者を目指すか、
もしくは、何かするのをあきらめ脱落します。

しかし、その同じものを脱ぎすててしまえば、
その競争が、あまりにも無意味であったことに気づきます。
高価なダイヤモンドを身につけていたからといったって、
人生がよくなるわけではありません。
若さやスタイルは一時だけのものであり、
それだけに価値を見出すのなら、
見出したその本人が、いつかそれを失う恐怖に陥ります。

競争は、はかないです。
抜けてしまえば、その不毛に気づきます。
そして、そのはかなさ、ばかばかしさ、無意味さ、不毛さから抜け出した後のほうが、
より生き生きとしている自分を作れます。

本当に強い者は、誰かと競争する必要がありません。
そこに意味を見出さなかったら、
いつまでも自由でいられます。

ファッション業界は、何度も、巧妙に、
人々をこの不毛な競争に参加させるよう仕向けてきます。
のったら最後、一人を残してすべての人が負けです。
勝つのは一番お金のある者、
もしくは、若くスタイルのいい者です。

初めから、その勝ち目のないレースに参加しなければいいのです。
いつでもよりお金持ちがあらわれます。
いつでもより若い人が生まれてきます。

ファッションとは、自由で強いものではなかったでしょうか。
競争を鼻で笑う心意気のある者たちのものではなかったでしょうか。
制服はコスプレや作業のためだけで、
多様性や個性、オリジナリティを認めるためにあるものではなかったでしょうか。

同じもので競争してはいけません。
レースに誘われても、参加してはいけません。
彼らがあなたに与えたいのは敗北感と屈辱感という、
苦い褒美です。
なぜなら、それを与えられたものは、
より渇望感を抱き、意味のない消費へとかられるからです。
苦みと甘さを巧みに操れば、
必要もなく、似合いもしないドレスを人は喜んで買うということを、
彼らは知っているからです。

重要なのはオリジナリティと多様性を認めること、
雑誌のモデルのスタイルがすべての人の理想ではないということを知ることです。

同じものを買うように誘う言葉に注意してください。
彼らの本性は、消費者心理の知識を持った、
単に売りたいだけの詐欺師です。



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2015年9月16日水曜日

ファッション・ミニマリスト

美術においてミニマリズムとは、
装飾や色彩などを最小限にし、説明することを排除、
シンプルな形、色のみで表現するスタイルのことです。

ファッションにおいても、このミニマリズムをならって、
デザインのミニマルを追求し、
装飾的な要素を省き、単色、もしくは2色程度で表現するデザイナーは過去にも、
ヘルムート・ラングやジル・サンダーなどがいました。

しかし、ここ最近出現し始めたファッション・ミニマリストとは、
デザイン、色彩のみならず、
その全体量、またライフスタイル全体を通してミニマルを追求する人々です。

彼らの特徴は、まず多くを持たないこと。
生活に必要な最小限の衣服、靴、バッグなどを厳選し、
それのみでスタイルを構築すること。
またその際に、単に量を減らすのではなく、
極力シンプルで、装飾のなされていないデザインを選び、
色数を絞ることです。
しかも同時にそれが、ファッショナブルに見えるよう工夫をこらします。
ファッショナブルかつ量的に最小限、デザイン的にシンプル。
それらが達成されて、初めて彼らはファッション・ミニマリストとなります。

なぜ彼らがこのような方法をとるのか。
理由はそれぞれありましょうが、大きく言えるのは、
着るもの、着ることに人生を邪魔されたくないためです。

多く持てば持つほど、手間と管理が煩雑になり、
多色になればなるほど、装飾的な要素がふえるほど、スタイリングの難易度は上がります。
そのことにより奪われるのはエネルギーと時間です。
彼らは、人の持っているエネルギーと時間を着るもの、着ることに奪われたくはないと考えます。

単に枚数を減らし、シンプルなものを身につけるのならば、
問題はそれほど難しくはありません。
けれども、それをファッションにまで昇華させるとなると、
ただ減らす以外の何かが要求されます。

