軽やかさがメイン・テーマとなっている先シーズンからの流れで、
(この流れは当分、続いていくわけですが)
デザイナーたちは、いかにしてそれを表現するか苦心しています。
重量感が出ないようにするために、トランスペアレント、レースなどの素材を用いて、
シルエットは、重心が上にくるように工夫されています。
その軽さの表現の1つとして、各種のクロップト丈が出てきました。
クロップト(cropped)とは、草などが刈り落とされた、または端が切り落とされたというときに使う英語で、洋服の端に位置する部分、つまり、裾、袖口など、通常より短く、切り落とされたように見えるものをこう呼びます。
(多くの雑誌で、「クロップド」という表記が見受けられますが、そんなふうに発音していたら、
英語のテストで減点されてしまいます)
もちろんこれまでも、パンツの裾を短めにする、クロップト丈や、袖を9分丈、7分丈など、わざと短くする場合もありました。
上着に関しても、ミドリフ丈など、肋骨のあたりまでのものがあります。
今シーズン、それに加えて、トップスがクロップトのものが数多く登場しています。
これはトップスが、ウエストよりかなり短く作られていて、あえておなかを露出して着るものです。
ファッションというものは、いつでも目新しさを探しますから、前から全くなかったわけではありませんが、短めのトップスというものは新しい部類に入ります。
クロップトであることが表現したいのは、あくまで軽さです。
短く切ることで、抜け感が表現されます。そして、それが軽さにつながります。
ですから、短く切られたその先からのぞくのは、素肌のほうが望ましいのです。
たとえば、クロップト丈のパンツの下から黒いタイツがのぞいたら、それは抜け感にはなりませんから、意味がないことです。
このクロップト丈のものをうまく利用すれば、軽やかさを簡単に表現できます。
とにかく、短くして、そこから肌が見えるようにすればいいだけです。
そうすることで、女性としての「すき」があるスタイルになります。
すきは、同時にか弱さでもあります。
か弱いので、戦えません。
戦えないというのは、つまり武装してないということ。
初めから力で戦う気はないのです。
クロップト丈のものを着たり、抜け感を作ることで、
相手には、それが伝わります。
武装して、力で戦っても意味もないし、ハッピーではないと、
女性たちは気付きました。
力で勝ち取ったものが、どれほどのものかわかったのです。
勝ち取ったものの後に残ったのは、傲慢やがさつさ、他人を見下すような高慢な態度、
そして、失われた優しさでした。
優しさを取り戻すため、再び女性はか弱さを表現します。
けれども、か弱さは、本当の意味での弱さではありません。
本当に弱かったら、誰に対しても優しくはできません。
本当に弱い人ほど、優しさがない人です。
それは皆さんも、心当たりがあるでしょう。
強くしなやかな人こそが、優しくなれるのです。
クロップト丈を取り入れるときのポイントはそこにあります。
武装解除です。
戦いません。
本当の優しさを示せばいいだけです。
自分のまわりにはりめぐらされた、見えない鎧を脱ぎ去ってください。
鎧があるから攻撃されただけのこと。
鎧を脱ぎ去った人を攻撃する人はいません。
ほんの少しだけ丈を短くして、肌を見せることで、
それを周囲の人に伝えましょう。
わたしたちは完全に武装解除しました。
そして、優しさをもって、あなたたちと接しますと。
決して攻撃することはありませんと。
それは大きな優しさです。
その大きな優しさは、強くしなやかで、無敵な力になり、
本当の意味で、あなたを守り続けるでしょう。
2013年2月25日月曜日
2013年2月18日月曜日
大人のカジュアル
カジュアルな服の浸透がますます進んでいます。
もはやカジュアルな服は、子供や若者だけのものではありません。
一昔前までは、お年を召した方がスニーカーで外出するなど、考えられなかったこと。
もし、そんなことをしたならば、
「あら、どこかへハイキング?」などと尋ねられたわけです。
けれども、今は違います。
日常的なお買いものから、ちょっとした都会へのお出かけまで、
スニーカーにチノパンツ、パーカーというスタイルは、
老いも若きも当たり前の光景です。
子供からお年寄りまで、カジュアルな服を着るのがごく当たり前となった今、
大人ならではのカジュアルな服の着こなしが、
子供や若者と同じでは、ちょっともの足りません。
やはりそこには、大人ならではの余裕が見える、一工夫が欲しいもの。
では、大人が大人らしくカジュアルな服を着るには、
どこを気をつけたらよいでしょうか。
まず、気をつけていただきたいのが素材です。
このブログではもう何度となく書いていますが、
年齢を重ねれば重ねるほど、いい素材を選んでほしいのです。
しかも、デザインがカジュアルならばなおのこと、
若者のための服に使われるような、安い素材のものは着てほしくありません。
理由は単純で、
年齢を重ねた人間の皮膚に、質の悪い素材がのっかると、非常に安っぽく見えるからです。
安っぽく見えると、品がなくなります。
若者は、そこのところをぴかぴかの輝く肌でカバーしています。
しかし、大人は肌で素材の安さをカバーできません。
だから、質の高い素材のものを選んだほうがよいのです。
たいがい、質の高い素材というものは、光沢があります。
コットンにしろ、ウールにしろ、いいものには、いい光り方があります。
そして、それが肌うつりをよくします。
同じTシャツでも、海島綿のほうが、単なるコットンより輝いています。
ですから、大人になったら、とにかく上質の素材を選びましょう。
それがまず1つ。
次に、大人がカジュアルな服を選ぶときにお勧めなのは、
素材で選ばないのだったら、そのアイテムを長く作り続けている、
伝統的なブランドのものを選ぶということです。
長年同じものを作り続けているブランドには、その年月に積み重ね上げられた工夫がいたるところにしてあります。
長年かけて、1ミリの修正を行い、生地の更新を行っているのです。
もはや完成されたと言えるデザインは、本物であると同時に、
大人にこそふさわしいものです。
たとえば、トートバッグならLLビーンであるとか、ポロシャツならラルフ・ローレン、
フィールドジャケットならバブアーなど。
ほかにもいろいろあるでしょうけれども、伝統ある正統派のブランドを選ぶことも、
大人のカジュアルをきれいに見せるポイントです。
多少、値段は高いかもしれませんが、
完成されたデザインは、肉体そのものが美しい若者ではない大人が着ても、
十分美しいものですし、それだけの風格と品があります。
また、正統派ブランドのアイテムは、どこかにロゴやマークがついている場合が多いですが、
これもその伝統にのっとった自信のあらわれですから、嫌みにはなりません。
(逆に、意味なくいろいろなところにロゴやマークがある服はかなり嫌みだと、私は思っています)
そういう正統派ブランドを選んで着れば、着ていても安心感があります。
まさに裏切らないブランドです。
この2点を守れば、大人が若者と同じようなカジュアルなデザインの服を着ても、
どこも恥ずかしいことはないでしょう。
もちろんそのまま銀座を歩いてもいいわけです。
そして、ここまでできるようになったら、
次は、そのカジュアルな服を、たとえばレースのブラウスなど、
カジュアルとは反対方向のデザインのものとあわせるコーディネイトに挑戦してみてください。
バブアーのカーキ色のフィールドコートにチノパンツ、だけれどもレースのブラウスにパールのネックレス、ヒールのパンプスにアニヤのカーカーをあわせてみる。
これができると、かなりのおしゃれ上級者です。
色をきちんと あわせてワードローブを構築してあれば、誰にだってできます。
カジュアルの波が止まることはもうないでしょう。
なぜなら、カジュアルな服のほうが動きやすいからです。
動きやすいということは、それだけ自由であるということ。
一度スニーカーで都会を歩くことを覚えたら、もう二度と、歩きにくい方向へは戻らないのです。
洋服をきれいに着こなすためには「我慢」が必要であると考えられてきました。
それこそがおしゃれなのであると。
しかし、しなくてもいい我慢もあるのです。
我慢しなくてもおしゃれならば、それにこしたことはありません。
何のための我慢だったのか、思い出してみてください。
それは、他人から見ておしゃれに見えるかどうかを考えたからではないでしょうか。
けれども、もしその他人の目がなかったとしたら、それでもまだ我慢をするのでしょうか。
女性の服飾史は、女性が自由へなっていく歴史とリンクしています。
コルセットは脱ぎすてられ、
女性がパンツスタイルで外出することも可能になりました。
驚くことに、フランスではつい先日まで、女性の公の席でのパンツスタイルが禁止されている法律が生きていたのです!
