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2017年6月26日月曜日

『わたし史上最高のおしゃれになる!』おわりに公開

 (こちらの写真は重版分なので、初版のものとは帯のデザインが違います)

『わたし史上最高のおしゃれになる!』の「おわりに」部分を公開します。
私の考えのコアとなる部分が表現されている部分です。
共感された方はぜひ本書を御読みくださいませ!
横書きでいきます。

おわりに

2017年の春夏コレクションで、マリア・グラツィア・キウリがデザインするところのディオールのランウェイに、「WE SHOULD ALL BE FEMINISTS」というスローガンの書かれたTシャツが登場しました。私たちはすべてフェミニストであるべきである。これはファッションの発展の歴史にとって重要なスローガンです。なぜならそれは、いつでもファッションの歴史の裏のテーマであり、どんなに優れたクチュリエと言えども、このテーマに踏み込まない限り、重要であるとは見なされないからです。
 それまでの女性が持っていなかった、衣服を通しての表現の自由と権利の拡大、その発展のためにファッションは毎年、進化します。固定化した役割分担からの解放、ジェンダーに張り付いた意味の解体と再構築、誰かのためではなく自分のためのセクシュアリティの表現、これらをより発展させるために、デザイナーは苦悩し、新しいデザインを考えます。
 何より大事なのは、選択する権利があるということです。私たちには着るものを選ぶ権利があります。それだけではありません。おしゃれであることを選ぶ権利があるのと同様に、おしゃれでないことを選ぶ権利もあります。もちろんそれは自分も他人にも同じように、です。私たちは他人を、おしゃれでないからという理由で非難することはできません。ファッションが標榜するのは表現の自由ですから、それはいつでも尊重されます。ですから、他人のその服装を「ダサい」「遅れている」などと非難することは、ファッションの精神とは相入れないのです。
 この本を通して、私はおしゃれに見えるポイントをお伝えしましたが、けれどもそれは、誰かを非難したり、ジャッジすることに使うためではありません。おしゃれでありたいのならば、他人がおしゃれはしないという自由さえも認めなければなりません。
 もう1つ、真のフェミニストが認めるのは多様性です。ファッションをつくる側の人間は、人々の多様性を認め、それを信じるからこそ、毎年たくさんのデザインを考え、服や靴、バッグをつくります。もしすべての人が同じ服、同じ靴、同じバッグを持てばいいのなら、何年も勉強して、泣きながら服を作るような、そんな努力はしないのです。ファッションをつくる側は、人々がそれぞれ違うライフスタイルを持ち、それぞれが違う過去の傷と未来の夢を持っていることを知っています。だからこそ、すべての人が同じ服、靴、バッグであればいいなどとは決して思わないのです。それは女性でも男性でも同じこと。もちろん性的志向が大多数の人と違っても、ファッションをつくる側は何ら問題にしません。彼らは、すべての人が同じ服と靴とバッグで街を歩くモノクロームのディストピアではなく、すべての人がそれぞれの多様な個性を発揮し、街を彩るカラフルなユートピアを信じているのです。