それぞれの体型やライフスタイルは違いますから、
すべてのミニマリストが同じ衣服をそろえればいいというわけではありません。
減らす、そぎ落とすという作業が要求するのは、
その人がどう生きたいかという態度、
そして人生の目的です。
彼らのスタイルがファッショナブルに見えるのは、まさにそのためです。
人生を貫くスタイルがあるならば、
おのずと選ぶ服、靴、バッグは決まってくるでしょう。

誰かの視点でもなく、
何かのメンバーでもなく、
一人で熟考し、
試行錯誤を繰り返し、
たどりついた結論がスタイルに結び付きます。
それはある人にとっては、タートルネックのニットにタイトスカートかもしれないし、
またある人にとっては、 白いシャツにジーンズかもしれません。

多くのデザイナーが、実はミニマリストです。
白いシャツにジーンズの人、
シルクのシャツにゆったりしたパンツとスタンスミスの人、
同じシルエットのスーツの人など、
彼らをじっくり観察すると、いつあらわれても、とっかえひっかえスタイルを変えてくる
という人は少数派です。
なぜか。
彼らは、着ることに余計なエネルギーと時間を使いたくないからです。
彼らがエネルギーと時間を注ぎ込みたいのは、着ることではなく作ること。
誰かにそのバラエティや多量さを見せびらかすことではなく、
クリエイティビティを発揮するのが人生の目的だからです。

ファッション・ミニマリストになりたいのなら、
まず大事なのは、着ることが人生の目的ではないと知ることです。
服を着るために人生があるのでは、ありません。
人生の目的を遂行するためにファッションは存在します。
手段と目的を取り違えてはいけません。

人生の目的は何なのか。
その答えは、他人が与えてくれるものではありません。
それぞれ一人一人が考え、行動し、導き出されたものでしか、
そこにはたどりつけません。

しかし、そこにたどりついたのなら、ファッション・ミニマリストになるのは簡単です。
人生の目的がわかったなら、
それに必要な衣装も決まってきます。

物語には、まず主人公のテーマがあり、
その他の登場人物がいて、
シーンが決まり、
それに伴って、衣装が決定されます。
あくまでも最初に決まるのは、主人公のテーマです。
その主人公がテーマを生きるために邪魔なものは選ばれません。

そしてその主人公の性格がミニマリストならば、
最小限の衣服を選ぶでしょう。
「性格とは運命である」と言ったのは、ヘラクレイトスです。
人生の目的のためにミニマリストを選択するという性格が、
その人の運命を作ります。
スタイルが確立された人は、ファッショナブルです。

ミニマリストかつおしゃれに見えるためには、
人生の目的のために、自分のスタイルを確立することです。
最初は多くの人に理解されないかもしれません。
結果が出てきたころには、批判の矢面にさらされることもあるでしょう。
しかし、それが通り過ぎたころに、
誰もが感じるようになります。
その人はおしゃれであると。

最後の目的は何なのか。
決してそこから目をはなさず、ひたすら目指すのなら、
誰が何を言おうが、どうでもいいことです。
嫉妬しているだけの外野や観客は、到底そこまでやってきません。

人生の目的を見据え、
時間とエネルギーを注ぐ、ゆるぎないその姿を
人々は記憶にとどめるでしょう。
ファッションにわずらわされないファッショナブルな人たち、
それがファッション・ミニマリストです。


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2015年9月2日水曜日

完璧ではないという完璧

グッチは、2015年の秋冬シーズンより、クリエイティブディレクターを、
それまで9年間務めてきたフリーダ・ジャンニーニから、
アクセサリー部門のデザイナーだったアレッサンドロ・ミケーレへと交代させました。
この交代劇はファッション業界で、かなり大きなニュースとして取り上げられ、
アレッサンドロがどのようなデザインでグッチを新しくするのか、
期待と疑義の眼でもって、注目されました。

