ページ

2013年1月28日月曜日

ペプラムの復活

2012年の決定的なシルエットの変化とともに、ペプラムが復活しました。
ペプラムとは、ウエストに切り替えを入れ、腰にかけて、大きく広がるようにフレアやプリーツを入れる、装飾の技法の1つです。
ペプラムの復活は、何を意味するのでしょうか。

ペプラムが多くみられるのは50年代のファッションです。
ディオールのバージャケットは、ウエストで切り替えてはいないので、
ペプラムではありませんが、シルエットは同じです。
しかし、それがオリジナルかというと、そうではありません。
19世紀半ばのバッスル・スタイルと呼ばれる、スカートの後ろ部分のみ膨らませたスタイルや、
ヴィクトリア朝時代に流行した、スカート全体を大きく膨らませるスタイルに、
ペプラムの源流を見ることができます。
特徴は、ウエストを細く、そしてそれに続く腰のラインを大きく膨らませることによって強調するスタイルであるということです。
つまり、これは女性性の復活です。
私たちは、無意識のうちに、失われた女性性の復活を、シルエットで表現します。

でも、この15年ばかり、服のウエストはとても細かったではないかと思われるでしょう。
確かにそれはそのとおりです。
しかし、それは、腰を強調するためのウエストの細さではなく、
体全体を細く見せるためのものであり、発達したストレッチ素材を使って、
最初から細い設定のウエストにしたのでした。
ですから、そこには高度な技術が必要な、ダーツのテクニックは用いられていません。
一方、今出てきているペプラムは、
ウエストを細く見せるためのダーツやフレアを駆使したテクニックであり、
ウエストの実寸の細さを要求しているわけではありません。

では、張り出した腰は何を意味するのでしょうか。
土偶の女神像を見ていただければわかるように、
豊穣さを表現するために、女神の腰は大きくなくてはなりませんでした。
たくさん産むということは、同時にクリエイティブであるということです。
そして、その表現として、原始時代から、女神の像や絵画は、大きな腰で表現されることが多いのです。(クラナッハは除きますね)

長い間、ウエストから腰を装飾する、無駄なペプラムは敬遠されてきました。
女性性は軽んじられ、
効率的であること、無駄のないことが優先されました。
子供を産み育て、長時間労働ができない女性よりも、
男並みに働く、無駄のないスーツ姿の女性がよいとされてきました。
けれども、その結果、世界はやせ細り、何も生み出さないほど、疲弊しました。
心はいつも不足感でいっぱいで、いくら甘いものを食べても満たされません。
そしてやっと気付きました。
(もちろん、それは無意識のレベルで)
役に立たないと思われたそのものは、ほんとうは必要だったのです。
それなしでは、私たちは何も生み出せないのです。

これから先何年かは、女性性を強調、または感じさせるシルエットや装飾が数多く復活してくるでしょう。ペプラムはその一例です。
それは確かに無駄です。
役立たずです。
だけれども、豊かです。
その豊かさは、自然が持っている豊かさと同じものです。
誰にでも、気前よく、無尽蔵に与えるもの。
そこに不足感はありません。

「欲しい」の時代から「与える」時代への転換期です。
「愛されたい」から、「愛する」に変わります。
愛などというものは、与えても与えてもなくならないものなのです。

ペプラムの復活は、そんな女性性の再認識であり、
豊かさの表現です。
豊かであることこそ女性らしい、
服を通して私たちは、そこに再びかえるのです。


2013年1月21日月曜日

「子供っぽい」と「大人っぽい」

このブログをどういう年齢の方々が読んでいらっしゃるのか、
実際のところ、私にはわかりません。
けれども、大方、皆さん、大人だろうなと思って、
実際の年齢ということではなく、「大人」を対象とした内容のものが多いと思います。

けれども最近、けっこう20代の方々も読んでくださっているようで、
大人っぽい着こなしをするためにはどうしたらいいかという質問をいただきました。

服装において、「大人っぽい」と「子供っぽい」は何が違うのでしょうか。

皆さんも何となく、これは子供っぽいよねとか、
あれは大人っぽいなとか、気付いてはいるでしょうけれども、
それの一体どこが大人っぽい、または子供っぽい印象を与えるのかは、
はっきりわかっていらっしゃらないと思います。
けれども、「大人っぽい」と「子供っぽい」の間には、はっきりとした境目があります。
その境目とは、子供っぽさとは、すべてにおいて過剰である、ということです。

