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2015年7月15日水曜日

ワードローブのアップデート

ある日、突然、持っているワードローブを見て、
着るものが何もない、
すべてだめになったと感じる日がやってきます。
それはまさに、ワードローブをアップデートすべきタイミングです。
今まで正常に、過不足なく動いていたプログラムはもはや古くなり、
新しいハードに対応できません。

ワードローブのアップデートが必要になるときとはどんなときでしょうか。
それはソフトではなく、ハードウエアやその周辺機器が変わったとき。
体型が変わった、
顔が変わった、
肌の質感が変わった、
引っ越しして環境が変わった、
仕事が変わった、
付き合う人が変わった、
流行が変わった、
そして最後に、気分が変わったなど。

ソフト、つまりワードローブは古すぎて、
あたらしいハードに対応していないため、
もはや機能しません。
何を着ても、心を動かすことができない。
何を着ても、足が一歩踏み出さない。
電源が抜けているのかと思ってはみるけれども、
どうやらそうではないらしい。
エネルギー切れとも違う、
この違和感。

残念ながらそんなときは、どんなに努力しても、
古いワードローブでは、ハートもボディも動きません。
ぐずぐずしていて、
面倒ぐさがっていては、
ワードローブをアップデートしないでいたら、
のろのろ動くハートとボディではどこへも行けません。

さて、パソコンのソフトはありがたいことに、
向こうからお知らせがやってきて、
クリックすればアップデートが完了します。
しかし、ワードローブのアップデートはそうはいきません。
では、どうすればよいのでしょうか。

まずハードの変化の点検です。
体型が変わったのなら、それを潔く認めること。
何度ながめても、昔の服はもう入りません。
肌の色が変わってしまったこと、
髪をいつも染めなくてはならなくなったこと、
年齢による変化を認めるためには、
より客観的に自分を見つめ、現実的な対応が必要です。
サイズが合わないのなら、合うサイズのものにかえる、
好きな色が気に入らなくなったら、違う色のものを選ぶ、
若いときと同じような露出度の高い服はやめるなど、
対応方法はいろいろ考えられます。
自分を客観視できれば、それは可能です。

次に環境の変化です。
仕事が変わった、住む場所が変わったら、
当然のことながら、以前の服は「その場にふさわしく」なくなるでしょう。
シーンとして考えて選んだものですから、
背景が変わるのなら、違う服装になるのは自然なこと。
新しい環境になれるためにも、
もはやそのシーンに不似合いなワードローブを処分することも必要となってきます。
農場にスーツはいらないし、
都会にビーチサンダルで出勤はできません。

その次は流行の変化です。
どんなに抵抗しようとも、どんなに無視しようとも、
流行は変化していきます。
私たちはずっと同じ時代に生きているわけではありません。
ある程度、流行を取り入れなければ、その時代の雰囲気は体現できないので、
おしゃれには見えません。
自分が何だか流行遅れに見えるそんなときは、

最新のファッションの情報を多く取り入れ、
自分の目を完全にリフレッシュしてしまえば、次に何を選んだらよいかわかるようになります。
その場合、メディアなどの写真による二次情報と、
実際の店舗へ行ってみるという一次情報、両方にふれることが必要です。
新しい時代の空気を実感することができたら、それを自分が取り入れてみることは、
そんなに難しいことではないでしょう。

ただし、ここで厄介なのは、
自分の年齢による変化と、流行の変化、
両方が完全に古いものになった場合です。
いつまでも若いときに好きだった格好、好きだった流行のスタイルを、
無自覚に何年も続けていくと、
自分の現実、ファッションの現在との差はどんどん開いていきます。
変化しているのに認めない、
ある時点でずっと止まっているそのかたくなな感じは、
全くおしゃれではないのですが、
あるとき、そのギャップに愕然とするときがやってきます。
それは街でウィンドウにうつる自分の姿を見たときかもしれないし、
同年代の人たちと集まるホテルでの会合で、
パウダールームで化粧直しをしようとした、その瞬間かもしれません。
そのときはあたかも自分の構築してきた世界が崩壊するように思えるでしょう。
家に帰ってタンスの扉を開けたとき、
そこにある服すべてが死んで見えるような、そんな体験をするかもしれません。
であるならば、すべきことは1つ。
死んだ服とはすべてさよならすることです。
もうそれは生きてはいないのです。
クリーニングに出しても生き返りません。
かろうじて、息絶え絶えでも使えそうな数点を残し、
残りは売るなり、あげるなり、処分するなりすることが必要です。
なぜなら、もはや死んでしまったかのように見える服は、
その人をどこへも連れていってはくれないからです。
それだけではなく、それはその人の足を引っ張る存在になります。
着ては気分が落ち込み、誰かに会うのが嫌になり、
劣等感を助長し、
決して助けてはくれない。
そんな服は持っていても仕方ありません。
数点だけ残した服で当分のあいだ過ごし、
新しく生き生きしている服に出会えるまでは我慢すること。
これは長いこと、時間を無視してきたことによる病のリハビリ期間です。
少しのあいだリハビリを続ければ、また新たに着たいと思える服に出会えるでしょう。

