ページ

2014年3月17日月曜日

服とバスト

オーダーメイドでない限り、
普通の人々は既製服を着ることになります。
出来合いなので、必ずしもぴったりというわけにはいきません。
どこかしらに不具合が出てきます。
袖丈、着丈、肩幅など、不具合が出る個所はさまざまですが、
バストが合わないことによる不具合は、致命的です。

既製服のサイズの設定は、あくまで平均値です。
日本の場合は、日本の女性の平均値をもとに7号、9号、11号というように、
サイズ分けしてあります。
服に限って言えば、
胸が大きい人に、現代の既製服は似合いません。
それは構造的な問題です。

服は生地から構成されています。
生地は二次元の平面ですが、それを人間の身体という三次元の世界へ変換させます。
人間の身体には凹凸がありますから、生地をそのままではなく、
何とかその凹凸にあわせなければなりません。
そのあわせ方の方法は、時代やその地域の文化によって違っていました。
古くギリシャ時代の衣装はドレープを多用することによって生地を身体に合わせました。
日本の着物は、生地をなるべく切らず、身体にのせるという方法で身体に合わせました。
現代でも、世界を見渡せば、「西洋服」を採用していない文化圏もたくさんあります。

古代ギリシャのドレープや、日本の着物とは違って、
洋服は、生地に切り替え線やダーツを入れる方法によって身体にそわせてきました。
もちろん、そのほうが身体にぴったりとした衣服ができ上がります。
身体にはぴったりそうようにはなりますが、その半面、
パターンは複雑になり、カットされた後、大量の切れはしが発生します。

既製服は、多くの人に、効率的に、工場で大量生産するために発達してきたものです。
工場製品であるので、無駄はなるべく省いていきます。
そのときにまず考えるのが、この大量に発生する切れはしをなくすことです。
そのためには、身体にそうとはいえども、なるべくカーブの少ない、
無駄のないパターンが望ましくなります。
カーブの少ない、無駄の少ない服が似合うのはどんな体型か。
それは、凹凸の少ない体型ということです。

オーダーメイドから既製服に大きく変化したのは、60年代から70年代にかけてだと思われます。
50年代のファッション誌を見てみると、
バストと細いウエストが強調された、複雑なパターンのジャケットが多く提案されています。
しかし、それらは既製服ではありません。
50年代の後半にピエール・カルダンがパターンの複雑でない、まっすぐなラインのプレタポルテを発表し、60年代に入り、身体に凹凸の少ない、モデルのツィッギーが出現しました。
複雑でないパターンの服、そしてそれの似合うモデルの出現は、
これから始まる既製服の大量生産時代には、必須の出来事でした。
そして、その流れは現在も続いています。
コレクションを見ればわかりますが、どのモデルもスレンダーで、女性的な曲線は強調されていません。
その理由は、彼女たちが既製服のためのモデルだからにほかなりません。

以上のような理由から、現在の既製服は胸の大きい人には似合わないようにできています。
日本では、サイズの規格は決まっているので、どこで何を試着しても同じです。
胸が大きいと、サイズの号数が大きくすることでしか対応できません。

実際、バストのサイズがあまりに合わないと、服は大きく崩れます。
それは見るも無残な姿です。
丈は直せますが、バストの幅は直せません。
脇で出せたとしても、全体のラインは崩れます。

対処の方法としては3通りあります。
まず1つは、日本規格以外のもので自分に合うもの方法。
外国のブランドは、日本の規格とは違いますから、サイズのバランスも変わってきます。
探していけば、自分の体型に合うバランスのブランドがあるかもしれません。
ただ、外国製品で注意しなければならないのは、製品によってサイズ感が大きく違うということです。
このブラウスで40はよくても、ドレスの40はだめであるとか、
また、去年はよかったけれども、今年はだめなどあります。
必ず試着して、サイズ感を確認してから買うようにしてください。

