本当は、意味なく英語を使いたくないのですが、
日本語の女子学生も、女子高生も、女子大生も、
スクールガールの持つニュアンスとは、少し違う感じがします。
ここのところ流行ってきているのは、
女子高生風でも、女子大生風でもなく、
スクールガール・ルックです。
スウエット・シャツ、スタジアム・ジャンパー、ボタンダウンシャツ、
プリーツ・スカート、アーガイル柄のプルオーバー、
テニスのときに着るようなチルデン・セーターなど、
今までは決してモードと言われるようなものではなかったものが、
なぜかこの時期、モードの流れの中に出てきました。
これらのアイテムは、以前、プレッピー・スタイルやアイビー・ルックなどと呼ばれた、
アメリカのお金持ちの高校生や大学生のスタイルに必須のアイテムでした。
日本でも、70年代、80年代の高校生や大学生は、
割と好んでこのスタイルを取り入れていたと思います。
そのころに高校生や大学生だった方たちは、
スウェット・シャツもスタジアム・ジャンパーも、学校へ行くための、
特別おしゃれではない、ごくごく普通の普段着として着ていたのではないでしょうか。
そのころ、スウエット・シャツもスタジアム・ジャンパーも着ていたのは若者だけでした。
決していい年の大人が、キャラクターやロゴの入ったスウェット・シャツを得意げに着て、
街を歩くなどということは、ありませんでした。
もし、それをやったとしたら、「この人、子供の服を借りてきたのかしら?」と、
思われたことだろうと思います。
ボタンダウンのシャツを着ているお母さんなど、想像できなかったことでしょう。
また、モードのほうでも、これらをしっかり取り入れていたのは、いわゆるトラッドのブランドだけ。
ラルフ・ローレンやブルックス・ブラザースなど、
トラッドのブランドには常にボタンダウンのシャツもチルデン・セーターもありました。
けれども、さすがにキャラクター入りのスウェット・シャツなどは、
あったとしても、大人のものではなかったと思います。
それはあくまで学生のための衣服だったのです。
ファッションは、いつでも目新しいものを探しています。
しかし、いくら目新しいとは言っても、衣服の形には限界があります。
全く新しい衣服の発明などというものは、ほとんどありません。
ですから、常に行われているのは、以前あったものの新しい解釈です。
既にあったものの意味を解体して、構成し直し、
そこに新しい意味を加えることによって、それが新たなファッションとなります。
常にもう出尽くした感があるファッションの流行ですが、
それでも誰かが何かを見つけてきます。
それが今回は、このスクールガールのようなスタイルだったのです。
スウエット・シャツは、ケンゾーの派手なロゴ入りなものや、
ジバンシーの、あのアヴァンギャルドなバンビの絵柄により、
新しい意味を加えられました。
もうここからは、モードなのです。
さて、モードとなって新しく生まれ変わったスクールガール・スタイルですが、
大人であれば、それをそのまま取り入れてはいけません。
そんなことをすれば、それは、主婦がある朝目覚めたら女子高生になっていたという、
よくあるドラマのように、コメディになってしまいます。
自分が学生だったころのようなコーディネイトをしては、決していけないのです。
これらのアイテムを大人が取り入れるとしたら、
昔と同じ感覚でコーディネイトしないことが鉄則です。
スウェット・シャツの上からスタジアム・ジャンパーを羽織り、
フラットなローファーをはいたら、それは単なる時間が逆戻りしただけ。
そうでなくて、現在の新しい解釈で、昔とは違うアイテムと考えて取り入れるのです。
