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2015年6月15日月曜日

洋服の色合わせ その2 

次は色が服にのったときの影響についてです。
洋服は柔軟性があり、平面的で、表面のバリエーションに富んだ布を、
パターンどおりにカットし、立体的に縫い合わせることができ上がります。
絵画と服のもっとも大きな点はこの点です。
紙の上に水彩絵の具やグワッシュ、油絵具をのせる絵画と違い、
布はそのものに色があり、素材も木綿、化学繊維、絹、羊毛と変化に富み、
何十種類もの織り方があります。
そのため、当然のことながら、色は紙の上にのせるものとは、
全く違って見えるようになります。
紙の上の色と、布の上の色は同じではなく、
比べようのないものですから、
同一に述べることはできません。

繊維は糸から織りあげられるものですが、
先染め、または後染めという方法で染色されています。
先染めとは糸の状態のものを染めて繊維とする方法、
後染めとはでき上がった繊維を染める方法です。
(そのほかに製品になったものを染める製品染めという方法もあります)

先染めは糸がすべて染まっているので、
布の表と裏の見分けがつきにくく、
後染めはプリントなどのように、裏は染まっていないため、
表と裏が判断しやすいものです。

糸の特性、
繊維を織る方法と、その種類、
染色の方法によって、同じ色でも見え方は変わります。
例えば、同じ黒だとしても、
先染めで織られるウールサージの黒、
起毛しているヴェルヴェットの黒、
表面に光沢のあるサテンの黒、
織りが複雑なアストラカンの黒、
蝉の羽のようなオーガンジーの黒、
このどれも、同じ染料を使ったとしても、同じようには見えません。
またこれら、素材が木綿、化学繊維、ウールと変わることによっても、
違って見えます。

洋服は、着物と違い、布1枚を畳んだだけの形では構成されていません。
パターンにしたがいパーツごとに裁断され、
組み立てられることにより完成します。
組み立てられた服は、必ずシルエットを持ちます。
シルエットとは物の輪郭という意味ですが、
洋服の場合、輪郭だけではなく、立体のあり方も示します。
つまり、ダーツはどのように処理されたか、
身体にフィットするのかしないのか、
ドレープは出るのか、
プリーツは畳まれているのか、
フリルやレースなど、装飾はあるのか、
ポケットなど、あとから付け足されたものはあるのか、
ボタンやリボンはついているのか、
襟はどんな形なのか、
裾はどんな処理がされているのか、
袖口やズボンの裾は折り返すのかどうか、
などなどです。
そして、その扱いによってもまた、同じ色の見え方が変わってきます。

例えば、同じ黒で光沢のあるシルクサテンで作られたドレープと、
重厚なウールのフェルトで作られたドレープ、
オーガンジーのドレープでは、
光の反射の仕方が変わってきます。
サテンの場合は陰影が深くなり、ドレープの溝が陰としてくっきり暗くなりますが、
フェルトの場合は、布の表面に光を吸収するため、ドレープの溝ははっきりしません。
また、オーガンジーによるドレープは向こう側も透けて見えるため、軽やかな感じが残ります。

洋服のパターンは通常、シーチングと呼ばれる、
木綿のフラットな素材で1度、形を作り、ドレープやギャザー、ダーツの具合をチェックします。
シーチングが使われるのは布がフラットで、光沢もなく、
かといって光を吸収することもなく、洋服のシルエットによる陰影がチェックしやすいからです。
タックをとれば、陰の色は濃くなり、
すべてダーツで処理すれば、表面に陰影はなくなります。

シルエットを作ったときにあらわれる陰影を確認してから、
そのパターンで実際の生地を使い洋服を作ったならば、
そのときにまた陰影の具合は変わります。
そして、そのでき上がった服を人間が着て歩いたなら、
また見え方は変わってきます。
私たちはこの過程において、同じ黒でも何十種類の黒に出会うことになります。

ヴェルヴェットの黒と、オーガンジーの黒、
シルクサテンの黒と、スウェードの黒を同じ黒であると、
ファッションにおいてはみなしません。
そこにドレープがあるならば、
フリルがつくならば、
立体的にポケットを組み立てるならば、
それはすべて違う「黒」です。
だからこそ、黒1色のコーディネイトは成立するのです。
その同じ黒の中に、何十種類もの黒を見るのが、ファッションを志向する者です。
あの「黒」と、この「黒」を同じとは決して考えない。
「黒」を単純な1つの色に閉じ込めない。
すべての可能性を探求し、それを見分ける者がファッションに携わる者であり、
それをしないのならば、それはファッションとは関係のないもの。
ファッションについて考えるのならば、
その点を間違ってはいけません。

次回は、これら素材とシルエットによって変わる色が、
実際、人が着た場合にどうなるかの説明になります。


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2015年6月1日月曜日

雑誌のような服ではなく、名作や古典を

色についての続きを書く予定でしたが、違うことを思いついたので、
そちらを先に書きます。

例えば春の初めに売りだされた服は、
盛夏を迎える前にセールに出され、
3割引から5割引きで売りに出されます。
年々、セールの開始時期は早まり、
今ではいつでもどこでもどこかで何かがセール品として売られています。