次は、バスト寸法があいまいなデザインのものを選ぶ方法です。
服のでき上がり寸法のチェックは、ボディ(フランス語だとトルソー)に着せて行います。
そのとき、ダーツやダーツ分をとるための切り替え線のゆるみが多すぎると、はねられることになります。
しかし、胸のあたりがタック、ドレープ、ギャザー、プリーツの場合は、ゆるみはそのまま認められます。
日本のサイズ規格のもので選ぶとしたら、ダーツ、パネル切り替えのものは避け、違う方法で胸のダーツ処理をしているものを選べばいいわけです。
そして、それがタック、ドレープ、ギャザー、プリーツということになります。
もちろん、最近は、シルエット全体がゆるくなってきていますので、そういったビッグシルエットのものを選ぶという方法もあります。

そして最後ですが、これは既製服はあきらめて、オーダーで服を作る方法。
こうすれば、身体にフィットした、胸によって全体が崩れることのない服はできますが、値段が高い、パターンとセンスのいいオーダーのお店がないなどが難点でしょう。

胸が大きいほうがいいとか悪いとか、
また、胸が小さいほうがいいとか悪いとかいう価値観は、どれも絶対的なものではなく、相対的なものです。
地域、文化圏、そして個人の嗜好によって大きく異なってきます。
だから、どちらがいいかでもめるのは意味がありません。
大体、自分の胸の大きさなど、自分で決めて作ったものではないでしょう。
そして、手術でもしない限り、自分で変化させられるものでもありません。
それは、私たちのコントロールの外にあるものです。
コントロールできないものについて、いい、悪いと決めつけるなど愚かなこと。
受け入れること、認めること、それ以外できません。

残念ながら、既製服の世界では、大きい胸は受け入れられませんでした。
だからといって、落ち込む必要はありません。
小さいほうがいいという言う人も、大きいほうがいいと言う人も、
その価値観に縛られた、囚われた不自由な人たちです。
その人たちはいわば、目がふさがれていて、個々の美しさというものが見えない、哀れな存在です。
そんな人たちの言うことは聞く必要がありません。
美しさというものは、そんな人たちには負けません。
美しさとは、言葉をこえた音であり、目には見えない消えない光であり、神様がくれた力です。
そしてそれは、最後にいつも勝つものです。








2014年3月10日月曜日

記号化されたアクセサリーにさよならを

実際のところ、アパレルの、特に作る現場では、「アクセサリー」という総称的な用語はほとんど使われません。
それらは、マフラーであり、ネックレスであり、ジュエリーであり、帽子であり、手袋です。
たぶん、「アクセサリー」という総称は、それを売る側、またはスタイリングする側の立場からの呼び方であり、くくり方ではないかと思います。
たとえば、デパートのアクセサリー売り場のような。
ですから、洋服を作る側にいた私も、あまりアクセサリーという言葉は使いません。
何かを指し示すなら、その具体的な名前、もしくは「小物」などと呼んでいます。

さて、それについてはいいとして。
ファッションにおいて、おしゃれに見えるためのポイントとして、
新しいもの、珍しいもの、オリジナルなものなどが挙げられます。
これらはどれも、多くの人が見たことがないもの、知らないものという意味です。

多くの人が見たことがないもの、知られないものは、
新鮮な印象や驚きを見るものに与えます。
その新鮮さや驚きが、それを身につける人自身に反映され、
おしゃれに見えるのです。

となれば、この総称としての「アクセサリー」も同じように、
見る側におしゃれな印象を与えなければいけません。
特に、服自体がシンプルであればあるほど、
アクセサリーという差異を表現する言語は、重要になってきます。

しかし、ここでジレンマがあります。
というのも、最近の装飾品の多くが、すでに情報として流通していて、
記号化されてしまっているものが多いのです。
どういうことかというと、
誰が見てもわかる、どこどこの指輪、あそこのロゴのついたキーホルダーなど、
アクセサリー自体が、そのものの表現ではなく、
それ以外の部分の情報をくっつけて存在しているからです。

ロゴやブランドタグの流行がいつから始まったか、定かではありませんが、
60年代のファッションを見ると、まだまだ今のようなはっきりとしたロゴは見られないので、
きっとそのあとからでしょう。
それまで、ブランドタグやロゴがなかったわけではありませんが、
もっとつつましやかで、着る主体より目立つなどということは、ありませんでした。

