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2013年9月30日月曜日

大人のミニスカートについて、ひとつの答え

どうすれば大人がミニスカートを素敵に着こなすことができるのか、
何年か前からずっと考え続けていました。
特に、必ずしもまっすぐな脚の持ち主が多いとは言えない、
日本に住む私たちにとって、脚の形があからさまにわかるミニスカートは、
難しいものです。

しかし、ミニが難しい、何か違うと思う理由は、それだけではありません。
電車に乗ったときや、街を歩いているとき、
どこかに素敵なミニの着こなしの大人の女性はいないか、
いつも探していましたが、なかなか出会えませんでした。
逆に、あれだけは嫌だな、何か違うなという着こなしの方はいらっしゃいました。
その何か嫌な感じとは何なのか、ずっと言語化されずにいました。

その嫌な感じが何なのか、先日やっとわかりました。
それがあるからこそ、ミニは見ているほうに不快感を与える、
独特な雰囲気をもたらすのです。

スカートを短くすることによってあらわになるのは、脚だけではありません。
短くなればなるほど、スカートの中が見えやすくなります。
階段を上るとき、電車に座ったとき、
その中は見えるときさえあります。

誰でもが、小学生のとき、パンツが見えたかどうか、パンツを見たかどうかでもめたと思います。
パンツは見せてもいけないし、見ようとしてもいけないものなのです。
それは小学生のときに、何となく気づいています。
パンツが見えるということは、つまり、性的な雰囲気をにおわすということ。
公の場において、それは避けるべき行為なのです。

パンツを見せない、パンツを見ないというのは、
それぞれがお互いに対して持つ思いやりです。
性的な領域に踏み込まないための、無言のルールです。
おきてを破ったら、それはもめごとの原因になります。
見せていたほうが、見たほうが悪いのです。
性的な意味合いの関係がない2人において、それはしてはいけない行為です。

大人のミニスカートの着こなしが難しいと思えるのは、そのためです。
脚の形の問題はさておき、
見せてはいけないものが見えそうなまま、いい年の大人が街を歩くという、
その行為が、他人の気分を悪くさせます。
ファッションだからいいでしょ、
今、ミニが流行っているんだからいいでしょ、
好きではいてるんだから、年なんか関係ないじゃない、
ではすまされないのです。
その人が見せているのは、ミニスカートではなく、
性的なほのめかしです。

誰かれ構わず、その性的なほのめかしを見せる、そのずうずうしさが、
ミニスカートの着こなしをだめにします。
そこには、恥じらいのかけらもありません。
恥じらいがないということは、本当はエロティックではないのです。
それは、小さいながらも、押しつけがましい暴力です。
ずうずうしさとは、小さな暴力です。

大人がミニスカートを素敵に着こなすためには、
この「性的なほのめかし」を徹底的に排除する必要があります。
単なる、短いという丈の問題としてのスカートなら問題ありません。
他人に見せるべきでないものを、徹底して見せないようにすれば、
ミニスカートをはいたとしても、それはファッションになり、
スタイルとなります。

そのために必要なことは、まず絶対に下着を見せないようにすること、
そして、スカートの裾から、生身の脚を見せないことです。
その方法は何種類かあります。
タイツをはく、ニーハイブーツをはく、スカートの下にパンツをはくなど。
特に、秋冬であれば、それは可能になります。

「性的なほのめかし」のにおいが消えたならば、
それは大人のミニスカートの着こなしとなります。
単なる丈の問題です。
それ以上の意味はなくなります。

結局、それは思いやりなのです。
思いやりができる人こそ、大人でしょう。
私の格好で、誰がどう思おうとかまやしないわ、などいうのは、
無知な子供の言い分なのです。
「目のやり場に困る」行為によって、他人を困らせるのは子供です。
思慮深い大人が、やることではありません。

大人のミニスカートの肝は、思いやりです。
他人に対して思いやりができる着こなしができたらば、
それは素敵な大人のミニスカートの着こなしでしょう。

残念ながら、今の時点で、
振り返って見直すほど素敵なミニスカートを着こなす大人の女性を、
見たことはありませんが、
いつの日か、そんな姿をながめたいものです。
すべての大人の女性が思いやりを持つことができたなら、
その日はきっとやってくるでしょう。
思いやりは、美しさの1つのあらわれですから。

