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2016年12月29日木曜日

次はアーチストの時代

さて、今日は2016年12月29日。
そろそろ来年以降のファッションの傾向を多くの人が知りたいころだと思います。

このブログをさかのぼっていただければおわかりと思いますが、
2012年以降、フェミニンなデザインの時代、
装飾としてはレース、ラッフル、フリル、ドレープ、
素材としてはシルクシフォン、
形としてはドレスやスカートの時代に入ると予想しました。
なぜなら、ファッションのトレンドは、海王星のサインの移動と完全に一致するからです。
(リズ・グリーンが過去のトレンドを検証済み)

現実は、一般大衆のスタイルまでに落とし込まれるようになったのはごく最近ですが、
モードの世界では、一気にこちらの方向へ流れてきました。
ではこれに続く次の傾向は、どんなものでしょうか。


大きな流れとして、この部分は変わりないのですが、
魚座海王星時代の特徴でまだ出ていないものがあります。
それは総決算とアーチストです。

魚座というサインは、12サインの最後にあたるので、
すべての要素が総決算されるという意味合いを持ちます。
海王星のサイクルなので、168年周期の総決算です。
168年分がこの最後の10年弱で再現されます。
ハイパーミックスはそのひとつの形でしょう。

もう1つ、魚座海王星の大事な意味は、アーチストです。
魚座海王星は芸術や芸術家を意味します。
例えば、グッチのアレッサンドロ・ミケーレと、
先シーズンからディオールのクリエイティブディレクターに就任した、
マリア・グラツィア・キウリがその代表になるでしょう。

もちろん彼らは以前から存在していましたし、活動していました。
しかし、これはどの分野でもそうですが、
その時代にもっとも望まれ、時代の気分を体現する存在というものがあるのです。
今、彼らがやっていることと、時代の気分が一致したのです。

ただし、これは時たま流行るような、
アーティスティックな絵をドレスに描いた、
よくある、例の手法のアートとは違います。
ウィリアム・モリスが提唱したアーツ&クラフツ運動のような、
生活にアートを取り入れようという、そちらのスタイルに似ています。

一点一点がアートのようなその作品は、
当然のことながら、価格も非常に高価なものになります。
服そのものが着るアートであり、工芸品です。
それだけ手がかかっていて、繊細で、非常に美しいものになります。
ですから、多くの人がアレッサンドロやマリアの作品を手に入れる、
ということはないでしょう。
ではその代替品は何でしょうか?

それはアーチストが作った一点もののブローチでもコサージュでもいいでしょう。
もしくは、自分で作った、作品とも言える、身につける何かでもいいでしょう。
人の手が感じられるような、作るのに時間がかかったような、
もちろん美しく、見ているだけで満足できる、
そしてもちろんワンシーズンで捨てたりしない、
そんなものを付け足していくこと、
そうすることで、今の時代の気分を自分なりに味わうことができるでしょう。
それはアンチファストファッションです。
ずっと持っていることが前提のものです。
そして、アーチストに敬意を表して、その対価をしっかり払ったものです。
どこか知らない国の、知らない、崩壊しそうな工場で、
奴隷のように働かされた人が無理やり作ったものではありません。

もちろんファストファッションはなくならないでしょう。
生活にアートを取り入れるなんてことをしない人が大多数でしょう。
それはモリスが運動したあの時代と同じです。

それでも気づく人は気付くのです。
それは少数だろうけれども。
消費されないその価値と美しさをファッションに取り入れることの意義に。
アーチストはいつだって、その一点に魂を込めます。
それは簡単に捨てられるようなものではありません。

芸術品のような、魂のこもった、
簡単に捨てられないものを何か取り入れてはどうでしょうか。
あなたが安く消費されたくないのなら、
そんなものを取り入れることは、非常に意味のあることだと思います。

キーワードは、「代替不能」です。






2016年12月2日金曜日

おしゃれを人生の目的にしてはいけない

多くの人にとって「おしゃれ」そのものが人生の目的ということはありません。
人それぞれ、その人生での目的や達成すべきことがあるはずです。
それは何かを成し遂げることかもしれませんし、
魂の成長かもしれませんが、
とにかく「おしゃれ」や「ファッション」が人生の目的ではないはずです。

例えば、1本の映画を思い浮かべてみてください。
もしその映画の目的が「おしゃれ」であるならば、
アカデミー衣装デザイン賞が取れればいいはずです。
けれども、いまだかつて、アカデミー衣装デザイン賞を取ることが、
その映画の目的達成であり、成功であったことはなかったでしょう。