ロゴやブランドタグが目立つこと、
そしてそれが情報として流通することにより、
アクセサリーは記号化され、それを身につけていれば、
その情報を同時に運ぶことになり、見る側がその情報について知っている場合には、
すぐさまそこで消費されることになります。
そのときに行われる、人と人のあいだの情報交換は、
その人自身のパーソナリティを示すためのものではなく、
社会に流通しているブランド情報の値踏みとなります。
それは、身につけている人自身を強化することはなく、
素早く消費され、そこだけを強く印象に残します。

この一連の作業が行われるならば、
もうそこには新しさも珍しさも、
そして何よりその人のオリジナリティはありません。
しかも、その情報の消費はあまりに素早いので、すぐに次の情報を持たなければならないはめになります。
モノとしての寿命より、消費としての寿命を速めること、
そして、その情報がもはや古いものだと追いたてることによって、
ファッション業界は、大量生産、そして大量消費を促すことに成功しました。

ここから抜け出し、本当の意味でおしゃれ、つまりその人がオリジナルに見えるためには、記号化されたアクセサリーに別れを告げなければなりません。

しかし、多くのアクセサリーにブランドタグやロゴがあり、
実際に、100パーセント、そこを遠ざけるのは難しいのが現状です。
ここで、おしゃれと呼ばれる人たちは、2つの方向にわかれました。
1つは、情報としてどんどん消費し、次のシーズンはもう持たないという方向のもの、
そして、もう1つは、情報として消費されないように、少数しか生産されていないもの、誰もが知らないものを探して持つものです。
前者は主にファッション・スナップで撮られるようなファッション業界の関係者、
後者は、ファッション業界とは関係のない、ごく一般のおしゃれな人たちです。

ファッション業界の関係者でもない限り、情報としてどんどん消費し、
それに追いついていく必要など、ありません。
ですから、私たちが選ぶべきは、後者のほうになります。

「アクセサリー」は、その人のオリジナリティを表現するために用いるものです。
形、色、シンボルなど、総動員して、その人を表現するものでなければなりません。
それが、電車に乗ったら同じものをみんなしていた、では困るのです。

それぞれが違う個性の持ち主ですから、
方程式はありません。
それぞれが、それぞれに考えて、組み立てていくものです。
そこにたどりつくのは簡単ではないかもしれません。

また、それは自分を見つける作業に似ています。
なぜならそれは、一つずつ、あなたが周囲によってなされた「記号化されたあなた」から、
抜け出す行為だからです。
周囲によってはられたラベルを一枚ずつはがし、
新たに自分は何者かを見つけていく、その道程と同じです。
あなたを不自由にしていた不必要なラベルをはがし、そして本当の自分へと近づいていきます。
それは、自分だけのオリジナルなアクセサリーを集めていく作業と同じです。

アクセサリーの語源は「共犯者」です。
どうせ選ぶなら、あなたを消費尽くして消耗させない、
協力的な共犯者を選びましょう。
誰も知らないその共犯者は、
どこかできっとあなたに出会うのを待っているはずです。
こちらが探しに出かければ、必ず出会えます。
それはきっと、素敵な共犯者に違いありません。











2014年3月3日月曜日

流行の取り入れ方

誰が何と言おうとも、ファッションには流行があります。
ターシャ・チューダーのように、すべてを自分で手作りにでもしない限り、
それに逆らって生きることは不可能です。
時代の気分というのは変わっていくものですから、
当たり前と言えば、当たり前です。

ただ同時に、服そのもののモノとしての寿命と、
流行の変化の速さは一致しません。
流行の変化のサイクルは、モノとしての寿命よりはるかに早く、
常に流行を追いかけようとすれば、
モノとしての寿命を待つ前に、手放さなければならないことになります。
そのギャップに葛藤が生まれます。

服はモノなので、古びれ、壊れます。
生地は破れ、ウールは虫に食われます。
洗濯により生地は傷み、汗により黄ばみます。
モノとしての服にとっては、明らかにもうこれ以上、着られないという時期がやってきます。
しかし、欲望をあおり消費させる経済にさらされていると、
その時期が来るまで待てません。

