2012年以降のシルエットの変化に伴って、
服そのものの構造が変化してきています。
最初にその片鱗が見られたのが、貫頭衣、つまり、四角い布に頭を通す部分だけあけたような、
原始的なスタイルでした。
貫頭衣は、衣服の原初的な形ですから、その後に待っているのは、
進化の過程です。
ここへきて、コート、ジャケットなどを含むトップスに、
Tシルエットという、Tの字のような肩線のシルエットのアイテムが多くなってきました。
平らなところへ置いてみるとわかりますが、
肩線は直線、またはなだらかな傾斜で、
肩幅は実際の身体の肩よりかなり広く(たぶん10センチぐらい)、
袖は腕の途中から始まります。
当然、体にはタイトにフィットしません。
その大き目の肩幅のものを、
ふわりと羽織るスタイルが多く出てきました。
特に春夏物においては、大き目のTシャツやドレスなど、
かなりこのスタイルが見られます。
新しく提案されたものは、いつでも最初、粗野な形のままあらわれます。
新しくはあるけれど、まだまだ洗練されてはいません。
その新しさがある程度、浸透していったそのあとは、
洗練への道が始まります。
今はその洗練が始まったばかりの時期に該当します。
思い起こせば、いつでもこのことは繰り返されてきました。
80年代の黒く四角いビッグシルエットのときも、
2000年頃に、いきなりタイトなシルエットがあらわれたときも。
最初のデザイン、そしてスタイルは、大胆ではあるけれども、どれも荒削りです。
そして、それは時間をかけて成熟していきます。
成熟したその後は、だんだん飽きてきて、
無理をしながらの維持と、惰性と、まやかしが横行します。
もうそうなったら、流行は終わりです。
その渦中にいると、このことはわかりません。
そして、受け身なだけの視点でも、そのことには気づきません。
なぜ今これが流行っているのか、
そしてその流れはどこへいくのか把握しなくては、
そのとき起きていることの本当の意味を知ることはできません。
ですから、選択するときには、一つ上の視点が必要です。
Tシルエットは、洗練への道の途上で出てきたシルエットです。
これはまだ、進化の過程です。
今、多くのデザイナーたちは、どうすればより洗練されるのか、
シックになるのか探っている最中です。
最終的な答えが出るのは、もう少し先のことでしょう。
Tシルエットは、この移行期のシルエットとして、楽しむことができます。
逆に言えば、シルエットとしての完成型ではないので、
定番や、永遠性とは遠いということです。
この流れの中で、どんな完成型のシルエットが出てくるのかは、
まだ誰にもわかりません。
案外、そんなものなど、ないのかもしれません。
ファッションは、時代と過去からの伝統だけでできているわけではなく、
人間の肉体抜きでは作れません。
どんなにシルエットを変えようとしても、
人間の体からは逃れられません。
Tシルエットの行き先をながめつつ、
自分に必要なものを選びましょう。
それは永遠に続くものではありません。
今だけの楽しい遊びかもしれません。
与えられた流行の波に流されるのではなく、
こちらから、その波に乗るか、乗らないかは自分で決められます。
視点を上に持てば、それは、できるはずです。
2014年1月27日月曜日
2014年1月20日月曜日
フラット・シューズが戻ってきた
フラット・シューズが戻ってきました。
もちろん、今までも完全になくなっていたわけではありません。
バレエ・シューズは常に売っていましたし、
多く提案もされていましたが、なかなか主流にはなりませんでした。
理由は簡単です。
2000年ごろから続いた、タイトなシルエットには、
フラット・シューズではバランスがとれなかったからです。
ハイ・ヒールについての記事で前にも書きましたが、
タイトな服にヒールのない靴は似合いません。
ミス・ユニバースを決めるときの水着審査で、
女性たちがビーチ・サンダルをはいて出てきたのでは、
審査にはなりません。
水着という最もタイトな衣装を身に付けた女性が最も美しく見えるためには、
ハイ・ヒールでないとだめなのです。
これが逆に、フラやタヒチアン・ダンスの衣装だったら、
足元はフラットで構いません。
上半身がいくらタイトだとしても、
ボリュームのあるスカートには、フラットな足元が似合います。
新しいボリュームの流れがある程度定着したので、
ここへきて、フラット・シューズが完全に戻ってきたのです。
すべてはバランスの問題です。
フラット・シューズが戻ってきたのは、
バランスが変わったからにほかなりません。
今、盛んに提案されているのは、以前とは違うバランスなのです。
ですから、ここ四、五年と同じバランスの服に、いきなりフラット・シューズを合わせても、
それは似合いません。