 そんな自由と権利が侵害され、多様性が否定されるならば、それはファッションの本来あるべき姿ではありません。誰にでも平等にそれはあります。お金持ちだけに自由と権利があり、お金がない人にはない、というものでは決してありません。自分はお金があるからおしゃれをするのにふさわしいけれども、あなたは貧しいのだから、労働の対価がディスカウントされ、おしゃれする権利も認めないというその態度は、ファッションでも、おしゃれでもないのです。この点を間違ってしまうと、人はファッション至上主義に陥り、他人に対して非道な行為をしても何ら罪を感じなくなります。でもそれはやはり違うのです。フェミニストではないのです。フェミニストではないということは、つまりおしゃれでもファッションでもないのです。
 しかし、そうは言っても、現実のファッションの世界、特にアパレル業界では、この点が徹底されていないのが現状です。いつでも世界のどこかで誰かの、特に弱い立場の人の権利は踏みにじられています。ファッション至上主義者はいとも簡単に、そんなことはどうでもいいと言わんがごとく、自由と権利を奪っていきます。見て見ぬふりなのか、本当に見えていないのか、そのどちらかなのかはわかりませんが。
 そしてそれを買う側も、油断しているとどんどん奪われていきます。ワードローブは大して好きでもない、どうでもいいものだらけで満たされ、甘い言葉の誘い文句、またの名は脅迫で、そのワードローブは膨れるばかり。その挙句、誰からもおしゃれと言われないなんて、こんな悲惨なことはありません。そうならないためにも、自分をしっかり持つこと、知識で防衛することは必要です。
 自由に着ていいのです。誰かに何か言われたって、どう思われたって構わない。もちろん失敗してもいい。うまくいかなくてもいい。誰も認めてくれなくても、誰に知られなくても、そんなことはどうでもいい。
 失敗しなければ成功しないし、誰かが何か言ったって、その誰かはあなたの人生の責任をとってはくれません。
 自分に自信がないから、自分のことを好きでないから、誰も褒めてくれないから、そんな理由で、せっかく手にした自由と権利を手放し、盲目的に誰か大きな声の人たちのフォロワーになって、これ以上、主導権を奪われ続けていたら、その結果、得られるのは今より一層みじめな気持と満たされない心、あなたの好きが反映されない、オリジナリティが欠如した心踊らないワードローブ、そして何よりあなたを苦しめる自己嫌悪の感情でしょう。そんなことをしていたら、ますます自分を嫌いになるばかりです。自由と権利を自分から差し出して、自分を表現することを拒み続ければ、まちがいなくその人は憂鬱になり、うつむき加減に街を歩く人になるでしょう。
自分に自信がないのなら、自分のことが好きでないのなら、誰も褒めてくれないのならなおのこと、やるべきなのは自分をよく知り、どうしたいのか考え、失敗しながらも、あきらめず行動し続けることです。
 誰も認めてくれないかもしれません。それどころかその失敗は誰かに笑われるかもしれません。現実は何も変わっていないと感じるかもしれないけれども、ここでおしゃれになると勇敢に決意したこと、恐れずやってみたこと、思いきって試してみたこと、恥ずかしい失敗をしたこと、それでもまた起き上って行動し続けたそのことが、誰にも奪えない宝物として、生涯を通じてあなたを支えるのです。
 播いた種からはいつか必ず芽が出ます。かけた言葉の返答は、遠い未来に必ず戻ってくるでしょう。あなたの願いをかなえるのは行動したあなただけ。そして、あなたをおしゃれにするのはあなた以外ほかにはいません。
 大丈夫です。私がここでお伝えしたのは誰にでもできる方法です。この本を手に取って、一歩踏み出したのですから、それはきっとできるようになります。
私はあなたを誰かと比べるつもりはありません。そのユニークさを知っています。疑いもなく実現することもわかっています。あなたの大事なものを捨てなさいなんて言いません。あなたの好きなものと嫌いなもの、そして、その意思を尊重します。あなたは誰とも違うのだから、みんなと同じものを着ろなんて言いません。あなたの肌にその色は似合わないから、そのあなたが好きな色をあなたは着てはいけないなんて決して思いません。
私はただ単に、好きなものをおしゃれに着られるようになって、より自由になった、そんなあなたを見たいだけです。そしてそんな自由なあなたの姿を見るのが好きなのです。だって、それがファッションだって、偉大なデザイナーやファッションフォトグラファーたちは私に教えてくれましたから。ずっと前からそうだって、私は知っています。

 今回紹介したメソッドは、私が中学生のころからファッション雑誌を読み始めたこと、中学・高校の演劇部時代に衣装をデザインして作成したこと、大学時代に学んだり、シェイクスピア研究会で衣装をつくり、シェイクスピア劇を上演したこと、文化服装学院時代に学んで作って覚えたこと、春休みや夏休みや冬休みに数多くのブランドでアルバイトしたこと、東京コレクションに参加するブランドのスタッフとして働いた時期に培った技術と経験と、大手アパレルメーカー時代に知り得た情報と、そして私に心が震えるほどの感動を与えてくれたすばらしいたくさんの服と、それらすべてをもとに私が独自に、そして自分のためにつくり出した方法です。それを2010年以降、一般の方にファッションレッスンという形でお伝えし、その一部を同じ2010年から「誰も教えてくれなかったおしゃれのルール」というブログ形式で公開してきました。本書のおしゃれTIPSの一部は、そのブログの文章を解体し、再構成し直したものです。

