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2015年1月26日月曜日

自分で作るセットアップ

自分の持っているワードローブのアイテムを使って、
素敵なコーディネイトができないというお悩みを持っていらっしゃる方が
たくさんいらっしゃいます。
こんなにたくさんあるのに、
雑誌だって、いつも見ているのに、
高いお洋服を買ったのに、
いざ、組み合わせようとすると、
どうしたらいいか全くわからない。

どうしたらいいか全くわからないだけでなく、
その原因もわからない。
原因がわからないので、その解決方法もわからない。
苦肉の策として選ぶのは、
そして、頭の中でひらめくのは、
新しい服を買おうというアイデア。

しかし、新しいその1枚が足されたからといって、
家に帰って、コーディネイトできないという現実が変わるわけでもなく、
そのまま、いつものお気に入りの組み合わせで、
特別な外出の日は出ていく、
その繰り返し。

お気に入りの組み合わせはとても気に入っているので、
そればかり着ている間に、
どうにもこうにも組み合わせることができないスカートやら、ブラウスやらは、
クローゼットの脇のほうへ寄せていく。
けれども、気づいたら、
脇へ寄せたつもりの、
そのどうしたいいかわからないスカートやら、ジャケットやら、パンツやらが、
クローゼットのハンガーラックの真ん中のラインを過ぎている。
つまり、半分以上は、どうしたらいいかわからない、
ドレスやら、コートやら、セーターになっている。

あんまり着ていないから、傷んでないし、捨てるに捨てられないし、
誰かがもらってくれそうにもないし、
リサイクルショップへ持っていっても、100円とか、200円とか、言われちゃうし、
そうだわ、見なかったことにしようとひそかに決意し、
クローゼットから取りだして、
押入れの奥へ押し込んだところで、
持っているということには変わりなく、
そして何より、
持っているアイテムでコーディネイトできないという問題は全く手つかずのまま。

ではどうしたらいいか。

ほとんどの人がコーディネイトできないその理由は何かというと、
色の問題です。
正直な話、色音痴の人が多いです。
これとこれは合わないと言っても、
この青と、その青がどう違うのか、識別できない人が多いのです。
もっとも簡単に識別できる黒と白を除いては、
その見え方についての感受性を育ててこなかった結果、
色の識別ができなくなったのだろうと推測できます。
服の場合、これらの色が生地のテクスチャーの上にのるわけですから、
もっと複雑になります。
光の反射の具合によって、同じ黒の見え方が違ってきますが、
それも、よくわからないと言う人が多いです。

服を買った期間が20年間、30年間ではなく、
例えば、10年以内のものばかりだとしたら、
それほどシルエットが時代遅れというものはありません。
確かに、今、80年代に買ったコートをそのまま着たら、
それは「変なコーディネイト」になるかもしれませんが、
そういう人はあまりいません。

もちろん、シルエットは流行を見る上で重要ですが、
ベーシックなものをメインに選んでいる限り、
「そのシルエットの組み合わせがおかしい」という失敗パターンは、
少数です。
それより何よりも、失敗しているのが色なのです。

解決方法は、自分の着るメインの色を決めることです。
そして、決めるだけではなく、
その選んだ1色で全身がコーディネイトできるように、
つまり、ネイビーならネイビー、グレーならグレーの1色でコーディネイトが完成できるように、
アイテムをそろえることです。
ネイビーのパンツ、スカート、ジャケット、ニット、シャツ、コートまで、
ひとそろえ持っていれば、それを土台として、ぶれない色のコーディネイトができ上がります。

例をあげます。
ネイビーを自分の基本の色に選んだとします。
その上で、
ジーンズ、ジャケット、Tシャツ、帽子、スカーフ、スニーカー、スカートをそろえます。
中のTシャツを白にかえて、白いバッグを持てば、それだけでさわやかなコーディネイトになります。
また、そこに1点、赤い腕時計でも投入すれば、
トリコロールのコーディネイトになります。