スニーカーで都会を歩くことは、自由であるということの1つの象徴です。
一度手に入れた自由は、もう手放せません。
洋服を通しての自由は、まだまだ進んでいきます。
カジュアルな服の浸透は、本当の自由にたどりつくまでの通過地点です。
私たちが本当に自由だと感じるときまで、その道は続いていくでしょう。
もはやカジュアルな服は、子供や若者だけのものではありません。
一昔前までは、お年を召した方がスニーカーで外出するなど、考えられなかったこと。
もし、そんなことをしたならば、
「あら、どこかへハイキング?」などと尋ねられたわけです。
けれども、今は違います。
日常的なお買いものから、ちょっとした都会へのお出かけまで、
スニーカーにチノパンツ、パーカーというスタイルは、
老いも若きも当たり前の光景です。
子供からお年寄りまで、カジュアルな服を着るのがごく当たり前となった今、
大人ならではのカジュアルな服の着こなしが、
子供や若者と同じでは、ちょっともの足りません。
やはりそこには、大人ならではの余裕が見える、一工夫が欲しいもの。
では、大人が大人らしくカジュアルな服を着るには、
どこを気をつけたらよいでしょうか。
まず、気をつけていただきたいのが素材です。
このブログではもう何度となく書いていますが、
年齢を重ねれば重ねるほど、いい素材を選んでほしいのです。
しかも、デザインがカジュアルならばなおのこと、
若者のための服に使われるような、安い素材のものは着てほしくありません。
理由は単純で、
年齢を重ねた人間の皮膚に、質の悪い素材がのっかると、非常に安っぽく見えるからです。
安っぽく見えると、品がなくなります。
若者は、そこのところをぴかぴかの輝く肌でカバーしています。
しかし、大人は肌で素材の安さをカバーできません。
だから、質の高い素材のものを選んだほうがよいのです。
たいがい、質の高い素材というものは、光沢があります。
コットンにしろ、ウールにしろ、いいものには、いい光り方があります。
そして、それが肌うつりをよくします。
同じTシャツでも、海島綿のほうが、単なるコットンより輝いています。
ですから、大人になったら、とにかく上質の素材を選びましょう。
それがまず1つ。
次に、大人がカジュアルな服を選ぶときにお勧めなのは、
素材で選ばないのだったら、そのアイテムを長く作り続けている、
伝統的なブランドのものを選ぶということです。
長年同じものを作り続けているブランドには、その年月に積み重ね上げられた工夫がいたるところにしてあります。
長年かけて、1ミリの修正を行い、生地の更新を行っているのです。
もはや完成されたと言えるデザインは、本物であると同時に、
大人にこそふさわしいものです。
たとえば、トートバッグならLLビーンであるとか、ポロシャツならラルフ・ローレン、
フィールドジャケットならバブアーなど。
ほかにもいろいろあるでしょうけれども、伝統ある正統派のブランドを選ぶことも、
大人のカジュアルをきれいに見せるポイントです。
多少、値段は高いかもしれませんが、
完成されたデザインは、肉体そのものが美しい若者ではない大人が着ても、
十分美しいものですし、それだけの風格と品があります。
また、正統派ブランドのアイテムは、どこかにロゴやマークがついている場合が多いですが、
これもその伝統にのっとった自信のあらわれですから、嫌みにはなりません。
(逆に、意味なくいろいろなところにロゴやマークがある服はかなり嫌みだと、私は思っています)
そういう正統派ブランドを選んで着れば、着ていても安心感があります。
まさに裏切らないブランドです。
この2点を守れば、大人が若者と同じようなカジュアルなデザインの服を着ても、
どこも恥ずかしいことはないでしょう。
もちろんそのまま銀座を歩いてもいいわけです。
そして、ここまでできるようになったら、
次は、そのカジュアルな服を、たとえばレースのブラウスなど、
カジュアルとは反対方向のデザインのものとあわせるコーディネイトに挑戦してみてください。
バブアーのカーキ色のフィールドコートにチノパンツ、だけれどもレースのブラウスにパールのネックレス、ヒールのパンプスにアニヤのカーカーをあわせてみる。
これができると、かなりのおしゃれ上級者です。
色をきちんと あわせてワードローブを構築してあれば、誰にだってできます。
カジュアルの波が止まることはもうないでしょう。
なぜなら、カジュアルな服のほうが動きやすいからです。
動きやすいということは、それだけ自由であるということ。
一度スニーカーで都会を歩くことを覚えたら、もう二度と、歩きにくい方向へは戻らないのです。
洋服をきれいに着こなすためには「我慢」が必要であると考えられてきました。
それこそがおしゃれなのであると。
しかし、しなくてもいい我慢もあるのです。
我慢しなくてもおしゃれならば、それにこしたことはありません。
何のための我慢だったのか、思い出してみてください。
それは、他人から見ておしゃれに見えるかどうかを考えたからではないでしょうか。
けれども、もしその他人の目がなかったとしたら、それでもまだ我慢をするのでしょうか。
女性の服飾史は、女性が自由へなっていく歴史とリンクしています。
コルセットは脱ぎすてられ、
女性がパンツスタイルで外出することも可能になりました。
驚くことに、フランスではつい先日まで、女性の公の席でのパンツスタイルが禁止されている法律が生きていたのです!
