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2015年12月2日水曜日

印象コントロール

いまだに多くの人が他人の目を気にしてワードローブを構築しています。
その理由はいくつかあります。

その1つが、
「いつも同じ服を着ていると思われたくないから」という理由で、
たくさんの枚数を所持する場合です。

では、その当の本人が、
「いつも同じ服を着ている」と思われていないかといえば、
それは、はなはだ疑問です。

たくさんの人の実際のワードローブを拝見してきましたが、
この「いつも同じ服を着ていると思われたくない」という考えにとらわれている人ほど、
それとは逆の方向にワードローブの構築をしています。
つまり、意図するところとは違った結果を導くようなワードローブです。

例えば、こんな感じです。
何本ものブルー・ジーンズ。
3枚以上のトレンチ・コート。
Vネック、クルーネック、カーディガンと集めたグレーのニット。
微妙に色が違うだけの同じ形の台形スカート6枚。

「いつも同じ服を着ている」と思われたくない人たちの、
ワードローブを眺めてみればわかることですが、
そこには細部は違うけれども、
似たような形、色のものが多数そろえられています。
しかし実際のところ、
他人の目から見れば、
それはどれも同じです。

ジーンズがリーバイスだろうが、LEEだろうが、それはジーンズですし、
トレンチ・コートがバーバリーだろうが、アクアスキュータムだろうが、
それはトレンチ・コートです。
台形スカートの色や素材が少しぐらい変わっていようが、
それはいつも同じようなスカートをはいている人です。

他人の目は、細部やブランドなど、識別しやしません。
大体が、ジーンズをはいている、
スカートをはいている、
トレンチ・コートを着ていたなど。
もっと大ざっぱだと、
パンツかスカートか、それぐらいしか見分けません。
ですから、ジーンズを何本とりそろえて、毎日違うものをはこうが、
それはジーンズばかりはいている人ですし、
違うブランドのトレンチ・コートを毎日とりかえて着ていこうが、
それは毎日、トレンチ・コートの人なのです。

次の例です。
他人とは何らかの区別をつけたいと狙う人の多くが、
どこのブランドかすぐわかるようなブランド物のバッグを持っています。
すぐわかるということは、
ブランドのマークが大きくついていたり、
または、ブランド名が書いていたり、
デザインが一目でどこのものかわかるようなもの、ということです。

そういった人たちの多くが、
その人自身より、ブランド物のバッグのほうが印象深くなるという結果を招いています。

例えば有名なブランドの、シグニチャ―・モデルといわれるようなバッグを持っていたとします。
それが、その人の全体のスタイルとバランスがとれている場合は全く問題ありませんが、
そうではなく、
そのバッグだけが突出したクオリティや価格だとすると、
当然、そのバッグに人々の視線は注目します。
逆の言い方をすると、
他人は、そのバッグを見こそすれ、その人自身のことは見ません。
もし初対面の人だとしたら、その人のことではなく、バッグのことを記憶します。
今日会った何々さんはどんな人だったのかと聞かれたら、
「45万円ぐらいのシャネルのバッグを持っていた人」と答えるでしょう。

ファッション誌やネットに情報として流通している、
多くの有名なブランド物のバッグは、多くの人が記憶しています。
もしそれを全体のスタイルとは関係なく、持っていたのなら、
確かに多くの人は、そのバッグについての自分の記憶を喚起し、
頭の中で情報を処理し、新たに記憶し直すでしょう。
しかし、それだけです。
記憶に残るは、どこどこのバッグ、だけです。

このどちらの例も、
他人の目を気にして、その印象をコントロールしているようで、
それに失敗しています。

いつも同じものを着ていると思われたくなければ、
アイテム自体のデザインを変えなければなりません。
同じトレンチ・コートを何枚も用意するのではなく、
トレンチ・コート、ダッフル・コート、ピーコート、ステンカラー・コートというように、
アイテムをずらしていかないことには、
全く意味がありません。

また、どんなに高価なバッグを持っているとしても、
それが自分より目立ち、
他人の印象がそれだけになるのならば、
そのバッグを持つことの意味はありません。
高価なブランド物のバッグを持つならば、
そういえば、あのバッグはどこのものなのだろう、
ああ、あそこね、ぐらいの印象でなければなりません。
最初から、ディオールの50万のバッグの人、という印象だけを
他人に植え付け、
その人のことは忘れ去られたのでは、
全く意味がないのです。

これらすべて、自分が他人をどう見ているか考えてみればわかります。
あなたは誰かが着ていたジーンズがリーバイスなのか、LEEなのか、
気づいたでしょうか。
電車で一瞬すれ違った人がシャネルのバッグを持っていたとしたら、
それ以上、その人のことで何か覚えていることはあるでしょうか。
あるとしてもうろ覚えでしょう。
ましてや、その人自身の印象など、ほとんど記憶にないはずです。
他人とは、そういうものです。
そしてあなたも、誰かにとっての他人です。

他人、そして自分が識別するのは、
大まかな形、色、はっきりとわかる記号です。
ファッションに興味のない人だとしたら、
それは、スカートをはいていた人、パンツをはいていた人、
明るい色を着ていた、
暗い色を着ていた、
その程度です。
そして、バッグや財布に何か文字が書いてあり、
それがよく知られたものだったら読んで、情報として処理する。
それだけです。

好きなものを着つつ、
他人に与える印象をコントロールすることは可能です。
それはたくさん枚数を持っているとか、
ブランド物を持っているとかいう問題ではありません。
他人がよく見ていないところは端折り、
よく覚えているところを変えていく、
それだけでいいのです。

他人の目を気にするのなら、
もう少し賢くなりましょう。
あなたが気にしているところを、他人は見てはいません。
同様に、誰かが気にしているところを、あなたは見ていません。



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2015年11月16日月曜日

さし色をさし色としてではなく使う

何事にも基本的なルールというものはあります。
ファッションに関して言えば、それは3色ルールです。

もちろん、すべてのスタイルが3色以内で構成されているわけではありません。
特に、若さ、ポップ、エステニック、ボヘミアンなどが流行っているときは、
多色使いが多く出現します。

若さ、ポップ、エスニック、ボヘミアンとは何か。
それはセンターではないということ。
つまり、エキセントリックということです。

しかし、シック、エレガントと呼ばれるスタイルは、
一時的に世間がポップやエスニックに流れようと、
結局は全体を3色以内で構成する、3色ルールに戻ってきます。
なぜならそれが基本だからです。

スタイルを3色以内で構成するとき、
3色の中の1色は、いわゆるさし色と呼ばれ、
基本的にはその他の2色より、小さい面積を占める色を指します。
それがどれぐらいの割合かと言われれば、
1割程度といったところでしょうか。

しかし、これも確固とした規則というわけではなく、
常に例外や変則が存在します。
それは、さし色にもかかわらず、その1色がより大きな面積を占める場合です。
そういうスタイルはだめなのかと言えば、
全くそういうことはなく、
かえって、ありきたりで、見慣れたスタイルを新鮮に見せ、
大きな効果を与えます。

具体的にどういうことなのか、以下、説明します。
例えば、紺、白、赤のトリコロールのスタイルの場合、
多くは赤がさし色となります。
いまだ、どういう色がさし色なのかわからない方がいらっしゃいますが、
基本的に自分が選んださし色のスーツやコートは買いません。
紺、白、赤の場合、赤のスーツやコートは買わないということです。
さし色として赤を考えるならば、
赤でそろえるのは靴、バッグ、マフラー、帽子、手袋など、
または洋服の一部に、ごく小さい面積、赤が使われいるものなど、です。

しかし、ここで通常のさし色の赤としての使い方を変えることは可能です。
靴、バッグ、帽子などの小さな面積だった赤のニットを着てみる、
もっと大胆な色遣いにしたいのなら、
コートとして持ってきたとしても、実は問題がないのです。

例えば、真冬には多くの人が、それは男女、大人子供問わず、
ネイビーやグレーのコートを着ます。
視界の中にたくさんの人が存在せず、
真冬の美しい街角にネイビーのコートは、決して似合わないということはないのですが、
それが集団となったとき、意味が変わってきます。
街角に一人だったときには素敵に見えたネイビーのコートが、
たくさんの中に入ってしまったら、
それはただ埋もれるだけで、特別おしゃれに見えなくなります。

集団の中にたたずむモデルのファッション写真というものはありません。
それはいつでも1人か2人か、せいぜい数えられる人数でしかありません。
しかし、私たちが住む世界には、それ以上の人たちが存在します。
渋谷の駅前の交差点に立ったならば、そのことがよくわかるでしょう。

その中で、さし色としてふだん使っていた赤をコートとして持ってくることには、
非常に大きな意味があるのです。
それははいわば、集団の中のさし色です。

同じように、ヴィヴィッドなピンクでも、あざやかな黄色でも、
その色のコートやニット、ドレスを着ることは可能です。
ふだんはさし色としてしか使わなかったこれらの色の面積を大きくする。
このことは、私たちが決して1人で生きているわけではないことを思い出させます。
ファッションは、1人では存在しないのです。

シーンがあって、
登場人物がいて、
照明が決まり、
着る人の意図や目的があってこそ、
最終的なスタイルが決定されます。

そのときに、そのさし色を生かしたいと考えたならば、
場合によっては、もっと大きな面積に使っても構わないのです。
おしゃれとは、誰かの間にまぎれて埋没することではありません。
それは、着る人を際立たせ、存在意義を確立する行為です。

大勢の中の1人になりたいのか、
一人の独立した存在として、世界に存在したいのか、
それを考え、選択するとき、
さし色の使い方も変わってきます。

普通でいたい、
常識から外れたくない、
目立たないで、
みんなと同じで、
仲間はずれにならないように、
そんなふうになりたいのなら、
あえて、さし色を大きい面積に持ってくる必要はありません。
しかし、もしそうでないのなら、
この世に自分は1人だけであると、
それを示したいのなら、
集団の中のさし色として、
それはやる意義があるのです。

真冬の東京の
イルミネーションが輝き、
たくさんの人が行きかう街角で、
誰かに見つけて欲しいのなら、
さし色の面積を広くしてみてください。
そうすれば、見つかります。
はぐれることはありません。

通行人の一人ではなく、
名前のある登場人物になりたいのなら、
さし色をさし色ではなく使うことをお勧めします。
そうしたならば、誰かがあなたのことを名前で呼ぶでしょう。
誰がやっても構わない、通行人の一人では、なくなるでしょう。

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2015年11月1日日曜日

素材感を変えていく

ファッションに関連する仕事に携わっていない一般の人々は、
素材について勉強をしたことがない場合がほとんどです。
勉強したわけではないのですから、
知識はほとんどありません。
ウール、コットン、リネンなど、
名前は知っているでしょう。
しかし織りの種類によって変化する表面の感じ、
ドレープの出方、透け方、伸びる特質など、
それらについて詳しく知っている人は、多くはいないでしょう。

雑誌の写真を見たところで、
解説の文章を読んだところで、
その生地について知り得たとは言えません。
生地について知るためには、必ず経験が伴います。
実物をさわってみなければ、
それを知っているとは言えません。
同じライフスタイル、
同じ地域、
似たような仕事の中で、
生地への知識はふえてはいきません。

色についてもきっちり計画し、
シルエットも決して古びていないのに、
何となく凡庸な仕上がりのスタイルになるとき、
何が面白くないのかと言えば、
その素材感の変化のなさです。

ジーンズにボーダー柄のカットソー、
コットンギャバのトレンチコートにコンバースの平凡さ、子供っぽさは、
そのすべてが木綿から作られていることにゆえんします。

街は、安価な木綿とポリエステルの素材であふれています。
安さだけを求めていると、
手に入るのは木綿のカットソーばかりです。
安さの名のもとに、
いつの間にか素材のバラエティは失われ、
似たような素材、生地のアイテムがワードローブに並ぶようになります。
それらはどんなに素敵に組み合わせたところで、
私たちが見るような、コレクションで発表されたスタイルにはならないのです。
なぜなら、素材があまりに違うから。

木綿素材は洗濯が簡易なため、
子供服に多様され、おのずと子供服は木綿ばかりとなります。
それは構わないのです。
子供はいつでも服を汚しますから、子供服は洗濯に耐えるものでなければいけません。

活動的な若者にも、木綿だけのスタイルは似合います。
洗いざらしのTシャツによれよれのジーンズは、
若者の代表的なスタイルです。

しかし、よりおしゃれに見せるのなら、
そしてその凡庸さから抜け出したいのなら、
1つのスタイルを作るとき、素材感を変える必要が出てきます。

素材感を変えるとは、
例えばすべて木綿のアイテムだけでコーディネイトするのではなく、
木綿、ウール、シルク、皮革などというように、
素材を変えること、
もしくは、サテン、オーガンジー、ツイード、エナメルというように、
織りを変えて、生地の表面やテクスチャーが違ったものを組み合わせる、
ということです。

素材感を変えることによって、
同じ色でも陰影が出てきます。
例えば同じ黒でも、サテン、オーガンジー、レースというように
素材を変えることによって、生地に凹凸が生じ、陰影が生まれ、
それはあたかもリズムのようであり、
物語の起承転結のようであり、
一筋縄ではいかない、
複雑で、多くの意味を、そのスタイルにもたらします。
そして、その複雑さ、一度では理解できない難解さがファッションです。

確かに、木綿だけのコーディネイトはわかりやすいです。
疑問も質問も生まれません。
しかし、疑問も質問も生まれないということは、
そこには物語がない、ということ。
1度見たら終わりの、
1度聞いたら終わりの、
1度会ったら終わりの、
そのつまらなさは、
記憶には残らず、忘れ去られます。

1ページ足らずのレジュメでは、物語とは言えず、
一読すれば終わりの、そのコーディネイトを、
おしゃれとは呼ばないのです。
それはライトノベルです。
何度も読まれる名作ではありません。

凡庸を抜け、
相手に疑問を抱かせ、
質問を誘発し、
幾通りもの解釈を可能にするためにも、
1つのスタイルを完成させるときは、
素材感を変えていくことをお勧めします。

厚ぼったいだけではなく、
マットな光だけではなく、
光を入れて、
薄さを足して、
レースやツイードで凹凸をつけ、
表面を立体的にし、光を乱反射させる。

スタイルとして考えたときは、
その光はもちろんジュエリーでも構わないし、
エナメルのショートブーツでも、
帽子のサテンのリボンでも構いません。

素材がよくわからないのなら、
生地屋へ行ってみるのもいいでしょう。
一枚一枚さわってみるその経験が、
やがて素材の知識へと変わります。

できるならば、なるべく多くの素材のものを試着して、
その軽さ、重さ、照明の見え具合、さわり心地を確認することをお勧めします。

(けれども、すべての人がそれをするには難しい状況だ、ということもわかります)

安さと手軽さ、わかりやすさの罠にはまったままでは、
おしゃれには見えません。
それは努力を要するのです。
簡単だなんて、一度たりとも言ってはいません。
いつでも、
それをするかしないかです。
しないのなら、しないなり、ということです。



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2015年10月16日金曜日

肌の質感、生地の質感

若い肌には若い肌に、
大人の肌には大人の肌に似合う生地の質感というものがあります。
若い肌は新しく、
大人になるほどに、その新しさは失われていきます。
そして、その変化とともに、似合う生地の質感が変わってきます。

いつも出すたとえですが、
洗いざらしの白いシャツや、よれよれのTシャツは若い肌に似合います。
洗いざらしの白いシャツとよれよれのTシャツの特徴は、
生地の表面が洗濯によってラフになり、
光沢や滑らかさが失われている、ということです。