靴だけフラットにすればいいという話ではなく、
全体のボリュームを見て、バランスを決めなくてはなりません。
フラット・シューズにはフラット・シューズにお似合いのバランスがあります。
それは端的に言えば、以前よりボリュームがあるということです。
布地をたくさん使ったフレア・スカートやプリーツ・スカート、
なで肩でボリューミーなコート、
ワイド・パンツ、
流れるドレープのワンピースなど、
フラット・シューズが似合うバランスのアイテムがたくさん出てきました。
このバランスを新しく取り入れたとき、
今までのバランスに慣れた私たちの眼は、
その見慣れないバランスを、すぐには素敵と思えないかもしれません。
誰でも慣れ親しんだものに愛着を感じるものです。
慣れ親しんだ、そのバランスの作り方のほうが、
まだまだ格好いいように思えるかもしれません。
しかし、あえてそれを飛び越えていくのがファッションです。
もちろん今の流行は、
フラット・シューズが流行ったら、それ一辺倒になるわけではありません。
同時にハイ・ヒールも存在します。
ただくれぐれも忘れないでほしいのは、
同じバランスでハイ・ヒールもフラット・シューズも似合うわけではないということ。
パンツ丈やスカート丈、そのボリュームなど、
どんな高さのヒールの靴をはくかによって、微妙にふさわしい丈が変わってきます。
スタイルを完成させるためには、
鏡の前でのバランス・チェックは欠かせません。
いずれにせよ、選択肢がふえるということはよいことです。
選ばされていた、または選ばざるを得なかった時代から、
選べる時代への変化です。
ハイ・ヒールをはくもよし、
フラット・ヒールをはくもよし。
重要なのは、それを決めるのは自分だということです。
自分にふさわしくない流行には毅然としてノーと言うことも必要です。
だけれども、ときには、自分を縛る過去や古臭い習慣も、
潔く捨てなければなりません。
たくさんのフラット・シューズが選べるようになった今、
誰かから言われたからでもなく、
自分で決めた習慣からもいったん離れて、
遠くまで歩ける靴を見つけましょう。
やる前にあれこれ理由や言い訳をしないで、
まずは選んでみること。
それが似合うかどうかは、
その靴をはいてみて、初めて分かります。
シンデレラはガラスの靴をはいて、自分の住む世界を変えました。
その一足は、もしかしたら、あなたの住む世界を今とは全く違うものにするかもしれません。
新しいバランスと新しい靴で、新しい世界を歩きましょう。
それで得られる経験は、自分で選んで行動したものにだけやってくる、世界からのプレゼントです。
もちろん、今までも完全になくなっていたわけではありません。
バレエ・シューズは常に売っていましたし、
多く提案もされていましたが、なかなか主流にはなりませんでした。
理由は簡単です。
2000年ごろから続いた、タイトなシルエットには、
フラット・シューズではバランスがとれなかったからです。
ハイ・ヒールについての記事で前にも書きましたが、
タイトな服にヒールのない靴は似合いません。
ミス・ユニバースを決めるときの水着審査で、
女性たちがビーチ・サンダルをはいて出てきたのでは、
審査にはなりません。
水着という最もタイトな衣装を身に付けた女性が最も美しく見えるためには、
ハイ・ヒールでないとだめなのです。
これが逆に、フラやタヒチアン・ダンスの衣装だったら、
足元はフラットで構いません。
上半身がいくらタイトだとしても、
ボリュームのあるスカートには、フラットな足元が似合います。
新しいボリュームの流れがある程度定着したので、
ここへきて、フラット・シューズが完全に戻ってきたのです。
すべてはバランスの問題です。
フラット・シューズが戻ってきたのは、
バランスが変わったからにほかなりません。
今、盛んに提案されているのは、以前とは違うバランスなのです。
ですから、ここ四、五年と同じバランスの服に、いきなりフラット・シューズを合わせても、
それは似合いません。
靴だけフラットにすればいいという話ではなく、
全体のボリュームを見て、バランスを決めなくてはなりません。
フラット・シューズにはフラット・シューズにお似合いのバランスがあります。
それは端的に言えば、以前よりボリュームがあるということです。
布地をたくさん使ったフレア・スカートやプリーツ・スカート、
なで肩でボリューミーなコート、
ワイド・パンツ、
流れるドレープのワンピースなど、
フラット・シューズが似合うバランスのアイテムがたくさん出てきました。
このバランスを新しく取り入れたとき、
今までのバランスに慣れた私たちの眼は、
その見慣れないバランスを、すぐには素敵と思えないかもしれません。
誰でも慣れ親しんだものに愛着を感じるものです。
