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2013年12月23日月曜日

ファッションと自由

ファッションは、表現の1つの形態です。
服、靴、バッグ、帽子、アクセサリーなどを使って、
それぞれが自分を表現します。
それは、私たちの権利です。
他人の権利を侵害しているのでなければ、
ファッションについて、誰かにとやかく言われる筋合いはありません。

ファッションに関する規制は、自分で作ります。
私はジーンズははかないわとか、
ブルーを選ぶわとか、
ファーは絶対反対よとか、
それは自分で決めるものです。
それを決める権利は、自分しか持っていないからです。

けれども、年代や立場によっては、制服や、それに準ずるものを強いられる場合もあります。
学生や会社の制服、
セレモニーのときの決まった服装など。
しかしそれも、自分で納得して受け入れる範囲では、問題ありません。
逆に、どうしても受け入れられないものであったら、
そこから逃げる権利はあります。

おしゃれの基本的なルールを知り、練習することは、
画家ならばデッサンの練習、
ピアニストなら、バイエルの練習、
バレリーナのバーレッスンのようなものです。
型が決まった表現方法を身につけるためには、基礎練習は必須です。
しかしそれは、ルールにがんじがらめになるためにやるものではありません。
目的は、自由な表現を手に入れるためです。

自由とは、他人の自由を認めることです。
他人が自分とは違う存在だと知ること、
そしてその多様な姿を認めることです。
多様性とは、世界の豊かさです。

自由がなく、多様性を認めない社会では、
ファッションは成立しません。
その考え方がだめ、あの色がだめ、スカートの丈はこれでなければだめなど、
こと細かく決められたら、それはファッションではなく、
暑さ寒さをしのぐための、単なる布きれです。
ファッションが布切れにおとしめられたら、
形も色も失います。
形と色が禁じられた世界では、ファッションは禁止事項なのです。
なぜなら、ファッションは、もうそれだけで自由の象徴だからです。

ルールを知って、自由な表現方法を身につけると同時に、
この自由な世界を守り、育てていかなければなりません。
「自由」という前提がなくなったら、
何もかも終わりです。
終わりになった世界を、どうぞ想像してみてください。
今現在も、どこかにそんな社会は存在しているはずです。

あなたが今日来ているその服は、世界とつながっています。
無関心かもしれませんが、無関係ではありません。
ひとつひとつの選択が、その後の未来を決定します。
好きな色を着ていられる未来を望むなら、
それが実現できるように選択してください。
選択だけが世界を変えます。
あなたは、その力を持っています。

2013年12月17日火曜日

自分にふさわしいコートの選び方

ごくたまになのですが、知らない方から、自分にはどんなコートがいいのかとか、
どういうふうにコーディネイトしたらいいのかなどの質問をいただきます。
そのたびにお答えするのが、「見てもいないものに対してアドバイスはできません」ということです。
その方自身も、持っているワードローブも、好みも、何も知らないのに、
何がいいですよとは、言えません。

服については、到底、言葉だけで表現することはできません。
正確な色や、その立体的な様子をこと細かに表現したところで、
実物にはたどりつきません。
いわんや、人の姿、印象、見えない雰囲気など、言葉だけで表現するのは無理です。
そして、そのわからなさを前提としたアドバイスは、やったとしても、ほとんど役立たないものになるであろうことは、目に見えてわかっています。
というわけで、見てもいないものに対してアドバイスはできないのです。

では、もしその人のことを知っていて、見たこともあり、雰囲気も感じて、
好みも把握し、ワードローブも見ていたとしたら、
どんなふうにアドバイスをするかというのが、今日のテーマです。
お題としては「コート」を選びました。

まずは、その人のテーマ・カラーを確認します。コートなので、差し色ではなくて、メインのカラーとなります。
次に、今後、どういった方向にいきたいのかを確認します。
今はそうではないけれども、近い将来になりたい方向です。
今と変わらない、同じテイストであるのなら、それはそれで聞いておきます。
次に、その方の今持っているワードローブを確認します。
舞台やテレビの衣装ではないので、一から全部、そろえるわけではありません。
もうすでに持っていて、これからまだ着るワードローブにコートを追加していきます。
ですから、今持っているアイテムや色と、全く合わないものは選べません。
それを確認します。
もちろん、その方の容姿や、全体的な雰囲気などは、目で見て、感じることによりチェックします。
コミュニケーションの仕方なども、重要です。
また、大体の予算も聞いておきます。
ここまではその人に対するリサーチです。
その人物の概要を把握します。

ここからは私が持っている知識を使います。
まず、これからの流行の傾向を考えます。
いくら似合うからといって、これから絶対に時代遅れになるようなコートを勧めるわけにはいきません。
流行の方向性を見極めて、その上でこれから何年も着られるようなコートを考えます。
そして、次に、その人がすでに持っているワードローブに付け足すにふさわしい色やシルエットについて考察します。
このときに、その人の体型や雰囲気に合うようなものは何になるかを考えます。
最後に現在考えている予算で、そういったコートがどんなところで手に入るのか、
たとえば、それはどんなブランドで売られているのか、検討します。
もちろん100パーセント理想どおりのコートがあればよいわけですが、
予算と、手に入れられる可能性を考慮すると、
その選択肢は狭まります。
つまり、どこが妥協点になるのか考えるわけです。
ここまで考えて初めて、どんなコートがいいのか、アドバイスできることになります。

これはコート以外でも同じことです。同じ方法を使います。
つまり、1枚のアイテムを買い足すときには、上記のような事前の考察が必要だということです。
ここまで考えないと、自分にとってのふさわしいコートを買うことはできません。

もちろん、私は一目ぼれの可能性を否定はしません。
しかし、冬のコートというものは、一目ぼれで買うようなお値段ではありません。
ここまでのイメージと考察ができた上での一目ぼれなら構いませんが、
行き当たりばったりの一目ぼれでは、長く着られるコートには出会えません。
一目ぼれで買えるのは、せいぜい1年限りの短いお付き合いのTシャツやタンクトップぐらいです。
タンスのこやしや、ほとんど着ないような服をふやさないためには、とっかえひっかえの一目ぼれで出会った相手は、不向きなのです。

そうやって考えると、自分が本当に必要な服、そしてふさわしい服は、
ほとんど売っていないということに気づくでしょう。
売ってないのですから、根気良く探すしかありません。
コート1枚を買うのも、理想の結婚相手を探すのも、
根本的には同じ作業です。
長く付き合うためには、それが必要なのです。

そこで簡単に妥協するなら、それがその人の人生に対する態度となります。
洋服を1枚買うという行為の積み重ねが、
その後の人生の方向を大きく変えていきます。
買うという行為は、常に選択だからです。
たくさん買ってもまだ満足できないのも、
着ていない服がワードローブの大半を占めるのも、
その選択の結果です。
心からの満足を求めるのなら、そうなるための選択をする必要があります。

選択を放棄したら、それは妥協の人生です。
与えられたものだけで満足できるのなら、それでも構いませんが、
そうではなくて、自由で、自分らしく生きたいのなら、
しっかり選択していきましょう。

コート1枚のアドバイスを簡単にできないのはそのためです。
よく知りもしない私が、その人の選択する権利を奪うわけにはいきませんから。

2013年12月9日月曜日

ひょう柄だけが特別なわけ

ここへきて、ひょう柄が流行し始めました。
それまでも多くのアニマル・プリントが提案されましたが、
結局、残ったのはひょう柄のようです。
靴、バッグ、帽子、コート、ドレスなど、ありとあらゆるものにひょう柄が使われています。
では、なぜとら柄でも、ゼブラ柄でも、ダルメシアン柄でもなく、
ひょう柄なのでしょうか。

ファッション史の中で、ひょう柄は特別な存在です。
なぜなら、それは1947年2月、クリスチャン・ディオールが初めてのコレクションを発表した際、
「ジャングル」と名付けられたスタイルの中で使用された柄だからです。
そのとき以来、ひょう柄はモードの最高峰であると、認定されました。

当たり前のことですが、西洋の洋服にはそれなりの歴史があります。
スタイルの変遷をたどって、現在へたどりついています。
それはどの国でも服装の歴史があるのと同じことです。
しかし、洋服を取り入れてから150年ばかり、
そして一般に広まるようになって100年足らずの日本では、その歴史は知られていません。
知らないということは、つまり、
洋服の歴史の文脈の中で意味づけされたものを知らないということです。

歴史を知らないということには、もちろんいい点もあります。
知らないがゆえに、それに縛られることがありません。
そのいい例が、歴史の文脈無視の突然変異として注目された、
80年代から90年代の日本のファッションです。
西洋の服装史にはない、直線的なカッティング、つまり、人体のとらえ方の違いは、大きな衝撃を与えました。
これは、歴史の文脈とは違うところからの発生であり、提案であったからこそ、なし得たことです。

一方、歴史の中には、その中で大切にされ、育てられてきた伝統があります。
長い年月をかけて作り上げられたそれは、人々の大きな記憶の中に、沈み込みながらも、ずっと存在し続けています。
それは、決して忘れることのできないものです。
そして忘れたころに、思い出したように浮上し、繰り返され、洗練していきます。
ひょう柄というのは、西洋のファッション史の中で、忘れ去られることのない、モードのシンボルなのです。

ひょう柄の流行は、クリスチャン・ディオールの復活に関連しています。
2012年、ラフ・シモンズがクリエイティブ・ディレクターに就任し、ディオールは、1947年にクリスチャン・ディオールが発表したニュー・ルックの
新しい解釈のもと、完全復活しました。

クリスチャン・ディオールがニュー・ルックを発表したのは、第二次世界大戦が終わって、1年半後のこと。
戦時中、女性たちは、好きな服装をすることができませんでした。
戦争になり、まず初めに禁止されるのは、華美な服装であり、
個人の表現としてのおしゃれです。
戦争のためおしゃれができず、うっ屈した毎日を過ごしていた女性たちにとって、
ディオールのニュー・ルックは、まさに革命でした。

ひょう柄は、その血を引いています。
モードであるとともに、女性であることの喜び、表現することの自由の象徴なのです。
ですから、ひょう柄のものを身につけるということは、その柄の色や形とは別の、
特別な意味を持ちます。
それはモードの革命を忘れていないということであり、
その体現者であるということです。
そのため、ひょう柄だけは、ほかの動物の柄とは違い、特別なのです。

戦争になったら、おしゃれなどできません。
奪われるのは喜びと自由。
与えられるのはユニフォームと膨大な禁止事項。
それは、現在の状況からは想像できないほどの苦痛です。

その状況を再び経験したいかどうか、
権利を放棄しなければ、私たちは選べます。
まだ選ぶ力を持っています。

ニュー・ルックで取り戻した喜びと自由を失いたくないのなら、
権利は行使しなければなりません。
放棄するのなら、それが得られなくてもあきらめなくてはなりません。
けれども、力を持っている限り、あきらめる必要はないのです。

そのどちらを選ぶかは、自由です。
もちろん、ひょう柄を選ぶか選ばないかも自由です。
それはその人の生き方ですから。


2013年12月2日月曜日

トムボーイ・スタイル

トムボーイ(tomboy)とは、英語で「おてんば」のことです。
最近の外国のファッション誌にはよく、このトムボーイ・スタイルが出てきます。

「おてんば」で思い出すのはキャンディ・キャンディぐらいですが、

ファッションにおけるトムボーイは、たぶん、大人になったオリーブ少女たちが好むであろう、
そんなスタイルです。
(もしかして、キャンディもオリーブ少女も、これを読んでいる人の半分は知らないかしら?)

トムボーイ・スタイルを得意としているのはアレクサ・チャンです。
British Vogueでは、彼女のことを「fashion's favourite tomboy」と評しています。
アレクサのスタイルが、いわば、トムボーイ・スタイルのお手本となります。

トムボーイ・スタイルの特徴は、ベーシックなアイテムに、
少女っぽさと少年っぽさを足して、大人の味付けで仕上げることです。
いつまでも乙女心を忘れない大人の女性が、そんなスタイルをすることによって、
より魅力的に見えます。

具体的な組み立て方は、まずベーシックの白シャツなり、トレンチコートなりにスクールガール風のアイテム、たとえばサッチェル・バッグ、ハイソックス、ミニスカート、フラットカラーをあわせ、どこかに少年っぽいもの入れ込みます。
それはたとえば、ショートパンツだったり、バイカージャケットやバイカーブーツだったり、またはベースボール・キャップだったりと、少しハードなアイテムです。
このときに、ベーシックなアイテムは大人の味付けにしておきます。
つまり、そこは子供が着るようなものではなく、しっかりした素材やデザインの、
大人が着るのにふさわしいものにするのです。
端的に言ってしまえば、ベーシックの部分には、チープなものや偽物は使いません。
そこを安くあげようとすると、そのスタイルは途端にそこらの学生と同じになってしまいます。
おさえるとところはしっかりおさえつつ、
少女っぽいものと、少年のようなもの、両方を入れていく、
そのバランスの面白さがトムボーイ・スタイルです。

この場合、ヘアスタイルやメイクも、あまり作り込み過ぎません。
あくまでラフに、やり過ぎないものが好ましい。
作り込んでしまったら、もうトムボーイではありません。
洗いざらしの髪の毛をツインテールにして、
そばかすだらけの顔で天真爛漫に笑い転げる、あのキャンディのように、
付け入るすきのないような、そんなヘアとメイクではだめなのです。

このスタイルは、これまで何度か説明してきた、外しや隙、そして親しみやすさを同時に表現することができます。
ここには、誰もがわかるブランド物ですべて固めたような、高飛車な雰囲気はありません。
かといって、ベーシックなものだけでコーディネイトした、退屈さもありません。
普通っぽくもある、それなのにおしゃれに見える、
いかにも高そうなものばかり着ているわけではない、
そして何より魅力的、そんなスタイルです。

そんな魅力的なスタイルですが、実際するとなったら、
かなり難易度は高いです。
いろいろな要素をミックスしていくので、
選ぶ基準があいまいなままのワードローブでは、なかなかこのようにはなりません。
そんなときは、まず色を絞ること、
そして自分の方向性をはっきりさせておくことが大事です。
自分の色、自分の好きな感じを徹底して通しておけば、
これらを全部ミックスして着ることは可能です。

自分というものがふらふらしていたら、
でき上がるスタイルもふらふらしたものになります。
何の統一性もなく、適当に買ったのだなということが、
傍目にもわかります。
そこをきっちり統一していけば、
芯のぶれない、その人の筋の通ったスタイルができ上がります。
まず最初にやるべきなのは、自分の筋を通すことです。

おしゃれに興味がないのなら、それはそれで全く構いません。
いつも書いていますが、おしゃれは人生の中でもっとも重要なことではありません。
服は着られればいいという、その潔さは、かえって素敵です。

流行が変わっても、
どんなスタイルを選んでも、
またはおしゃれを全く無視するにしても、
それがぶれないのなら、それでいいのです。
トムボーイ・スタイルは、そんなぶれない人にとっては、
朝飯前の、簡単なスタイルです。

(そういえば、キャンディも決してぶれなかったね)



2013年11月25日月曜日

グレー

ファッションの流れが、よりリラックスしたものになっています。
それに伴って、都会的で、洗練されてはいるものの、
黒ほどに緊張感を伴わない、グレーやベージュがその表現として、重要になってきました。

同等に語られることの多いグレーとベージュですが、
グレーはベージュよりも、はるかに簡単な色です。
色の構成を考えてみればわかることですが、
グレーは白と黒の2色、ベージュは赤、黄、黒、白の3色で構成されています。
グレーのアイテムを集める際は、明るいグレーから暗いグレーの明度だけを考えればよいですが、ベージュの場合、明度、彩度、両方を考えなければなりません。
一口にベージュといっても、赤味が強いもの、黄味が強いもの、明るいもの、暗いものなど、幅が広いです。
ですから、違うブランド同士のベージュを並べて見ても、必ずしも色が合うとは限りません。
どちらかといえば、合わないベージュのほうが多いのです。

それに比べて、グレーは単なる黒から白へのグラデーションですから、
ブランドや買った時期が違っても、並べたときの違和感はありません。

そんなグレーですから、全体をグレーのグラデーションで統一したいとき、
白いほうへふっても、黒いほうへふっても、簡単にコーディネイトすることができます。

また、グレーはほかのどんな色とも相性がいいのが特徴です。
ヴィヴィッドな赤やピンク、緑、黄色でもいいですし、
または、ニュアンスのあるピンクベージュ、ネイビーなど、
どんな色でも受け入れる懐の広さがあります。
もちろん、すべてのグレイッシュ・トーンと相性がいいのは、言うまでもありません。

完全なる緊張が必要ではなく、かといって緩すぎるわけでもなく、
適度にリラックス感とやわらかい雰囲気を作りたいとき、
全体をグレーのグラデーション、またはグレープラスさし色で構成するコーディネイトは、どんな人にもお勧めです。
特に色合わせが苦手という方には、グレーだけのコーディネートは失敗のしようがないので、臆することなく、着こなすことができると思います。

しかし、そんな使い勝手のいいグレーにも、大きな欠点があります。
それは、多くのグレーは、顔色を悪く見せるという問題です。
特に気をつけてほしいのは、蛍光灯照明の部屋。
蛍光灯の光の下のグレーは、顔色が悪く見えます。
特に蛍光灯とグレー、そして顔色の悪さは、作業服を思い起こさせ、
心がすさんだ印象を与えます。

もう一つの欠点は、冬物以外、グレーのボトムは案外多くでまわっていないという点です。
冬だけは、グレーのフラノに代表される、ウールのパンツやスカートが多く売っていますが、
春から夏にかけて、グレーのボトムは、あまり売っていません。
ですので、こういうグレーで、こういうタイプのボトムが欲しいと思っても、
なかなか選ぶことができません。常にあるのはグレーのスウェット地のパンツぐらいです。

まず、顔色が悪く見える点を解消するためには、
顔回りが明るく見えるよう、トップスはかなり明るい、銀色に近いグレーを持ってくるか、
そうでなかったら、ジュエリーやスカーフで光を補うことです。
また、たとえばチャコールグレーのニットで、Vネックの場合は中に白いTシャツを着る、
クルーネックの場合は中に白シャツを着るなど、
インナーを白にして、見えるようにするのもお勧め。
ありきたりではありますが、グレーのトップスとパールはよく合います。
顔色をよく見せるために、大人になればなるほど、この点は気をつけたほうがいいでしょう。

もう一つ、冬以外、ボトムスが売っていないという問題ですが、これは地道に探す以外、方法はありません。
いつも自分の欲しい形、色を覚えておいて、あったときに買っておかないと、
なかなか次は見つかりません。
特に夏物はありませんので、夏にグレー1色のコーディネートをしたい場合には、
年間を通して、ボトムを探し続けるといいでしょう。

他人がまず、その人のことをおしゃれかどうか判断するのは、その色合いによってです。
ひとつひとつのアイテムが、どんなに優れていても、
色合わせがおかしいと、それだけでもうおしゃれには見えません。
デザインや素材感はその次にきます。
とにかく、まずは色なのです。

しかし、この色の感性を後天的に育てていくのは、なかなか難しいものだということが、
最近、私も分かり始めました。
この色とこの色が合う、合わないの判断は、できない人にとってはできないようです。
それならば、無理して難しい色合わせに挑戦しないで、
まずは自分のわかる範囲、つまり1色、または1色プラスさし色でコーディネートすれば、
その欠点はカバーできます。
そして、それができるようになったら、難しい色合わせに挑戦していけばいいでしょう。
何事にも段階というものがあります。
経験と時間なしに、たどり着くことはできません。

できないならできないなりにやる。
できるようになったら、次へ進む。
失敗したら、そこから学ぶ。
知らないことは調べる。
わからなかったら、誰かの手を借りる。
友だち同士、わかったことを分かち合う。
おしゃれも同じです。
そうやって、少しずつよいものになっていきます。
それなしに、ひとっとびに一流になろうとしても、無理な話です。
他人からすべてを借りてきても、それはその人の実力にはなりません。