若い肌はそれ自体、輝き、すべすべしていますから、
皮膚の上にのる生地自体に輝きや光沢がなかったとしても、
問題ないのです。
かえって、肌自体の輝きが強調され、若さが際立ちます。

しかし、同じことを大人がやってはだめなのです。
皮膚の表面が、あたかもケント紙のように光沢があるときに似合っていたものも、
もはやケント紙などではなく、ざらざらな風合いのある皮膚になったときには、
雨風にさらされたような風合いの生地は似合いません。
それは似合わないだけではなく、
今度は皮膚の衰えを強調し、その人を疲れて、生気のないように見せます。

では、大人の肌には何が似合うのか。
いわゆる高価な生地というものがあります。
高級なカシミア、シルク、本革のスエード、凝った織りのツイード、
光沢があり滑らかなウールなどです。
それらは手にとってみるとうっとりと柔らかく、しなやかで、
英語で言うところのセンシュアル、つまり官能的な質感を持ちます。
その、官能は、まさに大人のためのものです。
20代の若い肌には、不似合いな、贅沢な素材は、
年齢を重ね、風雨にたえてきた、その肌にこそ似合います。

生地の質感というものは不思議なもので、
誰も言葉に出さなくても、
それだけではなく、よく見ることさえしなくても、
その場の雰囲気を変え、見えないエネルギーとなって、
他者へと伝播します。

オペラ座の、ヴェルヴェットの椅子に座るときの絹のドレスの感触、
冬の寒い朝、すれ違いざまに感じる、高価なカシミアのマフラーの風合い、
真夏の日差しの下、ぱりっとした真っ白なベルギーリネンのシャツが、
太陽の光を反射するときの、あのまぶしい光。

清潔なシーツの上の豪奢なレースのランジェリーやシルクのナイティ、
街灯の光にきらめくエナメルのブーツ。
高価なジュエリーが大人に似合うように、
丁寧に手をかけ作られた素材は、その人のまわりの空気を変えていきます。
それは触れなくてもわかるのです。
見えない何かがそれを伝えるのです。

年齢を重ねて、
何となく今までの服が似合わなくなったと感じるとき、
まずはその服の素材を点検してみることをお勧めします。
それは相変わらず20代の子が着るような素材ではないでしょうか。
大人の今の肌にふさわしい質感を持っているものでしょうか。
いくらサイズが合うからといって、ティーンエイジャーが着るようなものを、
そのまま着てはいないでしょうか。
チープな素材は、その人自身をチープに見せます。
似合わない質感は、 その人をいっそう老けて見せます。

例えば白シャツや白いTシャツのような、若いときにも着ていたアイテムでも、
素材のクオリティを上げれば、年齢を重ねた肌にも似合うものがあります。

私たちは、若いことをよしとする価値観の社会に生きています。
何かと言えば、若さで競争し、
若くないことが負けであるかのような、そんな印象を植え付けられます。
しかし、誰でも年をとります。
若さの競争に参加した者は、全員が負ける運命です。
「あの人は若くないから」と、年上の人を批難するその人に、
いつの日か、そのままその言葉が返ってきます。

その競争からおりるためにも、
生きてきた、その道筋を誇りに思うためにも、
若い人に似合うような素材をあえて選ぶことは、やめましょう。

その繊細で、手のかかった、豪奢なレースのドレスは、
痛みと傷で裏打ちされているのです。
そして、その痛みこそが、今の自分の輝きです。
それを隠す必要はありません。

その輝きは、すべての人を魅了します。
私はそれを知っています。
ええ、実証済みです!


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2015年10月2日金曜日

同じもので競争するべからず

経済のグローバリゼーションが全世界に広がった結果、
企業は同じものを作るのなら、
より安い人件費を求めて世界じゅうを探し続けました。
その結果、勝ち残ったのは、もっとも安くモノを作れる企業であり、
これといって、付加価値やオリジナリティを付け加えられなかった、
その「同じもの」を作った企業は淘汰されていきました。
これは1つの競争の原理です。

同じように、ファッションでも、同じものを身につけたら、
そこに競争が生まれます。

例えば、10人が集まって、
その集まった10人すべてが一粒ダイヤモンドのペンダントをしていたのなら、
そこに競争が生まれます。
その競争で勝つのは、
より大きく、より高価なものを持つ者です。

例えば、10人が集まって、
すべての人が白いTシャツにジーンズであったなら、
比べられるのは、それを着る肉体です。
より若い者、よりスタイルのいい者の価値が高まります。
その両方を兼ね備えているのなら、
その者が勝者です。
誰もはっきり言いませんが、
同じものを身につけて並んだ瞬間に、
暗黙の競争が始まります。

競争させたければ、同じものを身につけさせればいいのです。
人は黙っていても、勝手に競争し始めます。
その原理を利用したのが制服です。
同じものを身につけることにより、
人は、何かほかのもので差をつけ、勝者を目指すか、
もしくは、何かするのをあきらめ脱落します。

しかし、その同じものを脱ぎすててしまえば、
その競争が、あまりにも無意味であったことに気づきます。
高価なダイヤモンドを身につけていたからといったって、
人生がよくなるわけではありません。
若さやスタイルは一時だけのものであり、
それだけに価値を見出すのなら、
見出したその本人が、いつかそれを失う恐怖に陥ります。

競争は、はかないです。
抜けてしまえば、その不毛に気づきます。
そして、そのはかなさ、ばかばかしさ、無意味さ、不毛さから抜け出した後のほうが、
より生き生きとしている自分を作れます。

本当に強い者は、誰かと競争する必要がありません。
そこに意味を見出さなかったら、
いつまでも自由でいられます。

ファッション業界は、何度も、巧妙に、
人々をこの不毛な競争に参加させるよう仕向けてきます。
のったら最後、一人を残してすべての人が負けです。
勝つのは一番お金のある者、
もしくは、若くスタイルのいい者です。

初めから、その勝ち目のないレースに参加しなければいいのです。
いつでもよりお金持ちがあらわれます。
いつでもより若い人が生まれてきます。

ファッションとは、自由で強いものではなかったでしょうか。
競争を鼻で笑う心意気のある者たちのものではなかったでしょうか。
制服はコスプレや作業のためだけで、
多様性や個性、オリジナリティを認めるためにあるものではなかったでしょうか。

同じもので競争してはいけません。
レースに誘われても、参加してはいけません。
彼らがあなたに与えたいのは敗北感と屈辱感という、
苦い褒美です。
なぜなら、それを与えられたものは、
より渇望感を抱き、意味のない消費へとかられるからです。
苦みと甘さを巧みに操れば、
必要もなく、似合いもしないドレスを人は喜んで買うということを、
彼らは知っているからです。

重要なのはオリジナリティと多様性を認めること、
雑誌のモデルのスタイルがすべての人の理想ではないということを知ることです。

同じものを買うように誘う言葉に注意してください。
彼らの本性は、消費者心理の知識を持った、
単に売りたいだけの詐欺師です。



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2015年9月16日水曜日

ファッション・ミニマリスト

美術においてミニマリズムとは、
装飾や色彩などを最小限にし、説明することを排除、
シンプルな形、色のみで表現するスタイルのことです。

ファッションにおいても、このミニマリズムをならって、
デザインのミニマルを追求し、
装飾的な要素を省き、単色、もしくは2色程度で表現するデザイナーは過去にも、
ヘルムート・ラングやジル・サンダーなどがいました。

しかし、ここ最近出現し始めたファッション・ミニマリストとは、
デザイン、色彩のみならず、
その全体量、またライフスタイル全体を通してミニマルを追求する人々です。

彼らの特徴は、まず多くを持たないこと。
生活に必要な最小限の衣服、靴、バッグなどを厳選し、
それのみでスタイルを構築すること。
またその際に、単に量を減らすのではなく、
極力シンプルで、装飾のなされていないデザインを選び、
色数を絞ることです。
しかも同時にそれが、ファッショナブルに見えるよう工夫をこらします。
ファッショナブルかつ量的に最小限、デザイン的にシンプル。
それらが達成されて、初めて彼らはファッション・ミニマリストとなります。

なぜ彼らがこのような方法をとるのか。
理由はそれぞれありましょうが、大きく言えるのは、
着るもの、着ることに人生を邪魔されたくないためです。

多く持てば持つほど、手間と管理が煩雑になり、
多色になればなるほど、装飾的な要素がふえるほど、スタイリングの難易度は上がります。
そのことにより奪われるのはエネルギーと時間です。
彼らは、人の持っているエネルギーと時間を着るもの、着ることに奪われたくはないと考えます。

単に枚数を減らし、シンプルなものを身につけるのならば、
問題はそれほど難しくはありません。
けれども、それをファッションにまで昇華させるとなると、
ただ減らす以外の何かが要求されます。

それぞれの体型やライフスタイルは違いますから、
すべてのミニマリストが同じ衣服をそろえればいいというわけではありません。
減らす、そぎ落とすという作業が要求するのは、
その人がどう生きたいかという態度、
そして人生の目的です。
彼らのスタイルがファッショナブルに見えるのは、まさにそのためです。
人生を貫くスタイルがあるならば、
おのずと選ぶ服、靴、バッグは決まってくるでしょう。

誰かの視点でもなく、
何かのメンバーでもなく、
一人で熟考し、
試行錯誤を繰り返し、
たどりついた結論がスタイルに結び付きます。
それはある人にとっては、タートルネックのニットにタイトスカートかもしれないし、
またある人にとっては、 白いシャツにジーンズかもしれません。

多くのデザイナーが、実はミニマリストです。
白いシャツにジーンズの人、
シルクのシャツにゆったりしたパンツとスタンスミスの人、
同じシルエットのスーツの人など、
彼らをじっくり観察すると、いつあらわれても、とっかえひっかえスタイルを変えてくる
という人は少数派です。
なぜか。
彼らは、着ることに余計なエネルギーと時間を使いたくないからです。
彼らがエネルギーと時間を注ぎ込みたいのは、着ることではなく作ること。
誰かにそのバラエティや多量さを見せびらかすことではなく、
クリエイティビティを発揮するのが人生の目的だからです。

ファッション・ミニマリストになりたいのなら、
まず大事なのは、着ることが人生の目的ではないと知ることです。
服を着るために人生があるのでは、ありません。
人生の目的を遂行するためにファッションは存在します。
手段と目的を取り違えてはいけません。

人生の目的は何なのか。
その答えは、他人が与えてくれるものではありません。
それぞれ一人一人が考え、行動し、導き出されたものでしか、
そこにはたどりつけません。

しかし、そこにたどりついたのなら、ファッション・ミニマリストになるのは簡単です。
人生の目的がわかったなら、
それに必要な衣装も決まってきます。

物語には、まず主人公のテーマがあり、
その他の登場人物がいて、
シーンが決まり、
それに伴って、衣装が決定されます。
あくまでも最初に決まるのは、主人公のテーマです。
その主人公がテーマを生きるために邪魔なものは選ばれません。

そしてその主人公の性格がミニマリストならば、
最小限の衣服を選ぶでしょう。
「性格とは運命である」と言ったのは、ヘラクレイトスです。
人生の目的のためにミニマリストを選択するという性格が、
その人の運命を作ります。
スタイルが確立された人は、ファッショナブルです。

ミニマリストかつおしゃれに見えるためには、
人生の目的のために、自分のスタイルを確立することです。
最初は多くの人に理解されないかもしれません。
結果が出てきたころには、批判の矢面にさらされることもあるでしょう。
しかし、それが通り過ぎたころに、
誰もが感じるようになります。
その人はおしゃれであると。

最後の目的は何なのか。
決してそこから目をはなさず、ひたすら目指すのなら、
誰が何を言おうが、どうでもいいことです。
嫉妬しているだけの外野や観客は、到底そこまでやってきません。

人生の目的を見据え、
時間とエネルギーを注ぐ、ゆるぎないその姿を
人々は記憶にとどめるでしょう。
ファッションにわずらわされないファッショナブルな人たち、
それがファッション・ミニマリストです。


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2015年9月2日水曜日

完璧ではないという完璧

グッチは、2015年の秋冬シーズンより、クリエイティブディレクターを、
それまで9年間務めてきたフリーダ・ジャンニーニから、
アクセサリー部門のデザイナーだったアレッサンドロ・ミケーレへと交代させました。
この交代劇はファッション業界で、かなり大きなニュースとして取り上げられ、
アレッサンドロがどのようなデザインでグッチを新しくするのか、
期待と疑義の眼でもって、注目されました。

これまでのフリーダのグッチの仕事を振り返ってみると、
どれもそのデザインが完璧である、ということに気づかされます。
前任のトム・フォードが作り上げた、やはり大人の女性の完璧なスタイルを、
色彩を加えることでよりセンシュアルに、
多くの花柄を取り入れることでロマンチックに、
シーズンごとに異なるテーマを投入し、
購買者にあきられることなく、すきのないグラマラスなスタイルを提案し続けてきました。
その頂点の姿は、ケイト・モスを起用したジャッキーというバッグのヴィデオに見られます。
こちら

誰もが憧れる現代のアイコン、ケイト・モス。
そのケイト・モスに最も似合うグラマラスなスタイル。
フリーダが作り上げた世界は、ファッションの、いえ、ファッション業界の求める完璧なスタイルでした。

ところが、グッチ社は、その完璧を作る才能を持ったデザイナーであるフリーダを解任します。
あれだけの完璧なスタイルの後に一体、何が続くのか。
わざわざ抜擢したアレッサンドロは、一体どんなデザインを持ってくるのか。
ショーの当日まで、多くの人があれやこれや想像したことでしょう。

さて、そんな渦中、発表されたスタイルは、今まで見たこともないような組み合わせに満ちた、
風変わりなものでした。
大きなウェリントンの黒ぶち眼鏡にドレス。
パンプスからはみ出るファー。
折り目の跡が残されたままのスーツ。
大きなハチの刺繍がついたバッグ。
人さし指から小指まではめられた、大きなフォー・ビジュ―の指輪。
トラッドのようでいてトラッドではなく、
モードというには、バランスが崩れている。
しかし、よく見ていくと、これらの組み合わせは、あえてアレッサンドロがねらっているものだ、
ということがわかってきます。
彼は、フリーダのような完璧をあえてずらすことによって、
新たな完璧を表現しているのです。

ファッションにはこれまでにも、
はずしのテクニックや、スタイルをミックスする手法など、
数々のバランスを崩すスタイリングのテクニックがありました。
しかし、ここへきて表現されたのは、
はずしでも、ミックスでもなく、
それらを含めての完璧なスタイルです。
つまり、今までの隙のない、モデルが似合う、ゴージャスで完璧なスタイルは、
もはや完璧ではないのです。
それは、完璧ゆえに完璧ではなくなったのです。

ファッションとして成立させるためには、
完璧にしてはいけない、
アレッサンドロの主張はそこにあります。
完璧に陥ったら、もはやそれはファッションではない。

完璧でないところに見出す新しいバランスやスタイリング。
今まで考えられなかったところ、
格好悪いとみなされていた、そのぎりぎりの線を、
あたかもコートの端ぎりぎりのラインにサーブを打ち込むように、
彼は見つけ、作りだし、提案します。

ニューヨークで行われた、2015秋冬のグッチのショーには、
これまでのみなれたグラマラスな有名モデルは一人も出てきませんでした。
スタイルこそよいかもしれませんが、
素朴な感じの、どこにでもいるような、若くういういしいモデルたちが、
ニューヨークの街角を歩いて、そのままショーの会場に入っていきます。
ストリートとショーの会場を区別する必要はない、
日常と非日常、同じレベルにおけるファッションは、
ファッション業界の完璧とは違う視点が必要だということが、
強く示唆されます。