さて、最後です。
気分が変わったときはどうするか。
体型的な変化もない、引っ越ししたわけではない、
仕事も同じ、
自分が老けこんでしまったわけでもない、
それでも完全に気分が変わってしまって、
どうしても今持っている服が着たくないときが、
人には訪れます。
そのときにやるべきことは、これからどうやって生きていきたいか、
徹底的に考えること。
仕事を変えたいのか、
引っ越ししたいのか、
付き合っている人を変えたいのか、
今までと違うものを食べたいのか、
旅行に出たいのか、
何か新しい挑戦をしたいのか、
その変わった「気分」とは何なのか、
自分と向き合って、その答えを探し、
見つけたら、それに対してコミットメントすることが必要です。
それが決まらないのなら、次のワードローブの方向性は決まりません。

主人公は何のために、どこへ向かうのか。
「完全な気分の変化」という1つの崩壊の体験を経て、
人生のテーマはどう変わるのか、
何を目指すのか。
そして、それにふさわしいワードローブは何か。
それらはすべて自分で決めるべき事項です。
ですから、自分で決めて、それに対してコミットメントしない限り、
次に進むことはできません。

主人公は、崩壊した世界から新しい旅に出ます。
そのためには新しいワードローブが必要です。
どうしたいのかを決めたのなら、
おのずと必要なワードローブは決まってきます。
都会へ行くのなら都会の服が、
田舎へ行くのなら田舎の服が、
好きな仕事を始めるのなら、それにふさわしい服装が、
好きな誰かと暮らすなら、2人一緒に出かけるときの衣装が、
それぞれ必要になってきます。

ボディだけではなくハートを動かすエネルギーをもった
ワードローブへのアップデートは、
主人公に自信を与え、
どこへ行っても、誰と会っても、何をしても、
幸せを感じることができるものでなくてはなりません。
それでなくては意味がありません。

自分のハートは何によって動かされるのか、
どんなものを着ていれば、ボディは自然と動くのか、
それを知っているのは自分だけ。

自分自身に問いかければ、必ず答えは出てきます。
なぜなら、問いと答えは常に同時に存在しているからです。
どこにあるのかと問いかけた瞬間、
ここにあるという答えはもう既に存在しています。

答えは既に存在しています。
あとはそこへ向かって自分で歩いていくだけ。
自分で歩いていったものだけが、その答えにたどりつけます。
自分で歩いていったものだけが、満足のいくワードローブを構築できます。
誰かが持ってきてはくれません。
すべては自分次第です。

自分に向き合えば向き合うほどに、
ワードローブのアップデートは簡単にできます。
人生とは変化です。
ワードローブのアップデートは人生が変化、進化する限り続きます。
ボディとハートを100パーセント動かすためにも、
どうぞワードローブのアップデートをお忘れなく。
それはいつも自動的になされるものではなく、
手動でしなくてはならないものですから。


★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。



2015年7月1日水曜日

洋服の色合わせ その3

さて、色そのものの法則、
そして洋服という素材とシルエットにのったときの色について述べてきました。
次に、それが実際に人が、どこかの場で着たときの見え方についてです。

周知のとおり、色はその光によって見え方が変わってきます。
主には太陽光線、人工光線の2種類の光源があります。
また、太陽光であっても、緯度経度によって、
人工光線であれば、その光源の性質によって、色の見え方は変わってきます。

容易に想像できるのは、
ハワイで見る色の見え方と東京で見る色の見え方の違いです。
赤道に近く、太陽の光が頭上から降り注ぐハワイと、
それより北極側に位置する東京では、当然のことながら、
光の見え方は違います。
そしてその東京においてさえ、春分点、秋分点、冬至、夏至のころでは、
太陽の傾きがかわり、光線は変わります。
そのつど、同一の色でも同じようには見えません。