グレーのグラデーション・コーディネイトがうまくできたと思ったら、
その感覚を記憶しましょう。
その自信を忘れないでおきましょう。
そして、同じ感覚がわきあがるような、
次の色の組み合わせを考えましょう。
そうやって、一段一段、のぼっていくのです。
その一段がどんなに低くても、続けていけば、必ず上がり続けます。
振り返ってみたら、もうこんなところまできていた、
そう思える日が、きっとくることでしょう。





2013年11月18日月曜日

アシンメトリー

アシンメトリーとは、シンメトリーではないこと、つまり左右非対称という意味です。
シルエットが大きく変わった今シーズン、
久々にアシンメトリーのデザインがたくさん出てきました。
これもやはり、シルエットがタイトからビッグに変化したためで、
タイトなシルエットでは、アシンメトリーの表現は難しいからです。
アシンメトリーにするためには、ある程度のボリュームが必要になります。

ベーシックな服のほとんどは左右対称のデザインです。
今思いつくのは、トレンチコートのガンフラップが片側のみにあることぐらいで、
そのほかは、あまりありません。

洋服の歴史を振り返ってみると、必ずしもいつも左右対称というわけではありません。
ギリシャ時代のドレープに代表される、カッティングのない衣服は、
どれもみな、左右非対称です。
その後、ダーツやカーブを取り入れ、
布を身体にそわせてカットする形へ発展するにつれ、
洋服は左右対称になっていきました。
その後、特殊なデザインでない限り、主流は左右対称のデザインとなります。

シンメトリーにも、アシンメトリーにも、それぞれ美しさはあります。
幾何学模様のように、一寸のずれもなく、完璧な左右対称性は、
美の極致でもあります。

しかし、自然に存在するものを見てみると、
多くのものが左右非対称です。
私たちの身体もその例にもれません。
心臓は、左側、もしくは右側に偏って位置しています。

森の木々も花も、左右対称に育つものはありません。
ベルサイユのル・ノートルによる整形式庭園の植木は、人間の手によって刈りこまれたものです。
自然には、あのような形の木は存在しません。

自然へ回帰する傾向が強まると、
それに伴って、服もアシンメトリーなデザインへと変わっていきます。
それはより自由で、自然な女性性へのあこがれであり、
優しい力です。

さて、明らかに、アシンメトリーのデザインの服は、おしゃれ上級者のものです。
まだ勉強が足りない、修行の身の人たちにとっては、
なかなか着こなすのが難しいデザインだと思います。
なぜなら、左右非対称にもかかわらず、全体としてはバランスをとらなければならないからです。

それでも、ベーシックから抜け出したいならば、
より一歩、自分のおしゃれを前へ進めたいならば、
アシンメトリーのデザインの服を取り入れてみましょう。
バランスが崩れたものを着つつ、全体のバランスを保つのは、高度なテクニックではありますが、
できないわけではありません。

初心者にお勧めなのはワンピースです。
それ1枚でアシンメトリーのデザインが完成されたものは、
なにも付け足すことなく着ることができます。
左右非対称がデザインの肝なので、それを壊すようなアイテムを付け足さないことが肝心です。
さらりと1枚で着こなし、その他のアイテムはごくごくベーシックで目立たないものにすれば、
うまく着こなすことができます。

その次はアシンメトリーのコートです。
アシンメトリーのコートを買うのは冒険ではありますが、
ほかに付け足さなくてもスタイルが完成されるという意味で、
お勧めです。
これもやはり、あまりごてごてと飾らずに、アシンメトリーのよさだけを見せる形でのコーディネイトがよいでしょう。

そのほか、今シーズン、たくさんのワンショルダーデザインのトップスが出てきましたが、
これはどちらかというと、難易度が高いアイテムだと思います。
1枚で着られるワンピースなら問題ありませんが、
Tシャツなどの場合、ほかに合わせるものが難しいです。
色と形、両方で全体のバランスをとるためには、
トータルでコーディネイトを構築していく必要があります。
それでも着る場合は、そのほかのものはベーシックでまとめておくのが、
まずは無難なやり方です。

整然とそろった、完全なる左右対称のものには、
完璧な美しさがあるのと同時に、
息苦しさも持っています。
その中にはまったら、抜け出すことができません。
延々と続くそのパターンに、逃げ道はないからです。
しかし、私たち人間は、そんなパターンからすでにはみ出た存在です。
かしこまり形式ばった、息苦しく神経質なその空間の中では、
一定の時間以上は、存在することができません。
完璧主義は、同時に排他主義でもあります。
そうでなければいけないというルールの中では、
クリエイティビティは抑圧されます。

自分のはみ出た部分を認めることができなければ、
他人のはみ出た部分を認めることはできません。
シンメトリーではないのだと、
完璧ではないのだと、
そろってなどいないのだと気づくことは、
寛容なる自然のように、優しさのあらわれです。
アシンメトリーのデザインの服は、そのことを私たちに思い出させます。

完璧などありません。
あるのだとすれば、
それは歪みや失敗さえも含まれた完璧です。
私たちは、左右非対称を含みつつ、完璧なバランスを保ちます。

アシンメトリーのドレスを着てみたならば、
それだけで魅力的に見えるでしょう。
なぜならそれは、アシンメトリーのバランスに満ちた地球の写しだからです。





2013年11月12日火曜日

チェック

2013年の秋冬コレクションで、セリーヌやステラ・マッカートニーが、
大柄チェックで、ビッグ・シルエットのコートを発表しました。
これらのデザインは、
チェックが戻ってきたという意味において、
重要な位置づけになります。

このブログでも、もう何度となく、
シルエットの変化について書いてきました。
私がシルエットの完全なる移行を感じたのは今年の夏です。
このシルエットは今後10年前後、続いていくものと思われます。

大きな柄が復活してきたというのは、
単にデザイナーの好みの問題だけではありません。
大柄のチェックとシルエットの間には、大きな関係があるのです。

大柄のチェックを生かすデザインとは、
その柄が崩れないように見えることが基本です。
そのために、ダーツや曲線が少ないことが理想です。

日本の着物を想像していただければわかると思いますが、
着物は反物をほとんど余計にカットせずに衣服に仕立てます。
そのため、生地の柄を崩すことなく、そのよさを表現することができます。

ビッグ・シルエットのコートにチェックの生地が使われたのは、
まさにこのためです。
ビッグで、しかもダーツや曲線が少ないデザインでなければ、
チェックが生えないのです。

ここに来るまでの約14年間、
服がタイトになるとともに、
大柄のチェックの服は消えていきました。
なぜなら、服の中に多くのダーツ、そして曲線がふえていったからです。
切り刻まれることによって、チェックは崩れていきます。
そのため、この時代、チェック柄はごく小さな柄のもの、
もしくはメンズ・テイストのアイテムに使われるのみになりました。

シルエットというものは、服にとって最も重要です。
色、生地など、ほかにも服にとって重要な要素がありますが、
シルエットこそ流行であり、
その変化は生地も、柄も、たぶん色も変えていくほどの力を持っています。

今回のシルエットの変化により、選ぶ素材、柄の選択肢が大きく増えました。
大柄のチェックはその1例です。
チェックだけではなく、大柄のプリントや、14年春夏コレクションでプラダが発表した大きな模様なども、その例ですし、 フェルトなどの張りのある素材、逆にシフォンやオーガンジーのように、
ダーツや切り込みが不向きな素材もふえてきます。

どんな流行も、行きすぎると不自由になります。
大柄なチェックがなかった時代、私たちはあたかもそれが当たり前のように感じていましたが、
今から考えると、いかに面白みや、選択肢がなかったかがわかります。
その不自由さから抜けるには、前のものからの脱却が必要なのです。

時代遅れということは、
つまり、この前の流行の不自由さを引きずっているということです。
それは、もう進んだ目から見たら、
あまりに古臭く、自由がありません。
昔買った服だから、ものとして古いということだけではなく、
私たちが無意識のうちに察知するのは、
新しいものを受け入れない、柔軟性のない、その姿勢です。

チェックは、これからもいろいろなアイテムとなって登場してくるでしょう。
メンズライクなシャツ、キルトスカートなど、
ダーツや曲線が少ないアイテムの中で、それは見られるはずです。

行きすぎたものは、壊れる運命にあります。
それはあまりに固すぎるからです。
固くなったがために、壊れるのです。
周りの世界がまったく目に入らず、自分の身体の殻の中に閉じこもっているならば、
その人はもうおしゃれではありません。
それは、いい意味での他人の目を気にしないという態度とは、
わけが違います。

人間は、見えないエリアを見抜くアンテナを持っています。
流行は、まさに見えないエリアに流れているエネルギーの動きです。
自分の身体だけを見ていたら、
それを感じることはできません。
ファッションは、時代を流れる見えない情報が具現化されたものです。
ほんの少しでもいいので、流行を取り入れたほうがおしゃれに見えるのはそのためです。

大きなチェックが目にとまったならば、
それはあなたのアンテナが正常に働いているということです。
アンテナを張り巡らせましょう。
そしてキャッチしたものを、自分の中に取り入れましょう。
そのことが、あなたのおしゃれを一歩先へ進ませます。

2013年11月4日月曜日

ショート・パンツ

子供のころよくはいたショート・パンツ。
あのころ、大人でショート・パンツをはくというのは、
テニスプレーヤーぐらいのものでした。
それ以外、しかも街ではくなどということは、ちょっと考えられませんでした。

コレクションでデザイナーがショート・パンツを提案したことは、
過去何度かあったと思いますが、流行るまでには至りませんでした。
デザイナーが仕掛けても、必ずしも多くの人がそれを受け入れるとは限らないのです。

ところが、最近、ショート・パンツは大人が街で着られることができるアイテムとして、すっかり定着しました。
いい年の大人、それはたぶん30過ぎたぐらいの大人がショート・パンツをはくようになったのは、
たぶん、ケイト・モスの影響が大きいと思います。
彼女のスナップを見ていくと、2003年ごろから、ロック・フェス会場でのショート・パンツ姿があらわれます。
そして、ケイト・モスは今でもショート・パンツをはいてあらわれます。
その結果、ショート・パンツは大人のものとして認められました。

ショート・パンツは、丈という意味ではミニ・スカートと同じですが、
下着が見えそうなミニとは、やはり意味が違います。
階段をのぼるとき、後ろが気になるかどうか、
電車の座席に座ったとき、前の人の視線が行き場に困るかどうか、
その心配がないということは、やはり大きな差なのです。

着こなしにさえ気をつければ、
ショート・パンツはパンツの丈だけの問題として、
大人でも十分はくことができます。
そして、秋冬こそ、大人がショート・パンツをはくのに最もふさわしい季節です。
小学生の女子のように、ショート・パンツをはいて、
ひざ下ソックスをはいただけのスタイルと差をつけるためには、
この冷たい気温がちょうどいいのです。

ショート・パンツをはくことによって、
下半身は、パンツ、靴、それをつなぐものに分割されます。
その分割のバリエーションはいろいろです。
好きなものを選べます。
たとえば、
ニーハイブーツとカラータイツ、
サイハイブーツとストッキング、
バレエシューズと靴と同色のタイツ、
ブーティーと黒いシアーなストッキングなど、
靴とストッキングやタイツを、自分の好きな形とバランスで作ることができます。

ここで大人が気をつけるべきなのはただ1つ。
素肌感はぎりぎりまで減らすこと。
素のままの脚をさらせばさらすほど、
おしゃれからは遠くなります。
見る人が気になるような生の脚は、すべてを幻滅にさせ、
その人の人格すら疑わせます。
なぜなら、ショート・パンツから出た、素のままの脚は違う目的を持っているからです。
(あえてそれがなにかは言いませんが)

ショート・パンツ自体は、大人にふさわしい素材のものを選びましょう。
表革やスエード、
凝ったツイードやラメ入りのウール、
繊細なレース、またはシルバーやゴールドのメタリックなど、
小学生が決してはかないような素材を選びます。

もし、カットオフしたショート丈のジーンズを選ぶのであれば、
その他のアイテムは豪華なものにしましょう。
全体のコーディネイトの中の「はずしアイテム」として、
ショート丈のジーンズを用いればいいです。

子供が着るようなアイテムを大人が着るときこそ、
腕の見せどころです。
自分にとって最適なボトムから靴までのバランスを見つけてください。
ブーツやタイツをはくことができる季節だからこそできるおしゃれが、
そこにはあります。
そして、素の脚を見せないというそのかせによって、
努力と工夫のし甲斐が出てくるのです。

誰でもが、一度は自分が持ち得なかったまっすぐで長い脚に憧れたことがあるでしょう。
そして、多くの人が脚にコンプレックスを持っているに違いありません。
しかし、そのコンプレックスがあるからこそ、人は努力するのです。
知恵をしぼるのです。
楽であるだけというのは、いいことばかりではありません。
そして、コンプレックスも、悪いことばかりではありません。
コンプレックスがあったからこそ、手に入れられるものがあります。
そしてそれこそが、絶対、誰にも奪われない、
そして誰にも傷つけられない、
あなただけの宝物です。

2013年10月28日月曜日

LIKE A SCHOOL GIRL(女子学生風)

本当は、意味なく英語を使いたくないのですが、
日本語の女子学生も、女子高生も、女子大生も、
スクールガールの持つニュアンスとは、少し違う感じがします。
ここのところ流行ってきているのは、
女子高生風でも、女子大生風でもなく、
スクールガール・ルックです。

スウエット・シャツ、スタジアム・ジャンパー、ボタンダウンシャツ、
プリーツ・スカート、アーガイル柄のプルオーバー、
テニスのときに着るようなチルデン・セーターなど、
今までは決してモードと言われるようなものではなかったものが、
なぜかこの時期、モードの流れの中に出てきました。

これらのアイテムは、以前、プレッピー・スタイルやアイビー・ルックなどと呼ばれた、
アメリカのお金持ちの高校生や大学生のスタイルに必須のアイテムでした。
日本でも、70年代、80年代の高校生や大学生は、
割と好んでこのスタイルを取り入れていたと思います。
そのころに高校生や大学生だった方たちは、
スウェット・シャツもスタジアム・ジャンパーも、学校へ行くための、
特別おしゃれではない、ごくごく普通の普段着として着ていたのではないでしょうか。

そのころ、スウエット・シャツもスタジアム・ジャンパーも着ていたのは若者だけでした。
決していい年の大人が、キャラクターやロゴの入ったスウェット・シャツを得意げに着て、
街を歩くなどということは、ありませんでした。
もし、それをやったとしたら、「この人、子供の服を借りてきたのかしら?」と、
思われたことだろうと思います。
ボタンダウンのシャツを着ているお母さんなど、想像できなかったことでしょう。

また、モードのほうでも、これらをしっかり取り入れていたのは、いわゆるトラッドのブランドだけ。
ラルフ・ローレンやブルックス・ブラザースなど、
トラッドのブランドには常にボタンダウンのシャツもチルデン・セーターもありました。
けれども、さすがにキャラクター入りのスウェット・シャツなどは、
あったとしても、大人のものではなかったと思います。
それはあくまで学生のための衣服だったのです。

ファッションは、いつでも目新しいものを探しています。
しかし、いくら目新しいとは言っても、衣服の形には限界があります。
全く新しい衣服の発明などというものは、ほとんどありません。
ですから、常に行われているのは、以前あったものの新しい解釈です。
既にあったものの意味を解体して、構成し直し、
そこに新しい意味を加えることによって、それが新たなファッションとなります。

常にもう出尽くした感があるファッションの流行ですが、
それでも誰かが何かを見つけてきます。
それが今回は、このスクールガールのようなスタイルだったのです。

スウエット・シャツは、ケンゾーの派手なロゴ入りなものや、
ジバンシーの、あのアヴァンギャルドなバンビの絵柄により、
新しい意味を加えられました。
もうここからは、モードなのです。

さて、モードとなって新しく生まれ変わったスクールガール・スタイルですが、
大人であれば、それをそのまま取り入れてはいけません。
そんなことをすれば、それは、主婦がある朝目覚めたら女子高生になっていたという、
よくあるドラマのように、コメディになってしまいます。
自分が学生だったころのようなコーディネイトをしては、決していけないのです。

これらのアイテムを大人が取り入れるとしたら、
昔と同じ感覚でコーディネイトしないことが鉄則です。
スウェット・シャツの上からスタジアム・ジャンパーを羽織り、
フラットなローファーをはいたら、それは単なる時間が逆戻りしただけ。
そうでなくて、現在の新しい解釈で、昔とは違うアイテムと考えて取り入れるのです。

たとえばそれは、スウェット・シャツにダイヤモンドとピンヒール、
ひざ上丈のタータンチェックのプリーツスカートにはニーハイブーツ、
スタジアム・ジャンパーに黒い革のタイトスカートなど、
学生時代には決してすることがなかった組み合わせで全体をコーディネイトします。
アイテムは「LIKE A SCHOOL GIRL」であったとしても、
着こなしは「NOT LIKE A SCHOOL GIRL」にします。
学生ではないのですから、徹底的に学生気分を抜いていきます。
そのかわりに、学生とは無縁のセクシーやラグジュアリーを付け足します。
もうすでにこれらは学校へ行くための服ではなく、
流行を楽しむためのアイテムだからです。

流行は繰り返されますが、
それは決して以前と同じではありません。
らせん状に回転して、常に発展へと向かいます。
決して下降はしません。

昔と同じアイテムを、昔と同じように、同じ気分で着たならば、
そこに成長の跡は見られません。
あのとき口ずさんだあの歌も、もう同じようには歌いません。
同じ本を読んだとしても、同じ感想は持ちません。
そこには必ず深い理解や解釈があるはずです。

同じものだから飽きたと言うのなら、
それは自分自身が成長していない証拠です。
きのうと今日は違います。
同じ服を同じように着ることなど、決してできません。

今日の気分、今日の日差し、今日の気温、今日の言葉、
今日会った人、今日見た海の色、
これらすべて、昔とは、そしてきのうとは違うものです。
同じものを着たとしても、常にそこに新しい解釈を加えていく、
決して後戻りしない、
それがおしゃれです。
おしゃとは、決して止まらず、常に変化し、成長し続けていくものなのです。

2013年10月21日月曜日

「隙」を作る

はずし、
抜け感、
100パーセント同じにしない、
完璧にしないなど、
今まで個別に取り上げてきました。
それらが作り上げるのは、いわば、コーディネイト全体の中の「隙」です。
この「隙」は何のために作るかというと、その人を魅力的に見せるためです。
おしゃれであるとは、魅力的であるということです。
魅力的であるとは、引きつけられるということです。
その引きつける力を人為的に作るために、
「隙」に関するいろいろなテクニックが用いられます。

人に「隙」がないと、まず他人は近づけません。
防御的です。
だから、戦うときはそれでいいのです。
戦うときは、「隙」など作ってはいけません。
誰にも文句を言わせない、一筋の乱れもない完璧なコーディネイトで、
他を圧倒し、威圧し、制すればよいのです。
誰にも文句のつけようがない、それこそ、誰もが知っているハイブランドが、
いかにもそれとわかるようにコーディネイトすればいいのです。
それは高飛車でしょう?
傲慢でしょう?
だから完璧でしょう?
だけど、それでは魅力はないでしょう?

魅力というのは、ハチが花に引きつけられるように、
何もしなくても、自然と向こうから寄ってくる力です。
それをわざと作るために、おしゃれ上級者たちは、
いろいろな「隙」に関するテクニックを編み出しました。

シャネルのジャケットに穴あきジーンズをあわせてみたり、
完璧なドレス姿なのに黒ぶち眼鏡をかけてみたり、
シフォンのスカートにバイカーブーツをはいたり、
まだ寒いのに、素足にパンプスをはいてみたり、
ニットの帽子だけ自分で編んだものだったり、
エルメスのバーキンにロックなステッカーを貼ってみたり、
スウェットシャツの絵柄がバンビだったり、
ダイヤモンドなのにキティちゃんだったり、
とにかくずらすのです。
完璧から逃げるのです。
完璧にしては、だめなのです!