慣れ親しんだ、そのバランスの作り方のほうが、
まだまだ格好いいように思えるかもしれません。
しかし、あえてそれを飛び越えていくのがファッションです。
もちろん今の流行は、
フラット・シューズが流行ったら、それ一辺倒になるわけではありません。
同時にハイ・ヒールも存在します。
ただくれぐれも忘れないでほしいのは、
同じバランスでハイ・ヒールもフラット・シューズも似合うわけではないということ。
パンツ丈やスカート丈、そのボリュームなど、
どんな高さのヒールの靴をはくかによって、微妙にふさわしい丈が変わってきます。
スタイルを完成させるためには、
鏡の前でのバランス・チェックは欠かせません。
いずれにせよ、選択肢がふえるということはよいことです。
選ばされていた、または選ばざるを得なかった時代から、
選べる時代への変化です。
ハイ・ヒールをはくもよし、
フラット・ヒールをはくもよし。
重要なのは、それを決めるのは自分だということです。
自分にふさわしくない流行には毅然としてノーと言うことも必要です。
だけれども、ときには、自分を縛る過去や古臭い習慣も、
潔く捨てなければなりません。
たくさんのフラット・シューズが選べるようになった今、
誰かから言われたからでもなく、
自分で決めた習慣からもいったん離れて、
遠くまで歩ける靴を見つけましょう。
やる前にあれこれ理由や言い訳をしないで、
まずは選んでみること。
それが似合うかどうかは、
その靴をはいてみて、初めて分かります。
シンデレラはガラスの靴をはいて、自分の住む世界を変えました。
その一足は、もしかしたら、あなたの住む世界を今とは全く違うものにするかもしれません。
新しいバランスと新しい靴で、新しい世界を歩きましょう。
それで得られる経験は、自分で選んで行動したものにだけやってくる、世界からのプレゼントです。
ラベル:
おしゃれチップス
2014年1月13日月曜日
デザイナーの言葉
ココ・シャネルは言いました。
いつも違ってなければなりません。)
おしゃれであることの最大のポイントは、誰かと同じではないこと、
つまり、違っていることです。
同じであり、代替可能であり、凡庸で、目立たなく、
あたかも自分の個性を消してしまうようなスタイルをしていたのでは、
決しておしゃれには見えません。
同じものであるかどうかを認識するのは、
人々の記憶であり、情報です。
記憶の中に、
あれとあれは同じという情報に引っかかる部分が多ければ多いほど、
それはもはや違う存在ではないということです。
おしゃれであるためには、
常に誰かと違う存在であるために、何かを探し続ける必要があります。
有能なデザイナーたちはそのことを熟知しているので、
誰かと同じデザインを真似たり、繰り返したりということを避けます。
誰かと同じことを目指したら、それはデザイナーであることの死を意味します。
その人はもうすでにデザイナーとは呼ばれません。
しかし多くの服は、デザイナーと呼ぶことをはばかれるような人たちによって生産されます。
それはマーチャンダイザーかもしれません。
マーケッターかもしれません。
彼らが口にするのは、同じであることへの礼讃です。
なぜなら、それはマーケットや効率的な生産にとって都合がいいからです。
同じものを大量生産したほうが、
違うものを小ロットで生産するより利益が出ます。
利益を出すために、彼らは人々に、同じであることのすばらしさをそれらしく説きます。
しかし、それはあくまでマーチャンダイザーの言葉。
デザイナーの言葉ではありません。
でも、と思うかもしれません。
おしゃれな制服というのはあるわと、あれはみんな同じものを着るわ、と。
しかし、「おしゃれな制服」を考えるとき、
私たちが思い浮かべるのは、
○○の制服を着ている誰々さんの、
○○の部分です。
主体は、着ている人ではなくて、制服になります。
おしゃれな制服は確かに存在するでしょう。
しかし、制服を着て、代替不可能な存在はいません。
工場で必要なのはいつでも大体可能な存在。
ほかと同じであるならば、それはいつでもはじき出されます。
異質なことは、効率的生産や工業製品には向きません。
私たちは、代替不可能な存在ですが、
ここ数年のアパレル業界は、代替可能な存在への多くの提案がされてきました。
マーチャンダイザーやマーケッターの啓蒙は成功したのです。
その結果、ものすごい勢いでファッションの平均化が進みました。
それは年齢だけではなく、男女の間でもそうです。
小さい子供から、年配の方まで、男も女も同じようなデザインを着ることが多くなりました。
そのことがもたらしたのは、ファッションの牢獄化です。
着るものによって、私たちは囚われの身となりました。
あなたは代替可能な存在だから、もう必要ない、