グレーでも同じことができます。
グレーの場合、
白から黒までのグラデーションのあいだの色合いのアイテムがいろいろ売っていますので、
その色の幅までOKとして、
コート、パンツ、ニット、ストール、バッグ、ブーツをそろえます。
グレーで全部そろえると、それは都会的なコーディネイトです。
コンクリートとガラスの建築群によく似合います。
そして、例えばその中のニットを華やかな黄色やベビーピンクに変えれば、
都会的な冷たい感じを和らげることもできますし、
春の気分を先取りすることもできます。

自分のワードローブの中に、
自分の選んだ色の1色で上から下まですべてコーディネイトできるセットを持っていれば、
色の組み合わせで迷ったり、失敗したりすることはありません。
ただし、ベージュやカーキなど、売っているものの色合いが微妙に違うものは注意が必要です。
同じベージュでそろえるのはかなり難しいです。
けれども、できないことはありません。

これは、自分でセットアップを作るという考え方です。
売っているセットアップは、せいぜいジャケットとスカート、
または半袖ニットと長袖ニットの組み合わせ。
それだけではなく、上から下まで、靴、バッグ、小物まで含めて、
ひとそろえとしてセットアップ、つまり、組み立てておけば、
微細な色の違いが識別できなくても、
色で失敗することはなくなります。

本当は、それぞれが色についての鋭い感性を養えばいいと思います。
絵画を見たり、植物を観察したり、
生地屋へ行って、素材をひとつひとつ見て回ったり、
その一連の行為が色に対する感性を養います。
しかしそうはいっても、感性を養うには時間がかかりますし、
明日も服を着なければなりません。

色について、一番怠惰になりたいならば、
いつも黒だけ選べばいい。
しかし、それではいつまでたっても、色を識別する眼は育ちません。
想像してみてください。
江戸時代、女性の着物がすべて真っ黒だったら、それはどんな景色でしょうか?
豊富な色彩は豊かさの1つの印です。

まずはできるところから、
できる方法で。
1色を決めて、それで自分なりのセットアップを作る方法は、
誰もができますし、
お金もかかりません。
それは、とりあえずのところ、
コーディネイトでの色の失敗を防ぎ、
服選びの時間を短縮し、
無駄な、着もしない服を減らすことに貢献します。
そして、余裕ができたなら、
ぜひとも新しい色にチャレンジしてみましょう。
そのときはきっと、
グレーが決して1色ではないということに気づくでしょう。
そして、あのブルーとこのブルーがどう違うか、
識別ができるようになっているでしょう。



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2015年1月19日月曜日

ファッションにおける客観的な視点

ファッションに限らずとも、客観的な視点を身につけることは重要です。
すべての自分の表現、言葉、作品において、
出来得る限り客観的でいれば、
問題は最小限に抑えられます。

ファッションにおいて、多くの人にとっての客観的視点とは、
鏡の中の自分の像でしょう。
小さいものでは手鏡の、
化粧室で上半身の、
自宅やショップで全身が映る鏡、
そしてイレギュラーなものとして、
街で通り過ぎざまに映るウィンドウ。
そのどれもに自分の姿を見ることができます。
しかし、客観的な視点とは、それでは足りないものです。

必要なのはもっと遠く、もしくは高くから見る視点。
たとえて言うならば、芝居の演出家や、映画の監督の視点です。
芝居の場合なら、劇場の一番後ろの席から、
映画であるなら、映画館のスクリーンが全体を見渡せる席から見ることで、
彼らは舞台上やスクリーンの中の役者とは一段違うところから、
全体を見ます。
そして、それができなければ、演出家や映画監督は務まりません。

その視点は、
観客の視点よりも、より遠く、高いものです。
観客と言えども、やはり近すぎます。
近ければ近いほど、全体を見ることはできず、
その結果、導き出される意見はばらばらです。