「隙」を見たら、相手はなぜそこだけそうなんだろうと疑問を持ちます。
そこから会話が生まれます。
話がはずみます。
はずんだ会話から笑い声が生まれます。
笑い声からドラマが始まります。
そして、そのドラマは続いていくのです。
完璧コーディネイトで武装した、無愛想な女の人が仁王立ちするその隣で、
ちょっと変てこりんで、いかれたプリントのTシャツの、
かわいくて、話しかける隙のある女の人が、
笑顔で、今にもダンスしそうな勢いです。
そうやって、踊るぐらい楽しい瞬間を自分で作っていくのです。
そんな経験を作るきっかけとして、「隙」はあります。

この「隙」は、たまたまそうなったものではありません。
あくまで完璧を知っていながら、わざと崩すものです。
いつも適当にコーディネイトしているからめちゃめちゃなのよ、という崩れ方とは違います。
そこで1つ何か入れたら完璧になってしまう、その最後の1ピースをわざと入れない方法です。

その「隙」の作り方は、人それぞれです。
それが魅力なのですから、みな同じというわけではありません。
ある人にとって、それは時計だったり、ある人にとっては帽子かもしれません。
あるいは靴やバッグでいつもはずすということもあるでしょう。
その「隙」の作り方の積み重ねが、その人の魅力となっていきます。

会話が生まれないファッションなんて、退屈です。
鏡の前で仁王立ちしていても、どこへもたどり着けません。
どこに「隙」を作るか、どこで引きつけるか、考えてみましょう。
それはブランドのロゴよりも、強力な力です。
だって、誰かの相手のお財布にシャネルのロゴがあったとしても、
話しかけないでしょう?
物語は作るのです。
待っていても始まりません。
毎日が退屈ならば、自分で作りましょう。
あなたが仕掛ければ、まわりは動き始めます。
まわりが動き始めれば、現実が変わっていきます。
そうすれば、退屈な人生とはさようならです。
自分が主人公の物語は、そのときから始まります。
すべてこの世は舞台なのですから、それは可能です。


2013年10月14日月曜日

やわらかく壊していく

モードの流れが一気に変わる時期というものは、そうそうあるものではありません。
約14年に1度ほど。
しかも、それは直角の曲がり角ではなくて、
ゆるやかなカーブです。
しかし、そのカーブを曲がりきったら、
もう後ろは見えなくなります。
後ろが見えなくなるころ、それまでの流行は忘れ去られます。

モードの先端をいくブランドでは、
すべてのアイテムの構造をやわらかく壊していく動きが盛んです。
今まで重く固かったもの、
防御のために使われていたものが、すべてやわらかい素材に変換されていきます。
そして、それは大きな流れです。

何年か前、バーバリー・プローサムで発表された、
総レースのトレンチコートは、その走りだったと思います。
それまで誰もトレンチコートをレースで作ったことなどなかったのです。
なぜなら、戦闘服でもあるトレンチコートがレースで作られてしまったら、
機能しなくなるから。
レースで作った途端、身体を防御するという役目は奪われます。
機能や効率を奪うことで、すでにある価値観が壊されます。
レースのトレンチコートは、形だけはそのままではありますが、
もうすでにトレンチコートではないのです。
それは、優雅なレースの防御しないコートの形をしたドレスです。

この動きが今になって盛んになってきました。
今まであるものを、柔らかさが壊していきます。
服は、柔らかく、繊細で、壊れやすい素材で、次々に作り変えられていきます。
コートやジャケットはジョーゼットに、
ジャンパーはレースに、
ニットは、向こうが透けて見えるほど大きな網目に、
パンツはシルクサテンに、
今まで、しっかりとした形を持っていたものが、
さわるとほどけてしまいそうな、するすると抜け落ちていきそうな、
素材で作られます。

これはもちろんフェミニティの新しい表現の形です。
それまでの女性らしさは、どちらかというと形そのもので表現されてきました。
強調した胸や腰、
細いウエストなど、
女性の身体の曲線を強調、または逆に無視することで、
フェミニティは表現されてきました。

完全なる無視は、完全なる認識と同じです。
女性性を否定すれば否定するほど、女性性は追ってきます。

これからの流れは、そのどちらもとりません。
なぜなら、極端な女性性の強調も、完全なる否定も、
二極化を強めるだけだからです。
強めもせず、弱めもせず、浸食すること、
やわらかな力で壊していくこと、
ジェンダーの境界線をあいまいにしていくことが、今の流れです。
境界線をあいまいにすることにより、
服は、女性や男性であるということよりも、
より服を着る人そのものをあらわにしていきます。
もう隠れようがない、隠すことができないというのが、
これから主流になっていく服です。

隠されたものは、必ず表に出てきます。
嘘をついても、もう無理です。
服を着ている姿だけで、わかってしまいます。
「若さ」という隠れ蓑をかぶることができなくなったそのときに、
残っているのは何でしょう?
それは傲慢や怠慢?
それとも、思いやりや努力の跡?
どちらを選ぶかはご自由に。

その人が魅力的であるのか、そうでないのか、
それが判断基準です。
服がその人より前に立つことはできません。
忘れないでください。
服の魅力とその人自身の魅力とは、無関係です。

2013年10月7日月曜日

1万円から2万円の甘い罠

みなさんのワードローブを実際に拝見して、一番多いのが、
この「1万円から2万円」で買ったと思われるアイテムです。
ファストファッションほど安くはない、
けれども、ずっと大事にするほど高くもない、
シンプルでもなく、
何か少しだけデザインがしてあり、
流行の要素が取り入れられている、
だけれども、品質がよいわけでもなく、
かといって、1シーズンで捨てるほど悪いわけでもなく、
ただ何となく存在しているような、
可もなく不可もなくといった洋服です。

私が察するに、これらの服というのは、
「会社の帰り、または、本気で服を買いに行く日でもない、
ちょっとしたお出かけで、
何となくふらっと入った、手近なお店、
それはたとえば駅の上のファッションビルのような、
そんなところで、お財布に大体いつも入っている、
1万円から2万円の範囲で、
そのときに、なんとなくいいような気がして、
そして、お財布にその金額はあって、
清水の舞台から飛び降りるほどの決意もいらず、
でも、毎日着ていくものがなくて、
これ、なんか便利かも、とか思いながら、
試着してみたら、
販売員さんに、お似合いですとか、今すごく売れていますとか、
今年はこれがよく出ていますとか、甘い言葉をささやかれ、
なんとなくその気になって、
そうだよね、これ、必要だよね、だってわたし、明日着ていく服ないもん、
とか思って、
どうしようかなとか考えていると、
販売員さんがすかさず、それ、最後の1枚ですとか、
限定品なんですとか、今だけ特別30パーセント引きですとか言って、
あ、そうか、じゃ、今買わなきゃとか、
ちょっと焦りながら、
レジへ行って、お金を払って、
ほんの少しの満足を得て、
家に帰って、鏡の前で早速着てみて、
うん、なかなかいいじゃない、とか思って、
でも、着ていくうちに、それはたいしたものではないと気づき、
気づいたときには、ほとんど着る機会がなくて、
なんで着ないんだろうと考えたら、
そのちょっとのデザインのせいで、
コーディネイトするのが異常に難しくて、
自分の持っているどのアイテムとあわせても、
なんとなくしっくりこなくて、
で、そのしっくりこない感じが嫌で、
結局、着なくなって、
でも、あんまり着ていないので、傷んでるわけでもなくて、
かといって新品ではないので、ほんのちょっと毛玉があったりして、
捨てるに捨てられず、
もうそろそろ2年は過ぎてしまったような、
そんな洋服」
ではないでしょうか。

実は、これらの服が一番やっかいです。
完全なる消耗品とも言えないお値段、
ほかのものと差別化するためにだけ考えられたデザイン、
バイカラーやプリント、中間色などの微妙な色合い、
不必要な飾りなど、
シンプルじゃなくていいなと思ったその美点こそが、
そういった服の最大の欠点です。

結局、そういった服は着る回数が少ないのです。
大事にもしません。
本当に気に入って買ったわけでもありません。
でも、捨てられません。

解決策はただ1つ。
そういった服は買わないことです。

その3枚のニットと同じ値段で、
高級なカシミアのニットが1枚買えます。
4枚集まれば、アウトレットでプラダのドレスが買える値段です。
そして、どう考えても、そちらのほうがおしゃれなのです。

そういった服を買わないようにするためにアドバイスできることはあります。
まず、お腹がすいた状態で買い物をしないこと。
ショッピングでストレス解消しないこと。
ストレスがたまったなら、ショッピングに行かないこと。
それでも何か見たいのだったら、
自分が絶対買えないような、ハイブランドのお店に行って試着だけしてみること。
自分の気持ちを満たす別の方法(食べること以外)を知っておくこと。
何かお店に入りたいなら、映画館や本屋にしておくこと。

そろそろ、着ないだろう服を買うのをやめましょう。
もうそういう時代は終わったのです。
質より量じゃありません。
量より質です。

量で自分を満たしている限り、あなたの質はすかすかです。
そのすかすかした感じが他人に伝わります。
そんなふうにチープに生きるのはやめましょう。
長持ちするのは、本当のものだけです。

2013年9月30日月曜日

大人のミニスカートについて、ひとつの答え

どうすれば大人がミニスカートを素敵に着こなすことができるのか、
何年か前からずっと考え続けていました。
特に、必ずしもまっすぐな脚の持ち主が多いとは言えない、
日本に住む私たちにとって、脚の形があからさまにわかるミニスカートは、
難しいものです。

しかし、ミニが難しい、何か違うと思う理由は、それだけではありません。
電車に乗ったときや、街を歩いているとき、
どこかに素敵なミニの着こなしの大人の女性はいないか、
いつも探していましたが、なかなか出会えませんでした。
逆に、あれだけは嫌だな、何か違うなという着こなしの方はいらっしゃいました。
その何か嫌な感じとは何なのか、ずっと言語化されずにいました。

その嫌な感じが何なのか、先日やっとわかりました。
それがあるからこそ、ミニは見ているほうに不快感を与える、
独特な雰囲気をもたらすのです。

スカートを短くすることによってあらわになるのは、脚だけではありません。
短くなればなるほど、スカートの中が見えやすくなります。
階段を上るとき、電車に座ったとき、
その中は見えるときさえあります。

誰でもが、小学生のとき、パンツが見えたかどうか、パンツを見たかどうかでもめたと思います。
パンツは見せてもいけないし、見ようとしてもいけないものなのです。
それは小学生のときに、何となく気づいています。
パンツが見えるということは、つまり、性的な雰囲気をにおわすということ。
公の場において、それは避けるべき行為なのです。

パンツを見せない、パンツを見ないというのは、
それぞれがお互いに対して持つ思いやりです。
性的な領域に踏み込まないための、無言のルールです。
おきてを破ったら、それはもめごとの原因になります。
見せていたほうが、見たほうが悪いのです。
性的な意味合いの関係がない2人において、それはしてはいけない行為です。

大人のミニスカートの着こなしが難しいと思えるのは、そのためです。
脚の形の問題はさておき、
見せてはいけないものが見えそうなまま、いい年の大人が街を歩くという、
その行為が、他人の気分を悪くさせます。
ファッションだからいいでしょ、
今、ミニが流行っているんだからいいでしょ、
好きではいてるんだから、年なんか関係ないじゃない、
ではすまされないのです。
その人が見せているのは、ミニスカートではなく、
性的なほのめかしです。

誰かれ構わず、その性的なほのめかしを見せる、そのずうずうしさが、
ミニスカートの着こなしをだめにします。
そこには、恥じらいのかけらもありません。
恥じらいがないということは、本当はエロティックではないのです。
それは、小さいながらも、押しつけがましい暴力です。
ずうずうしさとは、小さな暴力です。

大人がミニスカートを素敵に着こなすためには、
この「性的なほのめかし」を徹底的に排除する必要があります。
単なる、短いという丈の問題としてのスカートなら問題ありません。
他人に見せるべきでないものを、徹底して見せないようにすれば、
ミニスカートをはいたとしても、それはファッションになり、
スタイルとなります。

そのために必要なことは、まず絶対に下着を見せないようにすること、
そして、スカートの裾から、生身の脚を見せないことです。
その方法は何種類かあります。
タイツをはく、ニーハイブーツをはく、スカートの下にパンツをはくなど。
特に、秋冬であれば、それは可能になります。

「性的なほのめかし」のにおいが消えたならば、
それは大人のミニスカートの着こなしとなります。
単なる丈の問題です。
それ以上の意味はなくなります。

結局、それは思いやりなのです。
思いやりができる人こそ、大人でしょう。
私の格好で、誰がどう思おうとかまやしないわ、などいうのは、
無知な子供の言い分なのです。
「目のやり場に困る」行為によって、他人を困らせるのは子供です。
思慮深い大人が、やることではありません。

大人のミニスカートの肝は、思いやりです。
他人に対して思いやりができる着こなしができたらば、
それは素敵な大人のミニスカートの着こなしでしょう。

残念ながら、今の時点で、
振り返って見直すほど素敵なミニスカートを着こなす大人の女性を、
見たことはありませんが、
いつの日か、そんな姿をながめたいものです。
すべての大人の女性が思いやりを持つことができたなら、
その日はきっとやってくるでしょう。
思いやりは、美しさの1つのあらわれです。

2013年9月23日月曜日

スカート完全復活

思えば、2000年以降、スカートにとっては受難の時代だったのです。
シルエットがタイトだった、2000年以降、
スカートは断然不利な立場に置かれました。
広がり、膨らみ、ボリューム、ひだ、ギャザーなど、
タイトとは反対の方向性を持つシルエットは否定され、
残されたのはタイトスカートや、ミニマムなシルエットのミニや台形スカートのみ。
何度か誰かが広がったスカートを提案しても、
なかなか認められず、結局はスキニーに、タイトに、無駄をはぎ落とし、
効率的に、余計なものは省かれました。

それは確かに時代の気分でした。
人々の無意識を支配した、大きな流れです。
誰も逆らえることができず、ただ、その無意識に、気づかぬままに従うのみ。
その無意識の気分と一致したテイストを持つデザイナーがもてはやされ、
一気に街はタイトシルエットで占領されたのです。

広がってはいけないのでした。
長すぎてもいけないのでした。
ギャザーなんてもってのほか。
プリーツも余計とみなされました。

男女間の性差が少なくなり、
女性のワードローブには、ほぼ男性と同じアイテムがそろうようになった現代においても、
スカートをはく男性は、特別な地域や場所を除いては、存在しません。
(まあね、スコットランドにはいるわよ。見たことあるわ)

しかし、ここで行きすぎたタイトの理想は破たんしたのです。
もうこれ以上、その先はなくなりました。
ぎりぎりにタイトなシルエットに、無理やり詰め込んだ、生身の肉体は、
その窮屈さに耐えられなくなりました。
究極まで短くされた、最小限の生地で作られるミニスカートも、
もうこれ以上、小さくすることはできません。

行きすぎたものが戻ってくる法則は、
ファッションにおいても成立します。

2013年、スカートは完全に復活しました。
長いあいだ、忘れ去られていた、あのボリュームが戻ってきました。
フレア、ギャザー、バルーン、プリーツ、
ふわふわと、ひらひらと、風が吹きつけたら、膨らんで飛ばされそうに、
スカート本来の姿が再び現れ始めました。

鳥かごから出てきた鳥のように、
スカートは羽ばたきます。
当分の間、この飛翔は止められません。

そんなわけで、スカートのバリエーションは復活です。
まず2013年の秋冬はフィット・アンド・フレアのシルエットを作るフレア・スカートが戻ってきました。
フレア・スカートがずっとなかったなんて、
今考えたら、ぞっとします。
女性の服飾の長い歴史を見ても、
ボリュームと長さのスカートがなかった時代など、ないのですから。
スカートのボリュームと長さはいつだって、
女性性の象徴なのです。
なぜなら、それは生み出す力だから。

フレア・スカートが戻ってきたら、
続いてプリーツ・スカートも、ギャザー・スカートも、マーメイド・ライン・スカートも、
次々戻ってきます。
長さも、ボリュームも、もう否定されません。

長いこと、スカートのレッスンは忘れさられてしまったので、
ここで再び勉強のし直しです。
全体で作るバランスとシルエットが変わります。
それは、もちろん、女性的でなければならないのです。
攻撃的ではなく、受容的です。
硬さではなく、やわらかさです。
歩き方も変わります。
優雅さを取り戻さなければなりません。
鏡の前で、一からやり直しです。

英語で言うところの「Lady」にふさわしい身のこなしが必要です。
しとやかで、思いやりがあり、礼儀正しい女性です。
それはこれまでの、粗雑で大雑把な、髪を振り乱して夜遅くまで、
食べず、眠らず、蛍光灯の青白い光の下、
肉体の欲求を無視して働いてきた女性とは違います。
そうです。絶対に違います!