これまでのフリーダのグッチの仕事を振り返ってみると、
どれもそのデザインが完璧である、ということに気づかされます。
前任のトム・フォードが作り上げた、やはり大人の女性の完璧なスタイルを、
色彩を加えることでよりセンシュアルに、
多くの花柄を取り入れることでロマンチックに、
シーズンごとに異なるテーマを投入し、
購買者にあきられることなく、すきのないグラマラスなスタイルを提案し続けてきました。
その頂点の姿は、ケイト・モスを起用したジャッキーというバッグのヴィデオに見られます。
こちら

誰もが憧れる現代のアイコン、ケイト・モス。
そのケイト・モスに最も似合うグラマラスなスタイル。
フリーダが作り上げた世界は、ファッションの、いえ、ファッション業界の求める完璧なスタイルでした。

ところが、グッチ社は、その完璧を作る才能を持ったデザイナーであるフリーダを解任します。
あれだけの完璧なスタイルの後に一体、何が続くのか。
わざわざ抜擢したアレッサンドロは、一体どんなデザインを持ってくるのか。
ショーの当日まで、多くの人があれやこれや想像したことでしょう。

さて、そんな渦中、発表されたスタイルは、今まで見たこともないような組み合わせに満ちた、
風変わりなものでした。
大きなウェリントンの黒ぶち眼鏡にドレス。
パンプスからはみ出るファー。
折り目の跡が残されたままのスーツ。
大きなハチの刺繍がついたバッグ。
人さし指から小指まではめられた、大きなフォー・ビジュ―の指輪。
トラッドのようでいてトラッドではなく、
モードというには、バランスが崩れている。
しかし、よく見ていくと、これらの組み合わせは、あえてアレッサンドロがねらっているものだ、
ということがわかってきます。
彼は、フリーダのような完璧をあえてずらすことによって、
新たな完璧を表現しているのです。

ファッションにはこれまでにも、
はずしのテクニックや、スタイルをミックスする手法など、
数々のバランスを崩すスタイリングのテクニックがありました。
しかし、ここへきて表現されたのは、
はずしでも、ミックスでもなく、
それらを含めての完璧なスタイルです。
つまり、今までの隙のない、モデルが似合う、ゴージャスで完璧なスタイルは、
もはや完璧ではないのです。
それは、完璧ゆえに完璧ではなくなったのです。

ファッションとして成立させるためには、
完璧にしてはいけない、
アレッサンドロの主張はそこにあります。
完璧に陥ったら、もはやそれはファッションではない。

完璧でないところに見出す新しいバランスやスタイリング。
今まで考えられなかったところ、
格好悪いとみなされていた、そのぎりぎりの線を、
あたかもコートの端ぎりぎりのラインにサーブを打ち込むように、
彼は見つけ、作りだし、提案します。

ニューヨークで行われた、2015秋冬のグッチのショーには、
これまでのみなれたグラマラスな有名モデルは一人も出てきませんでした。
スタイルこそよいかもしれませんが、
素朴な感じの、どこにでもいるような、若くういういしいモデルたちが、
ニューヨークの街角を歩いて、そのままショーの会場に入っていきます。
ストリートとショーの会場を区別する必要はない、
日常と非日常、同じレベルにおけるファッションは、
ファッション業界の完璧とは違う視点が必要だということが、
強く示唆されます。

さて、徐々にでしょうが、2015年以降、
この「完璧ではないという完璧」なスタイルは、
一般のあいだにも広まっていくことでしょう。
完全に行きわたるまでには、それこそ10年かかるかもしれませんが、
もはやこの流れは止められません。

いち早く取り入れるためには、
はずしのテクニック、テイストをミックスさせることなど、
総動員させ、その上で+αを考えます。
もちろんこのスタイルは上級者のためのものなので、
基本を理解していない人がやみくもにやる、めちゃくちゃなスタイルとは全く別物です。

常に考えなければなりません。
常に努力しなければなりません。
かかわっている限り、勉強し、進化させなければなりません。
教科書は、あるようで、ないのです。

+αは何なのか。
あえて言うならば、その人のオリジナリティです。
誰かのそれでもなく、
多くの人が持っているあれでもなく、
その人ならではのもの。
それが何もないのであれば、
ファッションは退屈です。