2013年9月23日月曜日

スカート完全復活

思えば、2000年以降、スカートにとっては受難の時代だったのです。
シルエットがタイトだった、2000年以降、
スカートは断然不利な立場に置かれました。
広がり、膨らみ、ボリューム、ひだ、ギャザーなど、
タイトとは反対の方向性を持つシルエットは否定され、
残されたのはタイトスカートや、ミニマムなシルエットのミニや台形スカートのみ。
何度か誰かが広がったスカートを提案しても、
なかなか認められず、結局はスキニーに、タイトに、無駄をはぎ落とし、
効率的に、余計なものは省かれました。

それは確かに時代の気分でした。
人々の無意識を支配した、大きな流れです。
誰も逆らえることができず、ただ、その無意識に、気づかぬままに従うのみ。
その無意識の気分と一致したテイストを持つデザイナーがもてはやされ、
一気に街はタイトシルエットで占領されたのです。

広がってはいけないのでした。
長すぎてもいけないのでした。
ギャザーなんてもってのほか。
プリーツも余計とみなされました。

男女間の性差が少なくなり、
女性のワードローブには、ほぼ男性と同じアイテムがそろうようになった現代においても、
スカートをはく男性は、特別な地域や場所を除いては、存在しません。
(まあね、スコットランドにはいるわよ。見たことあるわ)

しかし、ここで行きすぎたタイトの理想は破たんしたのです。
もうこれ以上、その先はなくなりました。
ぎりぎりにタイトなシルエットに、無理やり詰め込んだ、生身の肉体は、
その窮屈さに耐えられなくなりました。
究極まで短くされた、最小限の生地で作られるミニスカートも、
もうこれ以上、小さくすることはできません。

行きすぎたものが戻ってくる法則は、
ファッションにおいても成立します。

2013年、スカートは完全に復活しました。
長いあいだ、忘れ去られていた、あのボリュームが戻ってきました。
フレア、ギャザー、バルーン、プリーツ、
ふわふわと、ひらひらと、風が吹きつけたら、膨らんで飛ばされそうに、
スカート本来の姿が再び現れ始めました。

鳥かごから出てきた鳥のように、
スカートは羽ばたきます。
当分の間、この飛翔は止められません。

そんなわけで、スカートのバリエーションは復活です。
まず2013年の秋冬はフィット・アンド・フレアのシルエットを作るフレア・スカートが戻ってきました。
フレア・スカートがずっとなかったなんて、
今考えたら、ぞっとします。
女性の服飾の長い歴史を見ても、
ボリュームと長さのスカートがなかった時代など、ないのですから。
スカートのボリュームと長さはいつだって、
女性性の象徴なのです。
なぜなら、それは生み出す力だから。

フレア・スカートが戻ってきたら、
続いてプリーツ・スカートも、ギャザー・スカートも、マーメイド・ライン・スカートも、
次々戻ってきます。
長さも、ボリュームも、もう否定されません。

長いこと、スカートのレッスンは忘れさられてしまったので、
ここで再び勉強のし直しです。
全体で作るバランスとシルエットが変わります。
それは、もちろん、女性的でなければならないのです。
攻撃的ではなく、受容的です。
硬さではなく、やわらかさです。
歩き方も変わります。
優雅さを取り戻さなければなりません。
鏡の前で、一からやり直しです。

英語で言うところの「Lady」にふさわしい身のこなしが必要です。
しとやかで、思いやりがあり、礼儀正しい女性です。
それはこれまでの、粗雑で大雑把な、髪を振り乱して夜遅くまで、
食べず、眠らず、蛍光灯の青白い光の下、
肉体の欲求を無視して働いてきた女性とは違います。
そうです。絶対に違います!

眠り姫のように眠りつづけた、あなたの中の「Lady」が、
今、目覚めます。
新しい目覚めには、新しいスカートが必要です。
今まで忘れていたでしょう。
今まで気づいていなかったでしょう。

新しいスカートをはいて、力を取り戻しましょう。
死んでなどいないのです。
再び、新しい希望を見つけましょう。
それはきっと、見つかるはずですから。

2013年9月16日月曜日

素材のよしあしについて

本物の名画をじかに見た人にしか、
優れた絵画が理解できないのと同じように、
本物のいい素材をじかに見て触った者にしか、
いい素材というものはわかりません。
それはあくまで五感の世界。
質感もにおいもない、二次元の紙やモニター上のものとは違います。
じかに見る、触ってみる、感じてみることによってのみ、
記憶することができるのが、いい素材です。

製品になってしまったときにはわかりませんが、
生地の原価には大きく幅があります。
安いコットンと、海島綿では、何倍もの開きがありますし、
オーガニックコットンも、安い木綿を基準にしたら、
ずっと高価な素材です。