眠り姫のように眠りつづけた、あなたの中の「Lady」が、
今、目覚めます。
新しい目覚めには、新しいスカートが必要です。
今まで忘れていたでしょう。
今まで気づいていなかったでしょう。

新しいスカートをはいて、力を取り戻しましょう。
死んでなどいないのです。
再び、新しい希望を見つけましょう。
それはきっと、見つかるはずです。

2013年9月16日月曜日

素材のよしあしについて

本物の名画をじかに見た人にしか、
優れた絵画が理解できないのと同じように、
本物のいい素材をじかに見て触った者にしか、
いい素材というものはわかりません。
それはあくまで五感の世界。
質感もにおいもない、二次元の紙やモニター上のものとは違います。
じかに見る、触ってみる、感じてみることによってのみ、
記憶することができるのが、いい素材です。

製品になってしまったときにはわかりませんが、
生地の原価には大きく幅があります。
安いコットンと、海島綿では、何倍もの開きがありますし、
オーガニックコットンも、安い木綿を基準にしたら、
ずっと高価な素材です。

コットンよりも値段の幅が広いのがウールです。
メーター1000円以下のものから、何万円もするものまで、
ウールの値幅は、ほかのどの素材よりも広いです。
これは何を意味するかというと、
それだけ素材のよしあしに幅があるということで、
いいウールと安いウールでは雲泥の差があります。

その点、値段に差がないのは化繊です。
理由は簡単で、原材料が石油だから。
石油系の繊維は、押し並べて安いです。
(一部、リバーレースなどのレース類は除きます。
また、オリジナル素材はロットが小さいので価格も高いです)

大人になればなるほど、いい素材のものを着たいものですが、
それを見分ける一般的な物差しがないというのが、
服の現状です。
なぜなら、必ずしも生地の原価が最終的なプロパー価格と一致しないのが服だからです。
そして、それをより一層複雑にしているのが、
アパレル業界のしくみです。

メーカーやブランドは、生地屋ではありませんので、
基本的には生地屋から生地を購入します。
それはよく名の知れているものから、そうでないものまで、
千差万別です。
有名ブランドが使う、有名生地メーカーとしては、
シルクのラッティ、マリア・ケント、ツイードのリントン、ファリエロ・サルティ、フェルラなど、
また、カシミアではロロ・ピアーナやカリアッジなどがあります。
これらはどれも高級服地のため、それなりに高価ですし、
いわゆる「いい素材」です。
(必ずしも天然素材100パーセントではありません。混紡の生地も多いです)

少し高級な服地屋へ行けば、これらの反物が置かれているでしょう。
それは明らかに、ほかの安い生地とは違う、
手触りと光沢、なめらかさがあります。

問題なのは、これら高級素材を使ったとしても、
最終的なプロパー価格がメーカーやブランドによって異なってくるということです。
つまり、生地のよさと価格は比例しないのです。
定価が高いからよい生地を使っている、
定価が安いから悪い生地を使っているということは、
アパレルに限っては言えません。

たとえば、生地ではありませんが、カシミア糸も、もとをたどれば同じ商社からきています。
ですから、同じ素材のセーターが、かたや2万円で、かたや5万円で売られていることもあるのです。
それがアパレル業界の分かりにくさです。

いい素材のものに対して、それなりの価格を払うことは妥当なことです。
しかし、その逆は考えものです。
安い素材を高く売っているブランドも、現実にあります。

これを見破るには、自分で実際に触って、見て、感じてみて、
いい素材とはどういうものか、身体で覚えるしかありません。
いくら雑誌を見ても、文章を読んでも、
こればかりは、理解することができないのです。
書いているわたしも、どうぞいい素材を見て、触ってくださいとしか、言えません。

同じ世界、同じ価値感の中にいると、
これがわからなくなります。
よしあしを見分けるためには、
五感を鍛えるため、自分の安心したエリアから出なければならなりません。
それはデパートで、ふだんは行かないエリアの高級ブランドのショップかもしれません。
または、膨大な数の反物が並ぶ生地屋かもしれません。
一歩外へ出て、本当によいものとはどういうものか、
身体で覚える訓練をする必要があります。
そして、それなしでは、いい素材がわかるようになることはあり得ません。

ブランド名や値段にだまされないで、
自分の五感で素材を感じてみる。
そして、そのよしあしを判断する。
それができる能力も、おしゃれであることには必要な力でしょう。

よい骨董を見続けて目利きになるように、
いい素材を見て、触って、素材の目利きになる。
フェイクとジャンクにあふれた世界から、
自分の五感だけを頼りに本物を選びとる。
それを可能にするための第一歩は、
そうなりたいという意思を持つことです。
意思があれば、そうなれます。
どんなに遠くても、行き先がはっきり見えるのなら、
そこには必ずたどり着けます。

2013年9月9日月曜日

多くの人とは違うもの

見慣れぬものというのは、おしゃれに見える1つの条件です。
見ることにおいて、消費尽くされていないものは、
それだけでおしゃれです。
ですから、ファッションでは、見たことのない、常に新しいものを追い求めます。
それはまだ誰の手垢もついていない、まっさらなものだからです。

逆に、見過ぎた、または見あきたものは、おしゃれの鮮度を失います。
自分が着ているものだけではなく、
自分の目に入るすべてものにおいて、見過ぎたものであるならば、
おしゃれには思えなくなるわけです。

この考え方からすると、
たくさんの人が持っているものというものは、おしゃれではありません。
街で多くの人が身につけている、または持っているのならば、
それは急激に消費され、魅力を失います。

ところが、いつのころからでしょうか。
有名人の誰々さんが持っているから、これがおしゃれというような風潮が、
雑誌を中心に起こりました。
いわば、そのアイテムは有名人のお墨付きであるわけです。
おしゃれな有名人が持っている、イコール、そのものはおしゃれである、
ということだと思います。
そのアイテムは、有名人が持っているという情報が付加されて、
新たな意味を持ちます。

確かに、おしゃれな人が持っている、そのアイテムはおしゃれなものかもしれません。
ただ、それを見て、多くの人が身につけ始めたら、鮮度はなくなります。
流布した時点で、終わりです。
見慣れぬものという、おしゃれにとっての大事な条件がクリアできなくなります。

ハイブランドは、そうなることを恐れて、大量生産しません。
また、価格を一定以上、維持することによって、持つことができる人たちを限定します。
そのことにより、見慣れぬものというおしゃれの条件を保持することが可能になるのです。
ハイブランドの服やバッグがおしゃれに見えるのはそのためです。
見ることにおいて、消費尽くされるのを避けています。
そして、それはずっと避けなければならないことだと、彼らは認識しています。

では、すべてのアイテムをハイブランドでそろえられないような、
ごく一般の人が、消費尽くされることなくおしゃれに見せるには、
どうしたらよいでしょうか。
多くの人と同じようにならないために、どんな方法があるでしょうか。

問題は、見る回数が多いということです。
であるならば、見る回数の少ないもの、つまり、多くの人が持っていないようなものを、
全体のコーディネイトに取り入れればよい、ということになります。
そのためには、ハイブランドである必要はありません。
方法は、いろいろ考えられます。

いちばん最初に考えられるのは、自分だけのオーダーメイドです。
好みの形、生地で作ったものが、他人とかぶるということは、ほぼないでしょう。
見慣れないという意味においては、オーダーメイドは最も適しています。

次に考えられるのは、小さい規模で展開しているブランドのものを選ぶこと。
ハイブランドほどではなくても、確かなもの作りをしているブランドで、
しかも大量に日本には入ってきていないもの、または生産されていないものが、
いろいろあります。
そういったブランドは、多くの人に知られてはいないかもしれませんが、
大量生産品にはない、独特の存在感を持っています。
それらを自分のワードローブに入れるというのも、よい方法です。

最後は、既成のものに手を加える方法です。
たとえば、もうすでにあるニットにスパングルをつけてみる、
リボン刺繍をしてみる、縁取りをつけるなど、
手芸的な手法で、よりオリジナル性を出す方法があります。
また、洋裁のテクニックがあるならば、大胆な作り変えもいいでしょう。
袖丈やスカート丈、パンツ丈を変えるなどは、基本的な方法です。

これらは、服だけの問題ではありません。
バッグ、ベルト、帽子、その他の小物、すべてにおいてそうです。
見慣れたものだけのコーディネイトから一歩抜け出すためには、
この、見慣れぬものを投入していく方法が必要です。

1点だけでもいいのです。
見慣れぬもの、他人とは大きく違うものを選ぶことは、
自分らしさの表現になります。
ほかの誰とも同じではない自分にふさわしいワードローブを作るため、
決められた枠からはみ出して、
いつもとは違う選択眼で、選びましょう。

誰かといっしょは安心です。
そこから出るのには勇気がいります。
だけれども、それは最終的に必要なことです。
そのとき、雑誌はもう当てになりません。
当てになるのは、自分の直感と審美眼だけです。
お金を出せば、その審美眼をひょいと借りることは可能ですが、
毎日のことですから、ぜひとも自分でできるようになりましょう。
そして自分で選んだものの責任は、自分でとりましょう。

判断力、美的センス、嘘を見破る能力、計算力、すべてが必要です。
それを磨いてきた人だけが、おしゃれな人になれます。
そして、それは世界を見極める力と、同じ力です。
つまり、人間である以上、持つべき力なのです。


2013年9月2日月曜日

黒い服を着ていれば、それでおしゃれ?

80年代、日本人デザイナーたちが次々と、パリコレクションへデビューしました。
それは「黒い衝撃」と呼ばれ、
コム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトに代表されるように、
立体感のないビッグシルエットで、黒い服だけで構成されたショーは、
ファッション業界に衝撃を与えました。

それまで全身黒の装いというものは、ソワレに代表されるようなドレスか、
または喪服であり、決して日常の風景には見られないものでした。
それは日本でも海外でも同じことで、
毎日を黒一色で過ごすという女性は未亡人か、
何か特殊な職業の人であったでしょう。

しかし、80年代以降、まずはファッションに携わる人たち、
そしておしゃれな人へと、黒一色の装いは広がっていきました。
20代そこそこの若者もこぞって黒い服を着始め、
若さの表現とはほど遠い、独特の雰囲気を醸し出しました。

あれから30年が過ぎ、
黒一色の装いは社会的にも認められ、
小さな子供までもがするような、ごく一般的なものになりました。
しかもそれは、ただ単に黒一色の装いが認められたというだけではなく、
明らかに、黒を着ていればおしゃれに見えるという、
一種の迷信的な、付属的な意味合いも付け足されるようになったのです。
さて、では、黒い服を着ていれば、本当におしゃれに見えるのでしょうか。

確かに、黒一色でコーディネイトしてしまえば、
全体の配色について考える必要がありません。
そのため、色がちぐはぐになっておしゃれに見えないという、
色による失敗はありません。
それはメリットと言えばメリットでしょう。
たんすの中に黒い服しかないのなら、
毎朝、色合わせで悩む必要はありません。

しかし、実は、黒は残酷な色です。
色味がない分、ほかの部分を隠すことなく写し出します。
黒い色ですべて不都合が隠されていると考えるかもしれませんが、
事実はまったくその逆です。

黒は、すべての素材のよしあしを明らかにします。
いい素材か悪い素材かは、その素材が黒であるならば、隠すことができません。
高級なウールと安いウールでは、その黒色は明らかに違います。
革も同様です。安い革の輝きはそれなりのものです。
また同時に、黒はその素材の劣化も隠すことができません。
洗濯での色落ちや毛羽立ちも、黒はより一層浮き上がらせます。

そして、黒は配色によるボリューム感をコントロールできない分、
シルエットがあからさまに出ます。
そのため、古いシルエットの服はより一層古臭く見えるのです。
もし黒い服でおしゃれに見せたいのなら、
常に新しいシルエットを追わなければなりません。
シルエットを表現するのに黒い影がよくつかわれるように、
まさに、黒い服とはシルエットのみで構成されている服なのです。
ファッション業界の人たちが着る黒い服とは、
常に最新の黒い服です。
新しいシルエットが強調されるから、それはおしゃれに見えます。

そして何より、
黒は、着ている人自身を隠すことができません。
隠れることができないのは、白日の下にさらされたときだけではありません。
黒い服を着たときも、
姿勢、筋肉、肌の状態、歩き方など、ほかの色のどの色より、黒は一層目立ちます。
そして、姿勢やその歩き方、筋肉の着き方などからその人の考えていること、感情の浮き沈み、
肌の状態から、どんな健康状態なのかまで、
無言のまま、他人に伝えてしまいます。
黒とは、決して隠す色ではないのです。
着ている人の想像以上に、着ている人そのものを相手に伝えてしまう色なのです。

そんな黒を最もおしゃれに着こなしたいなら、
新しいシルエットのものを着る、
洋服のメンテナンスは怠らない、
そして何より自分を律することが大事になります。
そうすれば、それは完璧なおしゃれになります。

そんなの無理、できないという声がいろいろな方向から聞こえてきそうです。
別にふつうの人は、完璧なおしゃれなど、する必要はありません。
完璧ではなく、隙を作ればいいのです。
隙は、立派な魅力です。

隙を作るためには、黒一色はわざと避けて、
黒と何か違う色との2色コーディネイトにする、
または、黒からグレーのグラデーションにするなどです。
2色の場合は、それが金や銀のアクセサリーでも構いません。
全身黒の完璧なコーディネイトを崩すことによって、生まれるその隙を、
今度は新しい魅力として取り入れればいいわけです。
そうすれば、必要以上に、その人自身が目立ったり、
黒いニットの小さな毛玉に注目がいくこともありません。
他人の目は、その崩れた隙のほうに向かいます。

黒は、別に悪い色ではありません。
同様に、いい色でもありません。
そこにいい悪いを見るならば、それはその人の心理が反映されているだけのことです。
黒が写し出すのは、ただ事実のみ。
それがいいか悪いかを判断するのは、人の心だけです。
黒はコントロール不能の色です。
他人がどう思うか、もはや制御することはできません。
そして、自分をどう見せるのかも、手放さざるを得ません。
自分の中のコントロールできない部分、
それを他人に見せる色が、黒という色なのかもしれません。
いかにも黒は、残酷な色なのです。


2013年8月26日月曜日

試着でのチェックポイント

※YouTubeに試着のチェックポイントの動画をあげました。ぜひごらんください!

オーダーメイドで服を作るという習慣が遠い昔のものになって以降、
わたしたちは、否応なく、プレタポルテ、つまりフランス語ではprêt-à-porter、
そして英語ではready to wearという、すぐに着られるという意味の既製服を着ることになりました。
そのことにより、服を自分のサイズに合わせるのではなく、
自分のほうから服に近づいていかなければならなくなりました。

既製服を選ぶ場合、まずサイズというものを確認します。
日本だったら、7号、9号、11号というような奇数番号のサイズ、
そのほかヨーロッパの36、38、40、
またアメリカの4、6、8などというものなど、
現在、日本で売られている服のサイズはさまざまです。

日本の場合、サイズには基準があって、
たとえば標準の9号では、バストが83、ウエストが64、ヒップが91などと、
決められています。
しかしそのサイズのまま既製服は作られるのかというと、
そういうわけではなく、メーカーはこれらに肉付けをし、
この基準を下回らないように、バスト寸法にゆるみ分を入れて、
服を作ります。
そのことによって、同じ9号でもメーカーやブランドによってばらつきがあり、
必ずしも同じ寸法で作られているわけではありません。
サイズはあくまで目安でしかありませんし、
あくまで標準と考えられる体型なのであって、
誰もが標準のプロポーションではないので、
つまるところ、試着が必要になります。

昔は、見立てのプロとも言える販売員さんたちが数多くいて、
サイズの合わないものを無理に買わせようとはしませんでした。
しかし、最近の傾向は、そもそも服というものに対する知識が乏しく、
とにかく売ればいいという姿勢があからさまの販売員の方々も多く、
そういった方たちに言われるがままに服を買ってしまうと、
とんだ失敗をすることになりかねません。
そうならないためにも、試着をした際に、一体どこをチェックすべきなのか、
それぞれが覚えておいたほうがいいでしょう。

まず、誰もがチェックするのは袖丈、裾丈などの丈でしょう。
袖が長い、裾が長いなどは、
洋服の知識がなくても、誰でも判断できます。
しかし、それでもたとえばパンツ丈を決める場合は、
それにあわせる靴のヒールを考慮しなくてはなりません。
ヒールがフラットなのか、8センチなのかによって、
美しく見えるパンツ丈は変わってきます。
ですから、試着をする際には、そのパンツにあわせる靴をはいていくか、
または同じ高さのヒールの靴をはくべきで、
決して、試着室に備え付けてある、簡単なミュールですませるべきではありません。
ここまでは、洋服の知識がなくても、少し考えればわかることです。

ここからは、洋服を作る側からは当たり前でありながら、
一般の人たちにはあまり知られていないチェックすべきポイントです。

トップスのサイズは、すべてバストサイズで決められています。
ですから、体躯がいくら細い人であっても、
バストが大きいならば、サイズは大きくなっていきます。
よって、まずチェックするのはバスト回りです。
バストから、横に向かってしわが走っているのなら、
それはサイズが合っていないという証拠です。
洋服は、わざと横に入れたタックやギャザーのデザインでない限り、
横じわはすべて、サイズが合っていないという意味です。
たとえば、ブラウスのバスト近くのボタン位置から、水平にしわが走っていたら、
それは選んではいけないブラウスです。
同様に、斜めじわもサイズが合っていないという証拠です。
ニットなどでも、バスト寸法が足りないと、
脇の下からバストにかけて、斜めにしわが寄ります。
それはバスト寸法が足りないという意味です。
袖丈やパンツ丈、スカートの裾丈などは、お直しが可能ですが、
バスト寸法を大きくすることは不可能です。
ですから、これらは選ぶべきではありません。

また、ボトムのスカートやパンツでも、
腰回りに横じわが出てきたら、
それはヒップの寸法が足りないということ。
特にタイトスカートで横にしわが走り、
知らない間に上へずれ上がっているものは、
完全にヒップが足りていません。
ですから、これらもサイズが合っていないということになります。

ジャケットやコートになってくると、
袖や丈の長さだけではなく、肩の傾斜をチェックする必要が出てきます。
肩傾斜は、メーカーやブランドによってまちまちで、
傾斜がきついものだと、首元が浮きますが、
逆に傾斜が緩すぎるものだと、肩先があまり、
そのあまり分がだぶつきます。
ジャケットやコートの肩傾斜もお直しの対象にはなりませんので、
肩の傾斜があわないジャケットやコートを選んではいけません。

そしてすべての服でチェックしなければならないのは脇線です。
脇線は垂直に下へ落ちなければなりません。
ブラウスでもスカートでもジャケットでもコートでも、すべてそうです。
もし前へずれていたら、前側が足りないということですし、
後ろへずれていたら、後ろが足りないということです。
ストンとしたドレスなど、横向きをチェックして、脇がまっすぐ下におりているかどうか確認してください。
脇が曲がってしまうと、必ず前、または後ろの裾が上がってしまいます。
つまり、どちらかの寸法が足りないということです。
この前、雑誌のモデルが着ているドレスの前側の裾が5センチほど足りない状態のままのページを見つけて、大変驚きましたが、これは明らかにバスト寸法が足りていないということです。
だから、そのまま着てはいけないし、選んではいけないものです。

また、ドレス、ジャケット、コートなど、どれについても、
パターンが悪いものは、後ろへ抜けていったり、
肩が異常にこったりするということが言えます。
これをチェックするためには、着てみて、2、3回、軽くジャンプするような動作をしてください。
試着室の中では可能だと思いますので、ひざをゆるく曲げたりのばしたりするのです。
そのとき、肩線が前や後ろにずれる服はパターンが悪いです。
着ていると、着物のように後ろへ抜けるか、
着心地が悪くて、途中で脱ぎたくなるような服です。
買ったら、必ず後悔します。

これらすべてチェックしたら、最後はドレープです。
トップスでもボトムでも、流れるような下に落ちるドレープはすべてよいものです。
タックをとった後にできるドレープや、
フレアスカートのような布を多く使うことによるドレープなど、
自然に下に落ちていれば問題ありません。
横に流れるようにできているようなデザインは別ですが、
そうでないもので、不自然にドレープが流れるようでしたら、
それはどこかが合っていない証拠です。
残念ながら、最適なサイズの服ではありません。

以上がひととおりの試着の際のチェックポイントです。
試着でチェックするのは、丈だけでは決してないのです。
特に小さ過ぎるサイズは大きくすることはできないので、
選んではいけません。

ここ10年ぐらい、タイトなシルエットをストレッチ素材で見せてきました。
そのため、ダーツ、タック、ドレープなど、
服としてのテクニックは、あまり使われない傾向にありました。
ストレッチ素材を入れてしまえば、横じわがごまかせます。
しかし、これからは、ストレッチでごまかせない、
ダーツ、タック、ドレープを使った服が多く出てくるでしょう。
また、シルエットも大きくなってくるので、
どのようにドレープが出るのかも、服がきれいに見えるかどうかのポイントになります。

まずは自分の体型の特徴を知る。
それはほとんどの場合、標準ではありません。
実際には、標準の体型の人など、いません。
みな骨格、肉付き、脚や腕の長さが違うのです。
違っているのが当たり前です。
それをあたかも、ほとんどの人が同じであるかのように、
作られた基準のものを着るということが既製服ということです。
ですから、ぴったりの既製服など、ありません。

ぴったりなものなどないのですから、
どこかで妥協は必要です。
だけれども、すべて妥協することはないのです。
絶対にはずせないポイントが誰にとってもあるはずです。
それは自分の長所がよく見えるようになるポイントなのか、
それとも短所が目立たなくなるようなポイントなのか、
それは人それぞれでしょう。
けれども、決して妥協してはいけない一線は、守らなければいけません。
そうしないと、あなたは服に負けます。

服のほうが強いと言ってきます。
あなたは負けなければいけない、
合わせるべきだと、強要されます。
だけれども、それに屈することはありません。
そこで負けたら、美しくありません。

おしゃれであるということは、服との戦いに負けないということです。
負けを強要するような服は、選ばないということなのです。

2013年8月19日月曜日

コーディネイトの新しいバランス

2012年以降、ファッションのトレンドは、完全に新しい流れへと入りました。
トレンドが変わるということは、服のシルエットが変わるということです。
当然のことながら、服のシルエットが変われば、
コーディネイト全体のバランスも変わってきます。
この時期、新しいバランスを作ることが、おしゃれに見えることの条件になってきます。