スニーカーで都会を歩くことは、自由であるということの1つの象徴です。
一度手に入れた自由は、もう手放せません。
洋服を通しての自由は、まだまだ進んでいきます。
カジュアルな服の浸透は、本当の自由にたどりつくまでの通過地点です。
私たちが本当に自由だと感じるときまで、その道は続いていくでしょう。
ラベル:
おしゃれチップス
2013年2月11日月曜日
服をたくさん持っていても
今まで私のファッション・レッスンをたくさんの方が受けてくださいました。
そして、皆さんのワードローブを拝見してきました。
その中で、ほとんどの人の悩みは同じであるとわかりました。
その悩みとは、服はたくさんある、けれども着るものがない、ということです。
ほとんどの人が、たくさん集めた服を前にして、
どうしていいかわからない状態でいます。
捨てるほどはいたんでいない。
もちろん、それほど古くない。
着た回数も少ない。
そんな服がたくさんあります。
しかし、たくさんあるにもかかわらず、着るものがないと感じる。
これは本当の意味で、着るものがないというわけではありません。
正確に言えば、コーディネイトできないということです。
ワードローブは野球のチームに似ています。
アイテムにそれぞれ決まった役割があって、それにふさわしいメンバーを集める必要があります。
ふさわしいメンバーがそろって初めて試合ができるのです。
けれども、皆さんのワードローブを見ていると、
同じような種類のピッチャーをたくさんそろえていたり、
そうかと思うと、キャッチャーがいなかったりと、
チームとして機能できない状態です。
そして、実際には試合に出ない、二軍、三軍の選手ばかりがたまっていきます。
野球のチームと同じように、二軍、三軍の選手も面倒を見なければなりません。
少なくとも、ワードローブの片隅に場所を用意してあげる必要があります。
人間と違ってお給料を出す必要はありませんが、
それでもメンテナンスにはお金がかかります。
二軍、三軍の選手はしょせん、試合には出れません。
持っているだけです。
そして、その持っているだけの二軍、三軍がどんどんふえていきます。
私たちは洋服と契約しているわけではないので、
いらないという決定は自分でくださなければなりません。
洋服と交渉する必要などないのです。
それなのに、なかなか捨てられません。
ここから抜け出すには、まずワードローブをチームとして考えること。
好きだからといって、ピッチャーばかり集めないこと、
どうでもいいからといって、キャッチャーを無視しないこと、
そしてすべての選手が力を発揮できるよう、
相性のいい仲間、つまり、コーディネイトできる仲間をそろえることです。
そのために、アイテムの数、色などを最初から決めて、
そして服を集めます。
野球の選手のスカウトマンも、一目ぼれで選手を選びません。
服も同じです。
一目ぼればかりで選んだ選手は、当たり外れが大きいからです。
(もちろん、すべての一目ぼれを否定はしませんが)
ここまでやるだけでも、ワードローブはかなりすっきりしますし、
無計画に買い物をすることもなくなります。
内野手を探していたのに、外野手を連れて帰ったなどということもなくなります。
けれども、本当はこれだけでは解決しません。
なぜなら、それだけでは持っている二軍、三軍の選手を手放せないからです。
他人の目から見ると、それは明らかにいらないものなのです。
ものとしては、そう見えます。
しかし、持ち主の目からは、そうは見えないようです。
捨てられないものは、単にものではなく、そこに思いや感情がはりついているからです。
そして、本当に捨てられないのは、その思いと感情なのです。
明らかにいらない服がある。
けれども、捨てられない。
もしそうだとしたら、自分自身に問うてみてください。
捨てたくない理由は何なのか。
持っていることのメリットは何なのか。
捨てようとすると込み上げてくる、その痛い思いはどこからやってくるのか。
それを持っていると安心なのか。
それを捨てないという自分は、本当のところ、どうしたいのか。
そして、もしその答えが見つかったとしたら、
その思いを手放しましょう。
胸のあたりにぞわぞわと上がってくる、その気持ちを認めて、
それから、ありがとうとお礼を言い、
さよならしましょう。
もしかして、その服を持っていることで、自分は安心できたのかも、
もしかして、その服を着ていてほめられた思い出が忘れられなかったのかも、
もしかして、両親が買ってくれたものだから、罪悪感で捨てられなかったのかも、
もしかして、初めてもらったお給料で買った服なので、思い入れがあるのかも。
本当に捨てられないのは、服という布ではないのです。
本当に捨てられないのは、その服を見ると胸の中に浮き上がってくる、
ざわざわとした気持ちです。
その気持ちを手放さない限り、捨てられません。
手放せない気持ちはやがて執着となり、
人生を停滞させる原因となります。
それがよい思い出だとしても、同じです。
手放しましょう。
それは自分しかできません。
ほかの人がいくら言っても、その思いを手放せるのは自分だけです。
手放すことに成功したら、
人生が動き始めます。
もうこの先は通行止めだと思っていた道を通り抜けられます。
しまっていると思い込んでいた扉が開きます。
捨てられない服とは、あなたの人生に立ちはだかっていた、
あなたが自分で作った、壁だったのです。
壁は壊せます。
自分で自分にかけた魔法です。
そうであれば、とくことだって、自分でできるのです。
やってみてください。
それは驚くほど簡単なことです。
そして、皆さんのワードローブを拝見してきました。
その中で、ほとんどの人の悩みは同じであるとわかりました。
その悩みとは、服はたくさんある、けれども着るものがない、ということです。
ほとんどの人が、たくさん集めた服を前にして、
どうしていいかわからない状態でいます。
捨てるほどはいたんでいない。
もちろん、それほど古くない。
着た回数も少ない。
そんな服がたくさんあります。
しかし、たくさんあるにもかかわらず、着るものがないと感じる。
これは本当の意味で、着るものがないというわけではありません。
正確に言えば、コーディネイトできないということです。
ワードローブは野球のチームに似ています。
アイテムにそれぞれ決まった役割があって、それにふさわしいメンバーを集める必要があります。
ふさわしいメンバーがそろって初めて試合ができるのです。
けれども、皆さんのワードローブを見ていると、
同じような種類のピッチャーをたくさんそろえていたり、
そうかと思うと、キャッチャーがいなかったりと、
チームとして機能できない状態です。
そして、実際には試合に出ない、二軍、三軍の選手ばかりがたまっていきます。
野球のチームと同じように、二軍、三軍の選手も面倒を見なければなりません。
少なくとも、ワードローブの片隅に場所を用意してあげる必要があります。
人間と違ってお給料を出す必要はありませんが、
それでもメンテナンスにはお金がかかります。
二軍、三軍の選手はしょせん、試合には出れません。
持っているだけです。
そして、その持っているだけの二軍、三軍がどんどんふえていきます。
私たちは洋服と契約しているわけではないので、
いらないという決定は自分でくださなければなりません。
洋服と交渉する必要などないのです。
それなのに、なかなか捨てられません。
ここから抜け出すには、まずワードローブをチームとして考えること。
好きだからといって、ピッチャーばかり集めないこと、
どうでもいいからといって、キャッチャーを無視しないこと、
そしてすべての選手が力を発揮できるよう、
相性のいい仲間、つまり、コーディネイトできる仲間をそろえることです。
そのために、アイテムの数、色などを最初から決めて、
そして服を集めます。
野球の選手のスカウトマンも、一目ぼれで選手を選びません。
服も同じです。
