センス。
ある人は、それを要ると言い、ある人はそれを要らないと言います。
では、本当のところはどうなのでしょうか。
ということで、私の考えを述べます。
センスが要るかどうかは、その人の人生の態度によってかわります。
つまり、ある人にはそれは必須ですが、
そうでない人には、要らないのでしょう。
まず、センスそのもについてです。
センスとは、一種の才能です。
生まれながらにそれを持っている人もいます。
明らかにそれは見てとれます。
例えば、小学校の図工の時間、もう既に正確なデッサンで、
優れた色彩感覚を発揮する生徒というのもいるでしょう。
これは美術に限ったことではなく、
音楽のセンス、スポーツのセンス、料理のセンスなど、
これといって修行したわけでも、学んだわけでもなく、
もう既に持っているたぐいの人たちは本当にいます。
そういう人たちは、もう既に持っている才能の1つとしてセンスを利用します。
ではどのように利用するのか。
センスとは、1つの指標です。
言い方を変えれば、その人の中に住まう、高い視点から自分を見つめる先生です。
この高い視点から自分を見つめる先生を、
生まれながらにして持っている人は、その先生の指示のもと、
その先生にお伺いを立て、
その先生が納得するような作品を作ったり、プレイをしたりします。
自分の中に、「ここまでやりなさい」という存在が常駐しているので、
そこまでやるのが普通と考えています。
しかし、もちろん先生だけが存在していても、その実行部隊が必ずしもいるわけではないので、
そのセンスという才能を伸ばすためには努力と練習が必要になります。
ではそういった生まれながらのセンスがない場合、
それは必要なのかどうかです。
これら既にセンスを持っている人たちのように、
自分の中に高い視点を持つ先生を常駐させ、
その先生の示すところを自分で作り上げる、そのために行動するのなら、
センスは必要になります。
つまりこれはどういうことかというと、自分の人生を自分で決定し、自立的に生きるためには、
そしてそう望む人にはセンスは必要であるということです。
自分の人生を自分で決定し、自立的に生きるためには、
常に自分で判断し、決定するという行為が欠かせません。
もしその判断を他人にゆだねるならば、
その人はその判断してくれる誰かを常に必要とし、それに依存し続けるしかないでしょう。
私たちは子供時代、まさに多くの判断を親にゆだねます。
食べるもの、着るもの、行くところ、読む本などなど。
けれども、そこから自立するためには、この依存から脱っしなければなりません。
そうしないと、私たちは常に何かに依存し、自立できない、
つまり不自由な存在として生き続けなければならなくなります。
何がいいかわからない、よって選択できない、行動できない。
それでは、自分の人生の主導権を自分で握って生きることはできません。
もちろん生活の分野すべてにおいて、
自分の中に最高の先生を常駐させるのは簡単なことではないでしょう。
ファッションのセンスはあるけれども、料理のセンスはない、運転のセンスはない、
ということもあり得ます。
料理は自分でおいしくできるけれども、運転ができないのなら、
運転に関しては誰かに依存することになります。
ですから、すべての分野においてセンスを保持すべきだ、ということでもありません。
ただし、自分が主導的に決定したい分野において、
誰かに依存したくないのなら、
その分野に関しては、自分の中に高い視野を持った先生を常駐させなければなりません。
ファッションに関して言えば、
自分で決めて、自分で買って、自分で着て行動したいのなら、
センスは必要である、ということです。
そうでないのなら、いつも誰かにお伺いを立てて、
その人の言うなりに決めて、買って、着るという人生になってしまうでしょう。
いつものことですが、
それはどちらでも選べます。
ファッションに関して自立的に生きたいのなら、センスは必要です。
依存的、従属的に生きたいのなら、
センスは必要ない、ということです。