また、あおる経済は、多くを持つことをよしとします。
あれやこれやをたくさん持っているということが、相変わらず自慢のタネとなります。
これは単に1つの価値観にすぎないのですが、
あたかもそれが当たり前のように多くの人が信じ込まされています。


新しいものを、数多く持つことが推奨される社会の中にいて、
冷静にモノと自分の関係を判断するためには、
一歩、離れて、より客観的な視点が必要となります。
中心にいては見えません。

追いかけても追いかけてもすぐ離される流行の速さに追いつこうとして、
たくさんのものを抱え込み、
壊れないため捨てるに捨てられず、
逆にそのモノに支配され、身動きできなくなっているのが現状ではないかと思います。
一人暮らしの狭いマンションで、
一体どれだけのスペースを服のために割いているのでしょう?
そして、その服は、本当にいつも着ているのでしょうか。

今まで私が皆さんのワードローブを拝見して、お話を聞いてきたところ、
およそ8割から7割のものは、1年に二、三回着るか着ないかのものでした。
つまり、実稼働しているのは2割です。
これは別に誰かから指摘されなくても、自分で見てみればわかることです。
ほとんど着ないような服に埋もれて、自由に動けなくなる前に、
考え方を少し変えてみてはいかがでしょう。

理想的なのは、服がモノとしての寿命が終わった段階で、
そのときに新しさ、つまり、流行を取り入れるといったやり方です。
服の寿命とは耐用年数ではなくて、
着用回数によるものなので、ある一定以上、着用したならば、
モノとしての限界に達します。
そこで手放すことは、罪なことではありません。

服をたくさん持てば持つほど、1着当たりの着用回数は減っていきます。
よって、それらはなかなかモノとしての限界に達しません。
100色の色鉛筆をセットで買っても、なかなか全体が減っていきませんが、
20色のセットだったら、5倍の速さで減っていきます。
そして、案外すべての表現は20色でもできるのです。

着用回数や洗濯回数が多いものは早く劣化しますから、
そこに新しい流行を取り入れることは可能です。
逆に、着用回数や洗濯回数が少ないものは、
なかなか劣化しないわけですから、それを流行りのものにすると、
リスクが生じます。
ワードローブ全体を着用回数、洗濯回数が多いものとそうでないものに分けて考えて、
全体のワードローブを計画すれば、
流行を取り入れつつ、無駄に捨てない、無駄にふやさないワードローブの構築はできます。

具体的に言うと、洗濯回数の多い夏物はすぐにモノとしての限界に達するので、
流行を取り入れやすいと言えます。
逆に、洗濯回数の少ない冬物は、なかなか傷みませんから、
流行を取り入れにくいものです。
これは基本的なルールなので、もちろん例外はあります。


新しいものをたくさん持つことはいいことだというのは、1つの考え方に過ぎません。
相手は感情をあおってきます。
気分を高揚させようとします。
お買い物のとき、多少なりともテンションは上がります。
しかし、その上がったテンションはすぐに下がります。
その虚しさは、誰もが多少なりとも経験していると思います。
それを避けるためには、
そのシステムから一歩出て、
客観性を獲得し、自分なりの価値観を持つことです。

断言できますが、服をたくさん持っていれば、おしゃれに見えるということはありません。
おしゃれというのは、知的な行為であり、
気まぐれで、そのとき限りのインスタントなハッピーとは違うのです。

あちこちに張り巡らされている罠から抜け出さなければなりません。
詐欺師はそこらじゅうにいます。
テレビや雑誌が教えてくれるインスタントなハッピーなんかで満足しないで、
永遠のハッピーを見つけましょう。
それは他人が与えてくれるものではありません。
それを見つけられるのは自分だけ。
そして、それがあるのも、自分の中だけなのです。



2014年2月24日月曜日

失敗を恐れず、色と柄を選べ!