「子供っぽい」をあらわすキーワードには、カラフル、元気、ごちゃごちゃ、何でもあり、
エネルギーにあふれている、などがあげられると思います。
それに対して「大人っぽい」には、シック、エレガント、シンプル、洗練された、物静かなどでしょう。

子供というものは、とにかく何に対しても過剰です。
服装の場合も同じです。
子供服売り場を想像してみてください。
頭痛がするほどの、さまざまな色にあふれています。
コーディネイトする際も、3色ルールは適用しません。たくさんの色を使います。
また、色だけではなく、装飾も過剰です。
フリルも、ポケットも、リボンも、大きすぎたり、数が多かったり、大げさだったりします。
なぜかというと、それが子供っぽさだからです。
子供は、その過剰を、有り余るエネルギーで消化していきます。
たくさん動き、たくさん走り、笑って、泣くことで、その「過剰さ」と対等になります。
子供自身のエネルギーは、過剰な色、過剰な装飾がよく似合うのです。
ですから、子供が、変にシックな黒一色の装いなどをしていると、逆に不自然です。
エネルギーがふさがれている感じがします。

それに対して、大人は、エネルギーの過剰性がおさまってきます。
そんなにたくさんいらなくなります。
ちょこまかと動かなくなり、
キャーキャー叫ばなくなり、
大げさに笑ったり、泣いたりせず、
静かにふるまう、それが大人です。
そして、そうした大人には、過剰とは正反対のシンプルが似合うのです。

シャネルは、「シンプルであることが一番美しい」と言いました。
大人になればなるほど、シンプルが美しいのです。
なぜなら、過剰であることは、疲れるからです。

多すぎるフリル、
あふれる色、
目立ちすぎるデザインなど、
どれも大人っぽくは、ありません。

もし、子供っぽく見せたい、幼く見せたいのなら、
それを活用するのもいいでしょう。
それが必要なときも、あるのかもしれません。

しかし、そうでないとしたら、
シックで、エレガントな、大人の装いをしたいと思うのなら、
シンプルに徹することが重要です。
なぜかと言われれば、それが「洋服」というものだからです。

シンプルが少し退屈なのは、私も重々承知です。
私たちは、どうしても過剰なデザインのもの、
派手なデザインのものに目が行きます。

だけれども、大人なら、シンプルなそのものの中に、宇宙のすべてを入れることができると、
知っているでしょう。
小学生に、京都の竜安寺の石庭を見せても、何も意味がわからないかもしれませんが、
大人なら、あのシンプルな、すべてのものを最小限にした空間の中に、
宇宙のすべてを見ることができます。

シンプルであることは、ごまかしがききません。
素材もデザインも、すべて見透かされてしまいます。
もちろん、それを着るあなた自身の内面も、隠すことはできません。

何も隠す必要のない、
堂々とした自分の内面ができたなら、
あなたは、シンプルを楽しめるようになるでしょう。
過剰なデザインに助けられなくても、自分でいるだけで、人々を魅了することもできるでしょう。

その意味で、大人であることと、年齢とは関係ありません。
何一つうそ偽りのない、誰の前でも恥ずかしいことのない自分になれたら、
そのとき、あなたはもう大人です。
それができないと言うのなら、年齢がいくつであっても、まだまだ子供だということです。

どこまでもそぎ落としても大丈夫。
それでもまだ自信が揺らがない、それが大人。
そのときシンプルは退屈なものから、心地よいものに変わるでしょう。
それは、その域に達した人たちにしか、わからない価値なのです。




2013年1月14日月曜日

光を味方につける

洋服と光、すなわち照明であるとか、太陽光の関係については、
あまり語られることがありません。
しかし実際のところ、洋服と光は、大いに関係があります。

メイクアップ・アーティストや、インテリア・デザイナー、または写真家の方々は、
光について、多くを学んでいらっしゃるでしょうから、
太陽光と人工の照明の違いについて、熟知していらっしゃるでしょう。
そして、それらの光によって、ものが驚くほど違うように見えることも、
心得ていらっしゃると思います。

服も、同じように、光の具合によって、見え方が大きく違ってきます。
服が照らされる光は、大きく分けて太陽光と人工の照明とに分かれます。
そして、人工の照明は、蛍光灯、白色電球、LEDライト、ハロゲンなどに分かれていきます。
どれも、物体の見え方は異なります。