一目ぼればかりで選んだ選手は、当たり外れが大きいからです。
(もちろん、すべての一目ぼれを否定はしませんが)
ここまでやるだけでも、ワードローブはかなりすっきりしますし、
無計画に買い物をすることもなくなります。
内野手を探していたのに、外野手を連れて帰ったなどということもなくなります。
けれども、本当はこれだけでは解決しません。
なぜなら、それだけでは持っている二軍、三軍の選手を手放せないからです。
他人の目から見ると、それは明らかにいらないものなのです。
ものとしては、そう見えます。
しかし、持ち主の目からは、そうは見えないようです。
捨てられないものは、単にものではなく、そこに思いや感情がはりついているからです。
そして、本当に捨てられないのは、その思いと感情なのです。
明らかにいらない服がある。
けれども、捨てられない。
もしそうだとしたら、自分自身に問うてみてください。
捨てたくない理由は何なのか。
持っていることのメリットは何なのか。
捨てようとすると込み上げてくる、その痛い思いはどこからやってくるのか。
それを持っていると安心なのか。
それを捨てないという自分は、本当のところ、どうしたいのか。
そして、もしその答えが見つかったとしたら、
その思いを手放しましょう。
胸のあたりにぞわぞわと上がってくる、その気持ちを認めて、
それから、ありがとうとお礼を言い、
さよならしましょう。
もしかして、その服を持っていることで、自分は安心できたのかも、
もしかして、その服を着ていてほめられた思い出が忘れられなかったのかも、
もしかして、両親が買ってくれたものだから、罪悪感で捨てられなかったのかも、
もしかして、初めてもらったお給料で買った服なので、思い入れがあるのかも。
本当に捨てられないのは、服という布ではないのです。
本当に捨てられないのは、その服を見ると胸の中に浮き上がってくる、
ざわざわとした気持ちです。
その気持ちを手放さない限り、捨てられません。
手放せない気持ちはやがて執着となり、
人生を停滞させる原因となります。
それがよい思い出だとしても、同じです。
手放しましょう。
それは自分しかできません。
ほかの人がいくら言っても、その思いを手放せるのは自分だけです。
手放すことに成功したら、
人生が動き始めます。
もうこの先は通行止めだと思っていた道を通り抜けられます。
しまっていると思い込んでいた扉が開きます。
捨てられない服とは、あなたの人生に立ちはだかっていた、
あなたが自分で作った、壁だったのです。
壁は壊せます。
自分で自分にかけた魔法です。
そうであれば、とくことだって、自分でできるのです。
やってみてください。
それは驚くほど簡単なことです。
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2013年1月28日月曜日
ペプラムの復活
2012年の決定的なシルエットの変化とともに、ペプラムが復活しました。
ペプラムとは、ウエストに切り替えを入れ、腰にかけて、大きく広がるようにフレアやプリーツを入れる、装飾の技法の1つです。
ペプラムの復活は、何を意味するのでしょうか。
ペプラムが多くみられるのは50年代のファッションです。
ディオールのバージャケットは、ウエストで切り替えてはいないので、
ペプラムではありませんが、シルエットは同じです。
しかし、それがオリジナルかというと、そうではありません。
19世紀半ばのバッスル・スタイルと呼ばれる、スカートの後ろ部分のみ膨らませたスタイルや、
ヴィクトリア朝時代に流行した、スカート全体を大きく膨らませるスタイルに、
ペプラムの源流を見ることができます。
特徴は、ウエストを細く、そしてそれに続く腰のラインを大きく膨らませることによって強調するスタイルであるということです。
つまり、これは女性性の復活です。
私たちは、無意識のうちに、失われた女性性の復活を、シルエットで表現します。
でも、この15年ばかり、服のウエストはとても細かったではないかと思われるでしょう。
確かにそれはそのとおりです。
しかし、それは、腰を強調するためのウエストの細さではなく、
体全体を細く見せるためのものであり、発達したストレッチ素材を使って、
最初から細い設定のウエストにしたのでした。
ですから、そこには高度な技術が必要な、ダーツのテクニックは用いられていません。
一方、今出てきているペプラムは、
ウエストを細く見せるためのダーツやフレアを駆使したテクニックであり、
ウエストの実寸の細さを要求しているわけではありません。
では、張り出した腰は何を意味するのでしょうか。
土偶の女神像を見ていただければわかるように、
豊穣さを表現するために、女神の腰は大きくなくてはなりませんでした。
たくさん産むということは、同時にクリエイティブであるということです。
そして、その表現として、原始時代から、女神の像や絵画は、大きな腰で表現されることが多いのです。(クラナッハは除きますね)
長い間、ウエストから腰を装飾する、無駄なペプラムは敬遠されてきました。
女性性は軽んじられ、
効率的であること、無駄のないことが優先されました。
子供を産み育て、長時間労働ができない女性よりも、
男並みに働く、無駄のないスーツ姿の女性がよいとされてきました。
けれども、その結果、世界はやせ細り、何も生み出さないほど、疲弊しました。
心はいつも不足感でいっぱいで、いくら甘いものを食べても満たされません。
そしてやっと気付きました。
(もちろん、それは無意識のレベルで)
役に立たないと思われたそのものは、ほんとうは必要だったのです。
それなしでは、私たちは何も生み出せないのです。
これから先何年かは、女性性を強調、または感じさせるシルエットや装飾が数多く復活してくるでしょう。ペプラムはその一例です。
それは確かに無駄です。
役立たずです。
だけれども、豊かです。
その豊かさは、自然が持っている豊かさと同じものです。
誰にでも、気前よく、無尽蔵に与えるもの。
そこに不足感はありません。
「欲しい」の時代から「与える」時代への転換期です。
「愛されたい」から、「愛する」に変わります。
愛などというものは、与えても与えてもなくならないものなのです。
ペプラムの復活は、そんな女性性の再認識であり、
豊かさの表現です。
豊かであることこそ女性らしい、
服を通して私たちは、そこに再びかえるのです。
ペプラムとは、ウエストに切り替えを入れ、腰にかけて、大きく広がるようにフレアやプリーツを入れる、装飾の技法の1つです。
ペプラムの復活は、何を意味するのでしょうか。
ペプラムが多くみられるのは50年代のファッションです。
ディオールのバージャケットは、ウエストで切り替えてはいないので、
ペプラムではありませんが、シルエットは同じです。
しかし、それがオリジナルかというと、そうではありません。
19世紀半ばのバッスル・スタイルと呼ばれる、スカートの後ろ部分のみ膨らませたスタイルや、
ヴィクトリア朝時代に流行した、スカート全体を大きく膨らませるスタイルに、
ペプラムの源流を見ることができます。
特徴は、ウエストを細く、そしてそれに続く腰のラインを大きく膨らませることによって強調するスタイルであるということです。
つまり、これは女性性の復活です。
私たちは、無意識のうちに、失われた女性性の復活を、シルエットで表現します。
でも、この15年ばかり、服のウエストはとても細かったではないかと思われるでしょう。
確かにそれはそのとおりです。
しかし、それは、腰を強調するためのウエストの細さではなく、
体全体を細く見せるためのものであり、発達したストレッチ素材を使って、
最初から細い設定のウエストにしたのでした。
ですから、そこには高度な技術が必要な、ダーツのテクニックは用いられていません。
一方、今出てきているペプラムは、
ウエストを細く見せるためのダーツやフレアを駆使したテクニックであり、
ウエストの実寸の細さを要求しているわけではありません。