ファッションの難易度は上がっています。
わかりやすい完璧よりも、
答えのない完璧を目指すほうがずっと難しいです。
だけれども、本当に好きだったならば、
それは取り組むのも楽しい課題になるだろうと思います。


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2015年8月17日月曜日

季節の変わり目、眼の愉しみ

希少なものを重んじ、薄く広まったものを嫌うというおしゃれの法則は、
時間的なもの、地理的なもの、両方において通用します。
地理的に、例えば都会から田舎へ広がったときに、それは飽きられ終わりますし、
時間的に、最初から最後にかけて、量的に飽和状態になったときにも、
おしゃれという意味が急速に失われます。

季節の先取りをよしとするおしゃれは、
季節の遅れをよしとはしません。
季節を早く先取りするから意味があり、
季節が移り変わったなら、
気温がたとえ高かろうが、低かろうが、
次の季節への移行を推奨します。

春先からゆっくり時間をかけて、
徐々に取り入れていった春夏物は、
立秋を境に、急速に輝きを失います。
同様に、晩夏から取り入れていった秋冬物も、
立春を過ぎたら、 魅力を感じません。

季節を感じさせるものには、気温と光の2つがあります。
肌に身につけるという性質上、
洋服において、季節とは気温だけの問題ととらえがちですが、
それがファッションと呼ばれるようになった瞬間に、
問われるのは気温ではなく、
光の加減です。

春分、夏至、秋分、冬至という、太陽と地球の関係が変わる地点から、
明らかに、疑いようもなく、
光の加減は変わります。
春分、夏至、秋分、冬至は、
いわば春夏秋冬の最高の光を見ることができる時期です。
しかし、毎年正確に太陽の光は傾き、
立春、立夏、立秋、立冬の時期に、すべてのものは、
その頂点のころとは同じには見えません。

光が変われば、色は違って見えます。
どんなに暑くても、立秋を過ぎれば、
あの輝いた夏の白は、もう同じ白ではありません。
どんなに寒くても、心にぬくもりを与えたあのモヘアのダークブラウンは、
うっとうしく感じられます。

季節を先取りし、その頂点を目指して選んできたそれぞれの季節の服は、
立春、立夏、立秋、立冬をもって、
蔓延し、
眼はもうそれらを見ても、愉しみを得ることができなくなります。

眼はいつでも愉しみを探しています。
眼の喜び、愉しみは、まぎれもなく魂の栄養となります。
私たちは、眼から栄養を摂取し、
それが切れるまで、生き延びることができます。
しかし、
私たちの多くが、魂の栄養不足にあえいでいます。

顔と同様に、私たちの全身の姿もまた、
自分自身よりも他人から見られる機会のほうが多いものです。
私たちの眼は、自分自身の姿よりも、
多くの他人の姿を眼に映し、
脳内にそれを取り入れます。
脳内はそれらを処理し、ある一定量を過ぎると、
飽きるという状態を生みだします。

ファッションは通常、春夏物と秋冬物にわかれます。
眼から取り入れた、春夏物の情報が脳内で一定量を超えてくるのが、
立秋の頃です。
その頃には、眼は春夏物の衣服からは、喜びを得られなくなっています。

この2.点、
つまり、光の加減の変化、
そして、眼が衣類から愉しみがなくなったという、その点から、
もしもおしゃれでいたいのなら、
立春と立秋が過ぎたころから、
私たちは、ワードローブを徐々に次の季節に変化させるべきです。
単純に言えば、立春が過ぎたら明るく(ライト)に、
立秋が過ぎたら暗く(ダーク)に、です。

しかしここで、気温の問題が立ちはだかります。
ここ最近の日本の気温は、4月の終わりまで寒く、
10月の頭まで暑い日々が続きます。
春は薄手のもの、秋になったらウールなどの寒さを防ぐものという考えでいると、
これでは次の季節のものは着られません。
ですから、ここは、新しい考え方、新しいワードローブが必要になります。