それぞれの時代にはそれぞれの気分があります。
ファッションの変遷は、その気分の変遷でもあります。
すぐれたデザイナーたちは、その気分をデザインに反映させます。
そして、これが重要なことなのですが、
その気分は多くのデザイナーに共有されたものなのです。
それは示し合わせたわけではありませんが、必ず一致します。
なぜなら、その気分は人類の集合的無意識を静かに流れているからです。
その深い淵まで届く能力を持つものが、すぐれたデザイナーと呼ばれます。

さて、2012年に始まった新しいファッションの流れの中で、
女性性が再評価され、無駄なもの、非効率的だと思われていた装飾が戻ってきました。
その装飾は、最初、生地においてあらわれました。
フリル、プリーツ、ドレープ、フレアなど、ふんだんに生地を使った装飾が、
ミニマムなスカートやドレスを一掃しました。
そして、これら生地による過剰な装飾がひととおり試された後、
あらわれたのは色と柄でした。

2012年の前の約14年、服がタイトになったのとあわせて、
柄物は不利になりました。
なぜなら、小さな面積に大きな柄がのらないからです。
そのため、これまで多くあったのは小花であり、細かなチェックとストライプでした。
しかし、服のシルエットが大きくなり、服の上にはどんな大きな柄でも、
途切れることなくのるようになりました。
いわば、服は絵をのせるキャンバスになったのです。
服がキャンバスだと認識した、時代の気分を先読みするデザイナーたちは、
その上にさまざまな柄や絵を描くことを提案するようになりました。
こうして、図柄やロゴ、絵はTシャツの上だけではなく、
ドレス、コート、ジャケット、スカートなど、どんなアイテムにも描かれるようになったのです。

服はキャンバス同然になったのですから、一色に塗りつぶされることはありません。
そこでは、ありとあらゆる色の組み合わせが試されます。

長いあいだ、シンプルで、装飾のないスタイルになれてしまった私たちは、
色と色をあわせる技術、柄を取り入れる技術を磨いてきませんでした。
その人がおしゃれに見えるかどうかの大きなポイントは色遣いなのですが、
黒一色のコーディネイトの流行が長く続いたため、私たちは、色遣いについてはあまり注意を払ってきませんでした。
しかし、もうそんなことは言っていられません。
色と柄の大きな流れはすぐそこまできています。

実際のところ、色を見分ける目を持っている人はとても少ないです。
この色とあの色が合うかどうかは、訓練をしている目ではないと、判断しづらいのです。
残念ながら、インスタントな近道はありません。
日々、すぐれた色合いを見て、見分ける目を養うしかありません。

幸いなことに、日本人は長い年月をかけて、柄と柄、色と色を複雑に合わせる着物の文化を育ててきました。
着物の柄と色の組み合わせは、洋服のそれとは違って、独特の美意識を持っています。
洋服ではあり得ない柄あわせ、色の組み合わせの世界がそこにはあります。
私たちは、その感性を再び思い出し、使えばいいのです。

そのためにも、まずは自分の好きな色から、色を見分ける訓練、組み合わせる訓練を始めましょう。
気に入った柄があったら、とっておいて、その色の構成を分析しましょう。
絵画を見に行きましょう。
美しいテキスタイルに触れましょう。
自然の中の、はっとするような美しい色の組み合わせを目に記憶させましょう。
探そうと思えば、お手本はいたるところに見つかります。

そして、それがある程度できるようになったら、
今度はそれを生地に置き換えてみましょう。
紙の上で表現された色と、生地の上で質感を伴った色とでは、ニュアンスが変わってきます。
色と素材感があわさったとき、色はどんなふうに変わるのか、観察しましょう。
そして最後に実際に自分のワードローブに大胆な色や柄を取り入れましょう。
最初にお勧めなのは、1枚でコーディネートが完成する夏のワンピースやオールインワン、
または、面積が小さいバッグやスカーフなどの小物です。


柄と柄、そして多色使いは難易度の高いおしゃれです。
そう簡単に誰でもできるものではありません。
しかし、だからといって、やってできないものではありません。
やってもみないうちから、できないと言ってあきらめないでください。
失敗を予想して、やってもみないうちからあれこれ言うよりは、
やってみて失敗したほうが、数千倍いいのです。
やってもみないであれこれ批判を言う観客より、
堂々と舞台の上で失敗する主役を選びましょう。
何が成功で幸せかを、観客に判断させる必要など、微塵もありません。