映画の目的は観客を感動させたり、考えさせたり、行動する動機を起こさせたりすることであり、
その衣装は、その目的をサポートするための道具にすぎません。
ですから、どんな監督も映画のプロデューサーも、
アカデミー賞の作品賞が欲しいのです。
また、そこに出演している女優であったら、
自分がどんな衣装を着ていたとしても、欲しいのは主演女優賞であり、
着ていたものが素晴らしかったからといって、衣装デザイン賞で満足する、
ということはあり得ません。

人生においても同じことが言えます。
おしゃれが目的化してしまうと、
何のためにその衣服を着るのか、
また、どうしたいからそれを買うのか、
そして集めるのか、維持し続けるのかわからなくなり、
最終的に、手をつけられないほどに困ってしまうという事態に陥ります。

そして、明日、もしくは今日着ていく衣服について悩む時間が多くなり、
似合うものに出会うため、何度も何度も買い足して、
挙句の果ては、その捨て方さえわからなくなってしまう、
ということになりかねません。

私たちは、同じように方法が目的化してしまって、失敗した人たちをたくさん見てきました。
大学に入ることを目的化した人、
会社に入ることを目的化した人、
外国に住むことを目的化した人、
結婚することを目的化した人、
そのどれもがほとんどの場合、うまくいきません。
これらすべて、何かのためになされるものなのに、
それを目的化してはいけないのです。

おしゃれが目的化し、それが達成されたところで、
そこに真の幸せはないでしょう。
おしゃれなど、お金さえあれば、簡単に達成できます。

おしゃれは、その人の人生の目的をサポートするためのものです。
その人がその目的をよりよく達成するために奉仕すべき存在です。
主従関係で言えば、明らかに従の立場にあるものです。

まずは自分の人生の目的について考えてみましょう。
それはほんのささやかなものかもしれませんし、
必ずしも、誰か他人から認められるものではないでしょう。
それでもそれは何かしらあるはずです。
そうでなければ、この世に生まれているはずがありませんから。

おしゃれが人生にとって従だとわかれば、
すべての優先順位がわかるでしょう。
今まさに、おしゃれを優先しすぎているのなら、
考え直すとよいでしょう。
そうすれば、自分が既に持っている時間や労力、経済力といったエネルギーの配分の仕方も決まってきます。

おしゃれにエネルギーをかけ過ぎても、
人生の目的は達成されません、
そのことを忘れないように、自分のエネルギーを使いましょう。


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2016年10月24日月曜日

ノーファイト・トレンチコート


多くの軍服が現代の衣服のプロトタイプです。
Pコート、
MA-1ジャケット、
ダッフルコート、
モッズコート、
コンバットジャケット、
セーラー服などなど、
もう既に多くの人が、それが軍服、つまり戦うための服であったことを忘れています。
そして、トレンチコートもまた、第一次世界大戦中、
トレンチ(塹壕)と呼ばれる溝のを行き来する際に着用されたコートです。

トレンチコートはギャバジンという生地で作られています。
ギャバジンは、トーマス・バーバリーが1879年に発明した素材で、
1888年に特許をとっています。
ギャバジンという名前は、中世の上着からとられたとされ、
シェイクスピアの「ヴェニスの商人」、第一幕第三場で、
悪名高き高利貸しのシャイロックがおのれの上着を「my Jewish gaberdine」と呼んでいます。

さて、シャイロックの上着でもある、そのギャバジンを使って作られたトレンチコート、
雨よけのフラップや、手榴弾をくくりつけるためのDカンは、
まさに戦場で使い勝手のいいように作られたもの。
雨でぬかるむ塹壕で、泥だらけになりながら、
ときに、撃たれた仲間の亡骸を運び、
Dカンにくくりつけた手榴弾に手をやりながら、
心が折れそうになったとき、ポケットに忍ばせた恋人からの手紙をそっと取り出し、
戦った男たちのためのコートです。

そんな戦うためのトレンチコートですが、
そんなコートが、ここ最近のフェミニンなモードの流れの中で、
戦いようのないコートに変身しました。

私が勝手にそう呼んでいる、ノーファイト・トレンチコートは、
軽い素材で、ふんわり身体を包み、そよ風になびく裾は、
ドレスを包みます。

日本でも長いこと、
トレンチコートは、仕事場へ行く際の通勤着として採用されてきました。
確かに、都会は戦場です。
満員電車の攻撃から身を守り、
巨大な塹壕とも言える地下鉄の通路を走り、
ポケットのiPhoneにヘッドフォンを突き刺し、音楽で心を慰め、
いつになっても終わらない仕事に辟易し、
希望が見いだせないまま、歩き続けるためのコート、
それが日本のトレンチコートなのかもしれません。