トレンドが変わる時期は、もちろん過去にもありました。
最近では、90年代後半から2000年に入るころ、
それまでのだぶだぶしたシルエットから、
急激にタイトなシルエットになっていった時期です。
おしゃれに敏感な人たちは、流行をいち早くかぎ分け、
ぶかぶかなパンツを捨て、スキニー・ジーンズをはき、
ストレッチの入ったぴったりしたTシャツをトップに持ってきました。
それは今まで見たことがないシルエットで、
大きな服にそろそろうんざりしていた人たちには、
衝撃的なほど、新鮮にうつったのでした。
それと同じ現象が、今、起きています。

今回は、ぴったりタイトが長く続いたせいで、
その反動で、全体のバランスが大きくなります。

服の新しさというのは、ものとしての新しさの問題だけではないのです。
体と布の間にできる空気の分量がどれだけ新しいものなのか、
そちらのほうがより重要です。
そして、明らかに全体のシルエットが変化してしまった今、
古いトレンドを引きずった、ものとして新しい服を買っても、
それは、新しいとは言えません。
問題なのは、その服で、どれだけ新しいバランスのコーディネイトできるか、
ということなのです。

これからは、2000年にはおしゃれに見えたコーディネイトのバランスは、
もうすでにおしゃれには見えません。
あのときはどんなにそれが格好良かったとしても、
今はもうそうではありません。
それがファッションであり、流行です。

コーディネイト・ブックのコーディネイトは、
発売されたときにもっともおしゃれなのであって、
それが永遠に続くわけではありません。
コーディネイトにおいても、シルエットとバランスは、ゆるやかに変化していくからです。

さて、これから約10年は続くであろう新しいバランスは、
体にぴったりフィットしたものでないことは明らかです。
ビッグであることは確かなのですが、
かといって、80年代のビッグ・シルエットとも違います。
80年代のビッグ・シルエットは、マスキュリンの要素が強いものでしたが、
次の10年、強調されるのはフェミニティです。
ですから、必ずしも、ビッグ・シルエットのコートやジャケットに、
マニッシュな靴をあわせるわけではありません。
細いピンヒールは、まだ健在です。


また、50年代から60年代、ディオールに代表される時代のシルエットにも、近いものがあります。
けれども、やはりそれとまったく同じというわけではありません。
あの時代の清楚で、きっちりしたイメージと、
これからのもっとおおらかで、混沌としたイメージでは、
生まれてくるデザインも違うでしょうし、全体のバランスもほんの少しですが、
違ってきます。

これはまだ私もはっきりつかめているわけではありませんが、
たぶん、何か逸脱した要素があると思います。
そして、それは「役に立つ」からは、ほど遠くなります。
ドレープやフレアなど、無駄な要素が多くなります。
トレーナーにフレアスカート、ハイヒールのそのバランスは、
どう考えても、走るのには適しません。
機能と効率、経済性とは逆の方向です。
そしてそれらは、わたしたちが長いこと、価値を認めてこなかったものです。

ここで豊かさは復活します。
そうでなければ、それは嘘です。
機能的でもない、効率も悪い、経済の発展に寄与しない、
その豊かさが、再び見出されるときです。
それを私たちは、無意識にキャッチして、
バランスで表現します。

行き場のない世界で、
絶望の果てに見つけたのは、
長いこと忘れ去られ、見捨てられた、
本当の豊かさです。

本当におしゃれな人とは、それをいち早くキャッチする人たちです。
眠っている人たちを目覚めさせるため、
先駆者は、新しい価値を提示します。
新しいバランスが定着するには、これから何年かかかるでしょう。
しかし、必ずそれは定着するのです。

これから始まる新しい時代のために、
新しいバランスを見つけてください。
自分の心に引っかかる、新しいバランスのコーディネイトを見つけたら、
早速、試してみてください。
その一歩こそが、新しい時代を作ります。


2013年8月5日月曜日

パーカー

パーカーは、もっとも多くの人に浸透したスポーツ・ウエアであると同時に、
スポーツ・ウエアの枠をこえて、もっとも進化したアイテムであると言えます。
それはポロシャツの比ではありません。
老若男女、幅広く、誰でも、どんなシチュエーションでも着られる、すぐれたアイテムでしょう。

モードの世界においても、パーカーはたびたび登場するアイテムですし、
最近は、デザイン、素材ともかなり進化したものが出てきました。
ここまできたなら、これまでそのカジュアルさゆえにパーカーを敬遠していた方たちも、
難なくワードローブに取り入れることができるだろうと思います。

もうすでに何度も書いていますが、
カジュアルなアイテムを大人が取り入れるには、いくつかの方法があります。

たとえば、スポーツ・ウエアのブランドが作る、
従来からある、ごくふつうのデザインのパーカーは、
まさにスポーツをする際に適したものです。
デザインや素材はスポーツ用に考えられています。
こういったものは、まさにスポーツや、それに近いことをする際に着用するか、
または、日常においても、ごくカジュアルな場面での着用がふさわしいでしょう。
ご近所への買い物といった際には、なんら問題ないと思います。

一方、普段着ではなく、少しおしゃれをしたい場合には、
デザインにこるか、素材を上等なものにするか、していけばよいでしょう。

パーカーのデザインも、最近はかなりバラエティが出てきました。
ポンチョ風の袖口が広くなったタイプや、
ファスナーではなくボタン使いのもの、
あきがライダーズ風のもの、
裾をドローストリングスにしたものなど、
オーソドックスなパーカーにひとひねり加えたものが数多くあります。
プラダ・スポーツなどの、ハイブランドのスポーツよりのウエアの中にも、
デザイン性に優れたものがあります。
こういったものは、スポーツのためというよりも、
完全におしゃれのためのものですので、
カジュアルすぎるのを嫌う場合には、
このように何かしらデザインされているパーカーを選ぶとよいと思います。

もう一つは、上質な素材を使ったパーカーです。
代表的なものは、カシミアニットのパーカーでしょう。
パーカーをニット地で作ること自体、おしゃれなわけですが、
それをカシミアにすることによって、大人にふさわしいアイテムにパーカーが変身します。
そのほかにも、素材メーカーとして有名なファリエロ・サルティの生地を使ったものなども、
おしゃれ度は高いです。
これら、高級素材を使用したパーカーは、
形がごくオーソドックスなものであったとしても、
その素材感により、もはや単なるスポーツ・ウエアではなくなります。
そして、そういったものこそが、大人が着るにふさわしいパーカーなのです。

これらをコーディネイトする際に注意すべきなのは、
全体のフェミニンとマスキュリンのバランスです。
パーカーは、決して女性的なアイテムではありません。
それをそのままジーンズにあわせるのでしたら、
インナーはフェミニンな要素の強いものにする必要がありますが、
ワンピースの上に羽織る場合は、甘さの中に適度な辛さがプラスされ、
全体のバランスがちょうどよくなります。

パーカーという、一見、なんの変哲もない、ごくごく平凡なデザインのものを、
おしゃれに着こなすことができたら、それこそが、本当におしゃれであるということです。
全体のボリュームのバランス、
色の組み合わせ、
素材、
デザイン、
アクセサリーや小物との兼ね合いなど、
平凡なアイテムであればあるほど、きっちり詰めて構成していけば、
そのほうが、ごちゃごちゃしたデザイン性のあるものをたくさん着こむよりも、
すっきりおしゃれに見えます。

買う前に、まず色を決めて、素材と形を吟味しましょう。
簡単なものであればあるほど、簡単には買わないこと。
シンプルなデザインであればあるほど、こだわりを持って選ぶこと。
その繰り返しが、おしゃれ上級者への道です。

自分の感覚にぴたっとはまった、
シンプルなデザインのアイテムがワードローブにそろえばそろうほど、
無駄な買い物をする必要がなくなります。
遊ぶのはそのあとで十分、間に合います。

まずは自分の感覚を信じること。
おかしいと思ったら、疑ってみること。
人の意見に惑わされて、失敗する、その前に、
再び自分の中心、すなわちハートへ戻ってみてください。
ハートがどきどきするのなら、
それがときめきのどきどきなのか、
不安のどきどきなのか、よく見定めて、
最後は自分自身で決めましょう。

その感覚は、たぶん、合っています。
もうそろそろ、見えないものを察知する能力も養われたはず。
そうすれば、一目見た瞬間に、膨大な情報がダウンロードされます。
そして、それはいつだって、正しいものなのです。
初めに違和感を感じたならば、一切、拒否しましょう。
パーカー1枚から、それができるようになったなら、
あなたはもう近づいています。
すべてを見通せる目を持つ自分に。


2013年7月29日月曜日

ウエスト位置

ウエストの位置とふつうに聞いたらば、
胴体の一番細いところだと多くの人が思われるでしょう。
しかし、洋服においては、ウエスト位置は必ずしも胴体の一番細いところに設定されているわけではありません。
ハイウエスト、
ジャストウエスト、
ローウエストなど、
大きく分けて3か所に分類されます。
ジャストウエストだけが胴体のちょうど細いところにくるウエストで、
ハイウエストはそれより上に、ローウエストはそれより下になるわけです。

なぜウエスト位置をそのように上下させるのかというと、
全体のシルエットのためと、見せ方を変えるためです。

ここのところ、ジーンズをはじめとするパンツは、ずっとローウエストでした。
なぜならジーンズとパンツのシルエットがタイトだったからです。
なぜタイトだとウエストがローになるのか、
ほとんどの人がわからないと思いますが、
それにはちゃんと理由があります。

ニットではない布帛でパンツを作る場合、
ウエストとヒップの差を何らかの形で解消しなければなりません。
通常は、脇線とダーツまたはタックで、その差を分散させて、カーブを描きます。
しかし、タイトであればタイトであるほど、
ダーツの幅が大きくなり、うまくカーブが描けなくなるのです。
ハイウエストでタイトなパンツというもののほとんどは、
ニット、またはストレッチ素材のもの以外、ないと思います。
ふつうの伸縮性のない布で、あれだけのカーブを出そうとすると、
無理が生じて、きれいなラインが出せません。
そのため、布帛のタイトなパンツは、ウエストを下げることによって、
ウエストとヒップの差を小さくする以外、方法はないのです。
そうすれば、ダーツの必要がなくなります。

しかし、パンツのシルエットがタイトでなくなれば、
ウエスト位置を上にずらすことは可能です。
だんだんと、行きすぎたタイトから戻りつつある今、
パンツのウエスト位置もジャストウエストに戻ってきています。

一方、ハイウエストは何のためにウエストを上部に移動させているのでしょうか。

ここ数年、ガーリーという、少女志向の服が流行していましたが、
ガーリー・テイストの服、特にワンピースは、かなりウエストを通常の位置より上に設定しています。
それは何のためかというと、幼い印象を作るためです。

小さい子供のワンピースを思い浮かべてみてください。
たとえば、「アルプスの少女ハイジ」のハイジのような。
あのワンピースは、かなりウエストが上にありましたね。
子供というのは、ウエストのくびれがないので、スカートが下がっていきます。
ですから、ウエスト位置はかなり上に設定されているのです。
そしてそれが翻って、幼く見える要素になっています。
ガーリー・テイストの意図的なハイウエストは、印象を幼く見せるためのものでした。

しかしここへきて、ガーリー・テイストの流行も終わりつつあります。
上にあがっていたウエスト位置も、だんだんと通常の位置に戻るでしょう。
大人の女性の表現のためには、それが必要です。
たしかに若干のハイウエストは脚が長く見える効果があります。
しかし、行きすぎたハイウエストは、徐々にもとの位置に近づいていくでしょう。

シルエットが変化する今の時期、
ウエスト位置が変わってきています。
ワンピースやコートのかなり上に設定されていたウエストは下に、
そしてタイトだったジーンズやパンツのウエストは上に、です。
そして予想されるのは、ハイウエスト気味のタックパンツや、
ローウエストの1920年代風のワンピースの登場です。

ウエスト位置ひとつをとってみても、流行があらわれています。
これから服を購入する場合、その点もチェックしてみてください。
特に秋冬もののコートはチェックが必要です。
あまりにもジャストウエストから離れたウエストは、
なんとなく時代からずれた感じがすると思います。

流行は適度に取り入れるのが安全です。
そうしないと、それが過ぎ去ったとたん、すべて否定されてしまいます。
今まで白と言っていたものが、黒になります。
そしてそれは単なる気分の問題です。

長く着られるもの、着たいものを選ぶときには、
流行から適度に離れる必要があります。
流行は、あなたを裏切ります。
それがいちばん素敵だと思わせて、
ほんのちょっと後にはしっぺ返しされます。

裏切らない服が必要です。
流行はあなたの上ではなく、下にあるのです。
まちがっても、主導権を握られてはなりません。
ただの情報は、本当のことを教えてはくれません。
それを見抜く目を養いましょう。
いつだって、どこだって、それがなにより重要です。



2013年7月23日火曜日

マキシ丈ドレス

マキシ丈、つまり、す裾がくるぶしまであるドレスが復活してきました。
2013年現在、まだまだデザインという部分では洗練されていませんが、
これから徐々に進化していくでしょう。

言うまでもなく、マキシ丈のドレスは、フェミニティの象徴です。
2012年から始まった、女性性復活の動きは、
だんだんと人々の心の奥底に浸透し、
無意識にそういったものを選択します。
(もちろん、それに抵抗する方たちもいらっしゃいますが)

マキシ丈のドレスが想起させるものは、
当然ながら、女神です。
古代から、女神は長く揺れる裾と、布をたっぷり使ったドレープを多用した、
薄地のドレスをまとってきました。
そのやわらかさは、女性の肉体を決して縛ることなく、
自由に解放させます。
そして、無防備なまでの繊細さが、実は強さのあらわれとして表現されています。
誰も女神を攻撃することはできないのです。

最近、多く登場してきたマキシ丈ドレスは、
まだ女神の領域まではいたっていません。
多くは、Tシャツをそのままただ長くしたような、
単純な形です。
素材も、コットンやレーヨンの天竺が多いです。
ただし、これまでの流行とは違って、
タイトではありません。
体につかず離れずのラインで、体の線をゆるくなぞります。

さて、このマキシ丈ドレス、どのように着こなすのが今の気分なのでしょうか。
ここでも何度か書いていますが、
通常、ファッションは、「100パーセント同じ」というのを嫌がります。
よく雑誌などで使われる「甘辛ミックス」というものは、
フェミニンとマスキュリンをほどよく混ぜたコーディネイトのことです。
もちろん、その手法も有効です。
古くからあるのは、ドレスにマスキュリン、または性別と関係のないアイテムを加える方法。
ドレスにライダーズ・ジャケットやGジャンなどは、そのいい例です。

しかし、本気で今の気分を表現するなら、
フェミニン100パーセントが適しているのではないかと思います。
なぜなら、時代が変わったからです。

いつもだったら、ドレスにパーカを羽織るところを、
あえてフェミニンなレースのカーディガンにしてみる。
または、薄いオーガンジーのブラウスを羽織るなど、
徹底的にマスキュリン要素を排除します。

それは確かに甘いです。
しかし、明らかに「ガーリー」とは違います。
「ガーリー」は、幼く、弱く見せる女性性でした。
しかし、女神は、同じ甘さでも、弱くも幼くもないのです。
それは威厳があり、尊敬される存在で、そのやわらかさゆえに、強いのです。

男性性を身につけることによる強さの表現という時代もありました。
思えば、近代、現代の服の歴史というものは、
女性がどのように男性の服を身につけるかというものであったと思います。
それは何のためでしょう?


1つは男性と同等の権利の獲得のためです。男性と同じようになるためです。

男女同権は女性に幸せをもたらします。しかし、それはいまだ達成されていません。
では、男性と同じようになることはどうでしょうか?

「男性のように」なっても、女性は幸せになれないでしょう。
なぜなら、自分以外のものになったとしても、決して幸せにはなれないからです。
しかも、それが決してなりえない誰かであったら、なおさらです。

今このとき、行きすぎたものの揺り戻しが起こります。
それは人々、特に女性の深層心理を突き動かします。
なぜかわからないけれども、ドレスが着たくなる。
それは似あうからとか、売っていたからとかのレベルの話ではありません。

女性が長いドレスをまとっていた歴史は長く、
それに比べてミニスカートやショートパンツなどは、
歴史の中ではまばたきするほどの時間でしかありません。
死んだ女神を黄泉の国から連れ戻すために、
わたしたちは、知らぬうちに長い丈のドレスを選ぶのです。

まだこの流れは始まったばかりです。
全体像は見えません。
しかし、確実に動き始めています。
見えないからないのではなく、
小さいから無力なのではなく、
少しずつ、けれども確実に、
このやわらかな力は浸透します。
冷たく固まった、コンクリートの塊を壊すことができるのは、
このかよわき小さな力です。
マキシ丈のドレスを選ぶ女性がふえたということは、
そのことの証明です。

2013年7月16日火曜日

真夏の重装備

真夏の重装備といっても、日焼け対策ではありません。
この暑い季節、なにを足していけばおしゃれになっていくのかの話です。

暑くなるにつれ、着るもの自体はどんどん枚数が減っていきます。
それは日本ほど暑くないと思われる西洋でも同じです。
気温が高いので、冬のように、どんどん上に重ねていくには限度があります。

減らしていくことにより、服装はシンプルになっていきます。
トップス1枚とボトム1枚、またはワンピースといった具合に。
では、そこで終わりにするのが洋服なのかというと、
どうやらそうではなさそうです。

海外のファッション雑誌のサイトや、ストリートスナップのブログを見ていると、
日本に住む人々のごく一般的な真夏の装いとは何か違うと思えます。
彼らの真夏の装いをよく観察すると、
少なくなった服のかわりに、アクセサリー類がどんどん上乗せされているのがわかります。
上からいくと、
帽子、サングラス、イヤリング、ネックレス、ブレス(バングル)、腕時計、指輪などが、
フル装備されているのです。

真夏は真冬と違って、コートで重装備することができません。
しかし、それでは薄い布地だけを身につけることになり、
何か心もとなくなります。
それを補うかのごとく、身につけていくのが、これらのアクセサリーのようです。
そして、それをすることによって初めて、真夏の装いは完成します。
それは、薄い生地の服だけを身に付け、肌の露出がふえて頼りなくなった、
からだと気持ちを強化し、保護するのに役立ちます。

たぶん、この点についての、つまり何をもって装いというものが完成するかという点について、
日本には正確な情報が入ってきていないのでしょう。
日本でこれら全部を身につけていたら、過剰な感じに見えるかもしれません。
それはたぶん、まだまだアクセサリー使いという点において、
洗練されていないということで、これらすべてを身につけても、
過剰さを感じさせることなく、シックに見せるテクニックはあるはずです。

また、だんだんと大人になるにつれ、
重要視されるのも、このアクセサリー使いです。
夏の衣服は、実際のところ、よしあしが見分けにくいものが多いです。
2万円のTシャツと2千円のTシャツの差は、素人ではわからないでしょう。
実際、値段と生地のクオリティは一致しないので、
ある程度以上の高額なTシャツについては、見分けるすべはありません。
そうなったとき、上質な感じを演出することができるのはアクセサリーのみとなり、
その重要性が増すのです。
フェイクやメッキではない、本物のゴールドやプラチナ、
手の込んだ細工のジュエリーなどは、大人だからこそ手に入れることができるものですし、
大人でないと似合わないものです。
そして、それらを重ねていくことによって、子供とは違うTシャツやワンピースの装いが完成します。
それなしで、違いを生み出すのは、逆にかなり難しい技術となります。

日本では、まだこのアクセサリーを重ねていく技術が洗練されていません。
雑誌にある、撮影のための、その場限りのスタイリングも、
実際の装いのためには参考になりません。
また、本物のアクセサリーやジュエリーを集めるのも、一朝一夕ではいきません。
ましてや、それが自分のために作られたものと思えるものを集めるには、
何年もかかります。

