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2011年1月30日日曜日

春物をどうするか


さて、以前、「秋物をどうするか」について考えました。
今回は、「春物」です。
そろそろ、お店には春物が並び始めました。
この間、コートがバーゲンで売られたばっかりなのに、早いです。
特に、2月に「立春」がやってくると、まだまだ寒くても、気持ちは春になってしまいます。
ただ、気持ちは確かに春なのですが、最近、コートを脱いで薄着になっても大丈夫だなと感じられる日が、少々遅くなっているような気もいたします。
去年のことを思い出してみると、私の住む湘南地方でさえ、4月の第一週ぐらいは、まだ厚手のウールのジャケットやセーターが必要なほど、肌寒い日でした。
以前は、4月になったら、何が何でも冬のコートやジャケットを着るのはやめようと思っていたのですが、ここ数年、もう寒いんだから、何着てもいいわ、という感じに変わってきております。

では、「春物」とは、何なのでしょうか。
実際のところ、「春」向けの商品の、それ以外の季節との大きな違いは、色だけです。
パステル調の、ピンク、黄色、水色、黄緑など、明るく軽い色合いをほどこしたジャケットやコートが春物とされています。
素材も、素毛のウールや綿など、ほかの季節と変わるというわけではありません。
私が、ワードローブの相談を受けるとき、もっとも1年で着る回数の少ないアイテムの代表として、この春色のコートを挙げています。
ピンクや黄色、水色など、いかにも軽やかな、春らしい木綿、もしくはポリエステル製のコートは、4月に着ればまだ寒く、5月になると、もう暑いという、本当に、本当に着る時期の少ないアイテムの代表です。
かといって、この色合いを9月や10月に着ると、それはなぜか滑稽なのです。
私たちは、常に未来を向いていますから、過ぎ去った春を連想させる色合いのものを秋に着てしまうと、全くおしゃれではなくなるのです。
同様に、春色のスーツも、着る時期がものすごく短いアイテムです。
では、こういうものをなしにして、春気分にするためにはどうしたらいいでしょうか。
ヒントは、色です。
色さえ変えれば、春らしく感じられます。
ですから、たとえばマフラーやスカーフ、ストールに春めいた色のものをプラスする。また、ジャケットやコートなど、アウターは無理だとしても、インナーの色合いを明るいものに変えるなど、全体のコーディネートの中に春を感じさせるものをつけ加えていくといいでしょう。
また、やはりおしゃれというのは、先取りを大事にします。ですので、3月に入って、少し暖かく感じられる日などは、麻のシャツなど、夏物をインナーとして取り入れるのもよいです。
要は、気分の問題です。
冬の間、ぐっと斜めに差し込んでいた太陽の光が、あるときを境に、ふんわり優しく感じられるようになるのです。
そうすると、微妙ながら、今まで着ていた冬もののウールの色が、重く体と心にのしかかってくるように感じられます。
この「重さ」を払しょくするのは、明るい色なのです。
太陽の角度が変わって、日の光に変化を感じてきたら、その光を受けて輝くようなアイテムを、どこかに取り入れると、それだけで、特別春物として何かを買わなくても、春の気分は表現できます。

2011年1月25日火曜日

ふだん着とよそゆき

今回は、NOさんより「普段着とよそゆき着は分けないほうがいいのでしょうか」というご質問をいただきました。
NOさん、どうもありがとうございました。

さて、こちらの質問、ちょっと説明が必要です。
NOさん、いわく、カシミアのセーターを持っているのに、家の中では着やすいし、汚れてもいいようにと、安いものを身につけてしまう。
安いものを身につけていると、自分で自分の価値をおとしめているようで、やっぱり家の中でもよそゆきを着たほうがよいのかしら、というようなご質問内容でした。

この質問、簡単なようでいて、問題点がいろいろ隠れてますね。
まず、ふだん着とよそゆき。
そして、安いもの、それに対してカシミア。
着やすい、汚れてもいいという気楽さ、それに対して、汚れてはいけないという、気楽さのなさ。
「安いものを身につけていると、自分の価値をそれなりに見てしまう」のかという疑問。

では、順番に見ていきましょう。
ふだん着とよそゆき、この区別は現在、どんどん薄れています。
というのも、「よそゆき」のほうが、ぐっとカジュアル化したからです。
今どき、ジーンズでは宿泊お断りなんてホテルはないですね。
ドレスコードが厳しくなくなった分、「よそゆき」の存在はあまり重要視されなくなったのです。
ただ、気分をあげてくれるものとしての「よそゆき」があることも、また事実。
日常的には用はないけど、これを着ると自分が素敵に思えるというドレスなり何なりを1枚持っておくことは、いいことだと思います。
日本語で言うところの、いわゆる「ハレ」のための装いですね。
ただ、これも皆さんの生活様式によって、大きく変わるので、そこら辺はそれぞれご自分でお考えくださいね。