私が提案するのは「主人公のためのワードローブ」です。
人生の主人公は失敗を恐れません。
なぜなら、失敗の先にこそ、本当の意味での幸せと成功が待っていると、
知っているからです。
失敗など、成功の前にあらわれる、単なる短いエピソード。
物語の本当に楽しいところは、そのあとから始まるのです。

2014年2月17日月曜日

大人のリュックから考えるファッションの法則

リュックサック、またはバックパック、呼び方は何でもいいのですが、
これらは今まであまりファッショナブルではありませんでした。
もともとが登山やハイキング用のものであり、
また、形によっては子供のランドセルのようでもあり、
決して、いい年の大人がファッションのために背負うものとは考えられていませんでした。
しかし、この考え方は今、覆されつつあります。

ファッションの世界は、決して固定的なものではありません。
そして、いつでも目新しいものを探しています。
ものの価値と意味は、常に流動的であり、
それは時代によって変化していきます。

特に新しさや変化を好むため、常にそれまで使われていなかった形やデザインを探しています。
近年では、そのアイデアソースは、おもにスポーツ・ウエアやワーク・ウエアからとられてきました。
パーカーや、スウェット・パンツのおしゃれ着への昇華はそのいい例です。
どこかにすでに存在していて、でもそれはおしゃれなものとは認められていなくても、誰かが、これがおしゃれなのだと宣言してしまえば、
(しかしこの誰かとはおおくの場合、権威のある立場のものなわけですが)
それはそのときからファッショナブルなのです。

リュックサックはもちろん昔からありましたが、
なかなかそれはファッショナブルであるとは認定されないできました。
リュックサックはあくまで旅行者のものであり、どうしても手をあかせた状態で歩きたいときの、
非常のための、あまりおしゃれとは関係のないものを入れる袋だったわけです。
リュックサックは、両手があく、しかも片方の肩だけに重さをかけなくていいという利点があるにもかかわらず、なかなか日の目を見ない存在でした。
しかし、ここへきて、少し流れが変わってきました。

2014年春夏のシャネルのコレクションで、堂々とリュックサックは発表されました。
形に目新しいところはありませんが、シャネルのロゴと装飾に工夫が施されています。
そして、2014年のマルベリーのカーラ・デルヴィーニュのコレクションでも、
3ウェイ・バッグとして、背中にしょえる形のバッグが提案されました。
さて、もうこれで十分です。
条件は満たされました。
リュックサックは、ここからファッショナブルな存在になりました。
そして、これがファッションの法則です。

つまり、それまでどんなに、これはファッショナブルではないと言われていた、思われていたものでも、どこかのビッグ・メゾンが、今日からこれはおしゃれですと言ってしまえば、全くそれはそうなるのです。
どんなにそれまで奇妙だと思われるスタイルでも、認められれば、それはそのときからファッションです。
ただし、もちろん、これらがそこらの量販店で売っているようなクオリティなわけではありません。
それなりの素材、質、施された工夫など、レベルアップされています。
それと同時に、ファッショナブルだという宣言がなされれば、そのときからもう誰も文句は言いません。

誰もが、大人だからといって、シャネルのリュックサックを買えるわけではありません。
しかし、もし大人がリュックサックを選択するのだとしたら、作りや素材のすぐれたもの、品質のいいものを選ぶ必要があります。
チープなものは、やはりそこら辺へのピクニック用です。
しっかりとデザインされているもの、さもなくば、本格的な登山用のもので、街で背負ってもシックに見えるような色や形を選ぶのがいいのではないかと思います。

今までの価値観を覆すのがファッションです。
それは決して固くはありません。
10年前はおかしかったものが、今ではおしゃれと呼ばれます。
そうなったものは今までたくさんありましたし、これからもまだまだ出てくるでしょう。
それを選ぶか選ばないかの権利はそれぞれが持っていますが、
否定するのでしたら、もうおしゃれではないのです。
固まった、カチカチの考え方はもっとも嫌われます。
なぜなら、そこからは創造も工夫も新しさも生まれないからです。