コットンよりも値段の幅が広いのがウールです。
メーター1000円以下のものから、何万円もするものまで、
ウールの値幅は、ほかのどの素材よりも広いです。
これは何を意味するかというと、
それだけ素材のよしあしに幅があるということで、
いいウールと安いウールでは雲泥の差があります。

その点、値段に差がないのは化繊です。
理由は簡単で、原材料が石油だから。
石油系の繊維は、押し並べて安いです。
(一部、リバーレースなどのレース類は除きます。
また、オリジナル素材はロットが小さいので価格も高いです)

大人になればなるほど、いい素材のものを着たいものですが、
それを見分ける一般的な物差しがないというのが、
服の現状です。
なぜなら、必ずしも生地の原価が最終的なプロパー価格と一致しないのが服だからです。
そして、それをより一層複雑にしているのが、
アパレル業界のしくみです。

メーカーやブランドは、生地屋ではありませんので、
基本的には生地屋から生地を購入します。
それはよく名の知れているものから、そうでないものまで、
千差万別です。
有名ブランドが使う、有名生地メーカーとしては、
シルクのラッティ、マリア・ケント、ツイードのリントン、ファリエロ・サルティ、フェルラなど、
また、カシミアではロロ・ピアーナやカリアッジなどがあります。
これらはどれも高級服地のため、それなりに高価ですし、
いわゆる「いい素材」です。
(必ずしも天然素材100パーセントではありません。混紡の生地も多いです)

少し高級な服地屋へ行けば、これらの反物が置かれているでしょう。
それは明らかに、ほかの安い生地とは違う、
手触りと光沢、なめらかさがあります。

問題なのは、これら高級素材を使ったとしても、
最終的なプロパー価格がメーカーやブランドによって異なってくるということです。
つまり、生地のよさと価格は比例しないのです。
定価が高いからよい生地を使っている、
定価が安いから悪い生地を使っているということは、
アパレルに限っては言えません。

たとえば、生地ではありませんが、カシミア糸も、もとをたどれば同じ商社からきています。
ですから、同じ素材のセーターが、かたや2万円で、かたや5万円で売られていることもあるのです。
それがアパレル業界の分かりにくさです。

いい素材のものに対して、それなりの価格を払うことは妥当なことです。
しかし、その逆は考えものです。
安い素材を高く売っているブランドも、現実にあります。

これを見破るには、自分で実際に触って、見て、感じてみて、
いい素材とはどういうものか、身体で覚えるしかありません。
いくら雑誌を見ても、文章を読んでも、
こればかりは、理解することができないのです。
書いているわたしも、どうぞいい素材を見て、触ってくださいとしか、言えません。

同じ世界、同じ価値感の中にいると、
これがわからなくなります。
よしあしを見分けるためには、
五感を鍛えるため、自分の安心したエリアから出なければならなりません。
それはデパートで、ふだんは行かないエリアの高級ブランドのショップかもしれません。
または、膨大な数の反物が並ぶ生地屋かもしれません。
一歩外へ出て、本当によいものとはどういうものか、
身体で覚える訓練をする必要があります。
そして、それなしでは、いい素材がわかるようになることはあり得ません。

ブランド名や値段にだまされないで、
自分の五感で素材を感じてみる。
そして、そのよしあしを判断する。
それができる能力も、おしゃれであることには必要な力でしょう。

よい骨董を見続けて目利きになるように、
いい素材を見て、触って、素材の目利きになる。
フェイクとジャンクにあふれた世界から、
自分の五感だけを頼りに本物を選びとる。
それを可能にするための第一歩は、
そうなりたいという意思を持つことです。
意思があれば、そうなれます。
どんなに遠くても、行き先がはっきり見えるのなら、
そこには必ずたどり着けます。

2013年9月9日月曜日

多くの人とは違うもの

見慣れぬものというのは、おしゃれに見える1つの条件です。
見ることにおいて、消費尽くされていないものは、
それだけでおしゃれです。
ですから、ファッションでは、見たことのない、常に新しいものを追い求めます。
それはまだ誰の手垢もついていない、まっさらなものだからです。

逆に、見過ぎた、または見あきたものは、おしゃれの鮮度を失います。
自分が着ているものだけではなく、
自分の目に入るすべてものにおいて、見過ぎたものであるならば、
おしゃれには思えなくなるわけです。

この考え方からすると、
たくさんの人が持っているものというものは、おしゃれではありません。
街で多くの人が身につけている、または持っているのならば、
それは急激に消費され、魅力を失います。