明日からもう来なくていいよという言葉を恐れて、私たちは暮らしています。
そして皮肉なことに、それを恐れるあまり、より一層平均化への道を歩んでいます。
しかし、おしゃれでありたいのなら、
私たちはマーチャンダイザーやマーケッターではなく、
デザイナーの言葉を聞くべきです。
アレクサンダー・マックイーンはこう言いました。
ぼうっとしていると、囚われてしまいます。
簡単なほうを選んでも、囚われてしまいます。
他人と違う道は、簡単ではありません。
勇気もいります。
時間もかかります。
しかし、おしゃれであることを選ぶならば、
その道を通らなければなりません。
囚われた人々とは違う道を、あえて歩むのです。
幸いにも、優れたデザイナーたちは、多くのその道を用意してくれています。
私たちはそれを選ぶことができます。
もちろん、自分で作ったり、工夫したりできるものもあるでしょう。
問題なのは、それをあえて選ぶかどうかだけです。
代替可能な多くのものの中の1人から、
誰にも代えられない、
ほかには見つけられない、
あなたでなくてはいけない、
そんな存在になりたいのなら、同じであることを捨てましょう。
それを決意したその日から、
おしゃれであることは始まります。
"In order to be irreplaceable one must always be different."
(誰とも代えられない、かけがえのない存在になりたかったら、いつも違ってなければなりません。)
おしゃれであることの最大のポイントは、誰かと同じではないこと、
つまり、違っていることです。
同じであり、代替可能であり、凡庸で、目立たなく、
あたかも自分の個性を消してしまうようなスタイルをしていたのでは、
決しておしゃれには見えません。
同じものであるかどうかを認識するのは、
人々の記憶であり、情報です。
記憶の中に、
あれとあれは同じという情報に引っかかる部分が多ければ多いほど、
それはもはや違う存在ではないということです。
おしゃれであるためには、
常に誰かと違う存在であるために、何かを探し続ける必要があります。
有能なデザイナーたちはそのことを熟知しているので、
誰かと同じデザインを真似たり、繰り返したりということを避けます。
誰かと同じことを目指したら、それはデザイナーであることの死を意味します。
その人はもうすでにデザイナーとは呼ばれません。
しかし多くの服は、デザイナーと呼ぶことをはばかれるような人たちによって生産されます。
それはマーチャンダイザーかもしれません。
マーケッターかもしれません。
彼らが口にするのは、同じであることへの礼讃です。
なぜなら、それはマーケットや効率的な生産にとって都合がいいからです。
同じものを大量生産したほうが、
違うものを小ロットで生産するより利益が出ます。
利益を出すために、彼らは人々に、同じであることのすばらしさをそれらしく説きます。
しかし、それはあくまでマーチャンダイザーの言葉。
デザイナーの言葉ではありません。
でも、と思うかもしれません。
おしゃれな制服というのはあるわと、あれはみんな同じものを着るわ、と。
しかし、「おしゃれな制服」を考えるとき、
私たちが思い浮かべるのは、
○○の制服を着ている誰々さんの、
○○の部分です。
主体は、着ている人ではなくて、制服になります。
おしゃれな制服は確かに存在するでしょう。
しかし、制服を着て、代替不可能な存在はいません。
工場で必要なのはいつでも大体可能な存在。
ほかと同じであるならば、それはいつでもはじき出されます。
異質なことは、効率的生産や工業製品には向きません。
私たちは、代替不可能な存在ですが、
ここ数年のアパレル業界は、代替可能な存在への多くの提案がされてきました。
マーチャンダイザーやマーケッターの啓蒙は成功したのです。
その結果、ものすごい勢いでファッションの平均化が進みました。
それは年齢だけではなく、男女の間でもそうです。
小さい子供から、年配の方まで、男も女も同じようなデザインを着ることが多くなりました。
そのことがもたらしたのは、ファッションの牢獄化です。
着るものによって、私たちは囚われの身となりました。
あなたは代替可能な存在だから、もう必要ない、
明日からもう来なくていいよという言葉を恐れて、私たちは暮らしています。
そして皮肉なことに、それを恐れるあまり、より一層平均化への道を歩んでいます。
しかし、おしゃれでありたいのなら、
私たちはマーチャンダイザーやマーケッターではなく、
デザイナーの言葉を聞くべきです。
アレクサンダー・マックイーンはこう言いました。
"Fashion should be a form of escapism, and not a form of imprisonment."