けれども、そんな戦うためのトレンチコートで、
戦うのをやめてしまおうというのが多くのデザイナーからの提案です。

ここ数年試みられているのは、
軍服から戦う要素を抜き去る実験です。
MA-1ジャケットをリントンのツイードで作ってみたり、
モッズコートにミニスカートとニーハイブーツをあわせてみたり、
いかにこの軍服から戦う印を消しさるか、
その記憶を抹消するか、
そのための提案が数多くなされてきました。
私たちはもう、軍服で戦う必要はありません。

女性が軍服を着るのは、戦うためではないのです。
武器なんていりません。
武器なんて持ちません。
トレンチコートの下は、男性が絶対に着ないようなロングドレスで、
シルクシフォンの透けるブラウスで、
思いっきり走れない、ピンヒールで、
そうやって、戦わない姿勢を示すのです。
なんでかって?
だって、私たちは男じゃないから。
男のように軍服を着る必要なんて、ないから。

では何のためにトレンチコートを着ましょうか?
戦いませんって宣言して、
戦場からはとっくに逃げて、
それでも生きていけると証明するために、
そして、ロマンスのために。

ロマンチックなドレスには、トレンチコートがお似合いです。
戦わないから負けてしまうなんて、心配する必要はありません。
私たちは負けません。
なぜなら、最初からその戦いと競争に参加しないから。
戦わずとも、自然のように共存できます。

それぞれが、それぞれの方法で、
戦わないトレンチコートについて考えてみましょう。
弱そうであれば弱そうであるほど、それにはお似合いです。
フリルやプリーツやレースなど、
はかなげであるほど、かっこいいです。
私たちはトレンチコートで戦いません。
それでも私たちは、生きていけます。

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2016年8月9日火曜日

なんだかだらしなく見えるそのわけは

何が原因かわからない。
古いものを着ているわけでもないし、
格別安いものを着ているわけでもない。
それなのになぜかだらしなく見えるその理由は何でしょうか。
その理由は簡単です。
そのアイテムが下着、または作業着オリジンのものだからです。

下着が元になっているアイテムの代表はTシャツです。
その他、ランニング、キャミソール、すべて下着です。
下着はどうしたって、下着なのです。
一歩間違えばだらしなく見えるのは当たり前のこと。
カジュアル化が進み、どこへでも下着であるTシャツで出かけても許される時代にはなりましたが、
それでも下着であることに変わらないのです。

特にTシャツに使われているメリヤスという素材。
これはもともと下着のためのものです。
細い糸を編んだもので、織り物ではありません。
日本ではそれをカットソーと呼びます。
カットソーとは、これも和製英語であるカット・アンド・ソーの訳で、
言うなれば、切って縫っただけのものという意味です。

メリヤスという素材はもともと下着のためものでした。
今は、下着やTシャツだけではなく、
その他、多くのものがこの素材で作られています。
ワンピース、カーディガン、ブラウス、スカート、パンツ、何でもありです。

しかし、これらはもともと下着用の素材で作られたもの。
リラックスした、カジュアルな場や、もちろん家で着るには全く問題ありません。
しかし、それを外に着ていくということは、
家でのくつろぎを外に持っていくということなのです。
もちろん、着る人にそんな意識はないでしょう。
外ではリラックスなどしていません、緊張しています、という方もいるでしょう。
しかし、メリヤス素材がもともと持っている意味、印象は、
やはり下着なのです。
下着はどうやったって下着です。
一歩間違うと、だらしなさへ転落します。

だらしなく見えるスタイルのもうひとつの原因は、
それが作業着オリジンのものだからです。
作業着オリジンの代表はジーンズです。
あれは、労働着ではあるけれども、ホワイトカラーの労働ではなく、
作業着です。
野良仕事のためのものです。
ですから、野良仕事的な現場へ着ていく分には問題ないのです。
アパレル業界の、特に男性デザイナーが堂々とコレクションのフィナーレでジーンズ姿で登場するのは、ファッションの仕事など、こぎれいなデスクワークなどではなく、しょせん野良仕事だからです。
彼らはそれを認識し、半ば自慢げにジーンズ姿で登場します。

