ファッションはしばしば、アートに近づこうと試みます。
しかし、ファッションは決して芸術にはなれません。
半年やそこいらで、経済的な価値が半減してしまうようなものは、
芸術ではありません。
それにもかかわらず、またはそれであるからこそ、
ファッションはいつでもアートに憧れています。
企画展か、または服飾美術館以外で、
服やその周辺の小物が展示されることはありません。
どんなにすぐれたデザイナーの作品(商品)でも、
ミケランジェロやラファエロが展示されている、その隣の部屋に並ぶことはありません。
芸術は唯一で、永遠のものを目指しますが、
ファッションは今、または短期間有効で、ほとんどのものは唯一ではないのです。
無理とわかっていながらも、
ファッションはアートに憧れます。
そして、その試みは、たとえばモンドリアン・ドレスのように、
モチーフを服そのものにプリントするか、
または、人が日常に着ることを全く想定しない、服のオブジェ化によってなされます。
繰り返し行われるその試みは、その多くが失敗です。
それらは芸術ともみなされず、
かといって、人が着るわけでもなく、
どちらともつかない、中途半端な存在として、最終的には忘れ去られます。
なぜこれほどまでにファッションがアートに憧れるかというと、
やはりファッションも唯一で、永遠でありたいからです。
実際のところ、やっているのは短期間の流行による刹那の絶対的な肯定と、
必ず売れ残りが出る大量生産の容認にもかかわらず、
唯一で、永遠に憧れるなんて、
身の程知らずもいいところです。
絶対に芸術にはなれないファッションですが、
そのかなり近いところまでいって、商品から作品の領域まで踏み込めたものは、
多くはありませんが、存在し、それらは世界各国の服飾関係の美術館や展示で見られます。
ヴィオネのプリーツのドレス、
ディオールのバージャケットに代表される、ニュールックのスタイルなどは、
その代表でしょう。
確かにそれらは、今見ても色あせることなく、
見る人の鑑賞に耐え、服装における美の表現の一形態として、
服装史に刻まれるものです。
しかしそれらは全体のほんの一部です。
100万枚の1枚にあるかないかの確率です。
けれども、ファッションが唯一と永遠に憧れ、それを目指すことは、悪いことではないです。
なぜなら、服を着る人それ自体は、いつだって唯一の存在であり、
永遠目指すものだからです。
大量生産主義者は、多くの人があたかも同じスペックの存在であるかのように振る舞います。
しかし人間が存在してから、全く同じ顔形、体型の人など、
一度も存在したことはないのです。
私たちは、大量生産主義者のおしつけで、同じ形、色、素材の服を受け入れていますが、
間違っているのは私たちではなく、おしつけている大量生産主義者です。
服装史を振り返ってみても、こんなに同じ服が大量につくられ、
それらを選ばざるを得ないような時代はありません。
なぜなら唯一であり、永遠を目指す私たちにふさわしいのは、
まさに唯一で、永遠の服だからです。
私たちはそれぞれが、唯一の輝く星と同じです。
それぞれが、おのずと輝く存在です。
月のように、太陽がなければ輝かない存在ではなく、
太陽のように、みずからが輝く存在です。
そのことに気づいたなら、
横並びの、均質化した、大量生産の服は、
だんだんと選べなくなるものです。
そのときに、アートに憧れ、それを目指すファッションは、
大いに役に立つでしょう。
アルチュール・ランボーが
海と太陽のあいだに永遠を見つけたように、
私たちそれぞれが自分の中に永遠を見つけたならば、
もう他人の光を必要とすることはありません。
そうなったときに、初めてスタイルは永遠となるでしょう。
それは、美術館に飾られることこそありませんが、
生きているアートです。
ファッションは芸術ではありません。
それはいつでも、生きているアートのための、忠実なしもべなのです。