ところが、いつのころからでしょうか。
有名人の誰々さんが持っているから、これがおしゃれというような風潮が、
雑誌を中心に起こりました。
いわば、そのアイテムは有名人のお墨付きであるわけです。
おしゃれな有名人が持っている、イコール、そのものはおしゃれである、
ということだと思います。
そのアイテムは、有名人が持っているという情報が付加されて、
新たな意味を持ちます。

確かに、おしゃれな人が持っている、そのアイテムはおしゃれなものかもしれません。
ただ、それを見て、多くの人が身につけ始めたら、鮮度はなくなります。
流布した時点で、終わりです。
見慣れぬものという、おしゃれにとっての大事な条件がクリアできなくなります。

ハイブランドは、そうなることを恐れて、大量生産しません。
また、価格を一定以上、維持することによって、持つことができる人たちを限定します。
そのことにより、見慣れぬものというおしゃれの条件を保持することが可能になるのです。
ハイブランドの服やバッグがおしゃれに見えるのはそのためです。
見ることにおいて、消費尽くされるのを避けています。
そして、それはずっと避けなければならないことだと、彼らは認識しています。

では、すべてのアイテムをハイブランドでそろえられないような、
ごく一般の人が、消費尽くされることなくおしゃれに見せるには、
どうしたらよいでしょうか。
多くの人と同じようにならないために、どんな方法があるでしょうか。

問題は、見る回数が多いということです。
であるならば、見る回数の少ないもの、つまり、多くの人が持っていないようなものを、
全体のコーディネイトに取り入れればよい、ということになります。
そのためには、ハイブランドである必要はありません。
方法は、いろいろ考えられます。

いちばん最初に考えられるのは、自分だけのオーダーメイドです。
好みの形、生地で作ったものが、他人とかぶるということは、ほぼないでしょう。
見慣れないという意味においては、オーダーメイドは最も適しています。

次に考えられるのは、小さい規模で展開しているブランドのものを選ぶこと。
ハイブランドほどではなくても、確かなもの作りをしているブランドで、
しかも大量に日本には入ってきていないもの、または生産されていないものが、
いろいろあります。
そういったブランドは、多くの人に知られてはいないかもしれませんが、
大量生産品にはない、独特の存在感を持っています。
それらを自分のワードローブに入れるというのも、よい方法です。

最後は、既成のものに手を加える方法です。
たとえば、もうすでにあるニットにスパングルをつけてみる、
リボン刺繍をしてみる、縁取りをつけるなど、
手芸的な手法で、よりオリジナル性を出す方法があります。
また、洋裁のテクニックがあるならば、大胆な作り変えもいいでしょう。
袖丈やスカート丈、パンツ丈を変えるなどは、基本的な方法です。

これらは、服だけの問題ではありません。
バッグ、ベルト、帽子、その他の小物、すべてにおいてそうです。
見慣れたものだけのコーディネイトから一歩抜け出すためには、
この、見慣れぬものを投入していく方法が必要です。

1点だけでもいいのです。
見慣れぬもの、他人とは大きく違うものを選ぶことは、
自分らしさの表現になります。
ほかの誰とも同じではない自分にふさわしいワードローブを作るため、
決められた枠からはみ出して、
いつもとは違う選択眼で、選びましょう。

誰かといっしょは安心です。
そこから出るのには勇気がいります。
だけれども、それは最終的に必要なことです。
そのとき、雑誌はもう当てになりません。
当てになるのは、自分の直感と審美眼だけです。
お金を出せば、その審美眼をひょいと借りることは可能ですが、
毎日のことですから、ぜひとも自分でできるようになりましょう。
そして自分で選んだものの責任は、自分でとりましょう。

判断力、美的センス、嘘を見破る能力、計算力、すべてが必要です。
それを磨いてきた人だけが、おしゃれな人になれます。
そして、それは世界を見極める力と、同じ力です。
つまり、人間である以上、持つべき力なのです。


2013年9月2日月曜日

黒い服を着ていれば、それでおしゃれ?