作業着オリジンは、そのほかにもワークパンツ、ワークシャツ、カーゴパンツなどがあります。
どれも工場での仕事や大工仕事のためのものですから、
それをオフィシャルな場に着て出ていくと、
労働の場と公の場を混同している、その判断力のだらしなさが露呈するのです。

そのほか、例えばポロシャツやパーカーはスポーツウエアです。
どんなに襟がついているとはいえ、ポロシャツはスポーツのためのもの。
それ以上のものではありません。

これら、最もオフィシャルな度合いが低いのは下着、次が作業着、その次がスポーツウエアです。
素材で見たら、メリヤスやジャージーがオフィシャルな度合いが低く、続いてニットとなります。
これらの要素が多ければ多いほど、
そして、それがその場にふさわしくなければないほど、
だらしなく見えます。
これは、どんなに周囲の人がそのような格好をしていたところで変わりません。
「うちの職場ではポロシャツは許されています」と言ったところで、
ポロシャツがポロというスポーツのためのウエアであることには、
変わりないのです。
そしてスニーカーは、もともと運動場のためのものです。

ではどうしたらいいか。
だらしなく見えたくないときは、
この要素を極力排除することです。
まずは下着の要素を持ったアイテムを着ないことが肝心です。
どうしても着たい場合は、なるだけ最小限にすること。
例えばインナーとしてTシャツ1枚だけなどと、限定することです。

また、年齢が上がれば上がるほど、
これらの要素を取り入れていると、だらしない度合いは大きく見えます。
逆に言うと、若者には、この一種のだらしなさもお似合いです。
それはひとえに肉体の問題でしょう。
しなやかな筋肉や、みずみずしい肌は、
少しぐらいのだらしなささえ、吹き飛ばすものです。

現代、確かにどこの場所へもTシャツとジーンズ、スニーカーで入れます。
ホテルしかり、仕事場しかり。
だけれども、Tシャツは常にその来歴として、下着であることを持っています。
みんなが着ていても、それが許されているとしても、
それは永遠にそうなのです。その生まれは、隠すことができない、
それは、誰もが知るところなのです。

私が子供のころ、
私の祖母はすべてのお出かけを着物で通していました。
暑い夏も、雪降る冬も。
そこには、だらしなさが微塵のかけらもありませんでした。
着物にとっての下着は襦袢です。
襦袢のまま外出など、考えられません。
私たちは今、洋服という新しい文化の中で、
あたかも襦袢でお出かけ、のようなことをしているのです。
そうするからには、それなりの心構えを持ち、礼儀を知っておくことです。
だらしなく見えるのは、
その礼節をすべて無視するからです。
その礼節を忘れないでいるのかどうかが、
だらしなく見えるかどうかの、
分かれ目だと思います。


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2016年7月4日月曜日

それでもボーダーを着たいあなたへ――おしゃれとは、芸


数年おきにボーダーが流行します。
私が覚えているところでは、80年代のアニエス・ベーのボーダーシャツ。
渋谷系のミュージシャンであるフリッパーズ・ギターの2人が、
ボーダーシャツにジーンズ、グッチのローファーというルックスで、
当時のおしゃれな若者のシンボル的な存在でした。

さて、このボーダーシャツ、いろいろな要素を含んでいます。
まず、デザインが単純で素材がカットソーのため、安価に大量に出回ること、
幅広い年齢の男女が着用すること、
長袖、半袖、また素材をニットに変えた場合、1年じゅう着用可能であること、などなど。
要するに、いとも簡単に「ありふれた」アイテムになってしまうということです。

では、このボーダーシャツ、おしゃれなのでしょうか、おしゃれではないのでしょうか。

ボーダー・シャツでまず思いだすのは、手足の長いシャルロット・ゲーンズブールの映画「なまいきシャルロット」での姿。
そして、ピエール・エ・ジル撮影のボーダーシャツ姿のジャン・ポール・ゴルチエ。
ボーダーシャツで猫を抱いているピカソの写真。
日本では、そろそろ70歳という栗原はるみさんが一生ボーダーシャツ宣言をしています。