この中で、いわゆる服の素材の質感を最もはっきり見せるのは、太陽光です。
太陽の光にさらされると、素材のよしあしがはっきりします。
特にウールの場合、それは顕著で、いい素材は独特のぬめりをもった質感がはっきりわかりますし、
悪い素材は、ずっとラフな、つやのない感じになります。
また、色としては、太陽光の下の黒も、素材感があらわれやすい色の1つです。
いい素材の黒は、太陽の光の下で、すばらしく光り、しっとりした光沢があります。
服ではありませんが、黒い革靴やバッグも同様に、太陽光の下だと、
素材のよしあしがはっきり見てとれます。
コットンや麻も、やはり太陽光に当たると、素材がよくわかるのですが、
ウールほど顕著ではありません。
近くによればわかる程度で、その道に詳しい人にしか、わからないほどの差の場合もあります。
太陽光の下で、一番みじめに見えるのは、化学繊維でできた、安いベロアやベルベットです。
気をつけないと、その素材を身につけている人のことさえ、安っぽく見せます。
その他、ポリエステルは、あまり見え方の変わらない素材、そしてシルクは、太陽光の下でも、美しく見える素材です。

次に人工の光です。
皆さんもよくご存じのように、蛍光灯の下では、どんなにすばらしい素材を置いても、
さほどよくは見えません。
独特の青白い光が、影を均一にするせいもあり、よいものもよくは見えないかわりに、
悪いものも、その悪さは目立ちにくいです。
すべてのものが均一に見える、それが蛍光灯の光です。

白熱電球は、蛍光灯に比べれば、ずっとすべてのものの、あらを隠す照明です。
こちらは、はっきり言って、どんなものでも、ある程度、美しく見せます。
白熱電球に、部分的にハロゲンランプを使えば、
レストランの照明のようになり、きらきら感が増しますので、
より一層、素材のあらは見えません。
悪い素材でも、それなりにちゃんと見えます。

最近、メインの照明になりつつあるLEDライトは、蛍光灯よりは多少ましではあるものも、
独特の色調の暗さがあり、服ものっぺり見えます。
あらもわからないかわりに、美しくも見えないという感じです。

ここまでで、光と素材の見え方の関係の説明は終わりです。
どんな光で、素材がどのように見えるか把握しておけば、
それを応用することができます。

皆さんの中には、演劇やライブ、コンサートなど、実際の舞台をご覧になったことがある方々が多いと思います。
そんなに大げさなものではなくても、子供のころのピアノの発表会であるとか、
バレエの発表会など、何かしら舞台照明というものを、一度は見たことがあるでしょう。
あれを思い出してみてください。
舞台の上では、あんなに素敵に輝いていた衣装も、
そのまま外に出ると、意外なほど、安っぽく見えます。
さっきまで舞台の上では、あんなにきらきらしていたのに、光が変わった途端、まるで違うもののように見えたことでしょう。
高級なシルクのサテンでできたドレスだとばかり思っていたのに、
太陽の下でよく見たら、化繊の安いサテンだったなんていうことも、あったと思います。
舞台の照明とは、そういうものなのです。
どんなに安い素材でも、どんなにフェイクの宝石でもリアルに見せる、美しく見せる、
それが舞台照明です。
そして、それと同じような照明が使われているところが、レストランや劇場のロビー、バー、
あるいは結婚式場、高級ブティックなどです。
そこでは、どんなものも美しく見せる照明を使っています。
ということは、レストラン、劇場、ライブ、コンサート、バーなどへ、
少しいつもと違うおしゃれをしていきたい場合、
または、少しきらきらさせたい場合、
多少フェイクのものを身に付けたとしても、
それはそれなりに美しく見せることが可能であるということです。

逆に、太陽光の下で、少しいつもよりおしゃれに見せたい場合は、
決して、劇場の照明の下でこそはえる服を着てはいけません。
まさに、白日のもとに照らされて、フェイクであることがばれてしまいます。

ですから、太陽光が美しいレストラン、昼間で太陽光の入る結婚式会場などでは、
本物で、かつ上質なものを身につけるよう、注意しましょう。
そういった上質な素材は、太陽光に負けることなく、
その美しさを発揮します。
もちろん、本物のゴールドや、ダイヤモンドも、最高の輝きを見せ、
それがフェイクではないということがわかるのです。

「すべてこの世は舞台」とは、シェイクスピアのセリフですが、
まさにそのとおりです。
あなたは常に、何かの光に照らされています。
それは太陽のときもあるでしょう、
蛍光灯のときもあるでしょう、
スポットライトのときもあるでしょう、
月光のときもあるでしょう。
「おやすみなさい」と言って、ベッドに入るそのときまで、
何かしらの光が、あなたを照らしています。

