"In order to be irreplaceable one must always be different."
(誰とも代えられない、かけがえのない存在になりたかったら、いつも違ってなければなりません。)
おしゃれであることの最大のポイントは、誰かと同じではないこと、
つまり、違っていることです。
同じであり、代替可能であり、凡庸で、目立たなく、
あたかも自分の個性を消してしまうようなスタイルをしていたのでは、
決しておしゃれには見えません。
同じものであるかどうかを認識するのは、
人々の記憶であり、情報です。
記憶の中に、
あれとあれは同じという情報に引っかかる部分が多ければ多いほど、
それはもはや違う存在ではないということです。
おしゃれであるためには、
常に誰かと違う存在であるために、何かを探し続ける必要があります。
有能なデザイナーたちはそのことを熟知しているので、
誰かと同じデザインを真似たり、繰り返したりということを避けます。
誰かと同じことを目指したら、それはデザイナーであることの死を意味します。
その人はもうすでにデザイナーとは呼ばれません。
しかし多くの服は、デザイナーと呼ぶことをはばかれるような人たちによって生産されます。
それはマーチャンダイザーかもしれません。
マーケッターかもしれません。
彼らが口にするのは、同じであることへの礼讃です。
なぜなら、それはマーケットや効率的な生産にとって都合がいいからです。
同じものを大量生産したほうが、
違うものを小ロットで生産するより利益が出ます。
利益を出すために、彼らは人々に、同じであることのすばらしさをそれらしく説きます。
しかし、それはあくまでマーチャンダイザーの言葉。
デザイナーの言葉ではありません。
でも、と思うかもしれません。
おしゃれな制服というのはあるわと、あれはみんな同じものを着るわ、と。
しかし、「おしゃれな制服」を考えるとき、
私たちが思い浮かべるのは、
○○の制服を着ている誰々さんの、
○○の部分です。
主体は、着ている人ではなくて、制服になります。
おしゃれな制服は確かに存在するでしょう。
しかし、制服を着て、代替不可能な存在はいません。
工場で必要なのはいつでも大体可能な存在。
ほかと同じであるならば、それはいつでもはじき出されます。
異質なことは、効率的生産や工業製品には向きません。
私たちは、代替不可能な存在ですが、
ここ数年のアパレル業界は、代替可能な存在への多くの提案がされてきました。
マーチャンダイザーやマーケッターの啓蒙は成功したのです。
その結果、ものすごい勢いでファッションの平均化が進みました。
それは年齢だけではなく、男女の間でもそうです。
小さい子供から、年配の方まで、男も女も同じようなデザインを着ることが多くなりました。
そのことがもたらしたのは、ファッションの牢獄化です。
着るものによって、私たちは囚われの身となりました。
あなたは代替可能な存在だから、もう必要ない、
明日からもう来なくていいよという言葉を恐れて、私たちは暮らしています。
そして皮肉なことに、それを恐れるあまり、より一層平均化への道を歩んでいます。
しかし、おしゃれでありたいのなら、
私たちはマーチャンダイザーやマーケッターではなく、
デザイナーの言葉を聞くべきです。
アレクサンダー・マックイーンはこう言いました。
"Fashion should be a form of escapism, and not a form of imprisonment."
(ファッションとは、囚われの形ではなく、そこから逃げる形でなければならない。)ぼうっとしていると、囚われてしまいます。
簡単なほうを選んでも、囚われてしまいます。
他人と違う道は、簡単ではありません。
勇気もいります。
時間もかかります。
しかし、おしゃれであることを選ぶならば、
その道を通らなければなりません。
囚われた人々とは違う道を、あえて歩むのです。
幸いにも、優れたデザイナーたちは、多くのその道を用意してくれています。
私たちはそれを選ぶことができます。
もちろん、自分で作ったり、工夫したりできるものもあるでしょう。
問題なのは、それをあえて選ぶかどうかだけです。
代替可能な多くのものの中の1人から、
誰にも代えられない、
ほかには見つけられない、
あなたでなくてはいけない、
そんな存在になりたいのなら、同じであることを捨てましょう。
それを決意したその日から、
おしゃれであることは始まります。