簡単ではありません。
しかし、チャレンジする価値はあります。
真夏の平均気温がどんどん高くなる日本では、
ある一定以上の気温になると、一気におしゃれから遠ざかる装いに傾きます。
それはもちろん仕方のないことです。
おしゃれより暑さ対策が重要な時期は、もちろんあります。
それでもなお、たとえば高級なレストランを予約して食事に行くときや、
コンサートや観劇、リゾート地のホテルへ宿泊するときなど、
ワンピースにサンダル、バッグだけで装いを完成させないで、
今まで身につけていなかった、何かを付け足してみてください。
ひとつ付け足したら、またもう一つというふうに、
どんどん付け足していきます。
そして、試行錯誤する中で、自分なりのぴったりのバランスを見つけていきます。
自分らしく、しっくり感じることができるかどうかをチェックするのです。

それらは明らかに不必要なものです。
機能的でもありません。
役にも立ちません。
ときには邪魔にさえなります。
それでもきっと、
それらはあなたの体を守り、心を支えるのです。
こころもとない、ひらひらした薄いシフォンのドレスのすそを、
海風がひるがえしたとしても、
腕に光る、そのシルバーのバングルが、
それでも大丈夫だと思わせてくれるのです。
知らない誰かから、心ない言葉を投げかけられたり、嘲笑されたとしても、
胸に光る、そのターコイズのペンダントが、
それらの言葉を跳ね返すのです。
だから、それらは真夏の重装備なのです。

重装備なしでどこかへ出かけて、疲れて家に帰ってくるよりも、
いつも大丈夫だと思える装備を備えて、お出かけしましょう。
そのほうが、きっと夏の思い出も楽しいものとなるに違いありません。






2013年7月8日月曜日

仕立てのいい服

仕立てのよさというものは、素材のよさと並び、
価値のある、品質のよい服の条件の1つです。
大人であるならば、
この、仕立てのよさというものを買うときの目安に加えてほしいと思います。

では、仕立てのよさとは、なにをもってそう言うのでしょうか。
簡単に言ってしまえば、手がかかっていればいるほど、
仕立てのよい服と言えます。
より多い工程、細かな手仕事などが、それに当たります。

まず、わかりやすいのが、裏の始末の方法です。
たとえば、シャツの場合、
仕立てのいいものは、縫いしろの始末が、すべて折り伏せ縫いという、
布の端をすべて中へくるむ仕様で作られています。
それに反して、手をかけていないシャツの裏側は、
ロックミシンで端をかがっただけです。
折り伏せにするという、手間のかかる工程を省くことによって、
縫製の工賃は安くなります。
もちろん、その仕立てのよさは値段に反映されますので、
折り伏せですべて縫いしろが始末されているようなシャツは、
価格が高くなります。

次はジャケットやコートの裏です。
ジャケットやコートの場合、総裏といって、
裏にすべて裏地がはられている場合は、
仕立てのよしあしの差はありません。
あるとしたら、その裏地部分に内ポケットが作られているかどうか、
またはたとえばコートの袖部分のみ、違う裏地が使われているかなどです。
確かにそれらは、丁寧な仕立てです。

差が出やすいのは、裏なしや半裏、また背抜きと呼ばれる、背中のみに裏がついたジャケットやコートの場合です。
こういった、裏地がはられていないジャケットやコートの裏側で、
もっとも丁寧な仕立ては、縫いしろをパイピングでくるむ、
パイピング仕立てと呼ばれるものです。
すべての縫いしろを、サテンのバイアステープなどで、丁寧にくるまれているものは、
仕立てのいいジャケット、コートと言えます。
逆に、安い仕立てのものは、縫いしろにロックミシンをかけたのみか、
または、そのロックミシンを内側に折り込んでいるのみの仕立てです。
パイピング仕立てと、これらロックミシンによる始末では、
工程の数がまったく違うため、工賃に大きな差が出ます。
もちろん、手間のかかるパイピング仕立てのほうが工賃は高いです。

そのほか、仕立てのいい服の特徴として、手縫いによるステッチがあります。
たとえば、コートの襟の8ミリほど内側を、ぐるりと星止めと呼ばれる、
小さなステッチを入れる仕様などは、
手仕事でしかできませんので、工賃の高い仕様です。
同様に、手縫いによるステッチも、1つ工程が多い仕様ですので、
丁寧な仕立てです。

シャツを人前で脱ぐ機会は、ほとんどないと思いますが、
(え、ある?)
ジャケットやコートなどは、誰かの前で脱いだり、
またレストランへ訪れた際など、人の手に預けたりする機会があります。
そのときに、この仕立てのよさが、裏側を見た人たちに伝わります。
レストランやホテルでは、それを見て、私たちを値踏みします。
もちろん、それだけではなく、
自分自身にとっても、丁寧な仕立てのジャケットやコートを着るという行為は、
とても気分のよいものだと思います。

ある程度、大人になったならば、
もちろんそれがいつなのかというのは各人にお任せしますが、
こういった仕立てのいい服というものを、
ぜひともワードローブに加えていただきたいと思います。
そして、まだどういうものが仕立てのいい服かわからない方は、
ぜひとも勇気を出して、ハイブランドの店舗で、
コートの1着でも試着してみてください。
(もちろんアウトレットでOKです)
それなりの値段のものは、それなりの手がかけられているものです。

自分が毎日着るシャツやジャケットやコートが、
どんなふうに作られるのか、少し想像してみてください。
それは確かに工業製品でしょうが、
人間の手でないと、できないのです。
現代の技術をもってしても、すべての工程を機械で作られた服は、
ほとんどありません。
丁寧な仕立てのジャケットやコートなどは特に、
人の丁寧な、時間のかかる、地道な仕事がないとできないのです。

もしそんな服を手に入れたら、
1年で捨ててしまおうなどとは思わないはず。
たいせつに扱って、長く付き合おうと思うでしょう。

仕立てのいい服とは、長い付き合いの友達のようなもの。
一緒にいると安心で、勇気が出てくる。
決して裏切ることはなく、いつもサポートしてくれる。
そして、その存在によって自分に自信が持てるようになるような、
そんな存在なのです。

2013年7月1日月曜日

キャミソールとタンクトップ


キャミソールとタンクトップは、ともに下着が原型のアイテムです。
しかし、この2つには大きな違いがあります。
それは、キャミソールがフェミニンであるのに対して、
タンクトップはマスキュリンである、ということです。 

同じノースリーブのトップスではありますが、
このフェミニンとマスキュリンという違いによって、
与える印象は違ってきます。
キャミソールを着れば女性的なイメージを、
タンクトップを着れば男性的なイメージを他人に与えることになります。

よく雑誌などにある「甘辛ミックス」のコーディネイトとは、
このフェミニンとマスキュリンを混ぜたもののことを言います。
甘いのはフェミニン、辛いのはマスキュリンというわけです。

もちろん、甘辛をミックスしないで、
甘いものは甘いまま、
辛いものは辛いまま、作り上げるコーディネイトもあります。
特にコンサバ・スタイルは、甘いものの中に辛さは混ぜません。
しかし、フェミニンとマスキュリンを混ぜることにより、
よりモード寄りのコーディネイトができ上がります。
そして、それはもちろんおしゃれ上級者のよくやるコーディネイトでもあります。

たとえば、レースやフリルを多用したフェミニン度合いの高いキャミソールには、
マスキュリンの色合いの強いものを合わせます。
例としては、キャミソールにジーンズや、ペンシルストライプのサマーウールのクロップト・パンツをあわせるなど、です。
そこで上着もテイラード・ジャケットをあわせれば、
マスキュリンの中にインナーだけフェミニンなキャミソールという組み合わせになり、
そのギャップがより女性らしさを強調します。

逆にタンクトップの場合、これにジーンズを合わせると、
ボーイッシュになります。
それは「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」のジェーン・バーキンのスタイルです。
マスキュリンの要素に1パーセントもフェミニンの要素を入れない場合、
着る本人がよほど女性らしさにあふれていないと、
単なる男子と同じ格好、となります。
そこで、 男子と同じ格好となるのを避けるため、
フェミニンな要素、いわゆる甘さを付け足します。
たとえば、タンクトップにティアードや白いレースのアンティーク風のスカートをあわせます。
ボトムがパンツの場合だったら、タンクトップの上に着るものをクロッシェ・ニットなどにします。
また、形は男性ものと同じだとしても、素材をシルクにしたり、
色をピンクなど、男性があまり着ないものを合わせてもいいです。
要するに、男子が絶対に着ないものをもってくればいいわけです。
そうすることによって、男子と同じ格好をまぬがれることができます。

レースやフリル、プリーツの飾りのあるキャミソールは、
そのままだと、やはり下着を連想させます。
その下着のようなキャミソールに、同じように甘いフリルやリボンのついたスカートでは、
少々甘すぎます。
「プリティ・ベイビー」のブルック・シールズのようです。
少女性を強調したい場合はそれでもよいですが、
大人というものは、女性性と男性性が統合されていく過程ですので、
すべて甘いと、大人っぽくはありません。
どなたかが、いい年になってもレースだらけの、パステルカラー服を着ている女性のことを、
「レースおばば」と呼んでいましたが、
やはりそれはどこか気味悪いものなのです。

フェミニン100パーセントでも、マスキュリン100パーセントでも、
どちらでも、それは「大人の女性」ではありません。
自分の中にある女性性と男性性の統合が見えなければ、
大人ではありません。

20代の女性と、40代の女性では、その統合具合も違うでしょう。
20代のころ許された、甘いふわふわした洋服は、
まだ統合されていない、大人ではない人たちにこそふさわしいもの。
それをそのまま40代が着たのでは、芸がないのです。

日本の和服も、形は同じでも、色や柄で「大人の女性」を表現してきました。
永遠の少女の痕跡は、ほんの少し見せるだけで十分です。
男性がずっと永遠の少年のままでは頼りなく、信頼できないように、
女性も、永遠の少女のままでは、遠くまでいけません。

かといって、女性性の全否定は、もっと異常でしょう。
女性が男性になることに憧れるなんて、馬鹿げています。
ましてや、少年のようになる必要など、ありません。

キャミソールとタンクトップを着るとき、
自分の中の女性性と男性性について、少しだけ考えてみてください。
自分が無意識に選ぶそのコーディネイトが、あなた自身の女性性と男性性の統合具合です。
それはどこまで達成できたのか、できないのか、
鏡にうつる自分自身の姿を見れば、わかるでしょう。

☆写真:こんなロマンチックなキャミソールには、ジーンズやカーゴパンツが似合います。


2013年6月24日月曜日

バッグの色の選び方



昔のルールでは、
バッグと靴の色は合わせることになっていました。
しかし、今では、必ずしもそうする必要がないと考えるのが一般的です。
ただ、それならば好きな色を適当に持ってくればいいかというと、
そういうわけではなく、ちょっとした法則があります。
何パターンかあるので、
順に説明していきます。

まず、バッグの色を靴と同じにする。
今では必ずしもそうではないといっても、
やはり基本はこれです。
何色のバッグを買えばいいかわからない場合は、
とりあえず一緒にあわせようと思っている靴と同じ色のものを選んでください。
特に、黒と茶については、靴と同色のほうがあわせやすいです。
また、よりオフィシャルな感じを出したいときは、
黒い靴に黒いバッグ、茶色い靴に茶色いバッグにしたほうがよいでしょう。
黒と茶色については、昔から一般的な靴の色です。
その黒と茶の靴に、オーソドックスな形のバッグをあわせる場合は、
やはり昔からのルールどおり、色は合わせたほうがよいです。
失敗はありませんし、どこへ出ても恥ずかしくないスタイルとなります。

次に、バッグと服の色を合わせる。
靴の色と同色ではなくても、服の中の1色を使うのも、
取り合わせとしては簡単で、しかもおしゃれに見えます。
この場合、たとえば全身が黒と茶のコーディネイトだった場合、
靴は黒、だけれどもバッグは茶色を持ってきても大丈夫です。
また、バッグを黒と茶のバイカラーや、黒と茶のひょう柄などにしてもよいでしょう。
統一感があれば、問題ありません。

3番目に、差し色としてバッグの色を選ぶ。
バッグの中でも、特に、実用というよりアクセサリー的な要素の強いもの、
たとえば小さなクラッチバッグやパーティ・バッグ、、ボディ・クロス・バッグなどの場合、
全体のコーディネイトの差し色として、
バッグにまったく違う色を持ってくることもできます。
たとえば、黒一色のコーディネイトのネオン・ピンクの小さなバッグ、
グレーのグラデーションのコーディネイトに赤いバッグなど、
色をきかせることによって、おしゃれ具合は増します。

最後に、全体のコーディネイトや靴とは関係ない色。
これは、たとえばかごバッグや布のバッグ、銀や金のビニールワイヤー・バッグなどです。
ラフィアやつる植物の色合いは決まっているので、
全体とはまったく関係がない色でも、問題ありません。
銀や金のバッグも、どちらかといえばアクセサリーなので、
銀や金のジュエリーをあわせるのと同じ感覚で使えばいいでしょう。


全体的に言えることは、
オフィシャルな雰囲気を出したい場合、色を合わせ、カジュアルな場合は色を合わせる必要がないということです。
選んだ靴が黒や茶色のローファーや、クラッシックなパンプスの場合、
色を合わせると、より一層オフィシャルな感じは出ますし、

靴がカラフルなサンダルやエスパドリーユ、スニーカーなどの場合、
バッグの色を合わせる必要はなくなります。
また、バッグ自体も、ピンクや黄色、グリーンなどの色もの、
または白い場合、靴や服と合わせる必要はなく、
アクセサリーや小物を付け足すように、色を付け足すと考えればよいでしょう。

こうやって考えていくと、
バッグの色合わせはかなり複雑です。
よくわからない、考えるのがいやな場合は、
とりあえず同じ色を選ぶのが、もっとも無難な方法です。
また、靴は黒か茶のみなどという場合は、
黒と茶の2色使いのものを持っておけば、
黒の靴でも、茶色の靴でも、両方使えますので、便利だと思います。

ここ数年、ある特定の、いわゆるブランドもののバッグを、
どんなスタイルにでも合わせるという人が多いですけれども、
あれは決しておしゃれではありません。
バッグの色のことなど、考えていないという証拠です。
工夫の跡が見られません。
それに比べたら、
ブランドものでなくても、
高くなくても、
自分で考えて、選択した色のバッグを持つほうが、ずっとおしゃれに見えます。

あなたがほかの人に伝えたいのは、ブランド物のロゴではないはずです。
そこから脱するためには、とにかくまず自分で考える、
そして試してみることです。
絶対的な答えがあるわけではありません。
いろいろ実験してみるうちに、自分なりのしっくりくる靴とバッグの色合わせのルールが見つかるでしょう。
そのルールが見つかるまで、探し続けてください。
あきらめなければ、見つかります。

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などです。

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2013年6月17日月曜日

足もと(素足、ソックス、ストッキング)

足元というのは、決して装いの主役ではないけれど、
忘れるわけにもいかないところです。

足元、つまり、ボトムから靴までの間は、
素足、
ソックス、
ストッキング(タイツ)
の可能性が考えられます。

この足元、どうしたらおしゃれに見えるかにも、
実はルールがあります。

まず、ソックスです。
ソックスを選ぶときに重要なのは、その色です。
ソックスの色選びの基本は以下のとおりになります。

まず、靴と同色、または同系色。
次に、ボトムと同色、または同系色。
最後に、差し色、です。
これはタイツの色選びも同じです。

靴やボトムと同色にすることによって、
色による脚の切れ目が少なくなり、
脚がすっきり、長く見えます。
ですから、そういう効果をねらう場合は、
このどちらかにするといいでしょう。

もう一つの方法はソックスに差し色を入れる方法です。
たとえば、帽子、マフラー、バッグなどと同じ色を
ソックスにも使用します。
色だけでなく、
水玉のスカーフと水玉のソックス、
ストライプのマフラーとボーダーのソックスなどをあわせてもおしゃれです。
これはどちらかといえば、上級テクニックですが、
ソックスは気軽に取り入れやすいので、誰にでもでもできてお勧めです。

次に、素足にするか、ストッキングにするかの問題です。
足元を素足にすることにより、
抜け感が生まれます。
ストッキングも同じように肌色ではありますが、
抜け感という点では、やはり素肌にはかないません。
また、サンダルなどの場合、素足にきれいに塗られたネイルは、
それだけで美しいです。

ただ、あらたまった場においては、ストッキングのほうが好ましく思われるでしょう。
また、服装全体がコンサバだったなら、
素足よりはストッキングを選ぶのではないかと思います。
日本は靴を脱ぐ習慣がありますから、
どこかへ上がるとわかっているときは、
素足だと、やはり少し気まり悪いです。
(ただ、その場合はソックスを持参して、上がる前にはけば、その問題は解決します)

ただ、いくらファッションがコンサバとはいっても、
真夏のサンダルにストッキングは、少し暑苦しいと思います。
外国に行くと、肌色ストッキングをはいているのは日本人と思われているらしいですが、
暑いのにわざわざ肌色のストッキングというのは、
おしゃれかどうかという点では、少し落ちます。
ただ、これも、ストッキングをはかなければいけないルールがある会社などもあると思いますので、
その場合は、もちろんそれに従っておいたほうがよいでしょう。

真夏のストッキングではなく、寒い季節の、
黒いシアーのストッキングは、脚をより美しく見せてくれるので、
おしゃれ度は上がります。
真冬だからといって、どこでもいつでもマットなタイツをはくというのではなく、
全体のスタイルを見て、使い分けするとよいでしょう。

最後に、最近、ミニ丈のボトムが台頭してきたために、
よくはかれるようになったレギンスとトレンカです。

レギンスとトレンカのほとんどは黒ですが、
やはりこれも、どんなスタイルにでも黒いレギンス、トレンカでは、
おしゃれではありません。
ただ単に実用ではいているようにしか見えません。
特に、ソフトなシフォンのような素材のパステルカラーのふわふわしたミニスカートやホットパンツに、黒いトレンカは興ざめです。
レギンスやトレンカもソックスと同じように、
靴、またはボトムとつながるような色を選ぶときれいです。
だからといって、パステルカラーのトレンカというのもないでしょうから、
その場合、レギンスやトレンカはあきらめて、潔く脚を見せるか、
またはニーハイ・ソックスを選んだほうがよいでしょう。

逆に冬場などの、黒いミニスカートやホットパンツに黒いレギンスやトレンカは、
いろいろな意味で効果的です。
黒に黒をあわせることで、
脚にコンプレックスがある人でもかなり補正できますし、
人の目もごまかせます。
もちろん、腰から下が長く見えます。

「美は細部に宿る」と言います。
トータルでコーディネイトするためには、
細部までチェックしなくてはなりません。
それができていないと、つめが甘くなり、
完成度が低くなります。
紙の束の角をあわせるように、
足元の選択をきっちりすると、
全体が引き締まります。

ソックスやタイツは、決して高いものではありません。
手軽におしゃれを楽しめる、小さな部分です。
小さな部分を、手抜きせず、
きちんと丁寧につめていく。
その積み重ねが、おしゃれです。







2013年6月10日月曜日

カーディガン

カーディガンを今現在、持っていない方はいらっしゃるかもしれませんが、
今まで一度も着たことがないという方はいらっしゃらないと思います。
また、ファッションがコンサバでも、モードでも、
カーディガンの形やスタイルに大きな差はありません。
もちろん、中にはデザイン性の高い、
オーソドックスなカーディガンからは程遠いデザインのものもありますし、
時代によって、体に対するフィット加減は違いますが、
それでもなお、カーディガンというものは、
年齢を問わず、時代や流行を超えて、
誰でもが持っている、稀有なアイテムだと思います。

そんなカーディガンですが、なにがカーディガンかというと、
定義は簡単です。
ニットで前あきのもの、これだけです。
考案したのは、イギリスのカーディガン伯爵で、
カーディガンという名称は、この伯爵の名前が由来です。

ニットで前あきのものすべてがカーディガンなわけですが、
前あきの形はVネック、またはクルーネック、
そして、中には襟つきのものもあります。
また、ボタンもあるものと、ないものがありますが、
基本的にはボタンどめです。
袖は長袖がほとんどで、まれに半袖のものもあります。
あとは、そのときの流行のシルエットがあるのみで、
タイトなものもあれば、大きなものもあります。

