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2011年1月25日火曜日

ふだん着とよそゆき

今回は、NOさんより「普段着とよそゆき着は分けないほうがいいのでしょうか」というご質問をいただきました。
NOさん、どうもありがとうございました。

さて、こちらの質問、ちょっと説明が必要です。
NOさん、いわく、カシミアのセーターを持っているのに、家の中では着やすいし、汚れてもいいようにと、安いものを身につけてしまう。
安いものを身につけていると、自分で自分の価値をおとしめているようで、やっぱり家の中でもよそゆきを着たほうがよいのかしら、というようなご質問内容でした。

この質問、簡単なようでいて、問題点がいろいろ隠れてますね。
まず、ふだん着とよそゆき。
そして、安いもの、それに対してカシミア。
着やすい、汚れてもいいという気楽さ、それに対して、汚れてはいけないという、気楽さのなさ。
「安いものを身につけていると、自分の価値をそれなりに見てしまう」のかという疑問。

では、順番に見ていきましょう。
ふだん着とよそゆき、この区別は現在、どんどん薄れています。
というのも、「よそゆき」のほうが、ぐっとカジュアル化したからです。
今どき、ジーンズでは宿泊お断りなんてホテルはないですね。
ドレスコードが厳しくなくなった分、「よそゆき」の存在はあまり重要視されなくなったのです。
ただ、気分をあげてくれるものとしての「よそゆき」があることも、また事実。
日常的には用はないけど、これを着ると自分が素敵に思えるというドレスなり何なりを1枚持っておくことは、いいことだと思います。
日本語で言うところの、いわゆる「ハレ」のための装いですね。
ただ、これも皆さんの生活様式によって、大きく変わるので、そこら辺はそれぞれご自分でお考えくださいね。

さて、次ですが、安いものと、カシミア。
この場合、カシミアは高いもののたとえですね。
何度も書いてますが、アパレル業界において、高いものイコールいいものでも、安いものイコール悪いものでもありません。だから値段がいくらであれ、自分にとって価値があるのか、ないのかで判断しましょう。
洋服を値段ばかりで判断すると、足元をすくわれます。

次は、着やすい、汚れてもいいという気楽さです。
着ていて楽であるというのは、1つの大きな価値観です。
たとえば、農作業や庭仕事をするのに、この「着ていて楽である」がなければ、何の意味もありませんね。
だから、家事をするのに「着ていて楽がある」という大きな価値を重要視することは、もっともなことであり、何の問題もありません。そして、「着ていて楽である」という価値も、値段とは関係ありませんね。

で、最後になりました。
要するに、ふだん着に安いものばっかり着てる私って、自分で自分の価値を認めてないのかしら、おとしめてるのかしら、ということなんですね。
まず提案ですが、すべての価値をお金だけで計算するのはやめましょう。
この話をすると長いので、短くしておきますが、現在の経済システムにおいては、すべての労働の対価として、等しく経済が分配されるというシステムにはなっていません。
いまだに、家事労働には、何の対価も支払われません。
世界の地域によっても、その対価は大幅に変動します。
アフリカで作られた洋服と、日本で作られた洋服、同じ手間がかかっても、値段は大きく違います。
お金は絶対基準ではないんです。
でも、思い出してください。
太陽だって、海だって、山だって、対価なんてもらってませんよ。
地球の大地だって、お金を払わなくても、種をまけば、ちゃんと芽を出すだけのエネルギーを分けてくれます。
何でもお金だけで計算すると、がんじがらめになって、本当に大事なものを見落としてしまいます。

私にとっては、有名ブランドのクロコの300万もするようなバッグは意味がありませんが、大好きな作家さんが作った1点ものの5万のバッグには大きな価値があります。
小さい子供にとって、お母さんが作ってくれたドレスは、デパートで何万もするドレスより、ずっとずっと大きな意味があるでしょう。
同じように、自分にとって何が大切かを自分の価値基準で見極めていきましょう。
そのとき「お金」という基準を1度、抜いてみること。
それがわかってきたら、自分のチームを作りましょう。
「私」を応援してくれるのはどんな選手たちなのか。
気楽さ、楽しさ、うれしさ、あたたかさ、優しさ、そして愛とか。
自分の価値を認める、自分の価値をおとしめないというのは、結局のところ、自分で決めた自分の価値基準で集めたもので、自分のまわりを固めることなのだと思います。