もし私たちが、自分の服装について、
ごく近くの人たちに意見を聞いたなら、
すべて違うことを言われるでしょう。
ある人からよく見えるところは、違う人にとってはよく見えないかもしれないし、
それぞれが、細部のみを見ているかもしれません。
他人であるからといって、それが客観的な視点とは限らないのです。

分かりやすいのは映画監督の視点なので、
映画を例にして説明します。
映画には、全体のテーマ、そしてストーリーがまずあります。
それを表現するためにキャストが決まり、各シーンのセットやロケ地が決定されます。
主人公は顔、上半身、全身、頭上から、足元から、
俯瞰的に、群衆の一部としてなど、
さまざまな視点から撮影されます。
監督が留意しなければならないのは、
背景、照明、シーンの登場人物、季節、時間、場所です。
それをすべて考慮した上で、登場人物の衣装もメイクも決まります。
同時に、その登場人物を引きで見るのか、寄って見るのかによっても、
衣装、メイク、髪形が変わってくるでしょう。
テーマを表現するためには、それらすべてが調和していなければなりません。
どこかひとつ飛びぬけても、どこかひとつ抜けていてもだめです。

これと同じことが、ファッションにおける客観的な視点にも要求されます。
いわゆる「痛い」スタイルとは、
この何かが抜け落ちている視点の持ち主であることが露呈した結果です。
その人は、何かについて全く見ることができない人物であるということです。
これはよく言われるTPOでも足りません。
見るべきものは、Time、 Place、 Occasionでは足りません。
なぜならそこには最も大切な意図が抜けています。

客観的な視点は、自分がどう見せたいかという意図を表現するためにこそ、
必要なものです。
映画だったらテーマです。
この場所、この時間、このメンバー、この照明、
このお店、この季節、
この劇場で、
目の前にある1杯のコーヒーを前にして、
何を最も意図するのか。
恋愛映画なのか、ファンタジーなのかによっても違うでしょう。
一番重要なのは、何を一番表現したいかです。
それがもし、「おしゃれでモードな好きな私」だったら、
適度に流行を取り入れた、モードの服を選べばいいし、
「流行には左右されない、オーセンティックな私」だったら、
余り目立たないけれど、上質な本物だけを身につけたらいい。
逆に、ライブハウスで新人バンドのライブを見に行く、
「新しい音楽を楽しむ好奇心に満ちたおしゃれな私」だったら、
ダメージ・ジーンズにスタッズのついたブーツでもはけばいいのです。

映画監督のような客観的な視点、
そこに込めた意図。
この2つがあれば、
誰が何と思おうと、気にすることはありません。
観客はすべて違う意見を持ちます。
そしてこの人生の物語の主人公は自分です。

どんなに気をつけても、
すべての人を満足させるのは不可能です。
受け取った相手がどう思うか、感じるか、コントロールすることはできません。
相手は不満に思うかもしれないし、不謹慎に感じるかもしれない。
しかし、それはこちらの手から離れたところの問題です。
ファッションの表現は自由です。
それで誰かが傷つくことは、ほとんどありません。
(もちろん宗教的な理由でルールがある国はあります。それは守らなくてはなりません)

主人公には、そのシーンで一番映えるような衣装を着せてあげましょう。
映画監督の視点で、シーンをチェックしましょう。
誰かが何か言ったところで、
それを気にする必要も、ましてや反論する必要もありません。
なぜなら、この世界でその視点を提供できるのは、
すべての自分の行動を把握している、
神様以外には、
主人公である自分自身しかいないからです。


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2015年1月12日月曜日

本物だけを見よ、見続けよ


残念ながら、この世には多くのまがい物が存在しています。
しかも、そのまがい物はもう既に、本物を凌駕して、駆逐する勢いです。
私たちは偽物をつかまされ、そのたびに、
えも言えぬ不快な感情を経験します。
続く不満と満たされない飢餓感の中で、
新しいものを次々と求めますが、
なかなか心が満たされることはありません。