一方、人工光線では、
蛍光灯、LED、白熱灯によって、色の見え方が変わってきます。
太陽光下での色の見え方があくまで基準で、
それに対して人工光線がどのように見えるかをあらわす言葉が演色性です。
演色性が高いほど、太陽光に近く、低いほど、太陽光下とは違った見え方をします。
家庭やオフィスなどで多く使われる蛍光灯は、
この演色性が低く、太陽光線下で見たときと、同じ色の見え方はしません。
色のスペクトル分布がまばらなため、拾う色と拾わない色があらわれます。
蛍光灯下での食品が著しくまずそうに見えるのはそのためです。

また、余り語られてはいないことですが、
目の色によっても、色の見え方は変わります。
フィルムの現像が当たり前の時代、コダックを使うか、富士フィルムを使うかで、
上がりの写真は色が違って見えました。
あの差は日本人の目の色の見え方の差と、西洋人の目の色の見え方の差をあらわしています。
つまり、同じ人間という種族でも、人それぞれ色の見え方は違うのです。

ここからわかることは、色とは絶対的な現象ではない、ということです。
光源、目の色、太陽の緯度経度、時間、季節、環境によって、
見え方は変わる、それが色の特徴です。
色とは関係によって変わる、恣意的な現象です。

洋服の色合わせについて考えるとき、もっとも重要なことは、
関係によって変わる色の恣意性をどこまで把握するか、
どこまで自分を客観視できるか、ということです。
自分にとってふさわしい色とは、決してとある一室の、誰か1人が、
ひとつの光源において見た、
その季節、その時間の肌の色によって決められるものではありません。
それは全くもって客観的ではないのです。
ですから、私たちはその「誰か1人」よりもより大きな視点で、
客観的に色を判断する必要があります。

蛍光灯の下ではえる色、
湘南の海辺で太陽の照り返しを受けて似合う色、
都会の劇場のロビーの薄暗い照明の下、
シャンパングラス片手に誰かと談笑するときに引き立つ色、
その色がのるテクスチャーとシルエット、
そしてそれを着る人の動き、
それがしめやかなものなのか、激しいダンスのようなものなのか。
そして季節による変化、
子供の肌と大人の肌での光の反射の仕方の違い。

暖炉の前、焔に照り返されたときのニットの色合い。
オペラ座のバルコニー席で、絹ずれの音とともに翻る赤い絹のドレスの裾の色、
そこからのぞく黒いエナメルのパンプスの輝き。
鉛色の空、寒い冬の朝のオフホワイトのダッフルコートが、
ダークスーツの集団の中、光っている様子。
立春が過ぎて、太陽光線の傾きが穏やかになり、
春霞の中、明るさと暖かさをもたらす、やわらかなカシミアニットのピンク。
バラ園のバラと緑に似合う、花柄のシャツやドレス。
真夏の海辺、焼けた肌に似合う白、青、赤のトリコロール。
紅葉の森を散歩するときの、オイルドコットンのカーキなどなど。

もっとも美しく、そしておしゃれに見える洋服の色合わせは、
基本の色のルールをおさえた上で、
どれだけその人がそのシーンにふさわしいかで決まります。
それは自分の顔と洋服を鏡の前であわせただけではわかりません。

それがわかるようになるためには、
そのシーンにおいて自分がどんな見え方をしているのか、
常に気を配り、学習していくこと必要です。
海に行かなければ、海の光はわかりません。
劇場に行かなければ、劇場の照明はわかりません。
森に行かなければ、木漏れ日を知らず、
雪原に立たなければ、白銀の世界はわかりません。
すべての経験、すべての行動のたびに、光について学習し、
その都度、色の見え方を確認します。
それは訓練です。
やらないことには、上達はしません。
誰か素敵な色合いの人がいたら、どこがよいと思ったのか観察し、自分に取り入れ、
真似したくない人がいたら、自分は同じようにはしない。
引っ越したらそこの環境を観察し、
仕事場が変わったら、そこにふさわしい色合いを工夫する。
その繰り返しの結果、人はそのシーンにふさわしい洋服の色合わせをすることが可能になります。


洋服の色合わせは決して簡単なものではありません。
だけれども、簡単ではないからこそ、面白いのです。
そしてやればやるほど上達していきます。
それに取り組むか、取り組まないかは、人それぞれです。
絶対的な1つの答えはありません。
なぜなら、ファッションとは変化だからです。

変化を否定するもしないも、お気に召すまま。
それはその人の生き方です。
けれども、どちらを選ぼうとも、人生という舞台は続きます。
自分が演じられるのは、自分だけです。



★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。