企画に時間をかけ、生地を織り、縫製をし、
プレスをかけ、配送され、店頭に並んでデビューしても、
わずか3カ月やそこらで値引きされてしまう。
半年たてば半額に、1年たてば8割引近くにもなる。
しかもそのものは腐ったわけでも、傷んだわけでも、
機能が落ちたり、足りなかったりしたわけでもない。
そんな商品は、この世の中が広しと言えども、
そう多くはありません。
家電やIT機器には少なからずその傾向がありますが、
それでも次の新作が発表されるときは、
何かしらの進化や付加価値が足されています。

企画について考えた、多くの人の知恵と手を結集させた、
クオリティも追及した、
それでもほんの少しの期間で価値がどんどん下がっていくもので、
ファッション以外の分野で考えられるのは雑誌です。
必ずしも雑誌の内容そのものが古くなったわけではなく、
ものとして擦り切れたり、傷んだりしているわけでないにもかかわらず、
次の発売日が来れば、価値がなくなり、古本屋で半額以下で売りだされるもの、
それが雑誌です。

それでも雑誌は、情報を提供するという性格上、
新しさが身上となりますから、
古くなったものは価値がなくなると考えられても仕方がないとは思います。
では、洋服は?バッグは?靴は?
どうなのでしょうか。

いつごろからか、
この社会では、服やバッグや靴を雑誌のように扱い始めました。
つまり、それらは情報となったのです。
情報であるならば、古さは致命傷となり、ほとんど顧みられることはなくなります。
古雑誌はリサイクルの対象であり、
古紙へのサイクルの中に組み込まれています。

しかし、私たちの本棚は、雑誌だけで占められているわけではありません。
人によって何をどれだけ持っているかは変わってくると思いますが、
古典や名作と呼ばれる本、好きで何度も読み返す本、
豪華な装丁のいつもそばに置いておきたい写真集など、
必ずしも情報として消費するわけではない、
私たちの精神と心の栄養となる本も多くあるはずです。

では洋服は?
すべてが情報として新しさだけに価値があり、
早い速度で消費されるものだけでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
世界の名だたる装飾美術館、
例えばロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムや、
パリの装飾美術館には、
何年も前に作られたものにもかかわらず、
今だに人々を魅了し、あまつさえ、欲しいと思うような、
そんな服や靴や装飾品が展示されています。
誰もが、
自分のワードローブもこのようにありたいものだと羨望と憧れで、
それらの衣装を眺めることでしょう。

ほとんどの雑誌は美術館や博物館に展示されることはありません。
希少なもの、もしくは著名な美術家が挿絵をえがいたものなどを除いては、
雑誌は永久展示品の対象外です。
なぜならほとんどの雑誌は長く展示する価値がないからです。
耐えられないのは経年による紙の劣化ではなく、
その内容の陳腐さ、貧しさからです。
そこに豊かさはないのです。

もし、自分のワードローブが博物館に飾られるような古典や名作よりも、
決して博物館になど飾られることがないとわかっている雑誌のような服たちであふれていたら、
なぜそうなのか、考えてみるとよいでしょう。
新しさに飛びついたばかりにおざなりにしたものは何なのでしょうか?
ジャンクフードが身体と心に必要な栄養を摂取するためのものではなく、
不健康と贅肉をただただもたらすもののように、
新しさにだけ価値があるその「情報」としての服がもたらしたのは、
たくさんあっても満たされない、
精神と心の栄養失調ではなかったでしょうか?

多くのものの中にまぎれてはいますが、
確かに服や靴やバッグの中には古典や名作があります。
それはまるで、分類されていない本屋の棚のように、
よく見なければ見つけられないところ、
または脚立がなければ手が届かないようなところに、
確かにあります。
私たちはもう少し、古典や名作を読む必要があるように、
ワードローブにも古典や名作が必要です。
それは10年たっても、いまだに新しく、着るたびに感動を与えてくれるのです。

10年も15年も大事に着続けて、
まだ捨てられない服が多いということは、
この名作や古典を多く集めてきたということです。
何も恥じることはありません。
今の流行作家など、10年たてば、誰も読みはしません。
名前さえも忘れ去られていることでしょう。

服を作る側のほんの一部は、
自分の作品を名作や古典にしたいと考えています。
そのつもりで服を作り続けています。
大量生産で、ひともうけしようとしている人ばかりが服を作っているわけではありません。
信念と経験と美学があって、
それを何とか形にして、
美術館に入るようなマスターピースを作ろうと努力しているデザイナーやメーカーはあります。

市場の判断が必ずしも正しいわけではありません。
ここ数年、その市場は、服を情報としてとらえ、
貧しさをそこかしこに蔓延させました。
買う側へも、作る側へも。
その市場とは、多くの人たちの消費行動です。
私たちの行動が変われば、市場も変わります。
誰もが忌み嫌う貧しさを自分にもたらしたのは、
市場を形成する私たち一人一人です。

私たちも雑誌ばかりではなく、
名作と古典、そして何度も読み返す本や、美しい写真集で構成された本棚のような、
そんな美しい、そして教養のようなワードローブを構築してみたらいかがでしょうか。

今の日本では、それが可能です。
私たちはかつてないほどに、
美術館の所蔵品が手に入れられるような時代に生きています。
これがいつまで続くかわかりません。
できるときにできることを、
死ぬ時に後悔しないように、
すべての貧しさから脱するために。
それが今の私たちの責務であると、
私は考えます。



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