では、張り出した腰は何を意味するのでしょうか。
土偶の女神像を見ていただければわかるように、
豊穣さを表現するために、女神の腰は大きくなくてはなりませんでした。
たくさん産むということは、同時にクリエイティブであるということです。
そして、その表現として、原始時代から、女神の像や絵画は、大きな腰で表現されることが多いのです。(クラナッハは除きますね)
長い間、ウエストから腰を装飾する、無駄なペプラムは敬遠されてきました。
女性性は軽んじられ、
効率的であること、無駄のないことが優先されました。
子供を産み育て、長時間労働ができない女性よりも、
男並みに働く、無駄のないスーツ姿の女性がよいとされてきました。
けれども、その結果、世界はやせ細り、何も生み出さないほど、疲弊しました。
心はいつも不足感でいっぱいで、いくら甘いものを食べても満たされません。
そしてやっと気付きました。
(もちろん、それは無意識のレベルで)
役に立たないと思われたそのものは、ほんとうは必要だったのです。
それなしでは、私たちは何も生み出せないのです。
これから先何年かは、女性性を強調、または感じさせるシルエットや装飾が数多く復活してくるでしょう。ペプラムはその一例です。
それは確かに無駄です。
役立たずです。
だけれども、豊かです。
その豊かさは、自然が持っている豊かさと同じものです。
誰にでも、気前よく、無尽蔵に与えるもの。
そこに不足感はありません。
「欲しい」の時代から「与える」時代への転換期です。
「愛されたい」から、「愛する」に変わります。
愛などというものは、与えても与えてもなくならないものなのです。
ペプラムの復活は、そんな女性性の再認識であり、
豊かさの表現です。
豊かであることこそ女性らしい、
服を通して私たちは、そこに再びかえるのです。
ラベル:
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2013年1月21日月曜日
「子供っぽい」と「大人っぽい」
このブログをどういう年齢の方々が読んでいらっしゃるのか、
実際のところ、私にはわかりません。
けれども、大方、皆さん、大人だろうなと思って、
実際の年齢ということではなく、「大人」を対象とした内容のものが多いと思います。
けれども最近、けっこう20代の方々も読んでくださっているようで、
大人っぽい着こなしをするためにはどうしたらいいかという質問をいただきました。
服装において、「大人っぽい」と「子供っぽい」は何が違うのでしょうか。
皆さんも何となく、これは子供っぽいよねとか、
あれは大人っぽいなとか、気付いてはいるでしょうけれども、
それの一体どこが大人っぽい、または子供っぽい印象を与えるのかは、
はっきりわかっていらっしゃらないと思います。
けれども、「大人っぽい」と「子供っぽい」の間には、はっきりとした境目があります。
その境目とは、子供っぽさとは、すべてにおいて過剰である、ということです。
「子供っぽい」をあらわすキーワードには、カラフル、元気、ごちゃごちゃ、何でもあり、
エネルギーにあふれている、などがあげられると思います。
それに対して「大人っぽい」には、シック、エレガント、シンプル、洗練された、物静かなどでしょう。
子供というものは、とにかく何に対しても過剰です。
服装の場合も同じです。
子供服売り場を想像してみてください。
頭痛がするほどの、さまざまな色にあふれています。
コーディネイトする際も、3色ルールは適用しません。たくさんの色を使います。
また、色だけではなく、装飾も過剰です。
フリルも、ポケットも、リボンも、大きすぎたり、数が多かったり、大げさだったりします。
なぜかというと、それが子供っぽさだからです。
子供は、その過剰を、有り余るエネルギーで消化していきます。
たくさん動き、たくさん走り、笑って、泣くことで、その「過剰さ」と対等になります。
子供自身のエネルギーは、過剰な色、過剰な装飾がよく似合うのです。
ですから、子供が、変にシックな黒一色の装いなどをしていると、逆に不自然です。
エネルギーがふさがれている感じがします。
それに対して、大人は、エネルギーの過剰性がおさまってきます。
そんなにたくさんいらなくなります。
ちょこまかと動かなくなり、
キャーキャー叫ばなくなり、
大げさに笑ったり、泣いたりせず、
静かにふるまう、それが大人です。
そして、そうした大人には、過剰とは正反対のシンプルが似合うのです。
シャネルは、「シンプルであることが一番美しい」と言いました。
大人になればなるほど、シンプルが美しく見えるようになります。
なぜなら、過剰であることは、疲れるからです。
多すぎるフリル、
あふれる色、
目立ちすぎるデザインなど、
どれも大人っぽくは、ありません。
もし、子供っぽく見せたい、幼く見せたいのなら、
それを活用するのもいいでしょう。
それが必要なときも、あるのかもしれません。
しかし、そうでないとしたら、
シックで、エレガントな、大人の装いをしたいと思うのなら、
シンプルに徹することが重要です。
なぜかと言われれば、それが「洋服」というものだからです。
シンプルが少し退屈なのは、私も重々承知です。
私たちは、どうしても過剰なデザインのもの、
派手なデザインのものに目が行きます。
だけれども、大人なら、シンプルなそのものの中に、宇宙のすべてを入れることができると、
知っているでしょう。
小学生に、京都の竜安寺の石庭を見せても、何も意味がわからないかもしれませんが、
大人なら、あのシンプルな、すべてのものを最小限にした空間の中に、
宇宙のすべてを見ることができます。
シンプルであることは、ごまかしがききません。
素材もデザインも、すべて見透かされてしまいます。
もちろん、それを着るあなた自身の内面も、隠すことはできません。
何も隠す必要のない、
堂々とした自分の内面ができたなら、
あなたは、シンプルを楽しめるようになるでしょう。
過剰なデザインに助けられなくても、自分でいるだけで、人々を魅了することもできるでしょう。
その意味で、大人であることと、年齢とは関係ありません。
何一つうそ偽りのない、誰の前でも恥ずかしいことのない自分になれたら、
そのとき、あなたはもう大人です。
それができないと言うのなら、年齢がいくつであっても、まだまだ子供だということです。
どこまでもそぎ落としても大丈夫。
それでもまだ自信が揺らがない、それが大人。
そのときシンプルは退屈なものから、心地よいものに変わるでしょう。
それは、その域に達した人たちにしか、わからない価値なのです。
実際のところ、私にはわかりません。
けれども、大方、皆さん、大人だろうなと思って、
実際の年齢ということではなく、「大人」を対象とした内容のものが多いと思います。
けれども最近、けっこう20代の方々も読んでくださっているようで、
大人っぽい着こなしをするためにはどうしたらいいかという質問をいただきました。
服装において、「大人っぽい」と「子供っぽい」は何が違うのでしょうか。
皆さんも何となく、これは子供っぽいよねとか、
あれは大人っぽいなとか、気付いてはいるでしょうけれども、
それの一体どこが大人っぽい、または子供っぽい印象を与えるのかは、
はっきりわかっていらっしゃらないと思います。
けれども、「大人っぽい」と「子供っぽい」の間には、はっきりとした境目があります。
その境目とは、子供っぽさとは、すべてにおいて過剰である、ということです。
「子供っぽい」をあらわすキーワードには、カラフル、元気、ごちゃごちゃ、何でもあり、
エネルギーにあふれている、などがあげられると思います。
それに対して「大人っぽい」には、シック、エレガント、シンプル、洗練された、物静かなどでしょう。
子供というものは、とにかく何に対しても過剰です。
服装の場合も同じです。
子供服売り場を想像してみてください。
頭痛がするほどの、さまざまな色にあふれています。