ここに挙げた方々のボーダーシャツ姿がおしゃれかどうか問われたら、
それはそれはおしゃれで素敵です。

彼らの共通点は何でしょうか?
それは、日本語では唯一無二、英語ではユニークである、ということです。
安価に大量に出回るアイテムの場合、必然的に着用する人数もふえます。
そうすると、比べられるのはその着る人自身。
それは、容姿の場合もありますが、
それだけではなく、その人自身の場合もあります。
その点で、彼らがどんなにボーダーシャツを着たところで、
ほかの人とは「かぶらない」のです。
なぜなら、シャルロットはシャルロットだから、
ゴルチエはゴルチエだから、
ピカソはピカソだから、
はるみははるみだから。

例えば、おしゃれなパリジェンヌが持っているアイテムとして、
バイカージャケット、スキニージーンズ、そしてボーダーシャツが挙げられます。
パリジェンヌは、それを着るだけでおしゃれです。
それはなぜでしょうか。
なぜなら、それはパリジェンヌがパリの街角、またはアパルトマン、カフェというシーンで、
ボーダーシャツを着用するからです。
「パリジェンヌ」は、全世界の女性人口のほんの一部です。
それだけで、十分にもうユニークなのです。

このように、ボーダーシャツは、その人自身が誰もが認める唯一無二の存在であるとき、
そのおしゃれの潜在的能力を発揮します。
彼らは、その誰もが着るであろう平凡なボーダーシャツを着ることによって、
逆に輝く存在になるのです。

では、「誰もが認める唯一無二の存在」ではないとき、
ボーダーシャツはおしゃれなのでしょうか。
その答えは、おしゃれに見える場合もあれば、おしゃれに見えない場合もある、です。

よく観察すれば、
シーズンごとにデザインナーたちがボーダーシャツ、またはボーダー柄のおしゃれな提案をしていることがわかります。
グッチの前デザイナーのフリーダ・ジャンニーニは、ボーダーニットに「ビジュー」と呼ばれる、
クリスタルのボタン飾りを数個つけることで、ボーダーを刷新しました。
リビアナ・コンティのボーダーシャツは、ボーダーを途中で斜めに切り替えることによって、
視線をずらし、平凡から脱しました。
ゴルチエは、青白や、赤白ではなく、黄色と黒のボーダーを提案、
シャツではなく、タイツをしましまにしました。
ヴァレンティノは、ボーダーの幅を太くし、上半身はボーダー、スカートはストライプにして組み合わせることによって、カジュアルなイメージのボーダーをシックなドレスへと昇華させました。

このように、デザイナーたちは平凡で、ありふれたボーダーのイメージを工夫を加えることによって、アップデイトし、提案しているのです。

普通の人がただそのまま着たのではつまらないボーダーを、
そのまま出したのでは、芸がないのです。

芸がないものは、おしゃれとみなされません。

「誰もが認める唯一無二」がない私たちが、ボーダーをおしゃれに着たいのならば、
どこかに「芸」を足さなければなりません。
それは装飾の場合や、色の組み合わせの場合もあるでしょう。
あるいはタイツやスカーフといった小物で工夫する場合もあります。

では、その芸は具体的に何なのか、
これを読んでいる皆さんは、その答えをすぐに知りたがるかもしれませんが、
その答えは、皆さんご自身しか知りません。
なぜなら、皆さんは、誰もが知っているわけではないかもしれないけれども、
もうそれだけで十分に唯一無二だからです。
その唯一無二を作りだしているのは何なのか、
何を持って唯一無二なのかを知るのは、自分自身のみです。

自分自身の唯一無二を探してください。
それをボーダーのおしゃれに付け足してください。
それが芸の域に達したならば、
ボーダーを着ておしゃれに見えることは可能でしょう。
おしゃれとは、芸です。

☆シャルロットはシャルロットだからボーダーを着ておしゃれなのです。
「なまいきシャルロット」、何回見ても好きな映画です。


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2016年4月19日火曜日

ラグジュアリー・スポーツウエア

スポーツウエアがファッションに取り入れられるようになって久しいですが、
ここへきて「ラグジュアリー・スポーツウエア」と呼ばれるカテゴリーがあらわれました。
「ラグジュアリー・スポーツウエア」とは何か。
言うならば、高級な素材を使った、主にハイブランドにより発表されたスポーツウエア、
つまり、本物のスポーツマン、スポーツウーマンのためのものではなく、
あくまでスポーツウエアのスタイル、デザイン、細部を取り入れた、
日常着としてのスポーツウエアのことです。