たとえばそれは、スウェット・シャツにダイヤモンドとピンヒール、
ひざ上丈のタータンチェックのプリーツスカートにはニーハイブーツ、
スタジアム・ジャンパーに黒い革のタイトスカートなど、
学生時代には決してすることがなかった組み合わせで全体をコーディネイトします。
アイテムは「LIKE A SCHOOL GIRL」であったとしても、
着こなしは「NOT LIKE A SCHOOL GIRL」にします。
学生ではないのですから、徹底的に学生気分を抜いていきます。
そのかわりに、学生とは無縁のセクシーやラグジュアリーを付け足します。
もうすでにこれらは学校へ行くための服ではなく、
流行を楽しむためのアイテムだからです。
流行は繰り返されますが、
それは決して以前と同じではありません。
らせん状に回転して、常に発展へと向かいます。
決して下降はしません。
昔と同じアイテムを、昔と同じように、同じ気分で着たならば、
そこに成長の跡は見られません。
あのとき口ずさんだあの歌も、もう同じようには歌いません。
同じ本を読んだとしても、同じ感想は持ちません。
そこには必ず深い理解や解釈があるはずです。
同じものだから飽きたと言うのなら、
それは自分自身が成長していない証拠です。
きのうと今日は違います。
同じ服を同じように着ることなど、決してできません。
今日の気分、今日の日差し、今日の気温、今日の言葉、
今日会った人、今日見た海の色、
これらすべて、昔とは、そしてきのうとは違うものです。
同じものを着たとしても、常にそこに新しい解釈を加えていく、
決して後戻りしない、
それがおしゃれです。
おしゃとは、決して止まらず、常に変化し、成長し続けていくものなのです。
2013年10月28日月曜日
2013年10月21日月曜日
「隙」を作る
はずし、
抜け感、
100パーセント同じにしない、
完璧にしないなど、
今まで個別に取り上げてきました。
それらが作り上げるのは、いわば、コーディネイト全体の中の「隙」です。
この「隙」は何のために作るかというと、その人を魅力的に見せるためです。
おしゃれであるとは、魅力的であるということです。
魅力的であるとは、引きつけられるということです。
その引きつける力を人為的に作るために、
「隙」に関するいろいろなテクニックが用いられます。
人に「隙」がないと、まず他人は近づけません。
防御的です。
だから、戦うときはそれでいいのです。
戦うときは、「隙」など作ってはいけません。
誰にも文句を言わせない、一筋の乱れもない完璧なコーディネイトで、
他を圧倒し、威圧し、制すればよいのです。
誰にも文句のつけようがない、それこそ、誰もが知っているハイブランドが、
いかにもそれとわかるようにコーディネイトすればいいのです。
それは高飛車でしょう?
傲慢でしょう?
だから完璧でしょう?
だけど、それでは魅力はないでしょう?
魅力というのは、ハチが花に引きつけられるように、
何もしなくても、自然と向こうから寄ってくる力です。
それをわざと作るために、おしゃれ上級者たちは、
いろいろな「隙」に関するテクニックを編み出しました。
シャネルのジャケットに穴あきジーンズをあわせてみたり、
完璧なドレス姿なのに黒ぶち眼鏡をかけてみたり、
シフォンのスカートにバイカーブーツをはいたり、
まだ寒いのに、素足にパンプスをはいてみたり、
ニットの帽子だけ自分で編んだものだったり、
エルメスのバーキンにロックなステッカーを貼ってみたり、
スウェットシャツの絵柄がバンビだったり、
ダイヤモンドなのにキティちゃんだったり、
とにかくずらすのです。
完璧から逃げるのです。
完璧にしては、だめなのです!