80年代、日本人デザイナーたちが次々と、パリコレクションへデビューしました。
それは「黒い衝撃」と呼ばれ、
コム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトに代表されるように、
立体感のないビッグシルエットで、黒い服だけで構成されたショーは、
ファッション業界に衝撃を与えました。

それまで全身黒の装いというものは、ソワレに代表されるようなドレスか、
または喪服であり、決して日常の風景には見られないものでした。
それは日本でも海外でも同じことで、
毎日を黒一色で過ごすという女性は未亡人か、
何か特殊な職業の人であったでしょう。

しかし、80年代以降、まずはファッションに携わる人たち、
そしておしゃれな人へと、黒一色の装いは広がっていきました。
20代そこそこの若者もこぞって黒い服を着始め、
若さの表現とはほど遠い、独特の雰囲気を醸し出しました。

あれから30年が過ぎ、
黒一色の装いは社会的にも認められ、
小さな子供までもがするような、ごく一般的なものになりました。
しかもそれは、ただ単に黒一色の装いが認められたというだけではなく、
明らかに、黒を着ていればおしゃれに見えるという、
一種の迷信的な、付属的な意味合いも付け足されるようになったのです。
さて、では、黒い服を着ていれば、本当におしゃれに見えるのでしょうか。

確かに、黒一色でコーディネイトしてしまえば、
全体の配色について考える必要がありません。
そのため、色がちぐはぐになっておしゃれに見えないという、
色による失敗はありません。
それはメリットと言えばメリットでしょう。
たんすの中に黒い服しかないのなら、
毎朝、色合わせで悩む必要はありません。

しかし、実は、黒は残酷な色です。
色味がない分、ほかの部分を隠すことなく写し出します。
黒い色ですべて不都合が隠されていると考えるかもしれませんが、
事実はまったくその逆です。

黒は、すべての素材のよしあしを明らかにします。
いい素材か悪い素材かは、その素材が黒であるならば、隠すことができません。
高級なウールと安いウールでは、その黒色は明らかに違います。
革も同様です。安い革の輝きはそれなりのものです。
また同時に、黒はその素材の劣化も隠すことができません。
洗濯での色落ちや毛羽立ちも、黒はより一層浮き上がらせます。

そして、黒は配色によるボリューム感をコントロールできない分、
シルエットがあからさまに出ます。
そのため、古いシルエットの服はより一層古臭く見えるのです。
もし黒い服でおしゃれに見せたいのなら、
常に新しいシルエットを追わなければなりません。
シルエットを表現するのに黒い影がよくつかわれるように、
まさに、黒い服とはシルエットのみで構成されている服なのです。
ファッション業界の人たちが着る黒い服とは、
常に最新の黒い服です。
新しいシルエットが強調されるから、それはおしゃれに見えます。

そして何より、
黒は、着ている人自身を隠すことができません。
隠れることができないのは、白日の下にさらされたときだけではありません。
黒い服を着たときも、
姿勢、筋肉、肌の状態、歩き方など、ほかの色のどの色より、黒は一層目立ちます。
そして、姿勢やその歩き方、筋肉の着き方などからその人の考えていること、感情の浮き沈み、
肌の状態から、どんな健康状態なのかまで、
無言のまま、他人に伝えてしまいます。
黒とは、決して隠す色ではないのです。
着ている人の想像以上に、着ている人そのものを相手に伝えてしまう色なのです。

そんな黒を最もおしゃれに着こなしたいなら、
新しいシルエットのものを着る、
洋服のメンテナンスは怠らない、
そして何より自分を律することが大事になります。
そうすれば、それは完璧なおしゃれになります。

そんなの無理、できないという声がいろいろな方向から聞こえてきそうです。
別にふつうの人は、完璧なおしゃれなど、する必要はありません。
完璧ではなく、隙を作ればいいのです。
隙は、立派な魅力です。

隙を作るためには、黒一色はわざと避けて、
黒と何か違う色との2色コーディネイトにする、
または、黒からグレーのグラデーションにするなどです。
2色の場合は、それが金や銀のアクセサリーでも構いません。
全身黒の完璧なコーディネイトを崩すことによって、生まれるその隙を、
今度は新しい魅力として取り入れればいいわけです。
そうすれば、必要以上に、その人自身が目立ったり、
黒いニットの小さな毛玉に注目がいくこともありません。
他人の目は、その崩れた隙のほうに向かいます。

黒は、別に悪い色ではありません。
同様に、いい色でもありません。
そこにいい悪いを見るならば、それはその人の心理が反映されているだけのことです。
黒が写し出すのは、ただ事実のみ。
それがいいか悪いかを判断するのは、人の心だけです。
黒はコントロール不能の色です。
他人がどう思うか、もはや制御することはできません。
そして、自分をどう見せるのかも、手放さざるを得ません。
自分の中のコントロールできない部分、
それを他人に見せる色が、黒という色なのかもしれません。
いかにも黒は、残酷な色なのです。