(ファッションとは、囚われの形ではなく、そこから逃げる形でなければならない。)ぼうっとしていると、囚われてしまいます。
簡単なほうを選んでも、囚われてしまいます。
他人と違う道は、簡単ではありません。
勇気もいります。
時間もかかります。
しかし、おしゃれであることを選ぶならば、
その道を通らなければなりません。
囚われた人々とは違う道を、あえて歩むのです。
幸いにも、優れたデザイナーたちは、多くのその道を用意してくれています。
私たちはそれを選ぶことができます。
もちろん、自分で作ったり、工夫したりできるものもあるでしょう。
問題なのは、それをあえて選ぶかどうかだけです。
代替可能な多くのものの中の1人から、
誰にも代えられない、
ほかには見つけられない、
あなたでなくてはいけない、
そんな存在になりたいのなら、同じであることを捨てましょう。
それを決意したその日から、
おしゃれであることは始まります。
ラベル:
おしゃれチップス
2014年1月6日月曜日
幸せな通勤着
多くの勤め人の方々にとって、通勤のための服というものの位置づけに悩むことだと思います。
それぞれの仕事、それぞれの勤務先、それぞれの方法、それぞれのスタイルがありますから、
一概に通勤のための服はどうすべきだというものはありません。
徒歩の人、自転車の人、電車やバスの人、それぞれ違ってくることでしょう。
しかし、ここで大きな差を生むのは、
仕事場に行くまでの手段ではなくて、その自由度です。
どんな手段で行くかよりも、そこへ行くための服装が自由であるかどうかのほうが、
よっぽど最終的にすべきスタイルに影響します。
自由であるかどうかということは、つまり、
自分の意志、意見を反映することができるかどうか、
好きにできるかどうかということです。
自由であることの悩みと、
自由でないことの悩みとでは、その悩みの中身自体が変わってきます。
ではここで、通勤というものを映画のワンシーンであると考えてみましょう。
時代は、とりあえず現代。
舞台はどこでしょうか。
都会、田舎、郊外、その他の地域。
移動の手段は歩きなのか、車なのか、自転車なのか、そのほかの乗り物(まさか船も?)なのか。
季節は春、夏、秋、冬、すべてについて考えます。
次にそのシーンの後に続く職場について考えてみてください。
そこで制服に着替えるのかどうか、着ていったままの姿で仕事をするのか。
制服に着替えるのであったら、あるいは、通勤着は何を着ても自由かもしれません。
何を着ていっても、同僚や上司に何か言われることはないかもしれません。
そこには自由があります。
次に、制服はなく、そのままのスタイルで仕事をする場合。
ここでは2つに分かれます。
それは自由があるかないかです。
まず、自由がある場合。
着ていくスタイルについては自由があるとします。
しかし、そこにはほかに登場人物がいないでしょうか?