さて、次ですが、安いものと、カシミア。
この場合、カシミアは高いもののたとえですね。
何度も書いてますが、アパレル業界において、高いものイコールいいものでも、安いものイコール悪いものでもありません。だから値段がいくらであれ、自分にとって価値があるのか、ないのかで判断しましょう。
洋服を値段ばかりで判断すると、足元をすくわれます。

次は、着やすい、汚れてもいいという気楽さです。
着ていて楽であるというのは、1つの大きな価値観です。
たとえば、農作業や庭仕事をするのに、この「着ていて楽である」がなければ、何の意味もありませんね。
だから、家事をするのに「着ていて楽がある」という大きな価値を重要視することは、もっともなことであり、何の問題もありません。そして、「着ていて楽である」という価値も、値段とは関係ありませんね。

で、最後になりました。
要するに、ふだん着に安いものばっかり着てる私って、自分で自分の価値を認めてないのかしら、おとしめてるのかしら、ということなんですね。
まず提案ですが、すべての価値をお金だけで計算するのはやめましょう。
この話をすると長いので、短くしておきますが、現在の経済システムにおいては、すべての労働の対価として、等しく経済が分配されるというシステムにはなっていません。
いまだに、家事労働には、何の対価も支払われません。
世界の地域によっても、その対価は大幅に変動します。
アフリカで作られた洋服と、日本で作られた洋服、同じ手間がかかっても、値段は大きく違います。
お金は絶対基準ではないんです。
でも、思い出してください。
太陽だって、海だって、山だって、対価なんてもらってませんよ。
地球の大地だって、お金を払わなくても、種をまけば、ちゃんと芽を出すだけのエネルギーを分けてくれます。
何でもお金だけで計算すると、がんじがらめになって、本当に大事なものを見落としてしまいます。

私にとっては、有名ブランドのクロコの300万もするようなバッグは意味がありませんが、大好きな作家さんが作った1点ものの5万のバッグには大きな価値があります。
小さい子供にとって、お母さんが作ってくれたドレスは、デパートで何万もするドレスより、ずっとずっと大きな意味があるでしょう。
同じように、自分にとって何が大切かを自分の価値基準で見極めていきましょう。
そのとき「お金」という基準を1度、抜いてみること。
それがわかってきたら、自分のチームを作りましょう。
「私」を応援してくれるのはどんな選手たちなのか。
気楽さ、楽しさ、うれしさ、あたたかさ、優しさ、そして愛とか。
自分の価値を認める、自分の価値をおとしめないというのは、結局のところ、自分で決めた自分の価値基準で集めたもので、自分のまわりを固めることなのだと思います。

2011年1月17日月曜日

ノーカラージャケット



Nさんより、ノーカラージャケットの着こなし方についてご質問をいただきました。
Nさん、どうもありがとうございます。

さて、最近、ノーカラージャケットがスーツという形でなく、単体として売られているのをよく見かけます。
たとえば、ジャケットとスカート、またはワンピースとジャケットなど、スーツとして着る場合は、さほどいろいろ考えなくてよいのですが、単体でノージャケットを着て、それが素敵であり、何となくおしゃれに見えるためには、ちょっとしたこつが必要です。
その1つは、まず色でつながりを持たせること。
たとえば、ジャケットとボトムの色を同じにする、もしくはジャケットとインナーの色をあわせるなど、どこかに色のつながりを持たせたほうが、見ている人は、それが単体で購入したジャケットだとしても、何となくおしゃれであると感じます。
特に、あまり背の高くない方の場合は、ジャケットとボトムの色をつなげるほうが、背がすらっとして見えます。
次のポイントは、インナーは襟のないもの、そしてタートルネックでないものを選ぶことです。
キャミソールタイプのもの、またはクルーネックやスクープネックなど、首が詰まっていないもののほうが、エレガントに見えます。
そうして、開いた首元に、ネックレスの1本でもつければ、立派なよそゆきです。
ノーカラージャケットは、もちろん少しあらたまった席での着用に適しているのですが、カジュアルに着こなすことも可能です。
たとえば、ジーンズやチノパンツに白いTシャツ、その上からシャネルタイプのノーカラージャケットという組み合わせも、ちょっと意外性のある、おしゃれなあわせ方です。
しかし、この場合も、決してジーンズにスニーカーなどあわせず、ジャケットのイメージに合ったヒールのパンプスやサンダルを合わせること。そのとき、裾を少しロールアップするか、クロップト丈にして、足首の肌色を見せると、抜け感が出て、今風になります。
また、脚がうんと長い方は、フラットのバレエシューズやフラットのブーツでもOKです。
これから春に向かって、お勧めの組み合わせです。