「隙」を見たら、相手はなぜそこだけそうなんだろうと疑問を持ちます。
そこから会話が生まれます。
話がはずみます。
はずんだ会話から笑い声が生まれます。
笑い声からドラマが始まります。
そして、そのドラマは続いていくのです。
完璧コーディネイトで武装した、無愛想な女の人が仁王立ちするその隣で、
ちょっと変てこりんで、いかれたプリントのTシャツの、
かわいくて、話しかける隙のある女の人が、
笑顔で、今にもダンスしそうな勢いです。
そうやって、踊るぐらい楽しい瞬間を自分で作っていくのです。
そんな経験を作るきっかけとして、「隙」はあります。
この「隙」は、たまたまそうなったものではありません。
あくまで完璧を知っていながら、わざと崩すものです。
いつも適当にコーディネイトしているからめちゃめちゃなのよ、という崩れ方とは違います。
そこで1つ何か入れたら完璧になってしまう、その最後の1ピースをわざと入れない方法です。
その「隙」の作り方は、人それぞれです。
それが魅力なのですから、みな同じというわけではありません。
ある人にとって、それは時計だったり、ある人にとっては帽子かもしれません。
あるいは靴やバッグでいつもはずすということもあるでしょう。
その「隙」の作り方の積み重ねが、その人の魅力となっていきます。
会話が生まれないファッションなんて、退屈です。
鏡の前で仁王立ちしていても、どこへもたどり着けません。
どこに「隙」を作るか、どこで引きつけるか、考えてみましょう。
それはブランドのロゴよりも、強力な力です。
だって、誰かの相手のお財布にシャネルのロゴがあったとしても、
話しかけないでしょう?
物語は作るのです。
待っていても始まりません。
毎日が退屈ならば、自分で作りましょう。
あなたが仕掛ければ、まわりは動き始めます。
まわりが動き始めれば、現実が変わっていきます。
そうすれば、退屈な人生とはさようならです。
自分が主人公の物語は、そのときから始まります。
すべてこの世は舞台なのですから、それは可能です。
抜け感、
100パーセント同じにしない、
完璧にしないなど、
今まで個別に取り上げてきました。
それらが作り上げるのは、いわば、コーディネイト全体の中の「隙」です。
この「隙」は何のために作るかというと、その人を魅力的に見せるためです。
おしゃれであるとは、魅力的であるということです。
魅力的であるとは、引きつけられるということです。
その引きつける力を人為的に作るために、
「隙」に関するいろいろなテクニックが用いられます。
人に「隙」がないと、まず他人は近づけません。
防御的です。
だから、戦うときはそれでいいのです。
戦うときは、「隙」など作ってはいけません。
誰にも文句を言わせない、一筋の乱れもない完璧なコーディネイトで、
他を圧倒し、威圧し、制すればよいのです。
誰にも文句のつけようがない、それこそ、誰もが知っているハイブランドが、
いかにもそれとわかるようにコーディネイトすればいいのです。
それは高飛車でしょう?
傲慢でしょう?
だから完璧でしょう?
だけど、それでは魅力はないでしょう?
魅力というのは、ハチが花に引きつけられるように、
何もしなくても、自然と向こうから寄ってくる力です。
それをわざと作るために、おしゃれ上級者たちは、
いろいろな「隙」に関するテクニックを編み出しました。
シャネルのジャケットに穴あきジーンズをあわせてみたり、
完璧なドレス姿なのに黒ぶち眼鏡をかけてみたり、
シフォンのスカートにバイカーブーツをはいたり、
まだ寒いのに、素足にパンプスをはいてみたり、
ニットの帽子だけ自分で編んだものだったり、
エルメスのバーキンにロックなステッカーを貼ってみたり、
スウェットシャツの絵柄がバンビだったり、
ダイヤモンドなのにキティちゃんだったり、
とにかくずらすのです。
完璧から逃げるのです。
完璧にしては、だめなのです!