デザイン性が高いものは、ないわけではありませんが、
ほかのアイテム、たとえばワンピースやジャケット、シャツほど、
大きくデザインされたものはあまり好まれません。
その理由は、カーディガンが、寒いときの羽織ものという位置づけにあるからだと思われます。
そのために、その羽織ものとしての機能が失われるようなデザインは嫌われます。
ですから、形のデザイン性よりも、たとえば色であるとか、刺繍による装飾などによって、
バラエティが作られています。

また、カーディガンは1年を通して使えるアイテムです。
真夏の日本でさえも、冷房の風から体を守るために、カーディガンは重宝します。
素材を変えれば、1年間、どんなときにも使えます。

そして、カーディガンは、そのボタンの存在により、ふつうのセーターより、
あらたまったイメージを醸し出します。
特に、ツインセットとしてカーディガンを着れば、より一層ノーブルになります。

1年じゅう使える、流行による変化があまりない、羽織ものとしての機能性、1枚でも着られる、
色のバラエティの豊かさがあるなど、
カーディガンは、白シャツと並ぶ、最強のアイテムの1つなのです。

そんなカーディガンですが、大人が選ぶとしたら何に注意したらよいでしょうか。
まずは素材です。
シンプルなデザインのカーディガンであればあるほど、
素材が目立ちます。
冬のカシミア、夏の海島綿など、上質な素材のものを選び、
丁寧に扱えば、何年も長持ちします。
買うときは、値段が高いと感じるかもしれませんが、
ごくごく普通のシンプルなものを選べば、結果的に、それは決して高くはない買い物です。

そして、次は色。
カーディガンは、自分がいつも使うメインの色のものを選ぶのもいいですし、
差し色の色を選ぶのもお勧めです。
肩にかけたり、腰にまいたりという、小物としての使い方もありますので、
そのときは、差し色のものを選ぶと、全体のコーディネイトが決まります。

そして、そんな上質なカーディガンをよりノーブルに着こなそうと思うのなら、
首元にシルクのスカーフや、パールやターコイズのネックレス、ダイヤモンドのペンダントなど、
やはり上質なアクセサリーを持ってくるとよいでしょう。
また、丁寧で豪華な刺繍などがされているものは、アクセサリーがなくても、
それだけで絵になります。

また、カーディガンはもちろんシャツの上に羽織ってもよいものですが、
シャツではなくて、女性が下着やキャミソールの上に直接、着ると、
それは男性にはできない着こなしであり、セクシーです。

カーディガンは、なんてこともないアイテムです。
子供から大人まで、男も、女でも、誰でも着ています。
そして、そんなカーディガンだからこそ、慎重に、じっくりと選んでほしいと思います。
なぜなら、ここにはパラドックスがあるからです。
誰でも着ているものだからこそ、誰とも違うように見せることができるということ。
簡単だからこそ、難しいということ。
男女の性別のないアイテムだから、より一層、女性らしく見えるということ。

まずは自分にぴったりのカーディガンを見つけましょう。
そして、その次の段階は、
上記のことを意識してみてください。
誰もが着ているもので、どれだけ自分を表現できるのか。
何の変哲もない形のいカーディガンを、どれだけおしゃれに見せることができるのか。
鏡の前でいろいろ試してみて、
自分なりの答えを見つけていきましょう。
簡単なようでいて、難しいです。
だけれども、その難しさに取り組んだ分だけ、それは自分の実力となります。

それをやってみたか、やらなかったかの差が、
おしゃれな人とそうでない人との差です。
おしゃれとは、結局のところ、知恵と勇気の結果です。











2013年6月3日月曜日

おしゃれ上級者への道とは

普通の人のおしゃれと、
おしゃれ上級者のおしゃれには、決定的な違いがあります。
それは、どれだけデザイン性のある服を取り入れているか、ということです。
おしゃれ上級者のワードローブには、単なるシンプルではない、
デザイン性の高い美しい服が並びます。

ファッション業界とは関係のない一般の人は、
おしゃれの基本をきちんと守り、
シンプルな服を美しい色合いで着こなせれば、
それだけで十分におしゃれだし、美しいとわたしは思います。
また、特にそれ以上、おしゃれに力を入れる必要もないとも思います。
人生には、もっと重要な事項がたくさんありますから。

しかし、ある程度、おしゃれの基本を理解し、実際に実践できるようになって、
何か物足りない、もうちょっとおしゃれを楽しみたい、
そして上級へいきたいと思ったら、
ただのシンプルではない、デザイン性のある服を取り入れてみるのはいいことだと思います。

なぜならシンプルな服はどうしてもほかの人と同じ格好になりやすいという欠点があるからです。
白いシャツにブルー・ジーンズ、白いコンバースにトレンチコートは、
王道のスタイルではありますが、似たような格好をしている人はたくさんいます。
そこから抜け出し、より自分らしさを表現するためには、
デザイン性の高いアイテムを取り入れる必要性が出てきます。

コレクションに集まるファッション関係者を撮ったスナップ写真に見られるスタイルは、
シンプルでシックというよりは、
まさにこのデザイン性の高い服のみで構成された、おしゃれ上級者スタイルです。
彼女たちが競っているのは、その難しいアイテムをどれだけ自分らしく取り入れて、
着こなせるかどうかという点です。
ただ、ごく普通の一般の人が、ここまでやる必要はないと思いますし、
実際にパリ、ロンドン、ニューヨーク、東京といった都市でも、
そんな格好をしている人たちは、ほんとうにごく一部です。

あそこまではいかなくても、少しデザイン性の高いものを取り入れるだけで、
おしゃれの度合いは上がります。

では、その取り入れるべきデザイン性の高いアイテムは、どうやって選べばよいでしょうか。

その1つの方法は、世界的に有名なブランドのファッションを取り入れるというスタイル。
世界的に認知されているブランドが作りだす服は、それなりに完成度が高いものです。
もちろんすべて何でもいいというわけではありませんし、明らかな失敗作もありますが、
ある程度の基準はクリアしています。
そこから、自分がどうしても、理由もなく好きだと思うものを選びます。
価格にしても、デザインにしても、少し冒険になることとは思いますが、
まずは1点取り入れてみることから始めてみてください。

次に、別に有名ではないが、個性的なファッションを発表しているブランドのもので、
自分が好きなものを取り入れるというスタイル。
世界的に有名ブランドでなくても、デザイン性の高い服を扱っているブランドはあります。
そこは有名ではないので、雑誌にも取り上げられることは少ないでしょうし、
情報もあまりないため、自分でさがしに出かけなければなりませんが、
自分が気に入れば、そういった小さな、
しかしセンスのいいブランドのものを取り入れてみるというのもお勧めです。

しかし、何でもかんでもデザイン性の高いものを取り入れれば、
それでおしゃれになるというわけではありません。
世の中には、センスの悪いデザインの服を作っているデザイナーがたくさんいます。
意味のない、あり得ない、デザインや色合いの服も存在しています。
意味のないダーツ、意味のない切り替え、意味のない端の始末、
意味のないフリル、過剰な色合いなどなど、
デザイナーのエゴ丸出しな、着る人のことなど考えていない、
どうしようもないデザインの、下品な服がたくさんあります。
そんなものを着たところで、おしゃれには見えません。
ですから、そんなものを買ってしまわないためにも、
何よりもまず身につけるべきは、本物を見る目なのです。

いいものを見続けることによってしか、本物を見る目は養われません。
これは芸術でも、音楽でも、文学でも、骨董でも、何でも同じです。
ジャンクとフェイクに囲まれていたら、いつまでたっても、
ほんとうにいいものなど、わからないのです。
わからないから、単にブランドのロゴやマークが入っていればおしゃれであるという、
勘違いが起こります。
優れたデザインであることと、ブランドのロゴやマークが入っていることとは、
何の関係もありません。

最新流行を発信しているブランドの商品が、
ほんとうに優れたデザインである場合、
古くなっても、その優れたデザイン性は失われません。
 半年たったら腐ってしまう流行ではなく、
その中には確かに、何年も着られる、完成度の高い美しいデザインのものがあります。
そういったものを選ぶためにも、
何億とある服の中から、美しいものを選ぶ審美眼を育てる必要があるのです。

おしゃれの基礎がマスターできたと思ったら、
どうぞ次のステップへ進んでみてください。
一朝一夕ではできません。
自分をよく知ることと同時に、世界の中に散らばって存在している美を見つける目を養うこと。
そして、自分とその美しいデザインとの間に、
よい関係を築いていくことがおしゃれ上級者への道です。

なんでも簡単にはできません。
読んで知っているだけではだめです。
見て、着て、さわって、袖を通して、経験しなくてはなりません。
そのたびにわかっていきます。
服というものを、
そして、自分という存在を。









2013年5月27日月曜日

みんなと同じ服

制服は、ほかのみなと同じ服を組織の意向によって着せられます。
その集団に参加するために、制服着用は必須となります。
制服は学校、会社、団体、スポーツなど、いたるところで、その着用を義務づけられます。
もちろんそれを好んで着る人たちもいるでしょう。
しかし、その義務から離れても、
まだみなと同じ服を着るという行為は、なにを意味しているのでしょうか。

見渡せば、みなと同じ服を好んで着る人もいます。
誰からも強制されても、義務づけられてもいないのに、
あえてほかの人たちと同じ服を選ぶのです。
(それが誰の意思なのかまでは不明ですが)
それを見て、
これでは個性がないよ、もっとみんな個性を発揮した服を着ようよと、言うのは簡単です。
だけれども、ここには、こんな気軽なアドバイスではすまされない、
もっと深い何かがあると思うのです。

服装とは、自己表現であり、他人に与える印象、そしてメッセージです。
よく知らない相手の場合は特に、まず着ている服を見て、
その人がどんな人なのか、瞬時に、そして無意識に私たちは判断します。
制服を着ているときは、一目見て、その人が何の集団に属しているのかわかります。
それはもしかして、それを見た相手にある種の安心感や信頼感を与えるかもしれません。
制服を着てない人を見ると、私たちの判断基準は揺らぎます。
何を根拠にしていいのか、わからなくなります。
制服を脱いだ側からすると、制服を着ていたときのように、
相手に確固たる印象を与えることは不可能になります。
相手が自分を見てどう思うかについては、もはや自分のコントロールをこえています。
みなと同じ服を着るという行為は、このコントロールできなくなった相手に与える印象を、
何とかつなぎとめようとする行為のように思えます。

まず、同じもの、または同じようなものを着ることによって、
相手と同じだというメッセージを与えられます。
また、大多数に支持されているスタイルを自分もすることによって、
自分は決して時代に外れてはいないということも強調できます。
同じだよ、時代おくれってわけじゃないよ、知ってるよというメッセージを、
相手に与えることによって得られるのは、一種の安心感でしょう。
こうすれば、たぶん仲間はずれにはされないだろう。
ある程度のところまで、自分のことを認めてくれるだろう。

もちろん、これは意識的に行われるだけではなく、
無意識の選択です。
逆に、意識的に、ここまで戦略的に服を選ぶのは、きっとどこかの国のスパイでしょう。
みなと同じで、目立たなく、相手に受けいられるスタイル。
これは、本気で諜報活動をする人たちに必要な戦略です。

無意識で選んだものほど、その人の深層心理をあらわします。
言い分はいくらでもあります。
近所でそれしか売ってなかったから、安かったから、なんとなくいいと思ったから、
面倒だから、などなど。
スパイでないとしても、人生の一時期、そういった安心感を必要とする時期は、あると思います。
だから、それが一概に悪いとは思いません。
思いませんが、体型も髪形も顔も身長も違うそれぞれが同じ服を着るということには、
どこかしら無理があります。
もちろん好みだって違うはずです。
理由もなくこれが好きというものは、誰にだってあるでしょう。
それを全部飛び越えて、みなと同じ服を、もし着続けたとしたら、
その無理は、後になってモンスターとなり、その人を襲います。
その日は必ずやってきます。

原因不明の腰痛や肩こり、やる気のなさ、
何が好きだかわからない、人生に目標を持てない、
楽しいことがわからない、食べることが制御できない、
不毛の恋愛におぼれる、打算で結婚をするなど、
あらゆる形で、しかもその原因はまったく不明で、ある日、その人たちを襲います。
そうなってしまうと、そこから脱出するのは大変困難になります。
なぜならいつまでたっても、なにがそうなった原因なのか、わからないからです。

もし、無意識のうちにみなと同じ服を選ぶ自分がいたら、
まずはそのことに気づいてください。
そして、気づいた後は、そのことによって、自分は何が得られるのか、
考えてみてください。
安心感なのか、目立ちたくないという欲求が満たされるためなのか。
そこまでわかったら、なぜ同じ服による安心感が必要なのか、
なぜ目立つのが悪いのか、もう一歩進んで考えてみましょう。
何か過去に思い当たる出来事があるかもしれません。
まずは自分自身を理解することが先決です。
その上で、それでもなお、同じ服が必要なのだったら、
もう必要ないと思えるまで、そうしたらいいと思います。
けれども、少しでも違和感を感じるのであったら、
そこで、たとえば外から見えない部分に、ひとつでもいいので、
みなとは違うものを身につけたらいいと思います。
それはインナーかもしれませんし、シャツの下のペンダントかもしれません。

誰にも見せないのだったら、自分は何を選ぶのか。
誰も何も言わないのだったら、自分は何を着たいのか。
モテるとか、おしゃれとか、節約とか、安いからとか、
どこでも売っているからとか、太ってるからとか、スタイルがよくないとか、
そんなことを取っ払って、ほんとうに着たかったものは何なのか。
誰も批判をしない、あなただけのユートピアに住んでいるとしたら、
どんな服を着たいのか。
みなと同じ服を着てしまう自分がいたのなら、
これらを自分に問いかけてみましょう。
実際にはそんな服を着ないとしても、それを自分で知っていることは重要です。
なぜなら、それはあなたの魂やスピリットからのメッセージだからです。
そして、その中に、あなたが人生で真に満足できること、達成したいことのヒントが隠されています。
魂やスピリットは、あなたが選ぶ服を通して教えてくれます。
無視し続けてきた魂やスピリットのかすかな声を、
そろそろ聞いてあげてもよいころではないでしょうか。
手遅れになる前に。
魂とスピリットが死に絶える、その前に。

2013年5月20日月曜日

きちんと感っていったい何?

雑誌などでよく出てくる「きちんと感」という表現。
「きちんと感」の定義は、たぶんどこにも出ていません。
定義がはっきりされないまま、いろいろなところで使われています。
では、この「きちんと感」とは、いったい何なんでしょうか。

「きちんと」という言葉は日本語の副詞です。
ですから、本来ならば、動詞の前につく言葉です。
きんとする、などという使い方が正しい使い方です。
「きちんと」の意味は、辞書によると、「よく整っていて、乱れたところのないさま」となっています。
日本語の意味からだけ考えると、「きちんと感」とは、
「よく整っていて、乱れたところのない感じ」ということになりますが、
どうやらそれでは正しくないようです。
整っていて、乱れたところのない体操着のことを「きちんと感」とは呼びません。
「きちんと感」には、どこかそれ以上のことを要求する響きがあります。

よく整っていて、乱れたところがなく、しかもプラスアルファのものがある着こなしが、
「きちんと感」のようです。
そのプラスアルファとは、プライベートというよりはオフィシャルな感じです。
公式の装いとでもいうのでしょうか。
その感じがなければ、「きちんと感」とは呼びません。

では、その公式の装いとは、どんなものでしょうか。
西洋には、さまざまなドレスコードがあります。
昼のパーティー、夜のパーティー、ホテルやレストラン、晩さん会など、
それぞれにふさわしい装いが決められています。
その取り決めは、西洋文化の文脈の中ででき上がったものです。
ですから、西洋文化以外の文化圏に住む人たちにとっては、
なぜそうなのか、考えてもわかりません。
そして、地球上のそれぞれの文化圏には、それぞれのドレスコードがあり、
それは他から見たら、なぜそうなのか、その理由や理屈は、知るよしもありません。
なぜならそれは文化、宗教、風俗によって長年のあいだに培われてきたものであって、
理屈でも、論理でもなく、習慣にすぎないからです。

明治時代以降、洋装を取り入れた日本では、
和服の世界ではさまざまなルールがあるものの、
洋服に「長年培われた習慣」というものはありません。
日本人にとって、洋服において公式な装いというものは借り物でしかないのです。
借り物であるため、なぜそうなのか、ほんとうのところ理解はしていません。

定義はあいまいで、理解もできていないにもかかわらず、
「きちんと感」は求められます。
それは会社勤めや何かの会、また、いわゆる公の席でのことが多いと思います。
では、なにをもって「きちん感」とするのか、ここから考えていきたいと思います。

まず、なにが最も公なのか、わたしたちは理解できていないわけですから、
(たとえば、女王陛下の前ではモーニングを着なければいけないなど、
そんなこと、わかりません)
なにを着てはいけないかから考えてみましょう。

まず、公でない感じとは、その格好では公の席にふさわしくないと思われるものです。
最初に挙げた体操着はそのいい例です。
整っていて、乱れていなくても、体操着は体操をするときに着るものです。
オリンピックなど体育関連の公の席以外では、ふさわしくありません。

ですから、体操着を思わせる服装や、体操着から派生した服は除外されると考えます。
その意味では、ポロシャツはポロというスポーツのスポーツウエアなわけですから、
「きちんと感」は満たしていません。

次に除外すべきもの。
それは下着から派生した服です。
キャミソール、タンクトップ、Tシャツなど、
これらはどれももとは下着でした。
下着で人前に出るということは、まずありません。
ですから、これらも除外します。

それから、次は労働着です。
労働の場が公ではないとは、決して言い切れないのですが、
いわゆる汗水たらして働いているときに着ている服は、
「きちんと感」に欠けます。
その代表がジーンズです。
ジーンズはもともと作業着です。
同じように、ワークパンツ、カーゴパンツも作業着です。
つなぎも作業着なので除外されるでしょう。

では、次に除外されないものです。
制服は除外されません。
制服は「きちんと感」の代表選手のようなものです。
同等に、軍服を起源に持っている服も除外されません。
軍服は制服だからです。
もちろん、人々は制服を着て働いています。
作業着は除外されて、制服ならなぜいいのか、
その理由は、ありません。
そうだと誰かが決めたので、そうなったまでです。
作業の種類が違うだけで差別はおかしい、
そう思われるかもしれませんが、これは理屈や理論で決められた取り決めではないので、
そうなります。
ちなみに、日本の皇室の正装は洋装だそうです。
これを聞いただけでも、きちんとしているという定義は、
必ずしも服の格式や歴史とは、関係ないものだとわかります。

最後にまとめです。
「きちんと感」とは、制服的な要素を含むもので、
かつ、体操服、下着、作業服など、公にはふさわしくないと思われている要素を除外したもの、
ということになります。

ただ、実際は、ほんとうにそうなのかと言えば、
最近はちょっと違ってきています。
なぜなら、ファッション全体のカジュアル化が進んできて、
必ずしも除外すべきもの、すべてが除外されてはいないからです。

たとえばジーンズ。
昔はスニーカーとジーンズでホテルには入れないというルールがありましたが、
今はそうではありません。
それからポロシャツにしてもそうです。
多くの企業で、夏の通勤着として、ポロシャツが許されている職場はあるでしょう。
たぶんその理由は、襟がついているからだと思います。
逆に、襟がついていないTシャツは許されていない職場もあるかもしれません。

結局のところ、なにがきちんとなのか、なにが公なのか、
洋服の文化の歴史の浅い日本では、わからないのです。
誰かが決めたら、そうしなければならないし、
誰かがだめだと言ったら、だめになります。
そして文化圏といっても、地方、地域、会社内、学校内など、
それぞれの中にそれぞれまた別のルールがあります。
ジャージで授業を受けてはいけない学校もあれば、
ジャージで授業を受けなければいけない学校もあります。
タータンチェックのスカートがどうしてきちんとしているかなんて、
誰も答えられません。