☆写真はシャネルを演じたオドレイ・トトゥ。ノーカラージャケットの正統派シャネルスーツです。

2011年1月11日火曜日

サトヴィックな衣服

インドのヴェーダ哲学に、物事を3つに分類する考え方があります。
1つは、サトヴィック、2つ目はラジャシック、そして最後にタマシックです。
サトヴィックなものとは、「真実の」「自然な」「オリジナルな」「シンプルな」「楽しい」「輝きのある」という意味。
ラジャシックとは、「王様のような」「高貴な」「派手な」「きらびやかな」「ぎらぎらしている」「浪費的な無駄遣いをすること」「興奮」「刺激的」などです。
そして、タマシックは、「暗い」「よどんでいる」「抑圧的な」「憂鬱な」「醜い」「恐ろしい」ものに対して使います。
そして、本当の本当に未来的なファッションとは、サトヴィックなものになるだろうというのが、私の予測です。
この考え方は、以前取り上げたウルトラライトにも通じますし、また、ずっとたどっていくと、ガンジーの非暴力という思想につながっていきます。
上の3つの分類で考えると、現代のファッションはラジャシックと、タマシックがあふれています。
ラジャとは王という意味。王様のような、きらびやかで豪華な衣装が掲載されているファッション誌は多くあります。
また、タマシックの代表は、やはりファストファッションでしょう。大量に生産された粗悪な衣服は、必ずしも着る人をハッピーにしませんし、何より、作る過程で何が起こっているのかを考えると、とてもフェアなものとは思えません。その安さは、どこかでだれかの安く不当な労働力によって成り立っていることは明らかだからです。(それはどこかのアジアの国の話ではなく、日本国内でも同様です。)
サトヴィックな衣服とはシンプル、だけれども上質でオリジナル、着る人も、作る人も、売る人も幸せになる服です。将来的には、こういった服は、徐々に増えていくと思われます。
(ただ、マスコミはあまり取り上げないかもしれません。)
と同時に、私たちは、サトヴィックな「気質」も取り入れなければなりません。
すなわち、どういうことかというと、買う前に以下のようなことを考えるのです。
①私はそれを本当に必要としているのか。
②私はそれなしにで生きることはできるか。
③私は今までもそれなしでずっとやってこられたが、なぜ、これからもそれなしで生きられないのか。
④私がほしいものは長持ちするものか。
⑤長持ちするように作られているか。
⑥環境に優しい素材と製造方法でできているか。
⑦見た目にも美しいものか。
このように自分で自分に問いかけます。そして、OKが出て、初めてそのものを手に入れます。
私たちは、ずっとたくさんのものを持つほうが幸せだと思い込まされてきましたが、実際は違います。
多く持てば持つほど、気が滅入り、憂鬱になるのです。
サトヴィックな衣服、そしてサトヴィックな気質が私たちにもたらすものは、幸福です。
このことは、インド人の哲学者、サティシュ・クマールが提唱していることであり、
と同時に、私がファッションとかかわってきた長年の経験によってたどりついた考えなのです。

<参考文献>
「宇宙に融けこむエコ・ハートフルな生き方」サティシュ・クマール  エハン・デラヴィ・愛知ソニア訳
 2009年 徳間書店

2011年1月8日土曜日

他人の目

洋服に関する相談で、
「でも、他人にどうみられるかって重要ですよね」とおっしゃる方が必ずいらっしゃいます。
けれども、これも、答えが1つということはなく、「重要ですよね」とおっしゃる方にとってはそうですが、
さほど、重要でないと思っている方にとっては重要ではありません。
また、他人が要求していると思われるルックスと、自分の好みのルックスが一致していると感じてる方も、
このような疑問は持ちません。
問題なのは、他人の視線を気にしつつ、それが自分の好みと一致しないのではないかと考えている方の場合です。
こういう質問が出るということは、つまり、何となく他人の視線を気にしているということ。
そして、それがもしや、他人の目を満足させないのではないかと疑っているということです。
ただ、ここでちょっと考えてほしいことがあります。
他人とは、だれのことなのでしょうか?
自分以外のすべての人のことでしょうか。
自分以外のすべての人の目を気にするなんてことは、ナンセンスですし、そもそもできません。
だとしたら、ここで言う「他人」とは、すべてではなくて、自分で思っている一部の範囲の方々のことなのでしょう。
私が思うに、日本に住んでいらっしゃる方で、他人の目を全く無視して、極度に普通から逸脱しているファッションの方は、それこそ、特別な場所にでも行かない限り、ほとんどいないと思います。

なぜなら、ヨーロッパなどに行くと、Tシャツからブラのひもが見えても平気な方や、ジーンズからパンツが出ている方など、よくも、その格好で歩けるわねえというような方がたくさんいるからです。
でも、日本では、そういう方はめったにいません。
それでもなお、気になる他人の目とはいかほどなものでしょうか。
私の観察では、「他人」はさほど、あなたの服装に注目もしてないし、覚えてもいません。
試しに、あなたが3日前に会ったお友達の服装を思い出してみてください。
うすぼんやりとしか、覚えていらっしゃらないのではないかと思います。
みんな自分のことで一生懸命ですから、他人のことなど、どうでもいいのです。
「他人の目」が気になったとき、それはだれなのか、そしてなぜなのかを考えてみましょう。
本当に気にしているのは、服ではなくて、何かほかのことの可能性が大きいです。