「隙」を見たら、相手はなぜそこだけそうなんだろうと疑問を持ちます。
そこから会話が生まれます。
話がはずみます。
はずんだ会話から笑い声が生まれます。
笑い声からドラマが始まります。
そして、そのドラマは続いていくのです。
完璧コーディネイトで武装した、無愛想な女の人が仁王立ちするその隣で、
ちょっと変てこりんで、いかれたプリントのTシャツの、
かわいくて、話しかける隙のある女の人が、
笑顔で、今にもダンスしそうな勢いです。
そうやって、踊るぐらい楽しい瞬間を自分で作っていくのです。
そんな経験を作るきっかけとして、「隙」はあります。
この「隙」は、たまたまそうなったものではありません。
あくまで完璧を知っていながら、わざと崩すものです。
いつも適当にコーディネイトしているからめちゃめちゃなのよ、という崩れ方とは違います。
そこで1つ何か入れたら完璧になってしまう、その最後の1ピースをわざと入れない方法です。
その「隙」の作り方は、人それぞれです。
それが魅力なのですから、みな同じというわけではありません。
ある人にとって、それは時計だったり、ある人にとっては帽子かもしれません。
あるいは靴やバッグでいつもはずすということもあるでしょう。
その「隙」の作り方の積み重ねが、その人の魅力となっていきます。
会話が生まれないファッションなんて、退屈です。
鏡の前で仁王立ちしていても、どこへもたどり着けません。
どこに「隙」を作るか、どこで引きつけるか、考えてみましょう。
それはブランドのロゴよりも、強力な力です。
だって、誰かの相手のお財布にシャネルのロゴがあったとしても、
話しかけないでしょう?
物語は作るのです。
待っていても始まりません。
毎日が退屈ならば、自分で作りましょう。
あなたが仕掛ければ、まわりは動き始めます。
まわりが動き始めれば、現実が変わっていきます。
そうすれば、退屈な人生とはさようならです。
自分が主人公の物語は、そのときから始まります。
すべてこの世は舞台なのですから、それは可能です。
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おしゃれチップス
2013年10月14日月曜日
やわらかく壊していく
モードの流れが一気に変わる時期というものは、そうそうあるものではありません。
約14年に1度ほど。
しかも、それは直角の曲がり角ではなくて、
ゆるやかなカーブです。
しかし、そのカーブを曲がりきったら、
もう後ろは見えなくなります。
後ろが見えなくなるころ、それまでの流行は忘れ去られます。
モードの先端をいくブランドでは、
すべてのアイテムの構造をやわらかく壊していく動きが盛んです。
今まで重く固かったもの、
防御のために使われていたものが、すべてやわらかい素材に変換されていきます。
そして、それは大きな流れです。
何年か前、バーバリー・プローサムで発表された、
総レースのトレンチコートは、その走りだったと思います。
それまで誰もトレンチコートをレースで作ったことなどなかったのです。
なぜなら、戦闘服でもあるトレンチコートがレースで作られてしまったら、
機能しなくなるから。
レースで作った途端、身体を防御するという役目は奪われます。
機能や効率を奪うことで、すでにある価値観が壊されます。
レースのトレンチコートは、形だけはそのままではありますが、
もうすでにトレンチコートではないのです。
それは、優雅なレースの防御しないコートの形をしたドレスです。
この動きが今になって盛んになってきました。
今まであるものを、柔らかさが壊していきます。
服は、柔らかく、繊細で、壊れやすい素材で、次々に作り変えられていきます。
コートやジャケットはジョーゼットに、
ジャンパーはレースに、
ニットは、向こうが透けて見えるほど大きな網目に、
パンツはシルクサテンに、
今まで、しっかりとした形を持っていたものが、
さわるとほどけてしまいそうな、するすると抜け落ちていきそうな、
素材で作られます。
これはもちろんフェミニティの新しい表現の形です。
それまでの女性らしさは、どちらかというと形そのもので表現されてきました。
強調した胸や腰、
細いウエストなど、
女性の身体の曲線を強調、または逆に無視することで、
フェミニティは表現されてきました。
完全なる無視は、完全なる認識と同じです。
女性性を否定すれば否定するほど、女性性は追ってきます。
これからの流れは、そのどちらもとりません。
なぜなら、極端な女性性の強調も、完全なる否定も、
二極化を強めるだけだからです。
強めもせず、弱めもせず、浸食すること、
やわらかな力で壊していくこと、
ジェンダーの境界線をあいまいにしていくことが、今の流れです。
境界線をあいまいにすることにより、
服は、女性や男性であるということよりも、
より服を着る人そのものをあらわにしていきます。
もう隠れようがない、隠すことができないというのが、
これから主流になっていく服です。
隠されたものは、必ず表に出てきます。
嘘をついても、もう無理です。
服を着ている姿だけで、わかってしまいます。
「若さ」という隠れ蓑をかぶることができなくなったそのときに、
残っているのは何でしょう?