 本書を通して、主導権を奪われ、脇役に追いやられそうになった、多くの自分の人生をおしゃれな主人公として生きたいと願う方々のお力になれたら幸いです。
 」


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2017年6月13日火曜日

おしゃれを完成させるのは絵になるロケーション

西洋の衣服を考えるとき、それが絵になるかどうかはいつでも重要なポイントになります。
暗黒の中世が終わりを告げ、後にルネッサンスと呼ばれる時代に入るころ、
正面を向いた自画像で有名なドイツ人の画家デューラーは、
自分の着ている衣服のひだや、それによってできる陰影、
そして生地の質感を丹念に描きました。
衣服と絵画の関係はこのころから強く結ばれ、
それが現代へと続き、ファッションはファッションフォトグラファー、
そしてそれを掲載するメディアであるファッション誌なしでは存在し得なくなりました。

翻って、日本で長く着られているキモノは、
その平面的な生地そのものに絵を描きます。
美術館へ行けば、キモノが衣紋掛けに掛けられ、
そこに描かれた、絵画のようなデザインがわかるように展示されているさまを見ることができます。

作業や労働をするときのようなものではなく、
特に美しい衣服や、それを装飾するジュエリー、アクセサリー、シューズは、
実は全体として絵を作るために作られています。
衣服が重かったり、歩けないシューズだったりしたとしても、
それは全体の美しい絵のために奉仕するためであるので、
さほど問題にはされないのです。

ある程度、ワードローブがそろい、それなりにおしゃれに見える作法を身に付けたとき、
それでも何か物足りないと感じる方も多いのではないのでしょうか。
その原因の1つは、いくら衣服や装飾品、そしてシューズを揃えたとしても、
西洋の衣服というものは、それにふさわしい絵、つまりシーンなしでは成立し得ない、
つまり衣服だけではおしゃれに見えないという、その性質によるものです。
どんなに服、シューズ、バッグをそろえても、
あなたの立つシーンが、例えば田んぼの真ん中や、
蛍光灯がこうこうと光る工場付随の事務室では、
何か物足りなく見えてしまうのです。

多くの地方在住者が抱える悩みはこの点にあるでしょう。
情報やモノは今や、どんな僻地へも平等へ届けられます。
しかし、絵になるようなシーン、つまりロケーションが近くにない場合、
そこに葛藤が生まれます。
それは着ていくところがない、おしゃれする場所がないという葛藤です。

しかし、皆さんが思っているほどに、
東京という都会でさえ、さほど絵になるようなロケーションは多くありません。
それは海外のハイブランドが作るトーキョーフィルムがいつでも、
夜のネオンや、連続する赤い鳥居をくぐるシーンばかりということを見てもわかります。
現代の日本の街づくりは、決して全体として絵になるようにデザインされていないのです。
ヨーロッパの都会から遠く離れた小さな村にあるものが、日本にはほとんどありません。

そうなると、おのずとおしゃれをしていく機会も限られます。
試してみたくても、着ていくロケーションがありません。
ではどうしたらよいでしょうか。

なにも行動せず家にいるだけでは、
ロケーションは向こうからはやってきません。
いくら都会に住んでいても、土日は家にいて、全く外出しないのでは、何も解決はしません。
その解決方法は、自分で進んで絵になるロケーションのあるところへ出かけるか、
もしくは自分でその場を設定するか、
そのどちらかしかありません。

自分で進んで出かける場合、絵になるロケーションはいろいろ考えられるでしょう。
洗練された海岸や高原のエリア、
もしくは美術館、劇場、ホテルやレストランなど、建築やインテリアが美しいところなど、
おしゃれして出かける甲斐がある場所がそんなロケーションとなり得ます。

一方、自分でその場を設定する場合は、
家でパーティーをする、誰かをもてなす、
もしくは何かの会を企画する、発表会をするなど、
自分の住んでいる地域や、している活動によっていろいろな可能性が考えられます。

いずれにしても、実現するためには行動しなければなりません。
そしていつか誰かがそんな場所へ連れていってくれるだろう、
そんな機会を設けてくれるだろうという受け身的な程度では、
その機会はいつになったらやってくるかわかりません。

実のところ、おしゃれと受け身的な態度は相性が悪いのです。
とことん悪いのです。
あなたがいつも思う、あの離婚したほうがいいカップルと、
同じぐらい悪いのです。

受け身的な誰かのフォロワーである限り、
あなたが身につけることができるおしゃれの能力には限界があります。
それでもある程度のところまではいけますが、
それ以上はどこへも届きません。
遠くまで行きたいのならば、自分から行動すること。
もちろんそこそこでいいのなら、
受け身的かつ依存的でも構いません。