リュックサックはもうファッショナブルであると認められました。
両手をフリーにして、堂々と歩きましょう。
そんなのおしゃれじゃないと言う人がいたら、そんな人のことは放っておきましょう。
人生は経験です。
文句を言っているだけで動かない人よりも、
やってしまった人のほうがはるかに魅力的なのは明らかです。



2014年2月3日月曜日

季節感の新しい取り入れ方

最近のファッションは春夏、秋冬と、2つのシーズンでくくられることが多くなりましたが、
90年代までは、春、夏、秋、冬と、シーズンごとに着るものを変えていました。
特に、日本の風土は四季がはっきりしており、
季節にあわせて着るものを変えるということは、
気候に合った行為であり、無理がありませんでした。

ところが、ここ数年、気温という意味で、夏と冬がとても長くなり、
それに比例して、夏物と冬物を着る期間が長くなりました。
長いものだと、5カ月ぐらいは同じものを着ることになります。

季節感を出すということは、おしゃれに見えるかどうかを左右する1つの要素です。
しかし、ここのところ暑さ寒さをしのぐための衣服という衣服の大前提がまさって、
どんな伊達でも、薄着をするわけにはいかなくなりました。
その結果、ファッションは退屈さを増しました。

ファッションは、「同じである」ということを嫌います。
誰かと同じであったり、
子供からお年寄りまで同じであったり、
5月と10月で同じであったりすればするほど、
おしゃれには見えません。
平均化は、世代や日常と非日常だけではなく、1年を通した季節でも進んでいますが、
それでは面白くないのです。

ただ、実際に暑かったり、寒かったりするのもまた事実。
これを無視した形で、服を選ぶことはできません。
我慢にも限界があります。
気温がこのように変化してしまった結果、
昔と同じ考え方で、季節感をあらわすことはできなくなりました。
まず、そのことを認めるべきでしょう。

ではどうするか。
ここからは、新しい考え方が必要です。

衣服において、季節によって変えてきたものは主に素材でした。
夏には麻を、冬には羊毛を、それがシーズンの変化をあらわしました。
つまり、気温の変化に対応する素材を変えることによって、
季節感を出していたのです。
しかし、今、それは通用しなくなりました。
残されたのは色とシルエットです。

シルエット、たとえば長袖と半袖などは、案外、季節感をあらわさないものです。
リトルブラックドレスはノースリーブのものが多いですが、
だからといって、真夏だけに着るものではありません。
また、ジャケットは長袖が多いですが、夏に着ないわけでもありません。
シルエットは、季節を表現するための要素とはなり得ません。

残るは色です。
実は、色こそが、季節をあらわす最もふさわしいものです。
なぜなら、季節の移り変わりとは、
光の変化にほかならないからです。
太陽の角度によって変わっていく光の明るさ、きらめき、陰影を、
はっきりと映し出すのは色なのです。

また、素材は近づかなければ認識できない性質のものですが、
色は、近づかなくても一瞬で識別できる、いわば服の第一印象です。
私たちの視覚は、光の加減と色から季節を認識します。


素材で季節を表現できなくなった今、色で表現するのが賢い方法だと思います。
しかも、それは誰にでも、簡単にできる方法です。
簡単に言えば、夏は色の明るさをピークに、冬は暗さをピークに持っていきます。
そして、そのピークを少しずつ前へずらしてもってくれば、より効果的になります。
なぜなら、季節の先取りはいつでもおしゃれに見えるからです。
それは新しさや珍しさを人々に印象づけます。

具体的にどうするか。
たとえば、真冬から春に移る季節では、
自分のいつも着ている色を明るいほうへもっていきます。
もしネイビーが自分のメインの色だったとしたら、
それをグラデーションさせて、明るくしていけばいいのです。
つまり、水色を全体の中に入れればよいということです。
ストールや帽子、バッグなどの小物だけでもいいですし、
よりおしゃれ感を出したいのなら、素材はウールだとしても、水色のコートを選ぶとよいでしょう。
そのようにすれば、暖かさと季節感、両方を表現することができます。

夏から秋へ向かう時期でしたら、
この逆です。
水色だったものを一気にネイビーにもっていきます。
小物が薄い茶色だったら、ダーク・ブラウンに変化させます。
その場合、素材はコットンでもいいわけです。
素材とシルエットは変えずに、色だけで季節を先取りしていくというやり方は、
これからもっと提案されていくのではないかと思います。