私たちに本当に必要なのは、
暑さに対応した秋物と、寒さに対応した春物です。
気温に対応しつつ、変化した光の中で美しい色合い。
秋だったら、すべての色がより濃く、ダークに傾きつつ、
素材は薄いコットンやシルク、サマーウールなど、着ていて暑くならない素材。
春だったら、色はより明るく、光を取り入れて、
それでも素材はカシミアやコットンシルク、厚手のウールや、
薄いダウンなど、寒さをしのげる素材。
シルエットには、その次のトレンドを少し取り入れて。
2015年現在では、断然、シルエットはゆるく、大き目に傾いているので、
間違っても、身体にぴったりフィットする、タイトなTシャツやニットなど選ばず、
流行の先を見据えたシルエットのものを買い足して。
そうすれば、気温にも対応し、
眼も愉しみを得られます。
立春過ぎのホワイトジーンズの白に、人々の目は釘付けにされ、
立秋過ぎの秋の実りブドウのような紫のストールが、夏の乾いた心を潤します。

まだまだ夏の装いで街行く人が多い時期、
新しい考え方の秋物の装いで、
ショップのウィンドウに映る自分の姿を見てみたら、
あなたの眼は喜び、それは魂の栄養となります。
本当に欲していたのは、最終セールで売られている新品の夏物のドレスなんかじゃなく、
それは去年買ったものかもしれないけれども、
半年眠っていた、秋冬物の色合いです。
そして、本当に見たかったのは、
それをふさわしい光の下、多くの人より早く着てみた、
自分の姿です。

今の時期、つまらない夏物のセール品を買うよりも、
まだ持っていないのならば、
立秋以降に着られる、暑さにも対応した秋物を買ったほうが、
よほど賢い買い物です。
もちろん、そんなものはまだまだ多く売られていません。
それでも探せば、ないこともありません。
それは今よりも少しダークな色合いのストールや帽子、靴でも構いません。
何かしらはどこかに売っています。

眼の愉しみ、喜びを軽んじないで。
太陽の傾きに敏感になって。
どんなに暑くても、立秋を過ぎれば、秋の花が、
どんなに寒くても、立春を過ぎれば、春の花が咲き始めます。
おしゃれもそれと同じです。

季節の変わり目の時期、
光や色にどれだけ敏感に生きているか、
それを見分ける感性を養ってきたか、
おしゃれな者はそれを問います。

そんなささいなことが、
そんな小さなことが、
おしゃれには重要なのです。

それらに鈍感で、怠惰になるか、
敏感に取り入れて、ひと工夫するか、
そこが分かれ道です。
それは人生と同じです。

怠惰な人は怠惰なりに、
努力した人は努力した人なりに、
人生もおしゃれも、
その点においては、平等です。



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2015年8月2日日曜日

スタイリングの新しい流れ(トランス、ミックス、レス、フリー)

一昔前のスタイリングの教科書を見てみると、
例えば、エレガンス、スポーティなどというように、
スタイル別に区分けされ、名前がつけられています。
それらのスタイルの境目はかなり厳重で、それらが混じり合ったり、
無視されることはありません。
スタイリングというものは、この区分けされた区分内のルールを守ることであり、
その中での完成を目指すものでした。

男女の境目も厳然と区別され、
それを超える人たちは、エキセントリック、すなわち中心にいない人や、
アバンギャルド、前衛の人、または単なる変人でした。

しかし、ここ数年のファッションの歴史の流れは、
この区分けされた境目を超えたり、
混ぜたりすることに関心を持つようになりました。
フェミニンにはマスキュリンを、
エレガンスにはスポーティをというように、
区分けされたスタイルで100パーセント完成することなく、
何か違う要素をミックスさせるスタイリングがおしゃれであると、
認識されるようになったのです。
その流れは今も続いていて、
そしてさらに進化しています。

実際のところ、男と女の境目は厳然としたものではありません。
特に女性は男性のスタイルを取り入れることに積極的で、
それはココ・シャネルが提案したボーイッシュなルックスや、
イヴ・サンローランのタキシード・スーツなど、
年代が進むごとに、男性が着るべきスタイルを積極的に取り入れてきました。