それは傲慢や怠慢?
それとも、思いやりや努力の跡?
どちらを選ぶかはご自由に。
その人が魅力的であるのか、そうでないのか、
それが判断基準です。
服がその人より前に立つことはできません。
忘れないでください。
服の魅力とその人自身の魅力とは、無関係です。
約14年に1度ほど。
しかも、それは直角の曲がり角ではなくて、
ゆるやかなカーブです。
しかし、そのカーブを曲がりきったら、
もう後ろは見えなくなります。
後ろが見えなくなるころ、それまでの流行は忘れ去られます。
モードの先端をいくブランドでは、
すべてのアイテムの構造をやわらかく壊していく動きが盛んです。
今まで重く固かったもの、
防御のために使われていたものが、すべてやわらかい素材に変換されていきます。
そして、それは大きな流れです。
何年か前、バーバリー・プローサムで発表された、
総レースのトレンチコートは、その走りだったと思います。
それまで誰もトレンチコートをレースで作ったことなどなかったのです。
なぜなら、戦闘服でもあるトレンチコートがレースで作られてしまったら、
機能しなくなるから。
レースで作った途端、身体を防御するという役目は奪われます。
機能や効率を奪うことで、すでにある価値観が壊されます。
レースのトレンチコートは、形だけはそのままではありますが、
もうすでにトレンチコートではないのです。
それは、優雅なレースの防御しないコートの形をしたドレスです。
この動きが今になって盛んになってきました。
今まであるものを、柔らかさが壊していきます。
服は、柔らかく、繊細で、壊れやすい素材で、次々に作り変えられていきます。
コートやジャケットはジョーゼットに、
ジャンパーはレースに、
ニットは、向こうが透けて見えるほど大きな網目に、
パンツはシルクサテンに、
今まで、しっかりとした形を持っていたものが、
さわるとほどけてしまいそうな、するすると抜け落ちていきそうな、
素材で作られます。
これはもちろんフェミニティの新しい表現の形です。
それまでの女性らしさは、どちらかというと形そのもので表現されてきました。
強調した胸や腰、
細いウエストなど、
女性の身体の曲線を強調、または逆に無視することで、
フェミニティは表現されてきました。
完全なる無視は、完全なる認識と同じです。
女性性を否定すれば否定するほど、女性性は追ってきます。
これからの流れは、そのどちらもとりません。
なぜなら、極端な女性性の強調も、完全なる否定も、
二極化を強めるだけだからです。
強めもせず、弱めもせず、浸食すること、
やわらかな力で壊していくこと、
ジェンダーの境界線をあいまいにしていくことが、今の流れです。
境界線をあいまいにすることにより、
服は、女性や男性であるということよりも、
より服を着る人そのものをあらわにしていきます。
もう隠れようがない、隠すことができないというのが、
これから主流になっていく服です。
隠されたものは、必ず表に出てきます。
嘘をついても、もう無理です。
服を着ている姿だけで、わかってしまいます。
「若さ」という隠れ蓑をかぶることができなくなったそのときに、
残っているのは何でしょう?
それは傲慢や怠慢?
それとも、思いやりや努力の跡?