さて、徐々にでしょうが、2015年以降、
この「完璧ではないという完璧」なスタイルは、
一般のあいだにも広まっていくことでしょう。
完全に行きわたるまでには、それこそ10年かかるかもしれませんが、
もはやこの流れは止められません。

いち早く取り入れるためには、
はずしのテクニック、テイストをミックスさせることなど、
総動員させ、その上で+αを考えます。
もちろんこのスタイルは上級者のためのものなので、
基本を理解していない人がやみくもにやる、めちゃくちゃなスタイルとは全く別物です。

常に考えなければなりません。
常に努力しなければなりません。
かかわっている限り、勉強し、進化させなければなりません。
教科書は、あるようで、ないのです。

+αは何なのか。
あえて言うならば、その人のオリジナリティです。
誰かのそれでもなく、
多くの人が持っているあれでもなく、
その人ならではのもの。
それが何もないのであれば、
ファッションは退屈です。

ファッションの難易度は上がっています。
わかりやすい完璧よりも、
答えのない完璧を目指すほうがずっと難しいです。
だけれども、本当に好きだったならば、
それは取り組むのも楽しい課題になるだろうと思います。


★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。





2015年8月17日月曜日

季節の変わり目、眼の愉しみ

希少なものを重んじ、薄く広まったものを嫌うというおしゃれの法則は、
時間的なもの、地理的なもの、両方において通用します。
地理的に、例えば都会から田舎へ広がったときに、それは飽きられ終わりますし、
時間的に、最初から最後にかけて、量的に飽和状態になったときにも、
おしゃれという意味が急速に失われます。

季節の先取りをよしとするおしゃれは、
季節の遅れをよしとはしません。
季節を早く先取りするから意味があり、
季節が移り変わったなら、
気温がたとえ高かろうが、低かろうが、
次の季節への移行を推奨します。

春先からゆっくり時間をかけて、
徐々に取り入れていった春夏物は、
立秋を境に、急速に輝きを失います。
同様に、晩夏から取り入れていった秋冬物も、
立春を過ぎたら、 魅力を感じません。

季節を感じさせるものには、気温と光の2つがあります。
肌に身につけるという性質上、
洋服において、季節とは気温だけの問題ととらえがちですが、
それがファッションと呼ばれるようになった瞬間に、
問われるのは気温ではなく、
光の加減です。

春分、夏至、秋分、冬至という、太陽と地球の関係が変わる地点から、
明らかに、疑いようもなく、
光の加減は変わります。
春分、夏至、秋分、冬至は、
いわば春夏秋冬の最高の光を見ることができる時期です。
しかし、毎年正確に太陽の光は傾き、
立春、立夏、立秋、立冬の時期に、すべてのものは、
その頂点のころとは同じには見えません。

光が変われば、色は違って見えます。
どんなに暑くても、立秋を過ぎれば、
あの輝いた夏の白は、もう同じ白ではありません。
どんなに寒くても、心にぬくもりを与えたあのモヘアのダークブラウンは、
うっとうしく感じられます。

季節を先取りし、その頂点を目指して選んできたそれぞれの季節の服は、
立春、立夏、立秋、立冬をもって、
蔓延し、
眼はもうそれらを見ても、愉しみを得ることができなくなります。

眼はいつでも愉しみを探しています。
眼の喜び、愉しみは、まぎれもなく魂の栄養となります。
私たちは、眼から栄養を摂取し、
それが切れるまで、生き延びることができます。
しかし、
私たちの多くが、魂の栄養不足にあえいでいます。

顔と同様に、私たちの全身の姿もまた、
自分自身よりも他人から見られる機会のほうが多いものです。
私たちの眼は、自分自身の姿よりも、
多くの他人の姿を眼に映し、
脳内にそれを取り入れます。
脳内はそれらを処理し、ある一定量を過ぎると、
飽きるという状態を生みだします。

ファッションは通常、春夏物と秋冬物にわかれます。
眼から取り入れた、春夏物の情報が脳内で一定量を超えてくるのが、
立秋の頃です。
その頃には、眼は春夏物の衣服からは、喜びを得られなくなっています。

この2.点、
つまり、光の加減の変化、
そして、眼が衣類から愉しみがなくなったという、その点から、
もしもおしゃれでいたいのなら、
立春と立秋が過ぎたころから、
私たちは、ワードローブを徐々に次の季節に変化させるべきです。
単純に言えば、立春が過ぎたら明るく(ライト)に、
立秋が過ぎたら暗く(ダーク)に、です。

しかしここで、気温の問題が立ちはだかります。
ここ最近の日本の気温は、4月の終わりまで寒く、
10月の頭まで暑い日々が続きます。
春は薄手のもの、秋になったらウールなどの寒さを防ぐものという考えでいると、
これでは次の季節のものは着られません。
ですから、ここは、新しい考え方、新しいワードローブが必要になります。

私たちに本当に必要なのは、
暑さに対応した秋物と、寒さに対応した春物です。
気温に対応しつつ、変化した光の中で美しい色合い。
秋だったら、すべての色がより濃く、ダークに傾きつつ、
素材は薄いコットンやシルク、サマーウールなど、着ていて暑くならない素材。
春だったら、色はより明るく、光を取り入れて、
それでも素材はカシミアやコットンシルク、厚手のウールや、
薄いダウンなど、寒さをしのげる素材。
シルエットには、その次のトレンドを少し取り入れて。
2015年現在では、断然、シルエットはゆるく、大き目に傾いているので、
間違っても、身体にぴったりフィットする、タイトなTシャツやニットなど選ばず、
流行の先を見据えたシルエットのものを買い足して。
そうすれば、気温にも対応し、
眼も愉しみを得られます。
立春過ぎのホワイトジーンズの白に、人々の目は釘付けにされ、
立秋過ぎの秋の実りブドウのような紫のストールが、夏の乾いた心を潤します。

まだまだ夏の装いで街行く人が多い時期、
新しい考え方の秋物の装いで、
ショップのウィンドウに映る自分の姿を見てみたら、
あなたの眼は喜び、それは魂の栄養となります。
本当に欲していたのは、最終セールで売られている新品の夏物のドレスなんかじゃなく、
それは去年買ったものかもしれないけれども、
半年眠っていた、秋冬物の色合いです。
そして、本当に見たかったのは、
それをふさわしい光の下、多くの人より早く着てみた、
自分の姿です。

今の時期、つまらない夏物のセール品を買うよりも、
まだ持っていないのならば、
立秋以降に着られる、暑さにも対応した秋物を買ったほうが、
よほど賢い買い物です。
もちろん、そんなものはまだまだ多く売られていません。
それでも探せば、ないこともありません。
それは今よりも少しダークな色合いのストールや帽子、靴でも構いません。
何かしらはどこかに売っています。

眼の愉しみ、喜びを軽んじないで。
太陽の傾きに敏感になって。
どんなに暑くても、立秋を過ぎれば、秋の花が、
どんなに寒くても、立春を過ぎれば、春の花が咲き始めます。
おしゃれもそれと同じです。

季節の変わり目の時期、
光や色にどれだけ敏感に生きているか、
それを見分ける感性を養ってきたか、
おしゃれな者はそれを問います。

そんなささいなことが、
そんな小さなことが、
おしゃれには重要なのです。

それらに鈍感で、怠惰になるか、
敏感に取り入れて、ひと工夫するか、
そこが分かれ道です。
それは人生と同じです。

怠惰な人は怠惰なりに、
努力した人は努力した人なりに、
人生もおしゃれも、
その点においては、平等です。



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2015年8月2日日曜日

スタイリングの新しい流れ(トランス、ミックス、レス、フリー)

一昔前のスタイリングの教科書を見てみると、
例えば、エレガンス、スポーティなどというように、
スタイル別に区分けされ、名前がつけられています。
それらのスタイルの境目はかなり厳重で、それらが混じり合ったり、
無視されることはありません。
スタイリングというものは、この区分けされた区分内のルールを守ることであり、
その中での完成を目指すものでした。

男女の境目も厳然と区別され、
それを超える人たちは、エキセントリック、すなわち中心にいない人や、
アバンギャルド、前衛の人、または単なる変人でした。

しかし、ここ数年のファッションの歴史の流れは、
この区分けされた境目を超えたり、
混ぜたりすることに関心を持つようになりました。
フェミニンにはマスキュリンを、
エレガンスにはスポーティをというように、
区分けされたスタイルで100パーセント完成することなく、
何か違う要素をミックスさせるスタイリングがおしゃれであると、
認識されるようになったのです。
その流れは今も続いていて、
そしてさらに進化しています。

実際のところ、男と女の境目は厳然としたものではありません。
特に女性は男性のスタイルを取り入れることに積極的で、
それはココ・シャネルが提案したボーイッシュなルックスや、
イヴ・サンローランのタキシード・スーツなど、
年代が進むごとに、男性が着るべきスタイルを積極的に取り入れてきました。

そのほかにも、
スポーツ・ウエアの日常着化、
エスニックやトライブと呼ばれる、
西洋とは異なった文化圏の装飾要素の取り入れ、
隠されるべきものであったランジェリーのアウター化など、
ファッションが進化するとともに、
今まであった境目を越境することに、
有能なデザイナーたちは腐心してきました。

その結果、当然のことながら、おしゃれに見えるスタイリングも変わってきました。

洋服のアイテムそのものの変化には限度があります。
何年たっても、スカートはスカートであり、
ジャケットはジャケットです。
シルエットの変化があるとはいっても、
それはタイトからビッグへ、ビッグからタイトへの繰り返しです。
いつでも新しいものを志向するファッションは、
その新しさをスタイリングに求めるようになりました。
それが現在です。

ポイントは、とにかく超えていくこと。
ジェンダーを超え、
民族を超え、
日常と非日常の境目を超え、
着られるものなら何でも取り入れ、
全体のスタイリングを刷新していく。

超えていくことは同時に、そこから自由になること。
男性はこうあるべきというスタイルから自由になり、
女性はこうあるべきであるというスタイルから自由になる。
スポーツウエアはスポーツのときだけしか着ないというルールから自由になり、
下着は見せてはいけないというルールを破る。

どんな文化圏に生まれようとも、
どこか遠い国の、見たことも、会ったこともない部族の衣装が好きならば、
それを取り入れ、
スカートの下は脚が出るというルールを無視して、
パンツをはき、
ドレスにウェリントン・フレームのメガネをあわせる。

図書館で見つけた、古臭いスタイリングのルールの本の指導を無視し、
境目を超え、ごちゃまぜにして、自由になる。
その組み合わせが、今まで見たことがないものになったなら、
それがおしゃれに見える。
現在、ファッションの進化はここまでやってきました。

これを普通の人がふだんのスタイリングに取り入れるにはどうしたらいいでしょうか。
まずは今まで、それとそれは合わせないと言われていたものをあえて組み合わせてみること。
見慣れた、その組み合わせから離れること、です。

シルクのドレスにスウェット地のパーカー、
パジャマのようなシャツにタイトスカート、
レースのキャミソールにランニング用のトレーニング・パンツ。
ロングドレスにスニーカーとウェリントン・フレームのメガネ。
真冬にノースリーブニットと肘まであるロングの手袋などなど。
いきなり、唐突に組み合わせられ、
今までのルールから遠ければ遠いほど、
それはおしゃれに見えます。

これらアイテムの組み合わせのほかにも、
例えば、素材とアイテムの意外な組み合わせというのも、
今のトレンドの1つです。
レースのトレンチコートはその代表例。
同様に、レースのスウェットシャツ、
豪華な刺繍やスワロフスキーのクリスタルが縫いつけられたジーンズ、
トートバッグやスニーカーにスパングルなど、
それまでその素材でそのアイテムは作らなかったというものを取り入れるのも、
今の気分を表現するのに最適です。

今の時代が私たちに要求しているのは、
スタイリングでどれだけ冒険できるか、
どれだけ境目を超えられるかということ。
男女の境も、
国の境も、
年齢の境も、
そんなものはしょせん幻。
今、それが着られるということ、
着たいということ、その気持ちがあるならば、
それだけを頼りに、アクロバティックにアイテムを横断的に組み合わせ、
その中でバランスをとってみる、
おしゃれに見えるポイントを見つけてみる。
創意工夫のあらわれこそが、おしゃれですから、
今はまさにその腕が問われるところ。
何も考えてこなかった、
やってこなかったのだったら、
この新しいスタイリングをものにすることはできません。

考えてみる、
試してみる、
実行してみる、
変更してみる、
改良してみる。
新しいスタイリングはこの繰り返しで習得できます。

やるかやらないかは、
もちろん個人の自由です。
けれども、少しでもおしゃれになりたいのなら、
そして、停滞を拒み、進化し続けるほうを選ぶのなら、
新しいスタイリングにチャレンジするといいでしょう。
簡単ではありません。
けれども、やったらやったなりに、
それは誰かの心に届くでしょう。



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2015年7月15日水曜日

ワードローブのアップデート

ある日、突然、持っているワードローブを見て、
着るものが何もない、
すべてだめになったと感じる日がやってきます。
それはまさに、ワードローブをアップデートすべきタイミングです。
今まで正常に、過不足なく動いていたプログラムはもはや古くなり、
新しいハードに対応できません。

ワードローブのアップデートが必要になるときとはどんなときでしょうか。
それはソフトではなく、ハードウエアやその周辺機器が変わったとき。
体型が変わった、
顔が変わった、
肌の質感が変わった、
引っ越しして環境が変わった、
仕事が変わった、
付き合う人が変わった、
流行が変わった、
そして最後に、気分が変わったなど。

ソフト、つまりワードローブは古すぎて、
あたらしいハードに対応していないため、
もはや機能しません。
何を着ても、心を動かすことができない。
何を着ても、足が一歩踏み出さない。
電源が抜けているのかと思ってはみるけれども、
どうやらそうではないらしい。
エネルギー切れとも違う、
この違和感。

残念ながらそんなときは、どんなに努力しても、
古いワードローブでは、ハートもボディも動きません。
ぐずぐずしていて、
面倒ぐさがっていては、
ワードローブをアップデートしないでいたら、
のろのろ動くハートとボディではどこへも行けません。

さて、パソコンのソフトはありがたいことに、
向こうからお知らせがやってきて、
クリックすればアップデートが完了します。
しかし、ワードローブのアップデートはそうはいきません。
では、どうすればよいのでしょうか。

まずハードの変化の点検です。
体型が変わったのなら、それを潔く認めること。
何度ながめても、昔の服はもう入りません。
肌の色が変わってしまったこと、
髪をいつも染めなくてはならなくなったこと、
年齢による変化を認めるためには、
より客観的に自分を見つめ、現実的な対応が必要です。
サイズが合わないのなら、合うサイズのものにかえる、
好きな色が気に入らなくなったら、違う色のものを選ぶ、
若いときと同じような露出度の高い服はやめるなど、
対応方法はいろいろ考えられます。
自分を客観視できれば、それは可能です。

次に環境の変化です。
仕事が変わった、住む場所が変わったら、
当然のことながら、以前の服は「その場にふさわしく」なくなるでしょう。
シーンとして考えて選んだものですから、
背景が変わるのなら、違う服装になるのは自然なこと。
新しい環境になれるためにも、
もはやそのシーンに不似合いなワードローブを処分することも必要となってきます。
農場にスーツはいらないし、
都会にビーチサンダルで出勤はできません。

その次は流行の変化です。
どんなに抵抗しようとも、どんなに無視しようとも、
流行は変化していきます。
私たちはずっと同じ時代に生きているわけではありません。
ある程度、流行を取り入れなければ、その時代の雰囲気は体現できないので、
おしゃれには見えません。
自分が何だか流行遅れに見えるそんなときは、