そのほかにも、
スポーツ・ウエアの日常着化、
エスニックやトライブと呼ばれる、
西洋とは異なった文化圏の装飾要素の取り入れ、
隠されるべきものであったランジェリーのアウター化など、
ファッションが進化するとともに、
今まであった境目を越境することに、
有能なデザイナーたちは腐心してきました。

その結果、当然のことながら、おしゃれに見えるスタイリングも変わってきました。

洋服のアイテムそのものの変化には限度があります。
何年たっても、スカートはスカートであり、
ジャケットはジャケットです。
シルエットの変化があるとはいっても、
それはタイトからビッグへ、ビッグからタイトへの繰り返しです。
いつでも新しいものを志向するファッションは、
その新しさをスタイリングに求めるようになりました。
それが現在です。

ポイントは、とにかく超えていくこと。
ジェンダーを超え、
民族を超え、
日常と非日常の境目を超え、
着られるものなら何でも取り入れ、
全体のスタイリングを刷新していく。

超えていくことは同時に、そこから自由になること。
男性はこうあるべきというスタイルから自由になり、
女性はこうあるべきであるというスタイルから自由になる。
スポーツウエアはスポーツのときだけしか着ないというルールから自由になり、
下着は見せてはいけないというルールを破る。

どんな文化圏に生まれようとも、
どこか遠い国の、見たことも、会ったこともない部族の衣装が好きならば、
それを取り入れ、
スカートの下は脚が出るというルールを無視して、
パンツをはき、
ドレスにウェリントン・フレームのメガネをあわせる。

図書館で見つけた、古臭いスタイリングのルールの本の指導を無視し、
境目を超え、ごちゃまぜにして、自由になる。
その組み合わせが、今まで見たことがないものになったなら、
それがおしゃれに見える。
現在、ファッションの進化はここまでやってきました。

これを普通の人がふだんのスタイリングに取り入れるにはどうしたらいいでしょうか。
まずは今まで、それとそれは合わせないと言われていたものをあえて組み合わせてみること。
見慣れた、その組み合わせから離れること、です。

シルクのドレスにスウェット地のパーカー、
パジャマのようなシャツにタイトスカート、
レースのキャミソールにランニング用のトレーニング・パンツ。
ロングドレスにスニーカーとウェリントン・フレームのメガネ。
真冬にノースリーブニットと肘まであるロングの手袋などなど。
いきなり、唐突に組み合わせられ、
今までのルールから遠ければ遠いほど、
それはおしゃれに見えます。

これらアイテムの組み合わせのほかにも、
例えば、素材とアイテムの意外な組み合わせというのも、
今のトレンドの1つです。
レースのトレンチコートはその代表例。
同様に、レースのスウェットシャツ、
豪華な刺繍やスワロフスキーのクリスタルが縫いつけられたジーンズ、
トートバッグやスニーカーにスパングルなど、
それまでその素材でそのアイテムは作らなかったというものを取り入れるのも、
今の気分を表現するのに最適です。

今の時代が私たちに要求しているのは、
スタイリングでどれだけ冒険できるか、
どれだけ境目を超えられるかということ。
男女の境も、
国の境も、
年齢の境も、
そんなものはしょせん幻。
今、それが着られるということ、
着たいということ、その気持ちがあるならば、
それだけを頼りに、アクロバティックにアイテムを横断的に組み合わせ、
その中でバランスをとってみる、
おしゃれに見えるポイントを見つけてみる。
創意工夫のあらわれこそが、おしゃれですから、
今はまさにその腕が問われるところ。
何も考えてこなかった、
やってこなかったのだったら、
この新しいスタイリングをものにすることはできません。

考えてみる、
試してみる、
実行してみる、
変更してみる、
改良してみる。
新しいスタイリングはこの繰り返しで習得できます。

やるかやらないかは、
もちろん個人の自由です。
けれども、少しでもおしゃれになりたいのなら、
そして、停滞を拒み、進化し続けるほうを選ぶのなら、
新しいスタイリングにチャレンジするといいでしょう。
簡単ではありません。
けれども、やったらやったなりに、
それは誰かの心に届くでしょう。



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