そのことを忘れないで、今日着る服を選んでみてください。
あなたは、あなたという人生の主人公なのですから、
主人公が最も輝くように、照明まで考慮しながら服を選ぶ、
それも、あなたがあなたのためにできる、大切な仕事です。
あなたが生きる毎日の、すべての小さなシーンには、
一つ残らず、光が当たっています。
そしてきっとそれを、どこかで誰かが、見守ってくれていることでしょう。
たとえそれに、あなたが気付いていないとしても。

2013年1月7日月曜日

シンプル・ワードローブの極意

このブログの基本は、
そんなにたくさんのワードローブを持っていなくても、
おしゃれに見えることは可能だし、
おしゃれに見えるかどうかと、たくさん持っているということとは、
関係がないということなのですが、
では、ただただ枚数を減らせばいいのかというと、
それもまた違います。

詳しい方法論は、
このブログの最初のほうの、
「おしゃれのルール」というタグにまとめてありますが、
それでも、まだ書き足りないことがあります。

それは何かというと、
枚数を減らした結果、残った服の性質の問題です。
これについてよく考えないと、
減らしたのはいいけれど、やっぱりうまくいかない、
ということになります。

例えばの話です。
金メッキの指輪を10個集めてみたところで、
満足はできません。
金メッキの指輪を100個集めてみても、
純金の指輪1つを持つことの満足感には、
到底達することができないのです。

これは食べ物と似ています。
いくらカロリーの高いジャンクフードをたくさん食べても、
決して満たされた感じは訪れません。
たしかにカロリーは摂取できます。
けれども、ジャンクフードには、人間に必要な栄養素が含まれていません。
満足が得られないため、大量に食べる結果、
残るのは、余分な脂肪だけになります。
余分な脂肪をまとったところで、
それでもまだ、満足はできないのです。

服を集めるときも同じです。
自分にとっての純金、
真に満足できるものを選んでいかないと、
いつまでたっても、何かが足りないという気持ちだけが残ります。
空っぽの栄養のものをたくさん集めたところで、
心は満たされません。

では、何が自分にとっての純金なのでしょうか。
それは、人それぞれの価値観によって違います。
ある人にとっては、それはハイブランドであることかもしれません。
また、ある人にとっては、それは自分で作ったものかもしれません。
また、違う人にとっては、それはオーガニックな素材のみで作られたものなのかもしれません。
それは、その人自身にしかわからない、
その人に必要な栄養なのです。

もちろん、実際に着られるかどうかや、
今流行っているものかどうかの問題もあります。
経済的な問題もあるでしょう。
けれども、この、自分にとっての純金、
つまり本当に価値あるものを集めるということをぬかしては、
シンプル・ワードローブは成り立ちません。

シンプルでいるためには、
ものの価値を見抜く能力と、
自分が求める価値を知る能力の2つが必要です。
ものの価値を見抜く能力は、その道のプロに頼めば、
一時的に得られますが、
自分にはどんな栄養が必要か、今何を欲しているのかは、
その人にしかわかりません。

お仕着せのダイエット方法が万人に通用しないように、
誰かからの提案だけでは、
決してシンプルにはなれないのはそのためです。
失敗することは、目に見えています。

性別や年齢、ルックス、そして服のサイズだけで、
提案される、その方法では、
決定的なことが欠落してしまいます。

自分がどういう人になりたいのか、
どういう暮らしをしたいのか、
どういう環境を好むのか、
何が好きなのか、
何が嫌いなのか、
好きな音は何か、
まず、それらのことを、第一に考えるべきなのです。
それなしには、永遠にシンプルにはたどりつけません。

もし、それさえ自分でわからないと言うのなら、
本当に自分が満足する時間を、
もっと自分に与えるべきなのです。
暖かい光に満たされて、
もうほかに何もいらないと思える、
あの時間の中に、もっととどまっていなければなりません。
一瞬のときめきではなく、
永続する幸せな気持ちを、
自分の中に作る必要があります。

何をしたら、自分の中にその満たされたものが生まれるのか、
そして、取り除くべき不純物は何なのか、
それを冷静に分析し、
そのための方法を探し、実践する。
その方法は、ヨガや瞑想かもしれませんし、ランニングやガーデニングかもしれません。
いろいろあると思います。
それを実践した結果、自分の中の不純物が取り除かれるようになったら、
おのずと、自分にとっての純金に値するものしか、
選べなくなるでしょう。

そうして選んだもので、シンプル・ワードローブは完成されるのです。
そのときそれは、目標ではなく、結果となります。
意識しなくても、選んだものが、結果、シンプルになった。
シンプル・ワードローブとは、
全く無駄のない、
そして、永続する幸せを与え続ける、
あなたにとっての純金を集めた、その結果なのです。