最新のファッションの情報を多く取り入れ、
自分の目を完全にリフレッシュしてしまえば、次に何を選んだらよいかわかるようになります。
その場合、メディアなどの写真による二次情報と、
実際の店舗へ行ってみるという一次情報、両方にふれることが必要です。
新しい時代の空気を実感することができたら、それを自分が取り入れてみることは、
そんなに難しいことではないでしょう。

ただし、ここで厄介なのは、
自分の年齢による変化と、流行の変化、
両方が完全に古いものになった場合です。
いつまでも若いときに好きだった格好、好きだった流行のスタイルを、
無自覚に何年も続けていくと、
自分の現実、ファッションの現在との差はどんどん開いていきます。
変化しているのに認めない、
ある時点でずっと止まっているそのかたくなな感じは、
全くおしゃれではないのですが、
あるとき、そのギャップに愕然とするときがやってきます。
それは街でウィンドウにうつる自分の姿を見たときかもしれないし、
同年代の人たちと集まるホテルでの会合で、
パウダールームで化粧直しをしようとした、その瞬間かもしれません。
そのときはあたかも自分の構築してきた世界が崩壊するように思えるでしょう。
家に帰ってタンスの扉を開けたとき、
そこにある服すべてが死んで見えるような、そんな体験をするかもしれません。
であるならば、すべきことは1つ。
死んだ服とはすべてさよならすることです。
もうそれは生きてはいないのです。
クリーニングに出しても生き返りません。
かろうじて、息絶え絶えでも使えそうな数点を残し、
残りは売るなり、あげるなり、処分するなりすることが必要です。
なぜなら、もはや死んでしまったかのように見える服は、
その人をどこへも連れていってはくれないからです。
それだけではなく、それはその人の足を引っ張る存在になります。
着ては気分が落ち込み、誰かに会うのが嫌になり、
劣等感を助長し、
決して助けてはくれない。
そんな服は持っていても仕方ありません。
数点だけ残した服で当分のあいだ過ごし、
新しく生き生きしている服に出会えるまでは我慢すること。
これは長いこと、時間を無視してきたことによる病のリハビリ期間です。
少しのあいだリハビリを続ければ、また新たに着たいと思える服に出会えるでしょう。

さて、最後です。
気分が変わったときはどうするか。
体型的な変化もない、引っ越ししたわけではない、
仕事も同じ、
自分が老けこんでしまったわけでもない、
それでも完全に気分が変わってしまって、
どうしても今持っている服が着たくないときが、
人には訪れます。
そのときにやるべきことは、これからどうやって生きていきたいか、
徹底的に考えること。
仕事を変えたいのか、
引っ越ししたいのか、
付き合っている人を変えたいのか、
今までと違うものを食べたいのか、
旅行に出たいのか、
何か新しい挑戦をしたいのか、
その変わった「気分」とは何なのか、
自分と向き合って、その答えを探し、
見つけたら、それに対してコミットメントすることが必要です。
それが決まらないのなら、次のワードローブの方向性は決まりません。

主人公は何のために、どこへ向かうのか。
「完全な気分の変化」という1つの崩壊の体験を経て、
人生のテーマはどう変わるのか、
何を目指すのか。
そして、それにふさわしいワードローブは何か。
それらはすべて自分で決めるべき事項です。
ですから、自分で決めて、それに対してコミットメントしない限り、
次に進むことはできません。

主人公は、崩壊した世界から新しい旅に出ます。
そのためには新しいワードローブが必要です。
どうしたいのかを決めたのなら、
おのずと必要なワードローブは決まってきます。
都会へ行くのなら都会の服が、
田舎へ行くのなら田舎の服が、
好きな仕事を始めるのなら、それにふさわしい服装が、
好きな誰かと暮らすなら、2人一緒に出かけるときの衣装が、
それぞれ必要になってきます。

ボディだけではなくハートを動かすエネルギーをもった
ワードローブへのアップデートは、
主人公に自信を与え、
どこへ行っても、誰と会っても、何をしても、
幸せを感じることができるものでなくてはなりません。
それでなくては意味がありません。

自分のハートは何によって動かされるのか、
どんなものを着ていれば、ボディは自然と動くのか、
それを知っているのは自分だけ。

自分自身に問いかければ、必ず答えは出てきます。
なぜなら、問いと答えは常に同時に存在しているからです。
どこにあるのかと問いかけた瞬間、
ここにあるという答えはもう既に存在しています。

答えは既に存在しています。
あとはそこへ向かって自分で歩いていくだけ。
自分で歩いていったものだけが、その答えにたどりつけます。
自分で歩いていったものだけが、満足のいくワードローブを構築できます。
誰かが持ってきてはくれません。
すべては自分次第です。

自分に向き合えば向き合うほどに、
ワードローブのアップデートは簡単にできます。
人生とは変化です。
ワードローブのアップデートは人生が変化、進化する限り続きます。
ボディとハートを100パーセント動かすためにも、
どうぞワードローブのアップデートをお忘れなく。
それはいつも自動的になされるものではなく、
手動でしなくてはならないものですから。


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2015年7月1日水曜日

洋服の色合わせ その3

さて、色そのものの法則、
そして洋服という素材とシルエットにのったときの色について述べてきました。
次に、それが実際に人が、どこかの場で着たときの見え方についてです。

周知のとおり、色はその光によって見え方が変わってきます。
主には太陽光線、人工光線の2種類の光源があります。
また、太陽光であっても、緯度経度によって、
人工光線であれば、その光源の性質によって、色の見え方は変わってきます。

容易に想像できるのは、
ハワイで見る色の見え方と東京で見る色の見え方の違いです。
赤道に近く、太陽の光が頭上から降り注ぐハワイと、
それより北極側に位置する東京では、当然のことながら、
光の見え方は違います。
そしてその東京においてさえ、春分点、秋分点、冬至、夏至のころでは、
太陽の傾きがかわり、光線は変わります。
そのつど、同一の色でも同じようには見えません。

一方、人工光線では、
蛍光灯、LED、白熱灯によって、色の見え方が変わってきます。
太陽光下での色の見え方があくまで基準で、
それに対して人工光線がどのように見えるかをあらわす言葉が演色性です。
演色性が高いほど、太陽光に近く、低いほど、太陽光下とは違った見え方をします。
家庭やオフィスなどで多く使われる蛍光灯は、
この演色性が低く、太陽光線下で見たときと、同じ色の見え方はしません。
色のスペクトル分布がまばらなため、拾う色と拾わない色があらわれます。
蛍光灯下での食品が著しくまずそうに見えるのはそのためです。

また、余り語られてはいないことですが、
目の色によっても、色の見え方は変わります。
フィルムの現像が当たり前の時代、コダックを使うか、富士フィルムを使うかで、
上がりの写真は色が違って見えました。
あの差は日本人の目の色の見え方の差と、西洋人の目の色の見え方の差をあらわしています。
つまり、同じ人間という種族でも、人それぞれ色の見え方は違うのです。

ここからわかることは、色とは絶対的な現象ではない、ということです。
光源、目の色、太陽の緯度経度、時間、季節、環境によって、
見え方は変わる、それが色の特徴です。
色とは関係によって変わる、恣意的な現象です。

洋服の色合わせについて考えるとき、もっとも重要なことは、
関係によって変わる色の恣意性をどこまで把握するか、
どこまで自分を客観視できるか、ということです。
自分にとってふさわしい色とは、決してとある一室の、誰か1人が、
ひとつの光源において見た、
その季節、その時間の肌の色によって決められるものではありません。
それは全くもって客観的ではないのです。
ですから、私たちはその「誰か1人」よりもより大きな視点で、
客観的に色を判断する必要があります。

蛍光灯の下ではえる色、
湘南の海辺で太陽の照り返しを受けて似合う色、
都会の劇場のロビーの薄暗い照明の下、
シャンパングラス片手に誰かと談笑するときに引き立つ色、
その色がのるテクスチャーとシルエット、
そしてそれを着る人の動き、
それがしめやかなものなのか、激しいダンスのようなものなのか。
そして季節による変化、
子供の肌と大人の肌での光の反射の仕方の違い。

暖炉の前、焔に照り返されたときのニットの色合い。
オペラ座のバルコニー席で、絹ずれの音とともに翻る赤い絹のドレスの裾の色、
そこからのぞく黒いエナメルのパンプスの輝き。
鉛色の空、寒い冬の朝のオフホワイトのダッフルコートが、
ダークスーツの集団の中、光っている様子。
立春が過ぎて、太陽光線の傾きが穏やかになり、
春霞の中、明るさと暖かさをもたらす、やわらかなカシミアニットのピンク。
バラ園のバラと緑に似合う、花柄のシャツやドレス。
真夏の海辺、焼けた肌に似合う白、青、赤のトリコロール。
紅葉の森を散歩するときの、オイルドコットンのカーキなどなど。

もっとも美しく、そしておしゃれに見える洋服の色合わせは、
基本の色のルールをおさえた上で、
どれだけその人がそのシーンにふさわしいかで決まります。
それは自分の顔と洋服を鏡の前であわせただけではわかりません。

それがわかるようになるためには、
そのシーンにおいて自分がどんな見え方をしているのか、
常に気を配り、学習していくこと必要です。
海に行かなければ、海の光はわかりません。
劇場に行かなければ、劇場の照明はわかりません。
森に行かなければ、木漏れ日を知らず、
雪原に立たなければ、白銀の世界はわかりません。
すべての経験、すべての行動のたびに、光について学習し、
その都度、色の見え方を確認します。
それは訓練です。
やらないことには、上達はしません。
誰か素敵な色合いの人がいたら、どこがよいと思ったのか観察し、自分に取り入れ、
真似したくない人がいたら、自分は同じようにはしない。
引っ越したらそこの環境を観察し、
仕事場が変わったら、そこにふさわしい色合いを工夫する。
その繰り返しの結果、人はそのシーンにふさわしい洋服の色合わせをすることが可能になります。


洋服の色合わせは決して簡単なものではありません。
だけれども、簡単ではないからこそ、面白いのです。
そしてやればやるほど上達していきます。
それに取り組むか、取り組まないかは、人それぞれです。
絶対的な1つの答えはありません。
なぜなら、ファッションとは変化だからです。

変化を否定するもしないも、お気に召すまま。
それはその人の生き方です。
けれども、どちらを選ぼうとも、人生という舞台は続きます。
自分が演じられるのは、自分だけです。



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2015年6月15日月曜日

洋服の色合わせ その2 

次は色が服にのったときの影響についてです。
洋服は柔軟性があり、平面的で、表面のバリエーションに富んだ布を、
パターンどおりにカットし、立体的に縫い合わせることができ上がります。
絵画と服のもっとも大きな点はこの点です。
紙の上に水彩絵の具やグワッシュ、油絵具をのせる絵画と違い、
布はそのものに色があり、素材も木綿、化学繊維、絹、羊毛と変化に富み、
何十種類もの織り方があります。
そのため、当然のことながら、色は紙の上にのせるものとは、
全く違って見えるようになります。
紙の上の色と、布の上の色は同じではなく、
比べようのないものですから、
同一に述べることはできません。

繊維は糸から織りあげられるものですが、
先染め、または後染めという方法で染色されています。
先染めとは糸の状態のものを染めて繊維とする方法、
後染めとはでき上がった繊維を染める方法です。
(そのほかに製品になったものを染める製品染めという方法もあります)

先染めは糸がすべて染まっているので、
布の表と裏の見分けがつきにくく、
後染めはプリントなどのように、裏は染まっていないため、
表と裏が判断しやすいものです。

糸の特性、
繊維を織る方法と、その種類、
染色の方法によって、同じ色でも見え方は変わります。
例えば、同じ黒だとしても、
先染めで織られるウールサージの黒、
起毛しているヴェルヴェットの黒、
表面に光沢のあるサテンの黒、
織りが複雑なアストラカンの黒、
蝉の羽のようなオーガンジーの黒、
このどれも、同じ染料を使ったとしても、同じようには見えません。
またこれら、素材が木綿、化学繊維、ウールと変わることによっても、
違って見えます。

洋服は、着物と違い、布1枚を畳んだだけの形では構成されていません。
パターンにしたがいパーツごとに裁断され、
組み立てられることにより完成します。
組み立てられた服は、必ずシルエットを持ちます。
シルエットとは物の輪郭という意味ですが、
洋服の場合、輪郭だけではなく、立体のあり方も示します。
つまり、ダーツはどのように処理されたか、
身体にフィットするのかしないのか、
ドレープは出るのか、
プリーツは畳まれているのか、
フリルやレースなど、装飾はあるのか、
ポケットなど、あとから付け足されたものはあるのか、
ボタンやリボンはついているのか、
襟はどんな形なのか、
裾はどんな処理がされているのか、
袖口やズボンの裾は折り返すのかどうか、
などなどです。
そして、その扱いによってもまた、同じ色の見え方が変わってきます。

例えば、同じ黒で光沢のあるシルクサテンで作られたドレープと、
重厚なウールのフェルトで作られたドレープ、
オーガンジーのドレープでは、
光の反射の仕方が変わってきます。
サテンの場合は陰影が深くなり、ドレープの溝が陰としてくっきり暗くなりますが、
フェルトの場合は、布の表面に光を吸収するため、ドレープの溝ははっきりしません。
また、オーガンジーによるドレープは向こう側も透けて見えるため、軽やかな感じが残ります。

洋服のパターンは通常、シーチングと呼ばれる、
木綿のフラットな素材で1度、形を作り、ドレープやギャザー、ダーツの具合をチェックします。
シーチングが使われるのは布がフラットで、光沢もなく、
かといって光を吸収することもなく、洋服のシルエットによる陰影がチェックしやすいからです。
タックをとれば、陰の色は濃くなり、
すべてダーツで処理すれば、表面に陰影はなくなります。

シルエットを作ったときにあらわれる陰影を確認してから、
そのパターンで実際の生地を使い洋服を作ったならば、
そのときにまた陰影の具合は変わります。
そして、そのでき上がった服を人間が着て歩いたなら、
また見え方は変わってきます。
私たちはこの過程において、同じ黒でも何十種類の黒に出会うことになります。

ヴェルヴェットの黒と、オーガンジーの黒、
シルクサテンの黒と、スウェードの黒を同じ黒であると、
ファッションにおいてはみなしません。
そこにドレープがあるならば、
フリルがつくならば、
立体的にポケットを組み立てるならば、
それはすべて違う「黒」です。
だからこそ、黒1色のコーディネイトは成立するのです。
その同じ黒の中に、何十種類もの黒を見るのが、ファッションを志向する者です。
あの「黒」と、この「黒」を同じとは決して考えない。
「黒」を単純な1つの色に閉じ込めない。
すべての可能性を探求し、それを見分ける者がファッションに携わる者であり、
それをしないのならば、それはファッションとは関係のないもの。
ファッションについて考えるのならば、
その点を間違ってはいけません。

次回は、これら素材とシルエットによって変わる色が、
実際、人が着た場合にどうなるかの説明になります。


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2015年6月1日月曜日

雑誌のような服ではなく、名作や古典を

色についての続きを書く予定でしたが、違うことを思いついたので、
そちらを先に書きます。

例えば春の初めに売りだされた服は、
盛夏を迎える前にセールに出され、
3割引から5割引きで売りに出されます。
年々、セールの開始時期は早まり、
今ではいつでもどこでもどこかで何かがセール品として売られています。

企画に時間をかけ、生地を織り、縫製をし、
プレスをかけ、配送され、店頭に並んでデビューしても、
わずか3カ月やそこらで値引きされてしまう。
半年たてば半額に、1年たてば8割引近くにもなる。
しかもそのものは腐ったわけでも、傷んだわけでも、
機能が落ちたり、足りなかったりしたわけでもない。
そんな商品は、この世の中が広しと言えども、
そう多くはありません。
家電やIT機器には少なからずその傾向がありますが、
それでも次の新作が発表されるときは、
何かしらの進化や付加価値が足されています。