スポーツウエアのスタイルとは何か。
まず最初にジャージで作られていること、
そして袖口や襟に使われたニット素材、
パンツの脇や、袖山線のストライプ、
足元のスリットのファスナー、
ポロカラー、
ファスナーによる前あきなどの細部が取り入れられたものです。

ファッション全体のカジュアル化の流れの一環として出てきた、
この「ラグジュアリー・スポーツウエア」ですが、
取り入れ方は、いつものカジュアルをおしゃれ着として取り入れる方法と同じです。

よりおしゃれに見せるためには、素材が高級なものを選ぶこと、
または、そのほかのあわせるアイテムはスポーツ・ウエアとは程遠い、
例えばテイラードジャケットと、かっちりしたレースアップシューズ、
もしくはシルクやレースのランジェリースタイルのドレスときゃしゃなサンダルやハイヒールなどを、
あえてあわせるという方法です。

実際のところ、必ずしもスポーツウエアそのものがラグジュアリーである必要はありません。
スポーツ・ブランドが出しているデザイナーズのウエアでもちろん可。
アディダス、プーマ、ナイキなどのスポーツウエアのショップには、
スポーツには不向きと思えるおしゃれなウエアが売られています。
これなら、誰にでも手の届く値段で調達することができます。

唯一つ、注意点はあります。
スポーツウエアは、ほとんどがジャージと呼ばれるニット素材です。
ニット素材ですから、確かに楽ですし、リラックスできます。
しかし、逆に言うと、それだけ身体のラインが強調されますから、
身体のラインに自信がない人は取り入れ方に工夫が必要です。
全身をジャージやカットソーでかためるのを避け、
かっちりた布帛のジャケットなど、かたいものを必ずあわせてください。
間違っても、上下ジャージや、上下スウエットでは外出しないこと。
部活帰りの中学生ではないのですから、
同じことをしてはいけません。

ファッションとは、いつもこうなのです。
いつでも新しい何かを探しています。
それが今回はたまたまスポーツウエア、特に日本で「ジャージ」と呼ばれている、
あの白いストライプのセットアップなのです。
そしてそれを著名なデザイナーが、パリコレのランウェイで発表すれば、
今まで「ダサい」と呼ばれていたものが、次の日からは「おしゃれ」へと変化します。

ただしこれを「ダサい」と見るか、「おしゃれ」と見るかは、
その人の視点がどこにあるかによって変わってきます。
都会に住む、ファッションに詳しい人が見たら、それは「おしゃれ」であるでしょうが、
田舎に住む、ファッションとは無縁に生きている人から見たら、
それは相変わらず「ダサい」スタイルです。

提案されたスタイルが、すべての人の眼に「おしゃれ」に見えるようになるまでには、
それ相当の時間がかかります。
まず一部の人が認識し、それは「ファッション」になり、
次に多くの人が着始めて、それは「流行」になり、
すべての人に行きわたったときに、それは「流行遅れ」となります。
この上流から下流までの流れは、通常3年から4年かかります。
そしてそれをどこで誰が見るかによって、
それが「おしゃれ」かどうかは違ってくるのです。

「ラグジュアリー・スポーツウエア」を今の時点で取り入れているのは、
ごくごく少数派のおしゃれに敏感な人たちだけです。
それがすべての人に行きわたるのは、ざっと4年後。
どの時点で取り入れるかは、
その人の住んでいる地域、
ライフスタイル、
そして何よりも、人生のスタイルによって変わってくるでしょう。

流行とは、その字が示すとおり、まさに時間の流れです。
その流れのどこに立つか、いつを選ぶかは、
それぞれの選択に任されています。



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2016年2月19日金曜日

エイジレスなのか、そうでないのか

「エイジレス」、つまり、年齢など関係ないという考え方は、
ある意味において正解であり、ある意味においては正解ではありません。

例えば、年齢を理由に何かに挑戦しなくなるのなら、
そのときは、年齢は考慮すべきものではありません。
しかし、経験や肉体という意味においては、
年齢を無視することができません。

「エイジレス」を意識したり、うたったりするのは、
概ね、年齢が上の人々です。
20代のときは、誰もが自分の年齢など気にして生きてはいないものです。
なぜなら、彼らは若さが永遠に続くかのように錯覚して生きているから。

その若さを失いかけたとき、
人は「エイジレス」ということを考え始めます。
皮肉なことに、年齢を意識したからこそ、
年齢など関係ないと思い始めるのです。

ファッションにおいても「エイジレス」を叫ぶのは、若い人たちではありません。
若い人は、年が上の人と同じスタイルをしたがりませんが、
「エイジレス」を意識している人たちは、若い人と同じ服を選択したります。
それは意図的に、あるいは無意識に。