そこでたった一人ぼっちで仕事をするなら、誰にも会わないというのなら、
それは本当に自由でしょう。
では、その職場は1人ということはなく、上司や部下、同僚などがいるとします。
そうなると、あなたはその他の登場人物と一緒にそのシーンに出ることになります。
自分が映画の監督であると同時に衣裳係やコスチューム・デザイナーであったとするならば、
当然、その他の登場人物との兼ね合いを考えます。
そのシーンにはそのシーンにふさわしい衣装があります。
それが何であるかを探らなければなりません。
また、登場人物だけではなくて、背景や舞台装置についても考慮する必要があります。
ポストモダンのコンクリート打ちっぱなしの建物の中での仕事と、
古い日本家屋をリフォームした小さなカフェでの仕事では、
背景が違いすぎます。
コスチューム・デザイナーは背景の色や質感、そして照明の当たり具合も配慮します。
太陽光に映える色や素材と、蛍光灯やLEDライトの下で映える色や素材は違います。
次に職場には100パーセントの自由がない場合です。
自由度がどれぐらいなのかは、その職場によってそれぞれ違うでしょう。
ジーンズがOKな職場もあれば、決して許されない職場もあるでしょう。
そこにはそれぞれドレスコードがあって、深い理由はなく決められているものでしょうが、
お給料をもらうのと引き換えに、守らなければならないものです。
いくら自分が自分を主役とした映画の主人公であり、監督であったとしても、
自分ですべてを自由には決められません。
お金を出すスポンサーが口出しをして、その意見に従わなければなりません。
その状況は、自分のボスは自分だけという状態にならない限り続きます。
それぞれが、それぞれの自由度の中で通勤するための服を決定していきます。
だから、通勤着はこうすればいいとは決して言えません。
なぜなら、あまりにもみなそれぞれ条件が違いすぎるからです。
しかし、どちらにしても一つ言えることは、
自由であればあるほど、好きな格好ができるということです。
逆に言えば、自由であるならば、ほとんどのスタイルは許されます。
そして、自由であればあるほど幸福度は高まります。
自分で決められるということは、幸せであることの1つの指標です。
それはたぶん、稼ぐ金額の多寡よりも大きな意味を持ちます。
好きなTシャツを1枚着ることは、高級なブランドの制服をいやいや着るよりも幸せなのです。
1年のうちの多くの時間、着るであろう通勤着ですが、
それを着ることが幸せであるかどうかは、自分がどれだけ自由であるかどうかによります。
通勤着を幸せなものにするためには、
自分をできるだけ自由な立場になるように努力しなくてはなりません。
そんなことできないと言ったら、それで終わりです。
残念ながら、その自由な通勤着への到達方法を教えてくれるところは、ほとんどありません。
(その逆の方法への道筋を教えてくれるところはたくさんあります!)
より多くの時間を幸せに過ごしたいのなら、
そのための努力を惜しむことはありません。
就職活動中の学生たちの同じスタイルを見るたびにため息が漏れます。
多くの学校は、自由がなくなるための道筋しか教えてはくれないのでしょう。
しかし、それは嫌だと思ったのなら、誰も教えてはくれないけれども、
道なき道を探しあてて、深い森をかき分けていくように、小さなランプをともしながら、
歩き続けましょう。
おしゃれで、そして幸せな通勤着を自分に着せることができるのは自分だけです。
ほかの人には何もできません。
そのためにまず必要なのは決意すること。
一歩踏み出したならば、次の一歩は、きっとすぐにでも見えてくることでしょう。
そして一歩一歩進めば進むほど、自由は手に入ります。
おしゃれで自由な通勤着を着ている主人公は魅力的です。
魅力的な主人公になるかならないか、決めるのはあなたです。
それぞれの仕事、それぞれの勤務先、それぞれの方法、それぞれのスタイルがありますから、
一概に通勤のための服はどうすべきだというものはありません。
徒歩の人、自転車の人、電車やバスの人、それぞれ違ってくることでしょう。
しかし、ここで大きな差を生むのは、
仕事場に行くまでの手段ではなくて、その自由度です。
どんな手段で行くかよりも、そこへ行くための服装が自由であるかどうかのほうが、
よっぽど最終的にすべきスタイルに影響します。
自由であるかどうかということは、つまり、
自分の意志、意見を反映することができるかどうか、
好きにできるかどうかということです。
自由であることの悩みと、
自由でないことの悩みとでは、その悩みの中身自体が変わってきます。
ではここで、通勤というものを映画のワンシーンであると考えてみましょう。
時代は、とりあえず現代。
舞台はどこでしょうか。
都会、田舎、郊外、その他の地域。
移動の手段は歩きなのか、車なのか、自転車なのか、そのほかの乗り物(まさか船も?)なのか。
季節は春、夏、秋、冬、すべてについて考えます。
次にそのシーンの後に続く職場について考えてみてください。
そこで制服に着替えるのかどうか、着ていったままの姿で仕事をするのか。
制服に着替えるのであったら、あるいは、通勤着は何を着ても自由かもしれません。
何を着ていっても、同僚や上司に何か言われることはないかもしれません。
そこには自由があります。
次に、制服はなく、そのままのスタイルで仕事をする場合。
ここでは2つに分かれます。
それは自由があるかないかです。
まず、自由がある場合。
着ていくスタイルについては自由があるとします。
しかし、そこにはほかに登場人物がいないでしょうか?