企画について考えた、多くの人の知恵と手を結集させた、
クオリティも追及した、
それでもほんの少しの期間で価値がどんどん下がっていくもので、
ファッション以外の分野で考えられるのは雑誌です。
必ずしも雑誌の内容そのものが古くなったわけではなく、
ものとして擦り切れたり、傷んだりしているわけでないにもかかわらず、
次の発売日が来れば、価値がなくなり、古本屋で半額以下で売りだされるもの、
それが雑誌です。

それでも雑誌は、情報を提供するという性格上、
新しさが身上となりますから、
古くなったものは価値がなくなると考えられても仕方がないとは思います。
では、洋服は?バッグは?靴は?
どうなのでしょうか。

いつごろからか、
この社会では、服やバッグや靴を雑誌のように扱い始めました。
つまり、それらは情報となったのです。
情報であるならば、古さは致命傷となり、ほとんど顧みられることはなくなります。
古雑誌はリサイクルの対象であり、
古紙へのサイクルの中に組み込まれています。

しかし、私たちの本棚は、雑誌だけで占められているわけではありません。
人によって何をどれだけ持っているかは変わってくると思いますが、
古典や名作と呼ばれる本、好きで何度も読み返す本、
豪華な装丁のいつもそばに置いておきたい写真集など、
必ずしも情報として消費するわけではない、
私たちの精神と心の栄養となる本も多くあるはずです。

では洋服は?
すべてが情報として新しさだけに価値があり、
早い速度で消費されるものだけでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
世界の名だたる装飾美術館、
例えばロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムや、
パリの装飾美術館には、
何年も前に作られたものにもかかわらず、
今だに人々を魅了し、あまつさえ、欲しいと思うような、
そんな服や靴や装飾品が展示されています。
誰もが、
自分のワードローブもこのようにありたいものだと羨望と憧れで、
それらの衣装を眺めることでしょう。

ほとんどの雑誌は美術館や博物館に展示されることはありません。
希少なもの、もしくは著名な美術家が挿絵をえがいたものなどを除いては、
雑誌は永久展示品の対象外です。
なぜならほとんどの雑誌は長く展示する価値がないからです。
耐えられないのは経年による紙の劣化ではなく、
その内容の陳腐さ、貧しさからです。
そこに豊かさはないのです。

もし、自分のワードローブが博物館に飾られるような古典や名作よりも、
決して博物館になど飾られることがないとわかっている雑誌のような服たちであふれていたら、
なぜそうなのか、考えてみるとよいでしょう。
新しさに飛びついたばかりにおざなりにしたものは何なのでしょうか?
ジャンクフードが身体と心に必要な栄養を摂取するためのものではなく、
不健康と贅肉をただただもたらすもののように、
新しさにだけ価値があるその「情報」としての服がもたらしたのは、
たくさんあっても満たされない、
精神と心の栄養失調ではなかったでしょうか?

多くのものの中にまぎれてはいますが、
確かに服や靴やバッグの中には古典や名作があります。
それはまるで、分類されていない本屋の棚のように、
よく見なければ見つけられないところ、
または脚立がなければ手が届かないようなところに、
確かにあります。
私たちはもう少し、古典や名作を読む必要があるように、
ワードローブにも古典や名作が必要です。
それは10年たっても、いまだに新しく、着るたびに感動を与えてくれるのです。

10年も15年も大事に着続けて、
まだ捨てられない服が多いということは、
この名作や古典を多く集めてきたということです。
何も恥じることはありません。
今の流行作家など、10年たてば、誰も読みはしません。
名前さえも忘れ去られていることでしょう。

服を作る側のほんの一部は、
自分の作品を名作や古典にしたいと考えています。
そのつもりで服を作り続けています。
大量生産で、ひともうけしようとしている人ばかりが服を作っているわけではありません。
信念と経験と美学があって、
それを何とか形にして、
美術館に入るようなマスターピースを作ろうと努力しているデザイナーやメーカーはあります。

市場の判断が必ずしも正しいわけではありません。
ここ数年、その市場は、服を情報としてとらえ、
貧しさをそこかしこに蔓延させました。
買う側へも、作る側へも。
その市場とは、多くの人たちの消費行動です。
私たちの行動が変われば、市場も変わります。
誰もが忌み嫌う貧しさを自分にもたらしたのは、
市場を形成する私たち一人一人です。

私たちも雑誌ばかりではなく、
名作と古典、そして何度も読み返す本や、美しい写真集で構成された本棚のような、
そんな美しい、そして教養のようなワードローブを構築してみたらいかがでしょうか。

今の日本では、それが可能です。
私たちはかつてないほどに、
美術館の所蔵品が手に入れられるような時代に生きています。
これがいつまで続くかわかりません。
できるときにできることを、
死ぬ時に後悔しないように、
すべての貧しさから脱するために。
それが今の私たちの責務であると、
私は考えます。



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2015年5月15日金曜日

洋服の色合わせ その1


そぎ落とされたシンプルなデザインと、
モノトーンで構成されたスタイルの時代を経て、
複雑な構造とシルエット、
そしてカラフルな色合いのスタイルの時代になりました。
そうなると、モノトーンの時代には考える必要がなかった、
洋服の色合わせについて、
どうしたらいいのかという問題が出てきます。

洋服の色合わせを考えるとき、考慮すべき点は以下のものです。
・洋服そのものの色
・素材
・デザイン、シルエット
・シーン(照明と背景、周囲の人々)

まずは色そのものから説明します。
洋服の色合わせを考えるとき、基本となるのは、
明度と彩度をあわせる、
または明度および彩度のグラデーションです。

これを理解するためにはまず
明度、彩度、そして色そのものである純色について理解しておく必要があります。

明度とは、理想的な黒から理想的な白までのあいだの明るさの度合いです。
英語ではValueとなり、表記は通常Vです。
彩度とは、色味のない無彩色から、
あざやかさがもっとも高い純色までのあざやかさの度合いです。
英語ではChromaとなり、通常、表記はCです。

純色とは、赤、青、黄の色の三原色のほか、
使われる色相環によってその区分けは異なりますが、
そのほか主にオレンジ、紫、緑を足したもので、
その色の混ざりけのない、もっともあざやかな純度の高い色になります。

洋服の色合わせの基本、明度と彩度をあわせるですが、
日本の日本色配色体系は、これをわかりやすく12のトーンに分け、
名前をつけて分類しています。
その分類は以下のとおりです。
ペール、
ライト、
ブライト、
ソフト、
ストロング、
ヴィヴィッド、
ダル、
ディープ、
ダーク、
ライトグレイッシュ、
グレイッシュ、
ダークグレイッシュです。
(参照サイトはこちら
これら、彩度と明度のある範囲を囲ったトーン内で、
すべてのコーディネイトをあわせる、
というのが1つの色合わせの方法です。

つぎはグラデーションです。
これは明度のグラデーション、彩度のグラデーション、
両方、あり得ます。
わかりやすいのは白から黒のグラデーションに代表される明度のグラデーションです。
これは明度の低いものから高いものですが、
簡単に使われるのはこちらのほうです。
彩度に差をつけていっても、おかしいことはありませんが、
絵具ではないので、徐々に彩度を高くしていくという方法を、
洋服で表現していくのは、物理的に難しくなります。

また洋服にはさし色といって、
まとめたトーンやグラデーションとは違う色を投入する手法がよく使われます。
さし色は通常、全体の面積の中で使われる面積が少なく、
ポイントとなる色のことで、
その選び方に、特にこれといったルールはありません。
同じトーンの中でどれか1色をさし色として使っても構いませんし、
例えば、グレイッシュにヴィヴィッドを1色投入するなどの使い方も可能です。

色には赤と緑、黄色と青のような補色関係がありますが、
さし色を補色にしなければならないということもありません。
ただしもちろん、補色をさし色として持ってくれば、
お互いが引き立て合って、よりいきいきとしたスタイルになることは確かです。

さし色の使い方としては、
全体の中に1点投入する、
または点在させてリレーションを形成するの
2つの方法があります。
全体の中に1点投入した場合は、その1点のものを特に目立たせる効果が、
また、点在させリレーションを形成すれば、おしゃれな感じが自然と表現できます。
それはどちらを選んでも構いません。

またこれらの色合わせのほか、
洋服の世界でよく使われる色遣いに白から黒のモノトーンによるスタイルがあります。
白から黒は流行に左右されにくく、
常に使われる色遣いです。

白から黒のモノトーンには、色のあざやかさである彩度がありません。
白から黒は色ではなく、光の明るさだからです。
ですから、白から黒のモノトーンはどんな色とも合わせることが可能です。
それは白や黒のスクリーンの前にどんな色を持ってきても映えるのと同じことで、
どんな色をそこに持ってきても許されます。
同様に、白から黒の中間であるグレーも、
どんな色でも合わせられます。
これらは光と影の陰影なので、色味がないからです。
ただし、どれもその条件を満たすのは、
純粋で色味のない、混じりけのない白から黒であり、
少しでも黄色が混ざっていたり、青が混ざっていたりすると、
合う色は変わってきます。
クリーム色もグレイッシュなベージュも、純粋なモノトーンではありません。

さて、服の色は画用紙の上の絵具と同じではありません。
その色はどれも布地の上にのっかります。
素材の特質によって、純粋な色はまた違ったように見えてきます。
それが絵画や印刷物とは違う、洋服の面白さでもあるのです。

長くなりましたので、
後半部はその2に続きます。

参考文献:「COLOR BOOK  based on the Munsell system」 Bunka Collage of Fashion

写真:オスワルトの色相環。向かい合う色が補色関係になる。


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2015年5月1日金曜日

デザイン、生地、色

服がデザインされて製品化されるまでには、
段階があります。
その段階で最も重要なのは、
生地の選定、
色だし、
デザインの決定です。

これはブランドによって違うのですが、
デザインを決定する際、
先行して生地がもう既に存在している場合と、
デザインにあわせて生地を探し選定、または一から作る場合とがあります。
生地の色については、そのデザインにあわせて色だし(染め)をする場合と、
これもやはりもう既にある色の中から選択する場合とがあります。
どちらにも共通して言えるのは、
生地とデザインは切っても切れない関係であるということです。

生地とデザインがなぜ切っても切れない関係なのかということは、
生地の性質によって、
そのデザインが成り立つかどうかが決定してしまうからです。

例えば、デザインを先に考えて、
美しいドレープを出したい場合は、
生地にこしがなく、かつ薄手のジョーゼットやクレープを選ばなくてはなりませんし、
逆に構築的、立体的な形を出したければ、
厚手のしっかりしたフェルトやメルトンを使わなければなりません。

デザインではなく、使いたい生地が先にあった場合には、
その生地に合ったデザインを考えます。
シルクシフォンなら、ふんわりして、軽やかなギャザーやドレープが可能になりますし、
しっかりしたツイードなら、ジャケットやタイトスカートに向いています。

デザイナーは、その生地の特性、質感、適するデザインについて熟知している必要があります。
そうでなければ、服をデザインして製品にすることはできません。

生地とデザインの関係が決定したら、
つぎは色の選定です。
時代の色というものも必ずありますし、
また、デザインの上で必要な色というものもあります。
若さを表現したいのなら、ヴィヴィッドでポップな色合いに、
シックでエレガントなら、モノトーンやグレイッシュトーンに、
エスニックやトライブと言われる民族衣装をオリジナルとしたものなら、
その地域や文化圏の色が選ばれます。

このように1つのデザインされた服を完成させるためには、
この3つの要素はそれぞれに必要で、
交換不能な関係を持ちます。

交換不能な理由は、そこには意図があるからです。
若さなのか、
シックなのか、
エレガントなのか、
フェミニティなのか、
ジェンダーフリーなのか、
時代の最先端なのか、
リバイバルなのか、
意図があるからこそ、それらが選択されます。
もしここに意図がないのなら、それらはどうでもいいことです。
その時点で、それはデザインではありません。

デザインにはそれぞれ意図があり、
製品としての服になります。
その結果、意図の数だけ服のバラエティが豊かになります。
ファッションとはまさにそのことです。
多様性であり、豊かさです。
これがデザインする側、
ファッションを志向する側の姿勢です。

しかし同時に、それとは逆の姿勢の勢力も存在するのが現代です。
多様性や豊かさを否定し、
大量生産大量消費を礼賛します。
なぜなら、単純な同じものを大量に作ったほうが、
莫大な利益が得られるからです。
彼らにとって重要なのは、デザイナーの意図などではなく、
利益の追求です。

そのためにはデザインを極力シンプルに、
生地はなるべく同じものに、
色も決められた、ほんの少しの色の中から選びます。
デザインの意図などなく、
志向しているのは効率、安価、インスタントであることです。

2000年以降、
アパレル業界は、この2つの潮流に分かれました。
残念ながら、「莫大な利益」を得た側の影響力は強いです。
大量の宣伝、プロモーション、啓蒙活動が功を奏して、
多くの人が、ファッションの多様性、豊かさを選ばないままやってきました。
疑いもなく。

その結果、得られたものは、
感覚の鈍感さです。
明らかに、私たちの感覚は鈍感になっています。
芸術家、建築家、インテリアデザイナー、庭園デザイナーなど、
色と質感とデザインを扱う職業や、その勉強をしている人たちでない限り、
色の違いや、質感の違いに対する感度が鈍く、
差が認識できなくなっています。

何千種類ものウールの手触りを、
当たる光によって変化するヴェルヴェットの陰影の多彩さを、
デザイン、生地、色、すべてがマッチしたときの完璧な服の存在を、
そんなものすべてを振り切って、
簡単で、わかりやすく、インスタントなものを求めた結果、
私たちは豊かさを失いました。
多くの、傷んではないけれども、もう着られない服の山の真ん中で、
感じるのは、たくさんあることの豊かさではなく、
貧しさです。
それは、やせた感覚の貧しさです。

さて、貧しい人生など、ここらでやめてみてはいかがでしょうか?
かけたお金は少なくはありません。
金銭的に見てみたら、決して貧しくはありません。
貧しかったのは、その感性です。

何千種類ものウールの手触りを、さわっただけで瞬時に判断できるように、
バラとフランネル草とスイレンの葉の緑の違いのようなツイードの色彩が、
朝と昼と夕方では違うのだとわかるように、
袖を通した瞬間に、その服をデザインしたデザイナーと気持ちが通じるように、
失った15年の感性を、今から取り戻せばいいのです。

それは簡単なことではありません。
それは一朝一夕ではできません。
感性を眠らせている間にすぎていった時間を取り戻すのですから、
あるいは同じだけの時間がかかるかもしれません。
それでも、その価値はあるのです。
なぜなら、それこそが豊かであるということだから。
そして、
皮革とサテンとヴェルヴェットとウールギャバジンの黒の見え方の違いがわかる、
豊かな感性の持ち主こそが、おしゃれな人であるからです。



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2015年4月15日水曜日

服が人を美しく見せるわけではない

ある服を着ることで、
その人が美しくなるのかという疑問が私たちの心に湧きあがる前に、
それは、美しくなるに決まっているのだと、
いつでも、どこでも、繰り返し言われたり、
書かれたりしてきました。
しかし、それは本当なのでしょうか。

ここでマルグリット・デュラスの「愛人(L'AMANT)」の一節を引用します。
「女を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではない、
念入りなお化粧でもなく、高価な香油でもなく、
珍しく高価な装飾具でもないということを、
わたしは知っている。」
このように小説家は断言します。