コーディネイトする際も、3色ルールは適用しません。たくさんの色を使います。
また、色だけではなく、装飾も過剰です。
フリルも、ポケットも、リボンも、大きすぎたり、数が多かったり、大げさだったりします。
なぜかというと、それが子供っぽさだからです。
子供は、その過剰を、有り余るエネルギーで消化していきます。
たくさん動き、たくさん走り、笑って、泣くことで、その「過剰さ」と対等になります。
子供自身のエネルギーは、過剰な色、過剰な装飾がよく似合うのです。
ですから、子供が、変にシックな黒一色の装いなどをしていると、逆に不自然です。
エネルギーがふさがれている感じがします。
それに対して、大人は、エネルギーの過剰性がおさまってきます。
そんなにたくさんいらなくなります。
ちょこまかと動かなくなり、
キャーキャー叫ばなくなり、
大げさに笑ったり、泣いたりせず、
静かにふるまう、それが大人です。
そして、そうした大人には、過剰とは正反対のシンプルが似合うのです。
シャネルは、「シンプルであることが一番美しい」と言いました。
大人になればなるほど、シンプルが美しく見えるようになります。
なぜなら、過剰であることは、疲れるからです。
多すぎるフリル、
あふれる色、
目立ちすぎるデザインなど、
どれも大人っぽくは、ありません。
もし、子供っぽく見せたい、幼く見せたいのなら、
それを活用するのもいいでしょう。
それが必要なときも、あるのかもしれません。
しかし、そうでないとしたら、
シックで、エレガントな、大人の装いをしたいと思うのなら、
シンプルに徹することが重要です。
なぜかと言われれば、それが「洋服」というものだからです。
シンプルが少し退屈なのは、私も重々承知です。
私たちは、どうしても過剰なデザインのもの、
派手なデザインのものに目が行きます。
だけれども、大人なら、シンプルなそのものの中に、宇宙のすべてを入れることができると、
知っているでしょう。
小学生に、京都の竜安寺の石庭を見せても、何も意味がわからないかもしれませんが、
大人なら、あのシンプルな、すべてのものを最小限にした空間の中に、
宇宙のすべてを見ることができます。
シンプルであることは、ごまかしがききません。
素材もデザインも、すべて見透かされてしまいます。
もちろん、それを着るあなた自身の内面も、隠すことはできません。
何も隠す必要のない、
堂々とした自分の内面ができたなら、
あなたは、シンプルを楽しめるようになるでしょう。
過剰なデザインに助けられなくても、自分でいるだけで、人々を魅了することもできるでしょう。
その意味で、大人であることと、年齢とは関係ありません。
何一つうそ偽りのない、誰の前でも恥ずかしいことのない自分になれたら、
そのとき、あなたはもう大人です。
それができないと言うのなら、年齢がいくつであっても、まだまだ子供だということです。
どこまでもそぎ落としても大丈夫。
それでもまだ自信が揺らがない、それが大人。
そのときシンプルは退屈なものから、心地よいものに変わるでしょう。
それは、その域に達した人たちにしか、わからない価値なのです。
ラベル:
おしゃれチップス
2013年1月14日月曜日
光を味方につける
洋服と光、すなわち照明であるとか、太陽光の関係については、
あまり語られることがありません。
しかし実際のところ、洋服と光は、大いに関係があります。
メイクアップ・アーティストや、インテリア・デザイナー、または写真家の方々は、
光について、多くを学んでいらっしゃるでしょうから、
太陽光と人工の照明の違いについて、熟知していらっしゃるでしょう。
そして、それらの光によって、ものが驚くほど違うように見えることも、
心得ていらっしゃると思います。
服も、同じように、光の具合によって、見え方が大きく違ってきます。
服が照らされる光は、大きく分けて太陽光と人工の照明とに分かれます。
そして、人工の照明は、蛍光灯、白色電球、LEDライト、ハロゲンなどに分かれていきます。
どれも、物体の見え方は異なります。
この中で、いわゆる服の素材の質感を最もはっきり見せるのは、太陽光です。
太陽の光にさらされると、素材のよしあしがはっきりします。
特にウールの場合、それは顕著で、いい素材は独特のぬめりをもった質感がはっきりわかりますし、
悪い素材は、ずっとラフな、つやのない感じになります。
また、色としては、太陽光の下の黒も、素材感があらわれやすい色の1つです。
いい素材の黒は、太陽の光の下で、すばらしく光り、しっとりした光沢があります。
服ではありませんが、黒い革靴やバッグも同様に、太陽光の下だと、
素材のよしあしがはっきり見てとれます。
コットンや麻も、やはり太陽光に当たると、素材がよくわかるのですが、
ウールほど顕著ではありません。
近くによればわかる程度で、その道に詳しい人にしか、わからないほどの差の場合もあります。
太陽光の下で、一番みじめに見えるのは、化学繊維でできた、安いベロアやベルベットです。
気をつけないと、その素材を身につけている人のことさえ、安っぽく見せます。
その他、ポリエステルは、あまり見え方の変わらない素材、そしてシルクは、太陽光の下でも、美しく見える素材です。
次に人工の光です。
皆さんもよくご存じのように、蛍光灯の下では、どんなにすばらしい素材を置いても、
さほどよくは見えません。
独特の青白い光が、影を均一にするせいもあり、よいものもよくは見えないかわりに、
悪いものも、その悪さは目立ちにくいです。
すべてのものが均一に見える、それが蛍光灯の光です。
白熱電球は、蛍光灯に比べれば、ずっとすべてのものの、あらを隠す照明です。
こちらは、はっきり言って、どんなものでも、ある程度、美しく見せます。
白熱電球に、部分的にハロゲンランプを使えば、
レストランの照明のようになり、きらきら感が増しますので、
より一層、素材のあらは見えません。
悪い素材でも、それなりにちゃんと見えます。
最近、メインの照明になりつつあるLEDライトは、蛍光灯よりは多少ましではあるものも、
独特の色調の暗さがあり、服ものっぺり見えます。
あらもわからないかわりに、美しくも見えないという感じです。
ここまでで、光と素材の見え方の関係の説明は終わりです。
どんな光で、素材がどのように見えるか把握しておけば、
それを応用することができます。
皆さんの中には、演劇やライブ、コンサートなど、実際の舞台をご覧になったことがある方々が多いと思います。
そんなに大げさなものではなくても、子供のころのピアノの発表会であるとか、
バレエの発表会など、何かしら舞台照明というものを、一度は見たことがあるでしょう。
あれを思い出してみてください。
舞台の上では、あんなに素敵に輝いていた衣装も、
そのまま外に出ると、意外なほど、安っぽく見えます。
さっきまで舞台の上では、あんなにきらきらしていたのに、光が変わった途端、まるで違うもののように見えたことでしょう。
高級なシルクのサテンでできたドレスだとばかり思っていたのに、
太陽の下でよく見たら、化繊の安いサテンだったなんていうことも、あったと思います。
舞台の照明とは、そういうものなのです。
どんなに安い素材でも、どんなにフェイクの宝石でもリアルに見せる、美しく見せる、
それが舞台照明です。
そして、それと同じような照明が使われているところが、レストランや劇場のロビー、バー、
あるいは結婚式場、高級ブティックなどです。
そこでは、どんなものも美しく見せる照明を使っています。
ということは、レストラン、劇場、ライブ、コンサート、バーなどへ、
少しいつもと違うおしゃれをしていきたい場合、
または、少しきらきらさせたい場合、
多少フェイクのものを身に付けたとしても、
それはそれなりに美しく見せることが可能であるということです。
逆に、太陽光の下で、少しいつもよりおしゃれに見せたい場合は、
決して、劇場の照明の下でこそはえる服を着てはいけません。