そこでたった一人ぼっちで仕事をするなら、誰にも会わないというのなら、
それは本当に自由でしょう。
では、その職場は1人ということはなく、上司や部下、同僚などがいるとします。
そうなると、あなたはその他の登場人物と一緒にそのシーンに出ることになります。
自分が映画の監督であると同時に衣裳係やコスチューム・デザイナーであったとするならば、
当然、その他の登場人物との兼ね合いを考えます。
そのシーンにはそのシーンにふさわしい衣装があります。
それが何であるかを探らなければなりません。
また、登場人物だけではなくて、背景や舞台装置についても考慮する必要があります。
ポストモダンのコンクリート打ちっぱなしの建物の中での仕事と、
古い日本家屋をリフォームした小さなカフェでの仕事では、
背景が違いすぎます。
コスチューム・デザイナーは背景の色や質感、そして照明の当たり具合も配慮します。
太陽光に映える色や素材と、蛍光灯やLEDライトの下で映える色や素材は違います。
次に職場には100パーセントの自由がない場合です。
自由度がどれぐらいなのかは、その職場によってそれぞれ違うでしょう。
ジーンズがOKな職場もあれば、決して許されない職場もあるでしょう。
そこにはそれぞれドレスコードがあって、深い理由はなく決められているものでしょうが、
お給料をもらうのと引き換えに、守らなければならないものです。
いくら自分が自分を主役とした映画の主人公であり、監督であったとしても、
自分ですべてを自由には決められません。
お金を出すスポンサーが口出しをして、その意見に従わなければなりません。
その状況は、自分のボスは自分だけという状態にならない限り続きます。
それぞれが、それぞれの自由度の中で通勤するための服を決定していきます。
だから、通勤着はこうすればいいとは決して言えません。
なぜなら、あまりにもみなそれぞれ条件が違いすぎるからです。
しかし、どちらにしても一つ言えることは、
自由であればあるほど、好きな格好ができるということです。
逆に言えば、自由であるならば、ほとんどのスタイルは許されます。
そして、自由であればあるほど幸福度は高まります。
自分で決められるということは、幸せであることの1つの指標です。
それはたぶん、稼ぐ金額の多寡よりも大きな意味を持ちます。
好きなTシャツを1枚着ることは、高級なブランドの制服をいやいや着るよりも幸せなのです。
1年のうちの多くの時間、着るであろう通勤着ですが、
それを着ることが幸せであるかどうかは、自分がどれだけ自由であるかどうかによります。
通勤着を幸せなものにするためには、
自分をできるだけ自由な立場になるように努力しなくてはなりません。
そんなことできないと言ったら、それで終わりです。
残念ながら、その自由な通勤着への到達方法を教えてくれるところは、ほとんどありません。
(その逆の方法への道筋を教えてくれるところはたくさんあります!)
より多くの時間を幸せに過ごしたいのなら、
そのための努力を惜しむことはありません。
就職活動中の学生たちの同じスタイルを見るたびにため息が漏れます。
多くの学校は、自由がなくなるための道筋しか教えてはくれないのでしょう。
しかし、それは嫌だと思ったのなら、誰も教えてはくれないけれども、
道なき道を探しあてて、深い森をかき分けていくように、小さなランプをともしながら、
歩き続けましょう。
おしゃれで、そして幸せな通勤着を自分に着せることができるのは自分だけです。
ほかの人には何もできません。
そのためにまず必要なのは決意すること。
一歩踏み出したならば、次の一歩は、きっとすぐにでも見えてくることでしょう。
そして一歩一歩進めば進むほど、自由は手に入ります。
おしゃれで自由な通勤着を着ている主人公は魅力的です。
魅力的な主人公になるかならないか、決めるのはあなたです。
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