「きちんと感」には、何となくこんな感じではないかという、
大まかなイメージはありますが、
絶対にこれであるという確固としたルールはありません。
服装に規則があるところでは、それに従わなければなりませんし、
その規則が「きちんと感」になります。

それでは、ルールがなにもないところ、誰も決めていない、
誰もだめだと言っていないところではどうすればいいか。
それはそのときそのとき、自分で判断すればよいでしょう。
ほんとうのところ、「きちんと感」などない、
その中で、自分はどういう装いをしようか、
この場面ではどう見られたいのか、
相手はなにをこちらに要求しているのか。
そこで判断して服装を決めて、
それに対して相手がどう反応したかは、
自分のコントロールできない範囲の問題です。
相手にあわせるべき場面なら、相手に聞いてそのとおりにする、
そうしなくていいのなら、自分の好きにする。

このようにかくもあいまいな「きちんと感」です。
そんなものに振り回される必要はありません。
きのうは右と言ったのに、
今日は左と誰かが言います。
その中で、自分はどこの位置に立つか、
右なのか、真ん中なのか、左なのか。
それはその都度、自分で判断して決める以外、方法はありません。
ファッションとは、しょせん、その程度のものです。










2013年5月13日月曜日

柄物ボトムは印象に残る

今年になって、柄物のボトム、特に柄物のパンツが大ブレイクしています。
これはかなりの勢いで広がりそうです。
柄物のスカートを持っている方は多いと思いますが、
自分のワードローブに柄物のパンツがある人は少ないでしょう。
だからこそ、今年、新たに柄物パンツを足してみたくなるのもうなずけます。

ところで、衣服は寒さ暑さを防ぐために身につけるものでもありますが、
同時に、情報の伝達手段としても存在しています。
そのひとがどんなものをどのように着ているかによって、
自分以外の人々に多くの情報を伝達しているのです。
そして、受け取る側も、その人の服装から、ある程度のことを判断します。

わかりやすい例は制服です。
同じ衣服を身につけることによって、学生の場合はどこの学校かがわかり、
働いている人の場合は、どんな仕事なのかがわかります。
制服は、単に動きよいとか、寒さ暑さを防ぐとか、機能や安全のために身につけるわけではなく、
そのひとの帰属をあらわし、それを他人に情報としてつたえる役目を持っています。

特に意識しなくても、小さいころからの習慣で、
私たちは、他人を着ているもので判断します。
蓄積された情報から、その人がどんな人なのか導きだします。
これはほとんど無意識に行われます。

人間の脳は、たぶんほとんどのことを記憶する力を持っています。
パソコンと同じように、誰かを一目見て、情報をダウンロードします。
けれども、それをすべて引きだす能力はありません。
脳の中に情報としての蓄積はあっても、
引きだされるのはもうすでに処理された情報です。

私たちが、他人の情報を衣服から読み取ろうとするとき、
実は全身をチェックしているわけではありません。
重要なポイントのみ引きだし、それに基づいて判断します。
大体、思い出されるのは顔に近い部分の衣服、
持っていたバッグ、靴などです。
ついで、つけているとしたらアクセサリーとなるでしょう。

特に、顔に近い部分の衣服は重要です。
色、襟の形、あき具合など、覚えている場合が多いです。
それは、人と人がコミュニケーションをとるとき、
おもに見ているのは顔と、その周辺だからです。
私たちは、おなかより下を見ながら、コミュニケーションをとりません。
そのせいもあって、ボトムというのは、他人の印象に残ることが少ないのです。

しかしそれとは別に、人は、何か変わったもの、印象が強いものを覚えているという傾向があります。
ボトムであっても、ものすごく短いスカートや、破けているもの、
目立つ柄などの場合、人はそこに注目し、覚えていることが多いです。
柄物のボトムを選ぶということは、相手に与える印象を1つふやすということにつながります。
柄物ボトムを選ぶリスクは、そこにあります。
そして、そのリスクのため、選び方は難しくなります。

まず第一に、下半身が目立ちます。
ですから、下半身をあまり見てほしくない、または印象に残したくない場合は、
避けたほうが無難です。

今年の柄物パンツの流行は、小さい子供から高い年代層まで、
かなり広範囲です。
これからたくさんの人が柄物パンツをはくだろうと予想されます。
そうすると、おしゃれには見えなくなります。

ここで何回か書いていますが、
おしゃれに見える1つの条件として、あまり人が着ていないものを着るというものがあります。
ある程度以上の人が着ると、それは飽和状態になり、
見慣れてしまうことによって、あまりおしゃれには感じなくなります。
もうそうなると、流行は最終段階にきてしまうのです。
流行がおしゃれに見えるのはごく初期だけ、
そのあとにつづくフォロワーがふえればふれるほど、おしゃれの密度は薄くなります。

次に難しい点として、、
柄物というのは、そのよしあしが分かりにくいものということがあります。
とてもおしゃれな柄とそうでない柄は、特に素人目にはわかりづらいです。
リバティやエミリオ・プッチ、エトロといった、特徴のある柄以外は、
その他大勢という感じで、どの柄だったらおしゃれなのか、
あるいはそうでないのか、なかなか判断できません。

また、印象に残りやすいということは、着まわしに向かないということです。
なぜなら、柄物パンツを繰り返しはくことによって、
同じものばかり着ているという印象を他人に与えてしまうからです。

ここまで考えると、
おしゃれに柄物パンツを着こなすのは、かなり高難度ということになります。
印象に残りやすいので何回も着られない、
下半身が目立つ、
柄のよしあしは他人には理解してもらえない、
街に出ると多くの人が、しかも子供までもが着ている。
ざっと挙げただけでも、これだけ取り入れにくい要素があります。

では、柄物パンツはやめましょうと言ってしまったら、芸がないですので、
それでもなお、柄物パンツを取り入れたい場合、どうしたらよいか考えてみましょう。

まず、全体のコーディネイトの中で浮かない柄を選ぶこと。
2色、もしくは3色以内で構成されたプリントを選び、
全体のコーディネイトも3色ルールをきっちり守る。
こうすることで、柄が悪目立ちしませんし、シックに見えます。

あまり大きな柄は選ばない。
柄が大きいというだけで、印象に強く残ります。
大きなひまわりの絵などは、それだけで強い印象ですので、避けたほうがいいでしょう。

意味のある絵の柄は避ける。
何か具体的なものが描かれているプリントより、抽象的な柄のほうが印象には残りにくいです。
たとえば、亀の柄だとしたら、すぐに覚えられてしまいますが、
なんとなくグリーンの丸模様だったら、はっきりとは覚えられません。

柄の面積を小さくする。
ワイドパンツよりは、タイトなもののほうが印象は薄いです。

最後に、どうしても柄物パンツでおしゃれに見せたい場合は、
他人と同じようなコーディネイトはしない。
私が予想するに、ことしの夏は、ふわっとしたチュニックやビッグシャツに、
タイトな柄物パンツという姿の人があふれると思います。
しかし、大多数と同じコーディネイトをしたら、もう特別おしゃれには見えません。
だから、あえてそこは避ける。
避けてどうするか。
それはいろいろあると思いますが、きちんとしたジャケットと柄物パンツをあわせるとか、
革のジャケットに白いTシャツ、そこに柄物パンツをあわせるとか、
ワンピースの下に同色の柄物パンツをあわせるとか、
とにかくそこは工夫と努力をします。

印象とは、相手に対するあなたという人の情報のプレゼントです。
もしかして、相手はずっとそれを持ち続けるかもしれません。
初対面の相手だとしたらなおさら、それを変えるのは難しいのです。
でも、その情報は簡単に操作できるものです。
服装で情報を操作するのは、難しいことではありません。


他人の目を気にすると言うと、もうすでに主導権はその他人に渡っています。
だけれども、そうではなくて、他人の目に与える情報を操作する主導権は、
いつでもこちらにあります。
そのためには、受け身ではなく、こちらから仕掛けていくという姿勢が必要です。
柄物パンツに踊らされないで、
柄物パンツをはいて踊ってください。
こちらから仕掛けていけば、それは可能です。


2013年5月6日月曜日

スタイルを模索する

世界じゅうのおしゃれと呼ばれている人たちには、
それぞれ独自のスタイルがあります。
流行を取り入れつつも、自分のスタイルは貫き通す、
それがほんとうのおしゃれな人たちです。
流行のもので身を固め、いつも違うスタイルであらわれるのは、
単なる自己顕示欲のかたまりの強い、ファッション・ヴィクテムです。

ある程度、おしゃれの基礎がわかって、上達してきたら、
次の段階として、スタイルを模索することをお勧めします。


しかし、自分のスタイルを確立するためには、
一朝一夕にはいきません。
いろいろなスタイルにチャレンジし、
数多くのばかばかしい失敗をし、
何となく違う感じを修正し、
思ったとおりのものがなければ我慢して、
あきらめずにさがしつづける。
それを何年も繰り返して、やっと自分のスタイルを見つけることができます。

スタイルを確立するために必要なのは、
まず第一に自分自身をよく知ること。
それは自分の体型や肌の色といった、物理的な問題もそうですし、
好みや嗜好、目指す方向といった、
目に見えない部分もそうです。
自分自身を理解しないことには、自分のスタイルは確立しません。

無意識に選ぶ色、形、スタイルは、なぜそうなるのか、
そして逆に選ばないのはなぜなのか、
どんな格好をしているときがリラックスできて、自分らしくいられるのか、
または、なにを着るといらいらするのか、
居心地が悪くなるかなど、
一つ一つ自分に聞いて、チェックしていく必要があります。

その答えは、自分にしかわからないので、
誰かに聞くわけにはいきません。
どんなに人に勧められても、だめなものはだめです。
いつも着たいと思えないようなものばかり集めても、
自分のスタイルにはなりません。

これは、ときには自分にとってつらい場面もあるかもしれません。
否が応でも自分に向き合うことで、
自分の欠点にも気づくでしょうし、
見たくなかった面を見ざるを得なくもなるでしょう。
しかし、欠点を長所に、
見たくなかった面を新しい気づきとして受け入れることによって、
より新しい、自由な自分に出会えます。
そして、その自由な自分が、より自分らしく、自由でいられるためにスタイルを確立するのです。

ひとたび、これこそがわたしのスタイルだというものがわかったなら、
そのあとの洋服選びは簡単になります。
どんなに流行していても、自分のスタイルでないものは着ない、
心を動かされないと決めたなら、迷うことはありません。

ただし、同時に注意しておいてほしいことがあります。
何事も変化しないものはありません。
変化こそが、変わらぬ世の中の真理です。
自分の体型や容姿も変わるでしょう。
気持ちも変わるでしょう。
背景としての社会も変わるでしょう。
そして、もちろん流行も変わります。

スタイルの完成は、実は永遠にないのです。
それは、いつでも未完成であることによってしか、
変化には対応できないからです。

90パーセントはスタイルを確立しつつ、
常に10パーセントの余地を残しておく。
そうすることで、自分やファッションの変化に対応していく。
このバランスがちょうどいいところにとれたときに、
そのひとはスタイルがあり、かつ時代と合っているおしゃれな人になることができます。

柔軟性がないことは、やはりおしゃれではありません。
そこには好奇心のかけらが見えません。
変化し続けるものに対する好奇心と、
変わらぬものに対する自信、この2つが必要です。

いつでも変わる準備をしつつ、
永遠に完成しないスタイルを模索する、
かたいようで、しなやかに、
流れにのりつつ、流されず、
最終的な進化の地点まで、
あきらめずにさがし続ける、
そんな姿勢が、そのひとをおしゃれに見せるでしょう。
それはだれもが憧れる境地ではありますが、
たどりつけない場所ではありません。

その地点がはっきりと目に見えるなら、
必ずたどりつけます。

まずは、自分という地図の中をくまなく探検してください。
なによりも、それが最初の一歩です。
さがすのをやめないと決めればいいだけです。
決めさえすえば、実現します。






2013年4月29日月曜日

得意分野を作る

ファッションといっても、その範囲は膨大です。
帽子、かばん、靴まで、
そしてジュエリーやマフラーまで、カバーしているアイテムは、星の数ほどあります。
ファッションのプロであったとしても、それらすべてを熟知しているわけではありません。
モードが好きなひとは、コンサバが不得意ですし、
一般のアパレルで働いている場合は、アウトドアやスポーツウエアにはうといです。

プロでさえすべて把握するのが難しいわけですから、
プロではない一般の素人の場合、膨大な知識と情報を持つのは不可能です。
最初から無理な話です。
しかし、だからといって、すべてについて無知というのも、
何かを選択する上で、賢い態度とは言えません。

であるならば、何か一つ得意分野があればいいと思うのです。
誰にでも得意料理があるように、
自分はこれだったら得意だ、よく知っているというアイテムを作るといいと思います。

たとえば、靴。
そして靴の中でもスニーカーには詳しいであるとか、
バレエシューズはよく知っているなど、
細かく焦点を絞って、
それについてはある程度の知識と情報を得るようにするという努力をします。

それは帽子の場合もあるでしょう、
アウトドアウエアの場合もあるでしょう。
ジーンズかもしれませんし、ストッキングかもしれません。

またアイテムではないとしても、素材という場合もあり得ます。
リネンのいいメーカーを知っている、
カシミアならどこがいいのか知っているなど、
いろいろ考えられます。

そして、もちろんこれらは自分の好きな分野を選びます。
好きでもないことに、関心を持ち続けるのは難しいからです。

1つ、これという分野を決めたなら、
それについてはよく勉強します。
情報を集めます。
実際に足を運んで、目で見て、手でさわってみます。
そして、ほんとうに気に入ったものがあったら、
実際に買ってみて、着てみます。

そして、そのものだけは、自分がコレクションすることを許します。
靴だけとか、帽子だけとか、

吟味して選択したものを、コレクションするのです。

そうしてコレクションしたものは、あたかも自分にとっての小さな美術館のようになるでしょう。
美しいもの、
何年たってもその価値が失われないもの、
希少品、
コレクターズアイテム、
並べて鑑賞しても、毎日あきないような、
いつまでも見ていたいような、
そんなものたちを集めていけば、そうなります。

そこで問われるのは審美眼です。
どれだけ美しいものを見てきたか、
経験してきたかが、
そのコレクションを見ればわかります。
そして、その審美眼を養うのに必要なことは、地道な訓練のみです。

何回かの失敗もあるでしょうし、
いつまでたっても、納得のいくものに出会えない場合もあるでしょう。
しかし、途中であきらめないで、
根気よく続けていけば、
いつしか審美眼は身に着くはずです。

1つのものを見極める目が持てるようになると、
不思議なことに、それはほかの分野にも応用できるようになります。
麻についてよく勉強し、経験したら、
ウールのよしあしも、何となく勘でわかるようになるでしょう。
スニーカーの構造について熟知したら、
どんなヒール靴が歩きやすいか判断するのが簡単になることでしょう。

そしてその領域に達したならば、
選択というものがぐんと楽になるはずです。
そのお店へはいって、ほんの数分で、必要なもの、美しいものがぱっとわかる能力がつきます。
(これはほんとうです)

その領域に達するまでに必要なのは、
あれもこれもと手を出さないこと、
そしてあきらめないでつづけることです。

美しいものを見つける目の養成は、
短期間ではできません。
しかし、美しいものを見た回数とかけた時間分の実力は、
必ずつくものです。
その努力が裏切られることは、絶対にありません。

それは、外からは見えない実力です。
しかし、そんな実力こそが、ほんとうの宝物ではないでしょうか。
なぜなら、それは誰にも奪えない宝物だからです。

自分の宝箱に、誰にも奪えない宝物をふやしていきましょう。
それは後々、役に立つ日がくるでしょう。
なぜなら、

最終的に自分自身を救ってくれるのは、
その誰にも奪えない宝だからです。









2013年4月22日月曜日

新しいファッションに挑戦する

世界じゅうのおしゃれと呼ばれている人たち、
たとえば、パリ・コレクションやミラノ・コレクションでスナップを撮られる常連さんたちは、
たしかに自分のスタイルというものを持っています。
いわば、自分のスタイルが完成された人たちです。
しかし、一般の私たちは、そこに到達するにはまだまだ時間がかかります。

自分のスタイルを完成させるまでにやるべきことは、
それまで自分がしたことのないファッションにチャレンジすることです。

流行にともなって、いろいろなスタイルが提案されます。
それは今までまったくなかった組み合わせであったり、
新しいアイテムであるときもあります。
それらを利用して、自分が今までやってこなかったスタイルに挑戦するのです。

たとえば、ここ何年か、ウェッジソールのヒール靴がはやっています。
70年代にもウェッジソールの靴はありましたが、
その後、80年代、90年代にはすたれてしまって、市場には出回っていませんでした。
しかし、今ではありとあらゆる形のウェッジソールの靴があります。
そして、それを利用すれば、今まで高いヒールを敬遠していた人も、
ヒールの靴にチャレンジすることができます。
なぜなら、ウェッジソールのヒールは、たとえ10センチヒールだったとしても、
安定性があり、歩きやすいからです。

そのほか、たとえばスカートははかないと決めていてしまったとします。
理由は、脚の形が悪いと感じているからです。
しかし、昨今の流行している、パンツとスカート、またレギンスとスカートというスタイルを取り入れれば、その悩みは解消します。

スカートの下にパンツをはいたり、レギンスをはくことによって、
脚の形は目立たなくなるからです。
そのことによって、ドレスやスカートを着てみることができます。

そのほかにも、スニーカーの流行や、スポーツ・ウエアの普段着化があります。
思い出してください。
ほんの10年ぐらい前まで、お年寄りは外出の際、スニーカーをはいていませんでした。
みな、きちんとした革靴でした。
けれども、都会への外出の際にも、スニーカーをはくことがおかしくない時代になり、
それを試してみた人たちは、歩きやすい靴を手に入れたのです。
スニーカーをはくのと同時に、ジーンズも取り入れ、
20年前では考えられなかった、お年寄りのスニーカーにジーンズ姿が、
ごく普通に見られるようになりました。

流行にのることで、今までできなかったことができるようになる可能性があるのです。
しかし、そのためには、実際に自分で試してみなければなりません。
見たことがある、
聞いたことがある、
知識として知っている、
これらのどれも、実際に経験したこととは違います。
経験して初めてわかることがあるのです。

一番よくないのは、かたくなになって、チャレンジしないこと。
やってもみていないのに、だめだと決めつけてしまうことです。
とりあえずやってみて、やはり違うと思えばやめればいいだけのこと。
新しい服を着てみる行為は、新しい山に登るより、ずっと簡単なはずです。
さほど大それたことではないのです。

柔軟な心がなければ、おしゃれにはなれません。

かたくなであることは、おしゃれから一番遠い態度です。

自分のスタイルを確立するには、何年もかかります。
20代、30代では無理でしょう。
それは経験値が少ないからです。
そして、自分自身のことをよく理解していないからです。

ふと選んだその色が、
何気なく見つめていた、そのドレスが、
新しい自分に出会うきっかけになるかもしれません。
コートに袖を通してみる、
ハイヒールにそっと足を入れて、一歩踏み出す、
その経験で、隠されていた自分の一面に気づくこともあるでしょう。
それをやってみる勇気がある人が、おしゃれな人なのです。

やってもいないことに対して、文句を言っても始まりません。
やっていないことに対する判断は、まちがっています。

服を着るという行為は経験です。
知識でも、情報でもありません。
 人生は経験の連続で出来上がっています。


まずはチャレンジしてみましょう。
そして自分の心の動きを観察しましょう。
ハートが違うというのなら、やめにしましょう。
ハートが喜ぶなら、そのスタイルをぜひ取り入れてみてください。
なぜなら、ハートが喜ぶその服は、
きっと、あなたの世界を広げるための1枚に違いありませんから。