私たちは何となく、
その美しい服さえ着れば美しくなれる、
その高価な装身具をつけさえすれば美しくなれると、
信じ込まされてきました。
そう信じ込まされてきたからこそ、
今まで多くの投資を、
忘れてしまいたいほどの過ちを、
クローゼットの中の隅っこに隠したまま、
長い年月を過ごしてきました。
けれども、服は私たちの下僕であるべきで、
主人であってはいけません。
下僕のいかんにより左右される美しさを、
私たちは本当に欲していたのでしょうか。

その言葉は誰によって発せられたのか、
私たちは注意して調べる必要があります。

ティム・ガンという大学教授が、
女性に必要な10のアイテムを推進しています。
白いシャツ、タイトスカートなどを、
女性は持っているべきであると言います。
しかし、ティム・ガンとはどこで何を教えている教授なのでしょうか?
彼は、FIT、つまりニューヨークのファッション工科大学の教授です。
アートの学校ではありません。
工科大学、つまりテクノロジーのための学校です。
彼は、量産が前提の服作りの学校の先生なのです。
ですから、すべての人に同じものを持ってほしい、
そう考えているのです。
なぜなら、量産こそが彼らのねらいだからです。
これがもし、パリのオートクチュールの服作りのための学校の教授だったら、
このようなことは言わないでしょう。

確かに美しい服は存在します。
アートとクラフトが融合し、
100年、博物館に飾ってもおかしくないデザインがなされた美しい服は、
多くはありませんが、
確かに存在します。

一方、ひとの美しさとは、
着るものに左右されるものではありません。
肉体の美しさもさることながら、
しぐさの美しさ、
心の美しさ、
言葉の美しさなど、
どんなものを着ていても、十分に察知できるものです。
もしそれが着るものによって左右されるのならば、
その美しさは空虚で、偽りのものでしょう。

服とひとは対等ではありません。
あくまでひとが主で、服が従です。
私たちは、決して服のいいなりになど、なってはいけないのです。

どんなに完成度の高い美しい服を着たところで、
ひととしての美しさがないのならば、
それはショーウィンドウのマネキンと同じです。
もしそのひとの着ている服だけが印象に残ったのなら、
そのひとはたいして美しくはないのです。

ひとと服の主従関係をはっきりさせ、
服に従う人生から、早く抜け出さなければなりません。
その服を着れば美しくなりますよとささやいたそのつぶやきが、
誰から発せられたのか、
見破らなくてはなりません。
そして、まず最初に私たちが本当にすべきなのは服への投資などではなく、
ひととしての美しさを養成したり、
栄養を与えるための投資です。
それが完成の域に近づいたとき、
ほんとうに美しい服は、
あなたの忠実な下僕となって、
あなたの美しさをより輝かせるでしょう。

その時期がいつ訪れるのかは、
ひとによってさまざまです。
本物のデザイナーは、
そのときに貢献する服を作っています。
私たちはそれを選べばいいだけです。

運動したり、
読書したり、
楽器の練習をしたり、
料理をしたり、
どんなひとともコミュニケーションできたり、
ひとつの技術を磨いたり、
美にふれること、
それらが私たちを美しくさせます。
美しい人にこそ、美しい服がふさわしいのです。

小説家が知っていたように、
女性を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではないと、
多くの人がうすうす気づいていたことでしょう。
今はそれを確信に変えて、
やるべきことの順番の見直しをしてください。
そのときまで美しい服たちは、
あなたのことを待ち続けています。

文中引用:「愛人」 マルグリット・デュラス 清水徹訳
河出書房新社 1985年


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2015年4月1日水曜日

ファッションとは変化

ファッションとは変化です。
変化が常態です。
ですから、変化が止まったら、
それはすなわちファッションの死を意味します。

人もそれぞれ変化していきます。
人の変化は成長と呼ばれます。
年齢が若ければ若いほど、
1年の成長の幅は大きくなります。
成長の速度と距離は、人によってそれぞれです。
同じように、何歳まで成長し続けるのかも、
人によって違います。
多くの人は、年齢が上がれば上がるほど、
その成長の幅を縮めていきます。

時代に即して変化していくファッション、
年齢とともに変化していく人、
その交点にその人のワードローブがあります。
成長の幅が大きい人の場合は、
ワードローブに流行が大きく反映され、
成長が止まったならば、
ワードローブが流行に影響される割合はぐっと少なくなります。

シルエット、色、素材にも流行があり、
それは少しずつ変化していきます。
プルミエール・ヴィジョンのブックを見るまでもなく、
60年代の色と、2000年代の色と、2010年代の色は違います。
同じように人も、年齢とともに好きなシルエット、色、素材が変わっていきます。
そして、そこへ変化が遅い、物質としてのでき上がった服が入り込みます。

物質としての服の変化は、いわゆる経年による変化、
また洗濯による劣化、着用による摩耗や着用回数は、
もともとの素材の性質によって異なります。
当たり前のことですが、
着用回数が多いものは、劣化のスピードも早くなります。

活発な子どもは成長の度合いが大きく、
身体の変化が激しいので、その成長にふさわしく、
古いワードローブから脱皮していきます。

次にやってくる若い時代は、
精神的な成長の度合いが著しく、
それに伴いワードローブを変化させます。
誰でも二十歳のころの服を、
30歳になったとき、同じように着たい気持ちにはなりません。

若い時代が過ぎ、大人として成熟していく段階で、
成長の速度の個人差が大きくなります。
そこで成長をとめた人のワードローブは、
進化することを停止させます。
もはや服を着ることは生活に必要な行為であるだけであって、
ファッションと無縁になっていきます。
それは別に悪いことではありません。
生き方の1つです。
その生き方を誰かに否定される筋合いはありません。

しかし、もしファッションを目指すなら、
変化を受け入れなければなりません。
変化を拒むもの、恐れるものは、
ファッショナブルにはなれません。

時代が変わっていくならば、
それにあわせて進化していく。
若い肉体にもう戻れないとしても、
鍛えて維持をする。
常に精神を若々しく保ち、
過去に執着しない。
これらは、身体も心も、
そして物質的にも身軽でなければできないことです。
重くなりすぎたら、素早く変化に対応することは、不可能です。

物質的な服の劣化を見極めながら、
あくまで身軽に、
一度決めたことを葬り去る勇気と、
新しいことにチャレンジする進取の精神とを持ち続けるならば、
いつでもファッショナブルでいることは可能です。
それは実際の肉体年齢の問題ではありません。

ファッションとは変化です。
ですから、ファッショナブルな人とは、
変化に対応し、
進化し続ける人です。
他人によるレッテル貼りや、意味づけ、決めつけなどの、
多くの制止を振り払って、
走り続ける人こそが、
永遠におしゃれな人です。



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2015年3月15日日曜日

ジャンプスーツ、またはつながっているということ

ジャンプスーツとは通常、
トップスと、それに伴うパンツのボトムがつながった状態のものを呼びます。
トップスがスカートとつながっていれば、
それはワンピースやドレスですが、
パンツとつながるとジャンプスーツ、オール・イン・ワンなどと呼ばれることになります。

ジャンプスーツがここへきて注目されていますが、
何もこれは新しい形というわけではありません。
作業着としての「つなぎ」や、
赤ちゃんのロンパースなど、
形としては以前からありました。
ただそれがモードに昇華されるのには、
多少の時間がかかりました。
そして今やっとそのときが来ました。

特徴を一言でいえば、つながっている、ということです。
西洋の衣服において、この「つながっている」ことは、しばしば重要視されます。

西洋の女性の衣服の歴史は、
布に穴をあけてそこに頭を入れただけの貫頭衣から、
ギリシャやローマ時代の生地を身体にまきつける時代を経て、
常にトップスとボトムスがつながったドレスという形で発展してきました。
やっとジャケットとスカートという形が見られるようになったのは、
イギリスのエドワード時代あたりではないかと思われます。
(ここは、はっきりした資料が見つけられませんでしたので、
間違っているかもしれません)
しかし、いくらジャケットとスカートに分かれたとはいえ、
それはやはりひと続きのつながりがあるもの、
つまり上下が同じ生地によって作られるスーツでした。
トップスとボトムスに全く違うものをあわせるようになったのは、
せいぜい100年あたりの、ごく最近のことです。
上と下はつながっている、
または分かれていたとしても同じ生地で作られるべきものというのが、
西洋の衣服の暗黙のルールです。

例えば、日本の着物は上下がつながっている、いわばドレスです。
それを上下、別々にすることもできますが、
そこで上と下、違う生地を持ってきたとしたら、
それは既に着物ではなくなるでしょう。
上と下を別にしてしまったら、
着物の体をなさなくなります。
着物にとって、つながっているということは重要です。
それと同じことが、西洋の衣服についても言えます。

西洋の衣服においての、このつながっていることの重要性は、
現代のスタイルでも多く見られます。
格が高く、オーソドックスなスタイルは今でもなお、
ドレス、またはスーツです。

その点から考えると、
ジャンプスーツは、それが連想させるものが作業着としての「つなぎ」であったとしても、
「つながっている」という条件を満たしているからには、
格が高いものの仲間であると考えられます。
素材、パターンを洗練させたならば、
それはドレスに匹敵するほどのスタイルとして認められるでしょう。

ジャンプスーツはドレスより活動的であるにもかかわらず、
つながっているという条件は満たしているので、
ドレスと同じだけの格があり、
十分におしゃれなアイテムです。
同じ素材のジャケットを上から羽織るならば、
そのまま正式な場へ出席できます。
これを利用しない手はありません。

ただし、誰もが思い浮かぶジャンプスーツの欠点があります。
それはトイレでの問題です。
トイレに行って、あれをいちいち上から脱ぐのかと考えると、
着ていく場所は選ばざるを得ません。
その点さえ解消できるならば、
ジャンプスーツはこれからの時代、より利用されるようになるでしょう。

暗黙のルールである、「つながっている」ことは、
いまだ至るところで散見されます。
例えば、帽子とコート、
コートとバッグ、
バッグと靴、
コートと靴など、
同じ素材、同じ柄を持ってくるテクニックは、
ハイブランドでよく見られます。
それらいちいち、はい、これは同じ素材で作られていますよなどと、
説明されることはありませんが、
そうすることによって、彼らは自分たちのスタイルの格を上げるのです。

誰も言葉にはしないけれども、
ひそかに守り続けられているルール。
これを取り入れるだけで、
平凡なスタイルが、非凡なものになります。

ジャンプスーツはそれの1つの例に過ぎません。
それに気がついたなら、
私たちは自分自身で、「つながっている」ことを作ればいいのです。
帽子と靴でも、
コートと帽子でも、
靴とストールでも、
つながりを取り入れます。
そのとき、今まで無自覚だったものが、
初めて意味を持ち始めます。
意味がないと思っていたものは、
実は意味があったと知ります。

おしゃれであるということは、
無自覚でなされる選択からの卒業です。
ひとつひとつの選択に意味を与えること。
そこに必要なのは意図することです。
意図があるということが、
おしゃれについて考えている人と、
そうでない人との違いなのです。


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2015年3月1日日曜日

70年代リバイバル

ファッションの流行は、
周期的にどこかの時代のスタイルを再び蘇らせ、
進化させることにより、
らせん状に発展していきます。
リバイバルはそのほとんどが、
多くの人が忘れたころにやってきます。
2010年代に1970年代がリバイバルされるということは、
およそ40年ぶりということでしょうか。
多くの人がそのスタイルを忘却するのに必要な時間は、
十分にありました。

70年代の特徴はいくつかあります。
若者の普段着であったデニムを使ったアイテムの一般化、
作業着のモードへの昇華、
ヒッピーやボヘミアンスタイル、
そしてエスニックです。
そのどれもがいわゆる「中心」から外れた周縁、または辺境の存在。
社会的に認められていなかった、といってもそれは欧米での話ですが、
若者、
労働者、現在はロマと呼ばれるジプシー、
社会の規範へ反抗するヒッピー、
欧米以外の文化圏の人々などです。

ファッションは、その中心と周辺を入れ替えたかのように、
外側からの影響で内部が埋め尽くされたのでした。
それまで価値を認められていなかったもの、
切り捨てられていたものの価値が、一気に上がったのです。

そうなる前には、例えば1968年のパリでの五月革命のように、
学生運動が世界中に広がり、
新しい世代が新しい価値観を持ってあらわれてきたという事実がありました。
常に新しい流れを取り入れるファッションが、
このような社会的な流れに影響を受けるのは当然です。

また、1970年には日本の高田賢三がパリにショップをオープンし、
欧米以外の文化圏の影響を受けた、大胆な色遣い、柄と柄の組み合わせなど、
若く、しかも「欧米ではない」という価値観を示しました。
(注:この時代、東欧の文化も、
イギリス、フランスなど西ヨーロッパの国から見ると、
異国情緒のある文化でした。ボヘミアンスタイルなどは、東欧の影響を受けたスタイルです)

これら、「中心」以外の存在のパワーが中心を凌駕した結果生まれたのが
70年代のスタイルです。
スタイルの特徴としては、
ベルボトムやパンタロンなど、裾広がりのパンツ、
素材としてスエード、ヴェルヴェット、デニム、
細部の装飾としてフリンジ、フリル、
ロングスカート、
パッチワーク、
フリンジ、
刺繍、
ひもやマクラメ使い、
月の女神ダイアナ風サンダル、
などです。

2010年代、70年代がリバイバルされていますが、
もちろんこれは1970年代のものそのままではなく、
アップデートされています。
パンタロンのシルエット、
サボという原型、
スエードという素材はそのままに、
それぞれがかつてのそれより、
より手の込んだ、より洗練された、
若者ではなく大人にふさわしいものになっています。
ただ労働者のジーンズを着るのでも、
ただ東欧にいた女性たちがはいていた、
あのロングスカートを借りてきてはくのではなく、
それぞれの足りないところを補い、
モードと呼ぶのにふさわしい豪華な素材、
繊細な手仕事を施すことにより、
雰囲気は70年代のままに、
全くの別物に仕上がりました。

では、なぜ今70年代なのでしょうか。
若者、そして異質な文化という性質を、
なぜ今の時代、再現しなければならないのでしょうか。
それは今の時代の流れの終わりが見え始めたからではないかと、
私は考えます。

文化の黄昏の時代、
発展が行き止まり、これ以上の先が見えなくなったとき、
私たちに必要なのは「若さ」です。
それは年齢の若さではなく、
精神の若さ。
新しいことにチャレンジし、
どんな変化にも対応できるしなやかさ、
そして何よりも未来を夢見る力、
そんな「若さ」の持つ力を、
私たちは再び欲します。

そして異質な文化を取り入れるのは、
あたかも輸血するかのように、
違う血を入れることによって、
自分たちの文化を若返らせようとする、
無意識のあらわれです。

では、2010年代を生きる大人の私たちは、
この70年代リバイバルをどのように取り入れたらいいのでしょうか。
まずは、大人にふさわしいものを選ぶこと。
二十歳前後の子たちと同じような、
単純なそのものの70年代スタイルはあえて避け、
生地なり、細部なりがアップデートされたものを選びます。
古着屋で手に入れたような、本物の70年代のものよりも、
今にふさわしいスタイルに改善され、
そこはかとなく70年代を感じるぐらいのものにおさえたほうが、
現在持っているワードローブに取り入れやすいですし、
何より違和感なく着ることができると思います。

そして最も大事なのは、精神的な若さです。
かたくなで、変化を嫌い、
好奇心のかけらもなく、
何事にもチャレンジしない態度は、
決して若いとは言えません。
新しいものを取り入れ、
知らないことを知ろうとし、
上からものを言うのではなく、
何かを学ぼうとする姿勢があってこそ、
70年代スタイルは生きてきます。