まさに、白日のもとに照らされて、フェイクであることがばれてしまいます。
ですから、太陽光が美しいレストラン、昼間で太陽光の入る結婚式会場などでは、
本物で、かつ上質なものを身につけるよう、注意しましょう。
そういった上質な素材は、太陽光に負けることなく、
その美しさを発揮します。
もちろん、本物のゴールドや、ダイヤモンドも、最高の輝きを見せ、
それがフェイクではないということがわかるのです。
「すべてこの世は舞台」とは、シェイクスピアのセリフですが、
まさにそのとおりです。
あなたは常に、何かの光に照らされています。
それは太陽のときもあるでしょう、
蛍光灯のときもあるでしょう、
スポットライトのときもあるでしょう、
月光のときもあるでしょう。
「おやすみなさい」と言って、ベッドに入るそのときまで、
何かしらの光が、あなたを照らしています。
そのことを忘れないで、今日着る服を選んでみてください。
あなたは、あなたという人生の主人公なのですから、
主人公が最も輝くように、照明まで考慮しながら服を選ぶ、
それも、あなたがあなたのためにできる、大切な仕事です。
あなたが生きる毎日の、すべての小さなシーンには、
一つ残らず、光が当たっています。
そしてきっとそれを、どこかで誰かが、見守ってくれていることでしょう。
たとえそれに、あなたが気付いていないとしても。
あまり語られることがありません。
しかし実際のところ、洋服と光は、大いに関係があります。
メイクアップ・アーティストや、インテリア・デザイナー、または写真家の方々は、
光について、多くを学んでいらっしゃるでしょうから、
太陽光と人工の照明の違いについて、熟知していらっしゃるでしょう。
そして、それらの光によって、ものが驚くほど違うように見えることも、
心得ていらっしゃると思います。
服も、同じように、光の具合によって、見え方が大きく違ってきます。
服が照らされる光は、大きく分けて太陽光と人工の照明とに分かれます。
そして、人工の照明は、蛍光灯、白色電球、LEDライト、ハロゲンなどに分かれていきます。
どれも、物体の見え方は異なります。
この中で、いわゆる服の素材の質感を最もはっきり見せるのは、太陽光です。
太陽の光にさらされると、素材のよしあしがはっきりします。
特にウールの場合、それは顕著で、いい素材は独特のぬめりをもった質感がはっきりわかりますし、
悪い素材は、ずっとラフな、つやのない感じになります。
また、色としては、太陽光の下の黒も、素材感があらわれやすい色の1つです。
いい素材の黒は、太陽の光の下で、すばらしく光り、しっとりした光沢があります。
服ではありませんが、黒い革靴やバッグも同様に、太陽光の下だと、
素材のよしあしがはっきり見てとれます。
コットンや麻も、やはり太陽光に当たると、素材がよくわかるのですが、
ウールほど顕著ではありません。
近くによればわかる程度で、その道に詳しい人にしか、わからないほどの差の場合もあります。
太陽光の下で、一番みじめに見えるのは、化学繊維でできた、安いベロアやベルベットです。
気をつけないと、その素材を身につけている人のことさえ、安っぽく見せます。
その他、ポリエステルは、あまり見え方の変わらない素材、そしてシルクは、太陽光の下でも、美しく見える素材です。
次に人工の光です。
皆さんもよくご存じのように、蛍光灯の下では、どんなにすばらしい素材を置いても、
さほどよくは見えません。
独特の青白い光が、影を均一にするせいもあり、よいものもよくは見えないかわりに、
悪いものも、その悪さは目立ちにくいです。
すべてのものが均一に見える、それが蛍光灯の光です。
白熱電球は、蛍光灯に比べれば、ずっとすべてのものの、あらを隠す照明です。
こちらは、はっきり言って、どんなものでも、ある程度、美しく見せます。
白熱電球に、部分的にハロゲンランプを使えば、
レストランの照明のようになり、きらきら感が増しますので、
より一層、素材のあらは見えません。
悪い素材でも、それなりにちゃんと見えます。
最近、メインの照明になりつつあるLEDライトは、蛍光灯よりは多少ましではあるものも、
独特の色調の暗さがあり、服ものっぺり見えます。
あらもわからないかわりに、美しくも見えないという感じです。
ここまでで、光と素材の見え方の関係の説明は終わりです。
どんな光で、素材がどのように見えるか把握しておけば、
それを応用することができます。
皆さんの中には、演劇やライブ、コンサートなど、実際の舞台をご覧になったことがある方々が多いと思います。
そんなに大げさなものではなくても、子供のころのピアノの発表会であるとか、
バレエの発表会など、何かしら舞台照明というものを、一度は見たことがあるでしょう。
あれを思い出してみてください。
舞台の上では、あんなに素敵に輝いていた衣装も、
そのまま外に出ると、意外なほど、安っぽく見えます。
さっきまで舞台の上では、あんなにきらきらしていたのに、光が変わった途端、まるで違うもののように見えたことでしょう。
高級なシルクのサテンでできたドレスだとばかり思っていたのに、
太陽の下でよく見たら、化繊の安いサテンだったなんていうことも、あったと思います。
舞台の照明とは、そういうものなのです。
どんなに安い素材でも、どんなにフェイクの宝石でもリアルに見せる、美しく見せる、
それが舞台照明です。
そして、それと同じような照明が使われているところが、レストランや劇場のロビー、バー、
あるいは結婚式場、高級ブティックなどです。
そこでは、どんなものも美しく見せる照明を使っています。
ということは、レストラン、劇場、ライブ、コンサート、バーなどへ、
少しいつもと違うおしゃれをしていきたい場合、
または、少しきらきらさせたい場合、
多少フェイクのものを身に付けたとしても、
それはそれなりに美しく見せることが可能であるということです。
逆に、太陽光の下で、少しいつもよりおしゃれに見せたい場合は、
決して、劇場の照明の下でこそはえる服を着てはいけません。
まさに、白日のもとに照らされて、フェイクであることがばれてしまいます。
ですから、太陽光が美しいレストラン、昼間で太陽光の入る結婚式会場などでは、
本物で、かつ上質なものを身につけるよう、注意しましょう。
そういった上質な素材は、太陽光に負けることなく、
その美しさを発揮します。
もちろん、本物のゴールドや、ダイヤモンドも、最高の輝きを見せ、
それがフェイクではないということがわかるのです。
「すべてこの世は舞台」とは、シェイクスピアのセリフですが、
まさにそのとおりです。
あなたは常に、何かの光に照らされています。
それは太陽のときもあるでしょう、
蛍光灯のときもあるでしょう、
スポットライトのときもあるでしょう、
月光のときもあるでしょう。
「おやすみなさい」と言って、ベッドに入るそのときまで、
何かしらの光が、あなたを照らしています。
そのことを忘れないで、今日着る服を選んでみてください。
あなたは、あなたという人生の主人公なのですから、
主人公が最も輝くように、照明まで考慮しながら服を選ぶ、
それも、あなたがあなたのためにできる、大切な仕事です。
あなたが生きる毎日の、すべての小さなシーンには、
一つ残らず、光が当たっています。
そしてきっとそれを、どこかで誰かが、見守ってくれていることでしょう。
たとえそれに、あなたが気付いていないとしても。
ラベル:
おしゃれチップス
2013年1月7日月曜日
シンプル・ワードローブの極意
そんなにたくさんのワードローブを持っていなくても、
おしゃれに見えることは可能だし、
おしゃれに見えるかどうかと、
たくさん持っているということとは、関係がありません。
けれども、ただ枚数を減らせばいいのかというと、それもまた違います。
問題なのは、枚数を減らした結果、残った服のクオリティです。
これについてよく考えないと、減らしたのはいいけれど、やっぱりうまくいかない、ということになります。