若い人から年配の人まで、幅広い年代を想定して作られた服は、
しょせん、どの年代にも似合いません。
結果的にそれを選ぶのは、年配の人のみ。
若い人が、わざわざ老けて見えるその服を、選ぶことなどしないのです。

その人にとって年齢とは何なのか。
生きてきた事実は隠せません。
その経験は、消し去りたいものなのか、誇れるものなのか。
それによって、年齢をどう解釈するかも変わってくるでしょう。

誇れるような経験を、
誰にも奪われないキャリアを、
ダイヤモンドのように磨かれた肉体と精神を持っていて、
それを得るために年月をかけたと認識するならば、
年齢は、誇れるものでしょう。
その人は、それらかけた年月にふさわしいスタイルを選ぶはずです。
それは鉱山から削りだされたばかりのダイヤモンドの岩石に似合うものではありません。
ふさわしいのは、人の手が多くかけられた、ラグジュアリーな素材や仕立て、
そして本物のジュエリーです。
それらは磨かれた知性と品性をより一層輝かせ、
年齢を超えた美しさを与えてくれます。

一方、ただぼんやりと、日がな一日、世の中のよしなしごとを眺めるがごとく、
年月を費やしてきた人ならば、
その人は、あるいはまだ原石のままか、
または逆に薄汚れてしまった石のようで、
それほどの重厚な、仕立てや知的にデザインされた服など、
あえて着る必要はないのかもしれません。

年齢とは、つまり、その人の問題なのです。
あの人の40歳と、私の40歳は、全く意味が違うのです。
誰かの40歳と私の40歳を比べることはできません。
努力して積み重ねてきたものがある40年と、
ぼんやりと過ごしてきた40年が同じであるはずがありません。

若い人は敬意をもって、
自分というダイヤモンドを自力で磨きあげた人たちを見つめるでしょう。
そういった彼女らは、憧れの対象です。
その傷や痛みは勲章です。
それなしでは、今の輝きは得られなかったのですから。

そんな彼女らにとって年齢は、誇るべきものです。
「エイジレス」など、とんでもないのです。
自分がかけてきた年月を無視することなどできません。
だから、そんな彼女らが若い人と同じ格好など、する必要はありません。
それはもはやふさわしくないのです。
その輝きを満足させるものではないのです。

私たちは、相変わらず、若さが礼賛される社会で生活しています。
しかし、あるとき気づくでしょう。
そんな若さなど、欲しいものでも、憧れるものでもないということに。

私たちが本当に憧れるのは、
年齢を重ねてもなお美しい人、知性があり、品がある人ではないでしょうか。
クロノスがつかさどるところの時の流れに逆らえない運命ならば、
若さをしのぐ魅力を持ち、永遠に届くことができないような、
嵐や困難をくぐりぬけてきた、勇敢な魂がきらめく存在にこそ、
なりたいのではないでしょうか。

怠慢の逃げ道としての「エイジレス」ならいりません。
薄っぺらい若さの看板など吹き飛ばすような、
一瞬にして心奪われるような、
そんな年齢を重ねた魅力こそ、私たちが目指すべきものでしょう。
そんな存在になれたなら、
それにふさわしいスタイルをすればいいのです。
誰もついてこられないような高みを目指して、
上昇するのみです。



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2016年1月5日火曜日

恋愛のための衣装

珍しくも、恋愛のための衣装です。

大体において、モード系の人たちは恋愛のことなど考えていません。
デザイナーも、恋愛というシチュエーションを想像していない人が多いです。
ですから、ファッション誌、特にモード系の雑誌はこのテーマが不得意です。

正直な話、
私もどちらかといえば、このテーマは得意ではありません。
なぜなら、1990年前後の日本のファッションのピークの時代を経験しているからです。
あのころ、私たちがもっとも憧れたブランドは、
その名も「少年のように」でした。

しかし、これが間違っているのです。
恋愛したいのならば、
決して「少年のように」なってはいけないのです。

多くの男性は誰に恋するのか?
それは女性です。
(すみません、今回はLGBTの皆さんについては語りません。
決して認めていないわけではありません)