これら、色によっては難しいものもあるかもしれません。
特に、夏のグレーは少ないので、必ずしもグラデーションだけでうまくいかないでしょう。
その場合は、さし色として春だったら明るい色、秋だったら暗い色を投入していけばいいと思います。

平均化、同一化は、実は楽なやり方です。
誰かと同じ、季節が変わっても同じというのは、
工夫も努力も考える必要もありません。
しかし、楽なほうへいけばいくほど、人生は退屈となり、
自分が主人公であるという感覚からは遠ざかります。
楽であることが、面白いことではないのです。
楽だけなものを、うらやましがることはありません。

せっかく四季のある国に住んでいるのですから、
それを楽しみましょう。
季節によって、服を変えていきましょう。
冬には冬の、春には春の、
主人公にふさわしい舞台が、きっと待っているはずですから。






2014年1月27日月曜日

Tシルエット

2012年以降のシルエットの変化に伴って、
服そのものの構造が変化してきています。
最初にその片鱗が見られたのが、貫頭衣、つまり、四角い布に頭を通す部分だけあけたような、
原始的なスタイルでした。
貫頭衣は、衣服の原初的な形ですから、その後に待っているのは、
進化の過程です。

ここへきて、コート、ジャケットなどを含むトップスに、
Tシルエットという、Tの字のような肩線のシルエットのアイテムが多くなってきました。
平らなところへ置いてみるとわかりますが、
肩線は直線、またはなだらかな傾斜で、
肩幅は実際の身体の肩よりかなり広く(たぶん10センチぐらい)、
袖は腕の途中から始まります。
当然、体にはタイトにフィットしません。
その大き目の肩幅のものを、
ふわりと羽織るスタイルが多く出てきました。
特に春夏物においては、大き目のTシャツやドレスなど、
かなりこのスタイルが見られます。

新しく提案されたものは、いつでも最初、粗野な形のままあらわれます。
新しくはあるけれど、まだまだ洗練されてはいません。
その新しさがある程度、浸透していったそのあとは、
洗練への道が始まります。
今はその洗練が始まったばかりの時期に該当します。

思い起こせば、いつでもこのことは繰り返されてきました。
80年代の黒く四角いビッグシルエットのときも、
2000年頃に、いきなりタイトなシルエットがあらわれたときも。
最初のデザイン、そしてスタイルは、大胆ではあるけれども、どれも荒削りです。
そして、それは時間をかけて成熟していきます。
成熟したその後は、だんだん飽きてきて、
無理をしながらの維持と、惰性と、まやかしが横行します。
もうそうなったら、流行は終わりです。

その渦中にいると、このことはわかりません。
そして、受け身なだけの視点でも、そのことには気づきません。
なぜ今これが流行っているのか、
そしてその流れはどこへいくのか把握しなくては、
そのとき起きていることの本当の意味を知ることはできません。
ですから、選択するときには、一つ上の視点が必要です。

Tシルエットは、洗練への道の途上で出てきたシルエットです。
これはまだ、進化の過程です。
今、多くのデザイナーたちは、どうすればより洗練されるのか、
シックになるのか探っている最中です。
最終的な答えが出るのは、もう少し先のことでしょう。
Tシルエットは、この移行期のシルエットとして、楽しむことができます。
逆に言えば、シルエットとしての完成型ではないので、
定番や、永遠性とは遠いということです。

この流れの中で、どんな完成型のシルエットが出てくるのかは、
まだ誰にもわかりません。
案外、そんなものなど、ないのかもしれません。

ファッションは、時代と過去からの伝統だけでできているわけではなく、
人間の肉体抜きでは作れません。
どんなにシルエットを変えようとしても、
人間の体からは逃れられません。

Tシルエットの行き先をながめつつ、
自分に必要なものを選びましょう。
それは永遠に続くものではありません。
今だけの楽しい遊びかもしれません。
与えられた流行の波に流されるのではなく、
こちらから、その波に乗るか、乗らないかは自分で決められます。
視点を上に持てば、それは、できるはずです。