どうすれば大人がミニスカートを素敵に着こなすことができるのか、
何年か前からずっと考え続けていました。
特に、必ずしもまっすぐな脚の持ち主が多いとは言えない、
日本に住む私たちにとって、脚の形があからさまにわかるミニスカートは、
難しいものです。
しかし、ミニが難しい、何か違うと思う理由は、それだけではありません。
電車に乗ったときや、街を歩いているとき、
どこかに素敵なミニの着こなしの大人の女性はいないか、
いつも探していましたが、なかなか出会えませんでした。
逆に、あれだけは嫌だな、何か違うなという着こなしの方はいらっしゃいました。
その何か嫌な感じとは何なのか、ずっと言語化されずにいました。
その嫌な感じが何なのか、先日やっとわかりました。
それがあるからこそ、ミニは見ているほうに不快感を与える、
独特な雰囲気をもたらすのです。
スカートを短くすることによってあらわになるのは、脚だけではありません。
短くなればなるほど、スカートの中が見えやすくなります。
階段を上るとき、電車に座ったとき、
その中は見えるときさえあります。
誰でもが、小学生のとき、パンツが見えたかどうか、パンツを見たかどうかでもめたと思います。
パンツは見せてもいけないし、見ようとしてもいけないものなのです。
それは小学生のときに、何となく気づいています。
パンツが見えるということは、つまり、性的な雰囲気をにおわすということ。
公の場において、それは避けるべき行為なのです。
パンツを見せない、パンツを見ないというのは、
それぞれがお互いに対して持つ思いやりです。
性的な領域に踏み込まないための、無言のルールです。
おきてを破ったら、それはもめごとの原因になります。
見せていたほうが、見たほうが悪いのです。
性的な意味合いの関係がない2人において、それはしてはいけない行為です。
大人のミニスカートの着こなしが難しいと思えるのは、そのためです。
脚の形の問題はさておき、
見せてはいけないものが見えそうなまま、いい年の大人が街を歩くという、
その行為が、他人の気分を悪くさせます。
ファッションだからいいでしょ、
今、ミニが流行っているんだからいいでしょ、
好きではいてるんだから、年なんか関係ないじゃない、
ではすまされないのです。
その人が見せているのは、ミニスカートではなく、
性的なほのめかしです。
誰かれ構わず、その性的なほのめかしを見せる、そのずうずうしさが、
ミニスカートの着こなしをだめにします。
そこには、恥じらいのかけらもありません。
恥じらいがないということは、本当はエロティックではないのです。
それは、小さいながらも、押しつけがましい暴力です。
ずうずうしさとは、小さな暴力です。
大人がミニスカートを素敵に着こなすためには、
この「性的なほのめかし」を徹底的に排除する必要があります。
単なる、短いという丈の問題としてのスカートなら問題ありません。
他人に見せるべきでないものを、徹底して見せないようにすれば、
ミニスカートをはいたとしても、それはファッションになり、
スタイルとなります。
そのために必要なことは、まず絶対に下着を見せないようにすること、
そして、スカートの裾から、生身の脚を見せないことです。
その方法は何種類かあります。
タイツをはく、ニーハイブーツをはく、スカートの下にパンツをはくなど。
特に、秋冬であれば、それは可能になります。
「性的なほのめかし」のにおいが消えたならば、
それは大人のミニスカートの着こなしとなります。
単なる丈の問題です。
それ以上の意味はなくなります。
結局、それは思いやりなのです。
思いやりができる人こそ、大人でしょう。
私の格好で、誰がどう思おうとかまやしないわ、などいうのは、
無知な子供の言い分なのです。
「目のやり場に困る」行為によって、他人を困らせるのは子供です。
思慮深い大人が、やることではありません。
大人のミニスカートの肝は、思いやりです。
他人に対して思いやりができる着こなしができたらば、
それは素敵な大人のミニスカートの着こなしでしょう。
残念ながら、今の時点で、
振り返って見直すほど素敵なミニスカートを着こなす大人の女性を、
見たことはありませんが、
いつの日か、そんな姿をながめたいものです。
すべての大人の女性が思いやりを持つことができたなら、
その日はきっとやってくるでしょう。
思いやりは、美しさの1つのあらわれです。