男性はデートで誰に会いに行くのか?
女性です。

男性が見たいのはどんな人なのか?
女性です。
決して、少年ではありません。

恋愛のための衣装とは、すなわち、
決して男性が着ないような衣装です。
なぜなら、それが男性の希望であり、欲しいものだからです。

さて、日本の特に冬の都会の景色は、
ダークカラーの男女で染まり、
後ろから眺めているだけでは、それが男か女かさえ、わからない状態です。
カジュアル化が進み、
どこへでもジーンズで行けるようになり、
Tシャツ、ジーンズの作業着オリジンのもの、
トレンチコート、Pコート、モッズコート、MA1ジャケットなどの軍服オリジンのアイテムを、
男女問わず着用するようになりました。
つまり、ファッションのジェンダーフリー化が進んだのです。

流行りのモードとしても、
ジェンダーフリーはよく取り上げられます。
男が女の服を着る、女が男の服を着る、
これは新しく、モードであり、ファッショナブルとされます。
しかし、恋愛において、ジェンダー、つまり男女差を無視してはいけないのです。

ジェンダーフリーのモードは、恋愛の敵です。
「少年のように」したいのなら、恋愛など、できません。

では、男性が決して着ない衣装とは何なのか。
それは色、素材、アイテム、シルエットにおいて存在します。

代表的アイテムはスカートとドレス。
このどちらも、今のところ、普通の男性は着ません。

そして色としてはピンク、柄としては花柄。
これも、多くの男性は着用しません。(もちろんたまにはいます)

そして素材では、シフォン、オーガンジー、サテン、レース、
デザインのディテールとしては、フリル、シースルー、リボン、プリーツなど。

これらを何にたとえるかと言えば、
花です。
男性は、お花のような色、質感、シルエットのスタイルに女性性を認めるのです。
それとは反対に、暗く、固く、四角いものに女性性を感じることはできません。
それがどんなにモードだとしても、
真っ黒で、固い素材で、重いシルエットのものは、
男性の手に入れたい、
触れたい、
そばにいたいものではありません。

では、女性の身体の特徴的な部分が露出したり、強調されていればいいのでしょうか。
短絡的にそのように考える人もいますが、
実は、必ずしもそうではありません。
身体を売り物にするのでなければ、
それはかえって逆効果となります。

今、説明しているのは恋愛のための衣装です。
恋愛に必要な大事な女性性の要素の1つは、恥じらいです。
恥じらいの感じられない服装は、恋愛のためのものではありません。

そしてもうひとつ、
これは多くの女性が気づかない点ですが、
恋愛対象の女性というものは、
男性にとって、攻略すべき存在です。
どういうことか。
最初からすべてを見せては意味がないのです。
やるべきことは、すべてを見せつけることではなく、
想像させることです。

「恋なんて謎があるうちよ」と、
昔の歌手が歌っていました。
それは衣装についても同じこと。
身体つき、胸の大きさ、
それらすべて謎でなければいけません。
想像させ、
どうやったら手に入るか計画させ、
ひとつひとつ手に入れさせていく。
その過程がなければ、男性はその恋愛対象の女性のことを本気で好きにはなりません。
簡単にわかってしまう女など、全く面白くはないのです。
それは安すぎるのです。
獲得しても、うれしくもないのです。
犯人を知りながら、ミステリーを読むようなものです。

お花のようであり、
謎が多く、
意味不明なディテールに満ち、
ひもとく楽しみのある衣装。

なぜこんな柔らかく、壊れそうな素材なのか、
なぜこんなにも汚れやすい色なのか、
なぜこんなところに無駄な布が使われているのか、
なぜこんなに着にくいのか、
なぜなかなか脱げないのか、
「絶対に俺には着られない」
そう男性に思わせる、そんな服装こそが、恋愛にふさわしい衣装です。

ですからこれはもはやモードではありません。
また、いつもいつもそんな格好をしているのも難しいでしょう。
それでもそこを狙うのです。
できる範囲でやるのです。

最後に1つ。
だからといって、これらが自分の好きでないものなら意味がありません。
好きでないものを無理に着たら、魅力が半減します。
また、男性の好みにすべてあわせる必要もありません。
男性の好みにすべてあわせるのなら、
あなたはその途端に獲物(ターゲット)ではなくなります。
すべて男性の好みになったのなら、あなたは攻略されたということです。
つまり、そのゲーム(獲物)は終了です。
終わらせてはいけません。

あくまで自分の意志を通して、
難攻不落なごとく、
恋愛の衣装を選びましょう。
永遠に愛されたいのなら、それが必要です。


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