どちらを選ぶかはご自由に。
その人が魅力的であるのか、そうでないのか、
それが判断基準です。
服がその人より前に立つことはできません。
忘れないでください。
服の魅力とその人自身の魅力とは、無関係です。
ラベル:
おしゃれチップス
2013年10月7日月曜日
1万円から2万円の甘い罠
みなさんのワードローブを実際に拝見して、一番多いのが、
この「1万円から2万円」で買ったと思われるアイテムです。
ファストファッションほど安くはない、
けれども、ずっと大事にするほど高くもない、
シンプルでもなく、
何か少しだけデザインがしてあり、
流行の要素が取り入れられている、
だけれども、品質がよいわけでもなく、
かといって、1シーズンで捨てるほど悪いわけでもなく、
ただ何となく存在しているような、
可もなく不可もなくといった洋服です。
私が察するに、これらの服というのは、
「会社の帰り、または、本気で服を買いに行く日でもない、
ちょっとしたお出かけで、
何となくふらっと入った、手近なお店、
それはたとえば駅の上のファッションビルのような、
そんなところで、お財布に大体いつも入っている、
1万円から2万円の範囲で、
そのときに、なんとなくいいような気がして、
そして、お財布にその金額はあって、
清水の舞台から飛び降りるほどの決意もいらず、
でも、毎日着ていくものがなくて、
これ、なんか便利かも、とか思いながら、
試着してみたら、
販売員さんに、お似合いですとか、今すごく売れていますとか、
今年はこれがよく出ていますとか、甘い言葉をささやかれ、
なんとなくその気になって、
そうだよね、これ、必要だよね、だってわたし、明日着ていく服ないもん、
とか思って、
どうしようかなとか考えていると、
販売員さんがすかさず、それ、最後の1枚ですとか、
限定品なんですとか、今だけ特別30パーセント引きですとか言って、
あ、そうか、じゃ、今買わなきゃとか、
ちょっと焦りながら、
レジへ行って、お金を払って、
ほんの少しの満足を得て、
家に帰って、鏡の前で早速着てみて、
うん、なかなかいいじゃない、とか思って、
でも、着ていくうちに、それはたいしたものではないと気づき、
気づいたときには、ほとんど着る機会がなくて、
なんで着ないんだろうと考えたら、
そのちょっとのデザインのせいで、
コーディネイトするのが異常に難しくて、
自分の持っているどのアイテムとあわせても、
なんとなくしっくりこなくて、
で、そのしっくりこない感じが嫌で、
結局、着なくなって、
でも、あんまり着ていないので、傷んでるわけでもなくて、
かといって新品ではないので、ほんのちょっと毛玉があったりして、
捨てるに捨てられず、
もうそろそろ2年は過ぎてしまったような、
そんな洋服」
ではないでしょうか。
実は、これらの服が一番やっかいです。
完全なる消耗品とも言えないお値段、
ほかのものと差別化するためにだけ考えられたデザイン、
バイカラーやプリント、中間色などの微妙な色合い、
不必要な飾りなど、
シンプルじゃなくていいなと思ったその美点こそが、
そういった服の最大の欠点です。
結局、そういった服は着る回数が少ないのです。
大事にもしません。
本当に気に入って買ったわけでもありません。
でも、捨てられません。
解決策はただ1つ。
そういった服は買わないことです。
その3枚のニットと同じ値段で、
高級なカシミアのニットが1枚買えます。
4枚集まれば、アウトレットでプラダのドレスが買える値段です。
そして、どう考えても、そちらのほうがおしゃれなのです。
そういった服を買わないようにするためにアドバイスできることはあります。
まず、お腹がすいた状態で買い物をしないこと。
ショッピングでストレス解消しないこと。
ストレスがたまったなら、ショッピングに行かないこと。
それでも何か見たいのだったら、
自分が絶対買えないような、ハイブランドのお店に行って試着だけしてみること。
自分の気持ちを満たす別の方法(食べること以外)を知っておくこと。
何かお店に入りたいなら、映画館や本屋にしておくこと。
そろそろ、着ないだろう服を買うのをやめましょう。
もうそういう時代は終わったのです。
質より量じゃありません。
量より質です。
量で自分を満たしている限り、あなたの質はすかすかです。