さらに、異質な文化への好奇心と理解。
異質なものを排除する心は、
70年代の若者たちが最も嫌ったものでしょう。
もし彼らが「日本」という異質な文化を持つ国から来たものを排除したならば、
海を渡った日本のケンゾーはパリで成功しなかったはず。
パリが異質な文化を背景に持つケンゾーを受け入れたように、
ファッションを愛する人々は、
異質な文化にみずから近付き、
理解し、受け入れなければなりません。
それは、ファッションの1つのエレメントです。

ファッションはいつの時代も、
異質な文化を取り入れて発展してきました。
それは昔も今も、そしてこれからも変わりありません。
70年代スタイルとは、いわばそのシンボル的なスタイルです。

おしゃれであるとは、
精神が若いこと、
そして、異なるものや人への好奇心を持ち続けることです。
その2つがあるならば、
70年代スタイルを着こなすのは、
いとも簡単であるはずに違いありません。





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2015年2月16日月曜日

「ハレ」の日の衣装(例えばデートの場合)

日常のことを「ケ」、
そしてはれのの日のことを「ハレ」と言います。
現代は、この「ハレ」と「ケ」のうち、
「ハレ」の日が少なくなり、
どこまでも続くような、変わらない日常が1年の多くを占めるようになりました。
それでもまだ、「デート」というものは、この数少ない「ハレ」の日であると思います。
今回は、「デート」を例にとって、
どんなふうにその日の服装を組み立てていったらいいか、
考えてみることにします。

考慮する必要があるのは以下の点です。
季節、
場所、
時間、
かかわる相手、
目的です。
考え方としては、自分が主人公の映画のワンシーンで、
自分が監督で、自分が衣装デザイナーです。
デートのシーンが絵になるものになるように心がけます。

まずは、「デート」という1つのシーンがどのような季節の、どこであるのかを考えます。
例えば季節が同じ早春だとしても、
それが都会なのか、海なのか、山なのか、田園なのか、地方なのかによって、
着るものは変わります。
なぜなら光の加減も、背景となる風景も違うからです。
どちらかというと、都会はその点で許容範囲が広いです。
特にそこが観光地であった場合、どこでも同じ服装の観光客は許されます。
しかし、幾ら都会の許容範囲が広いとは言え、
高級ホテルのラウンジで映えるスタイルと、
湘南の海辺のレストランに似合うスタイルは違います。
都会であったら、ガラスとコンクリート、凝った照明ですが、
海辺であったら、まずは海と輝く真昼の太陽、または夕陽や、
灯台に照らされる海などになるでしょう。

また、デートなのですから、季節感無視のスタイルもおかしいです。
お気に入りの映画やテレビのドラマを思い出してください。
主人公は、季節に合った服装をしてあらわれます。
暑さ寒さに対する対応が優先の日常とは違います。

次に時間です。
朝、昼、夕、夜などの時間帯のうちどこなのか、
または半日なのか、1日なのかを考えます。
午前中、レストランでブランチをとるのと、
夜のディナーを楽しむのとでは、装いは変わってきます。
午前中だったらよりリラックスした感じで、
夜だったら、少し緊張感のある、よりおしゃれした感じがふさわしいです。
また、1日にかけてのものであったら、
1日のうち、どのように衣装を変えていくか、考える必要も出てきます。

季節、場所、時間がわかったら、
次は相手との関係について考えます。
初めてデートする相手と、1年付き合った相手と、
結婚した相手では、選ぶスタイルは違ったものになるでしょう。
初めてデートする相手だとしたら、それなりにきちんとした、
かつ自分らしさが伝わるスタイルで、
付き合って何年もたつ相手なら、よりリラックスした、カジュアルな雰囲気になるでしょう。
けれども、まだここで決定することはできません。

最後に最も重要なのはその日のデートの目的、そして意図するところです。
初めてのデートなら、自分を知ってもらうためでしょうし、
誕生日のデートなら、どちらかをお祝いするためです。
自分を知ってもらうために、その方法としてカジュアルな普段着のスタイルを見てもらうのか、
それとも、かしこまった感じのよそ行きスタイルを見てもらうのか、
それは自分でどちらを意図するかによります。
また、誕生日のお祝いを三ツ星レストランでするのか、
ドライブをしてから海辺のレストランでするのか、
雪深いゲレンデ近くのホテルのレストランでするのかによっても変わってきます。

さて、これら考慮すべき点を出そろったら、
次は自分の持っているワードローブで、どうやってそれを表現するかの問題です。
現在、多くの人のワードローブは、
普段着、通勤着、遊びへ行くときのスタイルで構成されています。
「ハレ」の場面が少ない生活をしていると、
そういった日のためのワードローブは一切持っていないということも多いです。

しかし、人間の歴史のどの時代、どの地域においても、
「ハレ」の日のための衣装というものは存在しています。
私たちが「貧しい」と呼ぶその地域でさえ、
私たちの日常着よりはずっと豪華なお祭り用の衣装一式を持っています。
何か特別の日のために「着飾る」という行為は、
人間の長い歴史の中で、たった一度も忘れられたことはありません。
それは根源的な私たちの無視できない欲動です。
それは抑圧されればされるほど、反動となってあらわれます。
たくさんの服を所有したり、
買っては捨ててを繰り返すのもその1つのあらわれです。

「ハレ」の日には「ハレ」の日にふさわしい服装をするのが人間の文化です。
どんなに貧しいと呼ばれる地域や国々でも、それはできるのです。
確かに現在の生活の中では、大きなお祭りも夜通し祝い続けるような結婚式もありません。
であるからこそ、自分の生活の中に「ハレ」の日を作らないと、
人間としての心が枯れていきます。

「ハレ」の日のための衣装が何もない場合、
自分なりに工夫して、何かを付け加える必要が出てくるでしょう。
それがダイヤモンドのピアスなのか、
ラインストーンのネックレスなのか、
シルクサテンの花柄のドレスなのか、
黒いスエードのハイヒールなのか、
それはその人のライフスタイルや年代にもよります。
学生であれば学生なりにできる範囲での、
また年齢を重ねたのであれば、それにふさわしい選択というものがあります。

そして、洋服ではありませんが、
日本人であれば、それが着物だということもあるでしょう。
着物を着るだけで、それは十分に「ハレ」の日です。

ポイントは非日常です。
普段は着ないものです。
「ハレ」の日のためだけに用意された、
日常を超える衣装。
毎日のためのものではなく、
1年にたった数日の、特別な日のためのもの。
そんなものがあるだけで、
私たちは退屈な日常から抜け出すことができ、
着飾りたいという人間の根源的欲求が満たされます。

今回は例えばデートの場合でしたけれども、
何もデートに限ったことではありません。
音楽会へ行くとき、
予約をしてディナーをレストランでいただくとき、
または自分が主催して誕生日パーティーを開くとき、
そんな、普段着ではないときのためだけの衣装があることで、
私たちのモノクロの日常が、いきなりカラーに変わるのです。

観客でいることはやめて、
主人公になりましょう。
誰かが主人公の映画もドラマも雑誌も適当にしておいて、
自分が主役の物語を紡ぎましょう。
映画のワンシーンのように、
シーンをつなぎ合わせれば、
自分だけの物語ができ上がります。
主人公の「ハレ」の日の場面のために、
衣装を用意してあげましょう。
すべてこの世は舞台ですから。


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2015年2月9日月曜日

服に飽きるということ

一般的に、柄物の服や、
デザイン性の高い服は飽きやすいと言われています。
また、そんな服ではなくても、
あるとき、その服はもう飽きたと感じることがある人は、
多いと思います。
その「あるときは」、必ずしも決まった年数であるとか、
決まった回数を着たからではなく、
ふいにやってきます。
何の前触れもなく。

飽きてしまった服をよみがえらせるためには、
いくつかの方法があります。
まずは、少しその服を着るのをやめて、寝かせておくという方法。
余りにもしょっちゅうある服ばかり着続けると、
確かに飽きがやってきます。
そういうときは、一定期間、その服を着るのをあえてやめます。
そして、忘れたころに取り出してみると、
また新たな気持ちで着ることができます。

次に、その飽きた服をいつもの組み合わせではなく、
違うものと組み合わせて着るという方法。
知らず知らずのうちに、同じ服を同じ組み合わせで着ているものです。
それはその組み合わせが最も自分にしっくりくるからでもあり、
着やすいからでもあるでしょう。
その場合、服に飽きたというよりは、
コーディネイトに飽きたということなので、
そのコーディネイトを変えてみると、
それだけで気分は変わります。

また、流行っているものなどの場合は、見慣れたことが原因で飽きがきます。
私たちは、自分の服だけではなく、
同じ服、靴、バッグを持っている人を見るだけで見飽きていきます。
余りに流行したものが、すぐに嫌になるのはそのためです。
私たちは、ある一定量、目に同じ情報が入ってくると、
それ以上、受け付けなくなる性質を持っています。
ですから、街に出ればすぐ目に入るような、
はやりのものは極力買わないということも、
飽きないための方法です。

しかし、その「飽きた」ということの原因を深く見ていくと、
それは服のせいではありません。
私たちが本当に飽きているのは、自分たちの単調な生活です。

決まり切った日常で、
ハレとケの区別もなく、
土から離れ自然の変化も感じにくい生活を長く続けると、
私たちは飽きてきます。
子どものころのようにたくさんの行事もなく、
毎日は同じことの繰り返し。
自然のリズムを無視し、
エネルギーの動きが止まったとき、
私たちは何とかしてそれを変えようと、
無意識の領域から突き動かされます。

何も起こらない、変化に乏しい日常の中で、
服を買うという行為は、手軽にエネルギーを動かす方法です。
新しい服を買ってみる、
着てみるという行為は、それだけで小さな変化です。

変化こそが生きることであるにもかかわらず、
その動きを封じ、ゆがみのない毎日の中で、
服を買うという行為が、その代替品として発見されました。

けれども、新しく服を買ったところで、
本当の変化にはなりません。
動いたエネルギーも小さすぎます。

映画を見る、音楽を聞く、本を読むなど、
ほとんどの娯楽が受け身の中で、
服を買うという行為は、少しは自発的な行為ですが、
それだけではやはり足りません。
自分から自分のエネルギーを動かし、
変化を作っていかない限り、
私たちは、ほんの些細なことで、服に飽き続けます。

自分の持っているエネルギーを何かを創造するために使っている人たちは、
飽かずに同じ服を着続けます。
種をまき、球根を植え続ける園芸家も、
まだ見たことのないものを描き続ける画家も、
一瞬の動きの中に永遠を見出すダンサーも、
食材の組み合わせの完璧な味のバランスを探すシェフも、
服をとっかえひっかえ買う必要はありません。
なぜなら彼らは自分のクリエイティビティを発揮し、
服に飽きている暇などないからです。

自分の持っているエネルギーを十分に動かし、
変化のある毎日を送ったならば、
服の飽きにいちいち心を煩わされることはありません。

服に飽きて、
新しい服をまた買って、
そしてそれにまた飽きて、
そんな服ばかりがふえていくのが心底嫌ならば、
自分で自分に対して変化を起こす必要があります。
与えられたスケジュールをこなすだけの、
動きのない日々は人を腐らせます。
変わらないということだけがクリエイティブで、
生きている証です。

それは誰かが与えてくれるものではありません。
受け身の娯楽におぼれているだけでは、
そこからは抜け出せません。
着ている服を忘れるくらい没頭できる何かを、
私たちは探さなくてはなりません。

それができた暁に、
私たちは、カシミアのセーターの肘が破れるほど着続けた自分に気づくでしょう。
ダメージ・ジーンズを買う必要もなく、
はいているうちに、自然とジーンズは擦り切れていきます。
そして、日常から「飽き」はなくなり、
渇望感は消えていきます。

服が飽きたと感じたなら、
それは本当にその服が飽きたのか、
自分が自分に飽きているのか、
自問してみてください。
そのどちらが本当の答えなのかは、
自分のハートに聞けばわかります。
そして、どうすればいいのかも、ハートは知っています。
それに従えばいいだけです。
それは案外、簡単です。


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2015年2月2日月曜日

黒以外の靴を選ぶ

黒いパンプス、
黒いバレエ・シューズ、
黒いローファー、
黒いサンダル、
黒いレースアップ・シューズ、
黒いブーツがひとそろえあれば、
それで1年中過ごせますし、
おかしく見えることはありません。
それに黒いバッグを組み合わせれば、
申し分ありません。
誰も文句は言えません。

しかし、おしゃれ上級者の人たちを観察していると、
このバランスを崩し、
特に靴の色に関して、わざとこのオーソドックスな黒を外しているということがわかります。
彼女たちは、明らかに、しかも確信を持って、
あえて黒い靴を選びません。
黒い靴に黒いバッグをあわせるという安全策はとらないで、
あえて冒険して、黒以外の靴を選びます。

はっきり言って、それが本当に合っているかどうかは疑問です。
そこには特にルールがないからです。
「絶対」はありません。
しかし、徹底的に黒を外してくるその態度はまさに、
おしゃれなのです。

では、彼女たちはなぜあえて、不調和ぎりぎりの色の靴をそこに持ってくるのか。
また、色ばかりではなく、例えばスーツにスニーカーや、
ストラップのついたサンダルをあわせたり、サボをあわせたりするのか。

その理由の1つは、ほかの人と同じスタイルを避けるため。
ここで黒い靴、黒いバッグではいかにも平凡です。
何の工夫もありません。
誰でもが考え付く、かつできるスタイル。
その凡庸性から逃れるために、黒い靴を避けます。

そしてもう1つの理由は、あえて完璧であることを避けるためです。
完璧とは、完成ということ。
進化の終わりということ。
それ以上がないということです。
人はなぜか、発展性のないものに惹かれません。
惹かれないだけではなく、退屈さえ覚えます。
当然のことながら、興味の対象からは外されます。

未来が楽しみな子どもや若者は、それだけで柔らかい存在です。
若木のようなしなやかさは、それだけで魅力です。
はかることができない伸びしろが、それがどうなるかわからないからこそ、
魅力的なのです。
一方、年を重ね、
固い殻に閉じこもり、柔らかさを失った大人に魅力を感じるのは難しくなります。
反応の遅さ、
感受性の鈍さ、
決まり切った受け答え、
それが固定してしまった人は、自然と他人を遠ざけます。
そういった大人が必ずはいている黒い靴は、
あたかもその人の句読点のように、
固い殻の入口をしっかり閉じます。

どんなに完璧な格好をしたところで、
魅力がないのであれば、意味がないのです。
私たちがおしゃれをすることで目指したいのは完璧であることではなく、
魅力があることなのです。
魅力とは、見る人の心を動かす力です。
完璧だけれども、心が一ミリも動かないスタイルをしたところで、
ちっとも面白くありません。

黒以外の色の靴は、
見る人の心を動かします。
どう解釈していいのか、迷います。
けれども、それを見ずにはいられません。
何がいいのかわからなくても、
目にはその印象が焼きつきます。
心が動き、そこにドラマが生まれます。
それが「赤い靴」であるならば、映画のテーマにさえなり得ます。

完璧だけれども、退屈なスタイルにはまっているのなら、
思い切って、黒以外の色の靴を選ぶことをお勧めします。
茶色や白など、ベーシックな色の場合はそれほど難しくはありませんが、
赤、グリーン、黄色など、
靴としてはあまり選ばれないような色になればなるほど、
難易度は上がっていきます。
まずはスニーカーやバレエ・シューズで試してみましょう。
夏のビーチ・サンダルでも構いません。
靴屋の全身が映る姿見の前で、
まずは黒い靴をはいてみて、
そのあとに、ふだんは絶対に選ばないような、
けれども、実は大好きな色の靴をあわせてみてください。
どの色の靴を選べばいいかわからない場合は、
いつもさし色として使う色を持ってくるのが一番簡単な方法です。
まずはそこから始めましょう。