例えばの話です。
金メッキの指輪を10個集めてみたところで、満足はできません。
金メッキの指輪を100個集めてみても、
純金の指輪1つを持つことの満足感には、到底達することができません。
これは食べ物と似ています。
いくらカロリーの高いジャンクフードをたくさん食べても、決して満たされた感じは訪れません。
たしかにカロリーは摂取できます。けれども、ジャンクフードには、人間に必要な栄養素が含まれていません。
満足が得られないため、大量に食べる結果、残るのは、余分な脂肪だけになります。余分な脂肪をまとったところで、それでもまだ、満足はできないでしょう。
服を集めるときも同じです。
自分にとっての純金、真に満足できるものを選んでいかないと、いつまでたっても、何かが足りないという気持ちだけが残ります。
空っぽの栄養のものをたくさん集めたところで、心は満たされません。
では、何が自分にとっての純金なのでしょうか。
それは、人それぞれの価値観によって違います。
ある人にとっては、それはハイブランドであることかもしれません。
また、ある人にとっては、それは自分で作ったものかもしれません。
また、違う人にとっては、それはオーガニックな素材のみで作られたものなのかもしれません。
それは、その人自身にしかわからない、その人に必要な栄養です。
もちろん、実際に着られるかどうかや、今流行っているものかどうかの問題もあります。そのほか経済的な問題もあるでしょう。
けれども、この、自分にとっての純金、つまり本当に価値あるものを集めるということをぬかしては、シンプル・ワードローブは成り立ちません。
シンプルでいるためには、ものの価値を見抜く能力と、自分が求める価値を知る能力の2つが必要です。
ものの価値を見抜く能力は、その道のプロに頼めば、一時的に得られますが、自分にはどんな栄養が必要か、今何を欲しているのかは、その人にしかわかりません。
お仕着せのダイエット方法が万人に通用しないように、誰かからの提案だけでは、決してシンプルにはなれないのはそのためです。失敗することは、目に見えています。
性別や年齢、ルックス、そして服のサイズだけで、提案される、その方法では、決定的なことが欠落してしまいます。
自分がどういう人になりたいのか、
どういう暮らしをしたいのか、
どういう環境を好むのか、
何が好きなのか、
何が嫌いなのか、
好きな音は何か、
まず、それらのことを、第一に考えなければなりません。
それなしには、永遠にシンプルにはたどりつくことはできません。
もし、それさえ自分でわからないと言うのなら、本当に自分が満足する時間を、もっと自分に与えるべきでしょう。
暖かい光に満たされて、もうほかに何もいらないと思える、あの時間の中に、もっととどまっていなければなりません。
一瞬のときめきではなく、永続する幸せな気持ちを、自分の中に作る必要があります。
何をしたら自分の中にその満たされたものが生まれるのか、
そして、取り除くべき不純物は何なのか、
それを冷静に分析し、そのための方法を探し、実践する。
その方法は、ヨガや瞑想かもしれませんし、ランニングやガーデニングかもしれません。いろいろあると思います。
それを実践した結果、自分の中の不純物が取り除かれるようになったら、おのずと、自分にとっての純金に値するものしか、選べなくなるでしょう。
そうして選んだものでシンプル・ワードローブは完成されます。
そのときそれは、目標ではなく結果となります。
意識しなくても、選んだものが、結果、シンプルになった。
シンプル・ワードローブとは、
全く無駄のない、
そして、永続する幸せを与え続ける、
あなたにとっての純金を集めた、
その結果なのです。
おしゃれに見えることは可能だし、
おしゃれに見えるかどうかと、
たくさん持っているということとは、関係がありません。
けれども、ただ枚数を減らせばいいのかというと、それもまた違います。
問題なのは、枚数を減らした結果、残った服のクオリティです。
これについてよく考えないと、減らしたのはいいけれど、やっぱりうまくいかない、ということになります。
例えばの話です。
金メッキの指輪を10個集めてみたところで、満足はできません。
金メッキの指輪を100個集めてみても、
純金の指輪1つを持つことの満足感には、到底達することができません。
これは食べ物と似ています。
いくらカロリーの高いジャンクフードをたくさん食べても、決して満たされた感じは訪れません。
たしかにカロリーは摂取できます。けれども、ジャンクフードには、人間に必要な栄養素が含まれていません。
満足が得られないため、大量に食べる結果、残るのは、余分な脂肪だけになります。余分な脂肪をまとったところで、それでもまだ、満足はできないでしょう。
服を集めるときも同じです。
自分にとっての純金、真に満足できるものを選んでいかないと、いつまでたっても、何かが足りないという気持ちだけが残ります。
空っぽの栄養のものをたくさん集めたところで、心は満たされません。
では、何が自分にとっての純金なのでしょうか。
それは、人それぞれの価値観によって違います。
ある人にとっては、それはハイブランドであることかもしれません。
また、ある人にとっては、それは自分で作ったものかもしれません。
また、違う人にとっては、それはオーガニックな素材のみで作られたものなのかもしれません。
それは、その人自身にしかわからない、その人に必要な栄養です。
もちろん、実際に着られるかどうかや、今流行っているものかどうかの問題もあります。そのほか経済的な問題もあるでしょう。
けれども、この、自分にとっての純金、つまり本当に価値あるものを集めるということをぬかしては、シンプル・ワードローブは成り立ちません。
シンプルでいるためには、ものの価値を見抜く能力と、自分が求める価値を知る能力の2つが必要です。
ものの価値を見抜く能力は、その道のプロに頼めば、一時的に得られますが、自分にはどんな栄養が必要か、今何を欲しているのかは、その人にしかわかりません。
お仕着せのダイエット方法が万人に通用しないように、誰かからの提案だけでは、決してシンプルにはなれないのはそのためです。失敗することは、目に見えています。
性別や年齢、ルックス、そして服のサイズだけで、提案される、その方法では、決定的なことが欠落してしまいます。
自分がどういう人になりたいのか、
どういう暮らしをしたいのか、
どういう環境を好むのか、
何が好きなのか、
何が嫌いなのか、
好きな音は何か、
まず、それらのことを、第一に考えなければなりません。
それなしには、永遠にシンプルにはたどりつくことはできません。
もし、それさえ自分でわからないと言うのなら、本当に自分が満足する時間を、もっと自分に与えるべきでしょう。
暖かい光に満たされて、もうほかに何もいらないと思える、あの時間の中に、もっととどまっていなければなりません。
一瞬のときめきではなく、永続する幸せな気持ちを、自分の中に作る必要があります。
何をしたら自分の中にその満たされたものが生まれるのか、
そして、取り除くべき不純物は何なのか、
それを冷静に分析し、そのための方法を探し、実践する。
その方法は、ヨガや瞑想かもしれませんし、ランニングやガーデニングかもしれません。いろいろあると思います。
それを実践した結果、自分の中の不純物が取り除かれるようになったら、おのずと、自分にとっての純金に値するものしか、選べなくなるでしょう。
そうして選んだものでシンプル・ワードローブは完成されます。
そのときそれは、目標ではなく結果となります。
意識しなくても、選んだものが、結果、シンプルになった。
シンプル・ワードローブとは、
全く無駄のない、
そして、永続する幸せを与え続ける、
あなたにとっての純金を集めた、
その結果なのです。
ラベル:
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