そのすかすかした感じが他人に伝わります。
そんなふうにチープに生きるのはやめましょう。
長持ちするのは、本当のものだけです。
この「1万円から2万円」で買ったと思われるアイテムです。
ファストファッションほど安くはない、
けれども、ずっと大事にするほど高くもない、
シンプルでもなく、
何か少しだけデザインがしてあり、
流行の要素が取り入れられている、
だけれども、品質がよいわけでもなく、
かといって、1シーズンで捨てるほど悪いわけでもなく、
ただ何となく存在しているような、
可もなく不可もなくといった洋服です。
私が察するに、これらの服というのは、
「会社の帰り、または、本気で服を買いに行く日でもない、
ちょっとしたお出かけで、
何となくふらっと入った、手近なお店、
それはたとえば駅の上のファッションビルのような、
そんなところで、お財布に大体いつも入っている、
1万円から2万円の範囲で、
そのときに、なんとなくいいような気がして、
そして、お財布にその金額はあって、
清水の舞台から飛び降りるほどの決意もいらず、
でも、毎日着ていくものがなくて、
これ、なんか便利かも、とか思いながら、
試着してみたら、
販売員さんに、お似合いですとか、今すごく売れていますとか、
今年はこれがよく出ていますとか、甘い言葉をささやかれ、
なんとなくその気になって、
そうだよね、これ、必要だよね、だってわたし、明日着ていく服ないもん、
とか思って、
どうしようかなとか考えていると、
販売員さんがすかさず、それ、最後の1枚ですとか、
限定品なんですとか、今だけ特別30パーセント引きですとか言って、
あ、そうか、じゃ、今買わなきゃとか、
ちょっと焦りながら、
レジへ行って、お金を払って、
ほんの少しの満足を得て、
家に帰って、鏡の前で早速着てみて、
うん、なかなかいいじゃない、とか思って、
でも、着ていくうちに、それはたいしたものではないと気づき、
気づいたときには、ほとんど着る機会がなくて、
なんで着ないんだろうと考えたら、
そのちょっとのデザインのせいで、
コーディネイトするのが異常に難しくて、
自分の持っているどのアイテムとあわせても、
なんとなくしっくりこなくて、
で、そのしっくりこない感じが嫌で、
結局、着なくなって、
でも、あんまり着ていないので、傷んでるわけでもなくて、
かといって新品ではないので、ほんのちょっと毛玉があったりして、
捨てるに捨てられず、
もうそろそろ2年は過ぎてしまったような、
そんな洋服」
ではないでしょうか。
実は、これらの服が一番やっかいです。
完全なる消耗品とも言えないお値段、
ほかのものと差別化するためにだけ考えられたデザイン、
バイカラーやプリント、中間色などの微妙な色合い、
不必要な飾りなど、
シンプルじゃなくていいなと思ったその美点こそが、
そういった服の最大の欠点です。
結局、そういった服は着る回数が少ないのです。
大事にもしません。
本当に気に入って買ったわけでもありません。
でも、捨てられません。
解決策はただ1つ。
そういった服は買わないことです。
その3枚のニットと同じ値段で、
高級なカシミアのニットが1枚買えます。
4枚集まれば、アウトレットでプラダのドレスが買える値段です。
そして、どう考えても、そちらのほうがおしゃれなのです。
そういった服を買わないようにするためにアドバイスできることはあります。
まず、お腹がすいた状態で買い物をしないこと。
ショッピングでストレス解消しないこと。
ストレスがたまったなら、ショッピングに行かないこと。
それでも何か見たいのだったら、
自分が絶対買えないような、ハイブランドのお店に行って試着だけしてみること。
自分の気持ちを満たす別の方法(食べること以外)を知っておくこと。
何かお店に入りたいなら、映画館や本屋にしておくこと。
そろそろ、着ないだろう服を買うのをやめましょう。
もうそういう時代は終わったのです。
質より量じゃありません。
量より質です。
量で自分を満たしている限り、あなたの質はすかすかです。
そのすかすかした感じが他人に伝わります。
そんなふうにチープに生きるのはやめましょう。
長持ちするのは、本当のものだけです。
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