魅力があるところには会話が生まれます。
そして、関係は発展します。
固い殻に閉じこもっていたのでは、
誰も声をかけません。
それを変えることができるのは自分だけです。
変えるつもりがないのなら、
それは永遠にそのままです。
靴の色を変えるというその意思表示は、
自分を変えるための第一歩になるでしょう。
いつだって物語は、
主人公が変わると決意したところから始まります。
新しい物語を始めましょう。


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2015年1月26日月曜日

自分で作るセットアップ

自分の持っているワードローブのアイテムを使って、
素敵なコーディネイトができないというお悩みを持っていらっしゃる方が
たくさんいらっしゃいます。
こんなにたくさんあるのに、
雑誌だって、いつも見ているのに、
高いお洋服を買ったのに、
いざ、組み合わせようとすると、
どうしたらいいか全くわからない。

どうしたらいいか全くわからないだけでなく、
その原因もわからない。
原因がわからないので、その解決方法もわからない。
苦肉の策として選ぶのは、
そして、頭の中でひらめくのは、
新しい服を買おうというアイデア。

しかし、新しいその1枚が足されたからといって、
家に帰って、コーディネイトできないという現実が変わるわけでもなく、
そのまま、いつものお気に入りの組み合わせで、
特別な外出の日は出ていく、
その繰り返し。

お気に入りの組み合わせはとても気に入っているので、
そればかり着ている間に、
どうにもこうにも組み合わせることができないスカートやら、ブラウスやらは、
クローゼットの脇のほうへ寄せていく。
けれども、気づいたら、
脇へ寄せたつもりの、
そのどうしたいいかわからないスカートやら、ジャケットやら、パンツやらが、
クローゼットのハンガーラックの真ん中のラインを過ぎている。
つまり、半分以上は、どうしたらいいかわからない、
ドレスやら、コートやら、セーターになっている。

あんまり着ていないから、傷んでないし、捨てるに捨てられないし、
誰かがもらってくれそうにもないし、
リサイクルショップへ持っていっても、100円とか、200円とか、言われちゃうし、
そうだわ、見なかったことにしようとひそかに決意し、
クローゼットから取りだして、
押入れの奥へ押し込んだところで、
持っているということには変わりなく、
そして何より、
持っているアイテムでコーディネイトできないという問題は全く手つかずのまま。

ではどうしたらいいか。

ほとんどの人がコーディネイトできないその理由は何かというと、
色の問題です。
正直な話、色音痴の人が多いです。
これとこれは合わないと言っても、
この青と、その青がどう違うのか、識別できない人が多いのです。
もっとも簡単に識別できる黒と白を除いては、
その見え方についての感受性を育ててこなかった結果、
色の識別ができなくなったのだろうと推測できます。
服の場合、これらの色が生地のテクスチャーの上にのるわけですから、
もっと複雑になります。
光の反射の具合によって、同じ黒の見え方が違ってきますが、
それも、よくわからないと言う人が多いです。

服を買った期間が20年間、30年間ではなく、
例えば、10年以内のものばかりだとしたら、
それほどシルエットが時代遅れというものはありません。
確かに、今、80年代に買ったコートをそのまま着たら、
それは「変なコーディネイト」になるかもしれませんが、
そういう人はあまりいません。

もちろん、シルエットは流行を見る上で重要ですが、
ベーシックなものをメインに選んでいる限り、
「そのシルエットの組み合わせがおかしい」という失敗パターンは、
少数です。
それより何よりも、失敗しているのが色なのです。

解決方法は、自分の着るメインの色を決めることです。
そして、決めるだけではなく、
その選んだ1色で全身がコーディネイトできるように、
つまり、ネイビーならネイビー、グレーならグレーの1色でコーディネイトが完成できるように、
アイテムをそろえることです。
ネイビーのパンツ、スカート、ジャケット、ニット、シャツ、コートまで、
ひとそろえ持っていれば、それを土台として、ぶれない色のコーディネイトができ上がります。

例をあげます。
ネイビーを自分の基本の色に選んだとします。
その上で、
ジーンズ、ジャケット、Tシャツ、帽子、スカーフ、スニーカー、スカートをそろえます。
中のTシャツを白にかえて、白いバッグを持てば、それだけでさわやかなコーディネイトになります。
また、そこに1点、赤い腕時計でも投入すれば、
トリコロールのコーディネイトになります。

グレーでも同じことができます。
グレーの場合、
白から黒までのグラデーションのあいだの色合いのアイテムがいろいろ売っていますので、
その色の幅までOKとして、
コート、パンツ、ニット、ストール、バッグ、ブーツをそろえます。
グレーで全部そろえると、それは都会的なコーディネイトです。
コンクリートとガラスの建築群によく似合います。
そして、例えばその中のニットを華やかな黄色やベビーピンクに変えれば、
都会的な冷たい感じを和らげることもできますし、
春の気分を先取りすることもできます。

自分のワードローブの中に、
自分の選んだ色の1色で上から下まですべてコーディネイトできるセットを持っていれば、
色の組み合わせで迷ったり、失敗したりすることはありません。
ただし、ベージュやカーキなど、売っているものの色合いが微妙に違うものは注意が必要です。
同じベージュでそろえるのはかなり難しいです。
けれども、できないことはありません。

これは、自分でセットアップを作るという考え方です。
売っているセットアップは、せいぜいジャケットとスカート、
または半袖ニットと長袖ニットの組み合わせ。
それだけではなく、上から下まで、靴、バッグ、小物まで含めて、
ひとそろえとしてセットアップ、つまり、組み立てておけば、
微細な色の違いが識別できなくても、
色で失敗することはなくなります。

本当は、それぞれが色についての鋭い感性を養えばいいと思います。
絵画を見たり、植物を観察したり、
生地屋へ行って、素材をひとつひとつ見て回ったり、
その一連の行為が色に対する感性を養います。
しかしそうはいっても、感性を養うには時間がかかりますし、
明日も服を着なければなりません。

色について、一番怠惰になりたいならば、
いつも黒だけ選べばいい。
しかし、それではいつまでたっても、色を識別する眼は育ちません。
想像してみてください。
江戸時代、女性の着物がすべて真っ黒だったら、それはどんな景色でしょうか?
豊富な色彩は豊かさの1つの印です。

まずはできるところから、
できる方法で。
1色を決めて、それで自分なりのセットアップを作る方法は、
誰もができますし、
お金もかかりません。
それは、とりあえずのところ、
コーディネイトでの色の失敗を防ぎ、
服選びの時間を短縮し、
無駄な、着もしない服を減らすことに貢献します。
そして、余裕ができたなら、
ぜひとも新しい色にチャレンジしてみましょう。
そのときはきっと、
グレーが決して1色ではないということに気づくでしょう。
そして、あのブルーとこのブルーがどう違うか、
識別ができるようになっているでしょう。



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2015年1月19日月曜日

ファッションにおける客観的な視点

ファッションに限らずとも、客観的な視点を身につけることは重要です。
すべての自分の表現、言葉、作品において、
出来得る限り客観的でいれば、
問題は最小限に抑えられます。

ファッションにおいて、多くの人にとっての客観的視点とは、
鏡の中の自分の像でしょう。
小さいものでは手鏡の、
化粧室で上半身の、
自宅やショップで全身が映る鏡、
そしてイレギュラーなものとして、
街で通り過ぎざまに映るウィンドウ。
そのどれもに自分の姿を見ることができます。
しかし、客観的な視点とは、それでは足りないものです。

必要なのはもっと遠く、もしくは高くから見る視点。
たとえて言うならば、芝居の演出家や、映画の監督の視点です。
芝居の場合なら、劇場の一番後ろの席から、
映画であるなら、映画館のスクリーンが全体を見渡せる席から見ることで、
彼らは舞台上やスクリーンの中の役者とは一段違うところから、
全体を見ます。
そして、それができなければ、演出家や映画監督は務まりません。

その視点は、
観客の視点よりも、より遠く、高いものです。
観客と言えども、やはり近すぎます。
近ければ近いほど、全体を見ることはできず、
その結果、導き出される意見はばらばらです。

もし私たちが、自分の服装について、
ごく近くの人たちに意見を聞いたなら、
すべて違うことを言われるでしょう。
ある人からよく見えるところは、違う人にとってはよく見えないかもしれないし、
それぞれが、細部のみを見ているかもしれません。
他人であるからといって、それが客観的な視点とは限らないのです。

分かりやすいのは映画監督の視点なので、
映画を例にして説明します。
映画には、全体のテーマ、そしてストーリーがまずあります。
それを表現するためにキャストが決まり、各シーンのセットやロケ地が決定されます。
主人公は顔、上半身、全身、頭上から、足元から、
俯瞰的に、群衆の一部としてなど、
さまざまな視点から撮影されます。
監督が留意しなければならないのは、
背景、照明、シーンの登場人物、季節、時間、場所です。
それをすべて考慮した上で、登場人物の衣装もメイクも決まります。
同時に、その登場人物を引きで見るのか、寄って見るのかによっても、
衣装、メイク、髪形が変わってくるでしょう。
テーマを表現するためには、それらすべてが調和していなければなりません。
どこかひとつ飛びぬけても、どこかひとつ抜けていてもだめです。

これと同じことが、ファッションにおける客観的な視点にも要求されます。
いわゆる「痛い」スタイルとは、
この何かが抜け落ちている視点の持ち主であることが露呈した結果です。
その人は、何かについて全く見ることができない人物であるということです。
これはよく言われるTPOでも足りません。
見るべきものは、Time、 Place、 Occasionでは足りません。
なぜならそこには最も大切な意図が抜けています。

客観的な視点は、自分がどう見せたいかという意図を表現するためにこそ、
必要なものです。
映画だったらテーマです。
この場所、この時間、このメンバー、この照明、
このお店、この季節、
この劇場で、
目の前にある1杯のコーヒーを前にして、
何を最も意図するのか。
恋愛映画なのか、ファンタジーなのかによっても違うでしょう。
一番重要なのは、何を一番表現したいかです。
それがもし、「おしゃれでモードな好きな私」だったら、
適度に流行を取り入れた、モードの服を選べばいいし、
「流行には左右されない、オーセンティックな私」だったら、
余り目立たないけれど、上質な本物だけを身につけたらいい。
逆に、ライブハウスで新人バンドのライブを見に行く、
「新しい音楽を楽しむ好奇心に満ちたおしゃれな私」だったら、
ダメージ・ジーンズにスタッズのついたブーツでもはけばいいのです。

映画監督のような客観的な視点、
そこに込めた意図。
この2つがあれば、
誰が何と思おうと、気にすることはありません。
観客はすべて違う意見を持ちます。
そしてこの人生の物語の主人公は自分です。

どんなに気をつけても、
すべての人を満足させるのは不可能です。
受け取った相手がどう思うか、感じるか、コントロールすることはできません。
相手は不満に思うかもしれないし、不謹慎に感じるかもしれない。
しかし、それはこちらの手から離れたところの問題です。
ファッションの表現は自由です。
それで誰かが傷つくことは、ほとんどありません。
(もちろん宗教的な理由でルールがある国はあります。それは守らなくてはなりません)

主人公には、そのシーンで一番映えるような衣装を着せてあげましょう。
映画監督の視点で、シーンをチェックしましょう。
誰かが何か言ったところで、
それを気にする必要も、ましてや反論する必要もありません。
この世界でその視点を提供できるのは、
すべての自分の行動を把握している、
神様以外には、
主人公である自分自身だけですから。


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2015年1月12日月曜日

本物だけを見よ、見続けよ


残念ながら、この世には多くのまがい物が存在しています。
しかも、そのまがい物はもう既に、本物を凌駕して、駆逐する勢いです。
私たちは偽物をつかまされ、そのたびに、
えも言えぬ不快な感情を経験します。
続く不満と満たされない飢餓感の中で、
新しいものを次々と求めますが、
なかなか心が満たされることはありません。

心が満たされることができなくとも、
私たちは毎日、服を着てどこかへ出かけます。
心の充足とは別に、服を着ることは必要だからです。
とりあえず、体を守ること、
私たちは結局、そのために服を着ます。

こんなにも多くの服が存在するのに、
そして、こんなにも多くの服を手に入れたのに、
それでもまだ満たされないのはなぜでしょう?
おしゃれに見せたいのは自分のためなのか、
他人のためなのか、
そのどちらも達成されなければ、
永遠に心満たされることはないのか。
ならば、その道は余りに遠いです。


今のように簡単に、しかも安価で服が手に入れられるようになったのは、
つい最近のことです。
私たちは、モノがない欠乏からは解放されました。
それなのに、かつてあったであろう、着ることに対する満足は得られません。
時間をかけて作り上げた、
あの手の込んだ刺繍を施した、
きらびやかな衣装を身につけている、
少数民族の方たちが浮かべるあの満ち足りた表情を、
私たちは服を通して作ることができません。

まがい物は、しょせんまがい物。
暑さ寒さは防げるものの、
心の満足を与えてくれるものではありません。
私たちの何十分の一しか衣装を持っていないであろう、
残された少数民族の人たちのような、
本物の衣服を、
私たちは手放しました。
合理性と引き換えに。
市場主義経済のアンフェアな手法を使って。

本物をまとわない限り、
私たちの心は満足しません。
頭が考える価値や消費される情報など、それを満たすことはできません。
どんなにたくさんの衣服を集めても、
その10枚は、
祝いの儀式のために一針一針、丁寧に心をこめて刺繍した、
あのドレスにはかなわないのです。
私たちが本当に必要としているのは、
そんな本物のドレスです。

しかし、多くの本質を伴った衣服は駆逐されました。
滅多に出会えないか、
または高額すぎて手の届かないものになりました。
大好きで、
何回も着て、
すり切れても捨てるに捨てられない、
そんな服は、
どんどん少なくなってきています。
それでもやはり、
この果てしない飢餓感から抜け出すためには、
そんな服が必要です。
それがなければ、この病いは治りません。

何としてでも、本物の服を手に入れなければなりません。
それはごく数枚でよいのです。
けれども、多くの人は、もはやそれを見つけることすら不可能な状態です。
本物など、見たことも、さわったことも、袖を通したこともないのですから、
当然と言えば当然です。

けれども、ごくたまに本物はあらわれます。
美術館で、展覧会で、
ヴィンテージショップで、
高貴な人のワードローブの中で、
優れたコレクションで。
そんな希少な機会があったら、
ぜひとも見に行く必要があります。
そして、本物だけを見続けなければなりません。
それが所有できないとしても、
ただただ見続ける、その行為のみによって、
本物に出会えます。
玉石混淆の中の宝を見分けるその目は、
そうすることで養われます。
実際に本物を手に入れるのはそのあとです。
よく見えないその目と、頭の計算で選んだものは、
それがたとえどんなデータを持っていたとしても、
本物とは限りません。
何枚持っても満足できないのなら、
それはやはり本物ではなかったのです。

この世に出会うべき本物は、
そう多くはありません。
また、誰かにとっての本物と、
自分にとっての本物も違います。
それが1つでも手に入ったならば、
いつでも何か食べていなければ気が済まないような、
絶え間ない飢餓感から解放されるでしょう。
そして、服なんて、そんなにたくさんいらなかったのだと気づくでしょう。

そのためにも今すぐ決意してください。
本物だけを見ると、
見続けると。
そうすれば、いつか必ず、本物は手に入ります。

☆写真:2014年のエスプリ・ディオール・東京展より。まさに本物の衣服。入場料無料ですべての人に開かれた、本物を見る機会がたまにあります。


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