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2015年4月15日水曜日

服が人を美しく見せるわけではない

ある服を着ることで、
その人が美しくなるのかという疑問が私たちの心に湧きあがる前に、
それは、美しくなるに決まっているのだと、
いつでも、どこでも、繰り返し言われたり、
書かれたりしてきました。
しかし、それは本当なのでしょうか。

ここでマルグリット・デュラスの「愛人(L'AMANT)」の一節を引用します。
「女を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではない、
念入りなお化粧でもなく、高価な香油でもなく、
珍しく高価な装飾具でもないということを、
わたしは知っている。」
このように小説家は断言します。

私たちは何となく、
その美しい服さえ着れば美しくなれる、
その高価な装身具をつけさえすれば美しくなれると、
信じ込まされてきました。
そう信じ込まされてきたからこそ、
今まで多くの投資を、
忘れてしまいたいほどの過ちを、
クローゼットの中の隅っこに隠したまま、
長い年月を過ごしてきました。
けれども、服は私たちの下僕であるべきで、
主人であってはいけません。
下僕のいかんにより左右される美しさを、
私たちは本当に欲していたのでしょうか。

その言葉は誰によって発せられたのか、
私たちは注意して調べる必要があります。

ティム・ガンという大学教授が、
女性に必要な10のアイテムを推進しています。
白いシャツ、タイトスカートなどを、
女性は持っているべきであると言います。
しかし、ティム・ガンとはどこで何を教えている教授なのでしょうか?
彼は、FIT、つまりニューヨークのファッション工科大学の教授です。
アートの学校ではありません。
工科大学、つまりテクノロジーのための学校です。
彼は、量産が前提の服作りの学校の先生なのです。
ですから、すべての人に同じものを持ってほしい、
そう考えているのです。
なぜなら、量産こそが彼らのねらいだからです。
これがもし、パリのオートクチュールの服作りのための学校の教授だったら、
このようなことは言わないでしょう。

確かに美しい服は存在します。
アートとクラフトが融合し、
100年、博物館に飾ってもおかしくないデザインがなされた美しい服は、
多くはありませんが、
確かに存在します。

一方、ひとの美しさとは、
着るものに左右されるものではありません。
肉体の美しさもさることながら、
しぐさの美しさ、
心の美しさ、
言葉の美しさなど、
どんなものを着ていても、十分に察知できるものです。
もしそれが着るものによって左右されるのならば、
その美しさは空虚で、偽りのものでしょう。

服とひとは対等ではありません。
あくまでひとが主で、服が従です。
私たちは、決して服のいいなりになど、なってはいけないのです。

どんなに完成度の高い美しい服を着たところで、
ひととしての美しさがないのならば、
それはショーウィンドウのマネキンと同じです。
もしそのひとの着ている服だけが印象に残ったのなら、
そのひとはたいして美しくはないのです。

ひとと服の主従関係をはっきりさせ、
服に従う人生から、早く抜け出さなければなりません。
その服を着れば美しくなりますよとささやいたそのつぶやきが、
誰から発せられたのか、
見破らなくてはなりません。
そして、まず最初に私たちが本当にすべきなのは服への投資などではなく、
ひととしての美しさを養成したり、
栄養を与えるための投資です。
それが完成の域に近づいたとき、
ほんとうに美しい服は、
あなたの忠実な下僕となって、
あなたの美しさをより輝かせるでしょう。

その時期がいつ訪れるのかは、
ひとによってさまざまです。
本物のデザイナーは、
そのときに貢献する服を作っています。
私たちはそれを選べばいいだけです。

運動したり、
読書したり、
楽器の練習をしたり、
料理をしたり、
どんなひとともコミュニケーションできたり、
ひとつの技術を磨いたり、
美にふれること、
それらが私たちを美しくさせます。
美しい人にこそ、美しい服がふさわしいのです。

小説家が知っていたように、
女性を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではないと、
多くの人がうすうす気づいていたことでしょう。
今はそれを確信に変えて、
やるべきことの順番の見直しをしてください。
そのときまで美しい服たちは、
あなたのことを待ち続けています。

文中引用:「愛人」 マルグリット・デュラス 清水徹訳
河出書房新社 1985年


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2015年4月1日水曜日

ファッションとは変化

ファッションとは変化です。
変化が常態です。
ですから、変化が止まったら、
それはすなわちファッションの死を意味します。

人もそれぞれ変化していきます。
人の変化は成長と呼ばれます。
年齢が若ければ若いほど、
1年の成長の幅は大きくなります。
成長の速度と距離は、人によってそれぞれです。
同じように、何歳まで成長し続けるのかも、
人によって違います。
多くの人は、年齢が上がれば上がるほど、
その成長の幅を縮めていきます。

時代に即して変化していくファッション、
年齢とともに変化していく人、
その交点にその人のワードローブがあります。
成長の幅が大きい人の場合は、
ワードローブに流行が大きく反映され、
成長が止まったならば、
ワードローブが流行に影響される割合はぐっと少なくなります。

シルエット、色、素材にも流行があり、
それは少しずつ変化していきます。
プルミエール・ヴィジョンのブックを見るまでもなく、
60年代の色と、2000年代の色と、2010年代の色は違います。
同じように人も、年齢とともに好きなシルエット、色、素材が変わっていきます。
そして、そこへ変化が遅い、物質としてのでき上がった服が入り込みます。

物質としての服の変化は、いわゆる経年による変化、
また洗濯による劣化、着用による摩耗や着用回数は、
もともとの素材の性質によって異なります。
当たり前のことですが、
着用回数が多いものは、劣化のスピードも早くなります。

活発な子どもは成長の度合いが大きく、
身体の変化が激しいので、その成長にふさわしく、
古いワードローブから脱皮していきます。

次にやってくる若い時代は、
精神的な成長の度合いが著しく、
それに伴いワードローブを変化させます。
誰でも二十歳のころの服を、
30歳になったとき、同じように着たい気持ちにはなりません。

若い時代が過ぎ、大人として成熟していく段階で、
成長の速度の個人差が大きくなります。
そこで成長をとめた人のワードローブは、
進化することを停止させます。
もはや服を着ることは生活に必要な行為であるだけであって、
ファッションと無縁になっていきます。
それは別に悪いことではありません。
生き方の1つです。
その生き方を誰かに否定される筋合いはありません。

しかし、もしファッションを目指すなら、
変化を受け入れなければなりません。
変化を拒むもの、恐れるものは、
ファッショナブルにはなれません。

時代が変わっていくならば、
それにあわせて進化していく。
若い肉体にもう戻れないとしても、
鍛えて維持をする。
常に精神を若々しく保ち、
過去に執着しない。
これらは、身体も心も、
そして物質的にも身軽でなければできないことです。
重くなりすぎたら、素早く変化に対応することは、不可能です。

物質的な服の劣化を見極めながら、
あくまで身軽に、
一度決めたことを葬り去る勇気と、
新しいことにチャレンジする進取の精神とを持ち続けるならば、
いつでもファッショナブルでいることは可能です。
それは実際の肉体年齢の問題ではありません。

ファッションとは変化です。
ですから、ファッショナブルな人とは、
変化に対応し、
進化し続ける人です。
他人によるレッテル貼りや、意味づけ、決めつけなどの、
多くの制止を振り払って、
走り続ける人こそが、
永遠におしゃれな人です。



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