心が満たされることができなくとも、
私たちは毎日、服を着てどこかへ出かけます。
心の充足とは別に、服を着ることは必要だからです。
とりあえず、体を守ること、
私たちは結局、そのために服を着ます。

こんなにも多くの服が存在するのに、
そして、こんなにも多くの服を手に入れたのに、
それでもまだ満たされないのはなぜでしょう?
おしゃれに見せたいのは自分のためなのか、
他人のためなのか、
そのどちらも達成されなければ、
永遠に心満たされることはないのか。
ならば、その道は余りに遠いです。


今のように簡単に、しかも安価で服が手に入れられるようになったのは、
つい最近のことです。
私たちは、モノがない欠乏からは解放されました。
それなのに、かつてあったであろう、着ることに対する満足は得られません。
時間をかけて作り上げた、
あの手の込んだ刺繍を施した、
きらびやかな衣装を身につけている、
少数民族の方たちが浮かべるあの満ち足りた表情を、
私たちは服を通して作ることができません。

まがい物は、しょせんまがい物。
暑さ寒さは防げるものの、
心の満足を与えてくれるものではありません。
私たちの何十分の一しか衣装を持っていないであろう、
残された少数民族の人たちのような、
本物の衣服を、
私たちは手放しました。
合理性と引き換えに。
市場主義経済のアンフェアな手法を使って。

本物をまとわない限り、
私たちの心は満足しません。
頭が考える価値や消費される情報など、それを満たすことはできません。
どんなにたくさんの衣服を集めても、
その10枚は、
祝いの儀式のために一針一針、丁寧に心をこめて刺繍した、
あのドレスにはかなわないのです。
私たちが本当に必要としているのは、
そんな本物のドレスです。

しかし、多くの本質を伴った衣服は駆逐されました。
滅多に出会えないか、
または高額すぎて手の届かないものになりました。
大好きで、
何回も着て、
すり切れても捨てるに捨てられない、
そんな服は、
どんどん少なくなってきています。
それでもやはり、
この果てしない飢餓感から抜け出すためには、
そんな服が必要です。
それがなければ、この病いは治りません。

何としてでも、本物の服を手に入れなければなりません。
それはごく数枚でよいのです。
けれども、多くの人は、もはやそれを見つけることすら不可能な状態です。
本物など、見たことも、さわったことも、袖を通したこともないのですから、
当然と言えば当然です。

けれども、ごくたまに本物はあらわれます。
美術館で、展覧会で、
ヴィンテージショップで、
高貴な人のワードローブの中で、
優れたコレクションで。
そんな希少な機会があったら、
ぜひとも見に行く必要があります。
そして、本物だけを見続けなければなりません。
それが所有できないとしても、
ただただ見続ける、その行為のみによって、
本物に出会えます。
玉石混淆の中の宝を見分けるその目は、
そうすることで養われます。
実際に本物を手に入れるのはそのあとです。
よく見えないその目と、頭の計算で選んだものは、
それがたとえどんなデータを持っていたとしても、
本物とは限りません。
何枚持っても満足できないのなら、
それはやはり本物ではなかったのです。

この世に出会うべき本物は、
そう多くはありません。
また、誰かにとっての本物と、
自分にとっての本物も違います。
それが1つでも手に入ったならば、
いつでも何か食べていなければ気が済まないような、
絶え間ない飢餓感から解放されるでしょう。
そして、服なんて、そんなにたくさんいらなかったのだと気づくでしょう。

そのためにも今すぐ決意してください。
本物だけを見ると、
見続けると。
そうすれば、いつか本物は手に入るでしょう。
本物だけがあなたに満足をもたらします。

☆写真:2014年のエスプリ・ディオール・東京展より。まさに本物の衣服。入場料無料ですべての人に開かれた、本物を見る機会がたまにあります。


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